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試し読み

大人びた少女の口から、驚愕の発言が飛び出した。染井為人『黒い糸』試し読み#4

悪い夏』が大ヒット中、染井為人さんの最新作『黒い糸』の刊行を記念して、大ボリュームの試し読みを掲載します!
結婚相談所で働くシングルマザーと、彼女の息子が通う小学校の担任教師が主人公。
ちょっと(?)不運な彼らの日常が、思いもよらぬ大事件に繋がっていくサスペンスです。
全4回の連載形式で毎日公開。底なしの恐怖にどうぞご注意を……!



染井為人『黒い糸』試し読み#4

「病気って、どういう?」
「網膜色素変性症というもので、健常者よりも視野が狭いんです」祐介は指で輪を作り、双眼鏡のようにして両目に当てた。「こんな具合に、わたしが見えているのはほぼ前方のみ、つまり間接視野というものがほとんどないんです」
 発症したのは大学二年生の夏――実際はもっと早い段階で発症していたのかもしれないが、何かおかしいと自覚したのはその頃だった。
 当時、祐介は野球部に所属していたのだが、簡単なフライを落としてしまうことが増えた。一瞬、視界からボールが消えてしまうのだ。
 ただ、すぐには病院には行かなかった。きっと疲れているだけだろう、少し休めば治るはずだ、そう信じて疑わなかったからだ。
 だがある日の朝、実家の車を運転しているときに人をいてしまいそうになったことで、いよいよ自分の目が信じられなくなった。そこは見通しのいい交差点で、相手はふつうに歩いていただけだったのだ。
 そうして眼科で診察を受け、網膜色素変性症という診断を下された。
 祐介は頭の中が真っ白になった。この病気は一過性のものではなく、一生治ることはないとはっきり告げられたからだ。また、年月を経てさらに視野が狭まれば、いつか失明してしまう可能性があるとも言われた。
「指定難病なんだ……それはたしかに大変」平山亜紀は同情するような表情を浮かべている。「でも、失明しない可能性もあるってことでしょ」
「まあ、そうですね」
「だったらそっちの方を信じなきゃ。きっと大丈夫」
 明日はきっと晴れるわよ、そんな軽い響きだった。だが、不思議と不快感はなかった。
 ここで平山亜紀がハッとして腕時計に目を落とし、「いけない。そろそろ帰らなきゃ」といきなり席を立った。
「今日はありがとうございました。失礼します」と慌てて応接室を出ていく。
 祐介は見送りについて行き、「このあと何かご予定があるんですか」と彼女の横に並んで訊いた。
「もう少しでスーパーの特売が始まっちゃうの」
「ああ、なるほど」
「大変なんですよ、主婦って」
 玄関先で別れの挨拶を交わし、平山亜紀を見送った。彼女は「また相談に乗ってくださいねー」と親しげに手を振り、小走りで去って行った。
 祐介は肩を揺すった。平山小太郎の母親はなんだかおもしろい人だ。
 離れてゆく彼女の背中は西日で赤く染まっていた。それが遮光レンズ越しでもまぶしく感じられ、祐介は踵を返して室内に戻った。
 病気の進行を遅らせるためには極力強い光を避けなくてはならない。
 なぜ網膜色素変性症などという病魔に自分が襲われたのか、その理由はよくわからない。両親にも、親族にも同様の病気を患っていた者はいないのだから。
 だがしかし、発症してしまったからには野球も、車の運転も、そして結婚もあきらめざるをえなかった。もし失明してしまったら、パートナーに迷惑を掛けることになる。なにより網膜色素変性症の遺伝率の高さを考えれば、子孫を残すことなど考えられなかった。その数字はギャンブルできるようなものではないのだ。
 祐介は当時、交際していた女性に病気のことは知らせず、適当な理由をつけて別れを告げた。
 その代わり、夢を抱くようになった。それまで将来について漠然としていたが、明確な目標ができた。
 自分の子を育てられないのなら、せめて他人の子を――。
 今思えば単純で、浅はかな動機だったと思う。もしかしたら当時の学園ドラマなんかに感化されていたのかもしれない。
 だが、夢をかなえてみて、現実を思い知らされた。
 教育現場には白黒つけられない問題が多々あって、結局はグレーなままやり過ごすしかなく、無力感に打ちのめされることの連続だった。
 いつしかそれにも慣れ、ただ過ぎ去る日々の中に自我を埋没させるようになった。
 正直、教育者が聞いてあきれる。
 なのに、まだしがみついている自分がいる。

「娘が忘れ去られることが怖いんだろ」
 と、半笑いで答えたのは居間の中央でせっせと腕立て伏せを行う風介だ。ブリーフ一丁なので、各部位の筋肉の動きがよくわかる。
 祐介は帰宅後、放課後に小堺夫妻と交わしたやりとりのことを兄に話してみたのだ。
「人々の記憶から娘の存在が徐々に失われて、気がついたら事件そのものが風化しちまってるってのが怖くてたまらないのさ。だから夫婦揃って騒ぎ立てんだよ」
 この意見については素直になるほど、と思った。この変人の兄は人に共感する能力が欠落しているが、矛盾したことに洞察力にはやたらけている。もっとも本人はこれを否定していて、「ただ知識を有してるってだけだ」と言うのだが。
「ビラ配りなんかまさにそうさ」
 風介が額に浮かんだ玉の汗をタオルでぬぐってから補足した。そんな様子をソファーに座りながら眺めている祐介が、「どういうこと」とたずねる。
「事件後すぐならまだしも、二ヶ月が経った今そんなことをしたって無意味だと思わないか。だいいちメディアでも散々取り上げられたわけだから、世間の大半は事件の詳細を知ってるし、持ってる情報があればとっくに警察に提供してるに決まってるだろ」
「まあ、たしかに」
「だからこれ以上、新たな情報は出てこない。きっと両親も心の奥底じゃそれをわかってるはずさ。じゃあなんで彼らがビラ配りを止めないのかわかるか」
「さあ」
「精神が崩壊しちまうからだ。じっとしていることに耐えられないからあくせく動き回るのさ。もっと言うと、自分たちがそうした活動をやめてしまったら、永遠に娘が返ってこないような気がしてんだろう」
 祐介は腕を組み、何度か頷いて見せた。
「ま、それを差し引いても、ちょっと異常な気がするけどな。その小堺夫妻とやらは」
 兄貴でもそう思う、と訊こうとしたが、祐介は別の言い方をした。
「兄貴よりも?」
「おれよりはいくらかマシだろ」
 祐介は鼻で一笑した。
「ただ、おれは担任の女教師の事件当日の電話での発言云々うんぬんについては、小堺由香里の主張の方が正しいんじゃないかって気がするけどな」
「ウソだろう。そんなことありえないよ」
 警察に通報するのはまだ早い――これを飯田美樹が発言したか否か問題だ。
「そうか。ふつうに言いそうなもんだろう」
「いや、ないね。もしそう言ったなら言ったと認めてるさ」
「おれなら認めないね。シラを切り通す」
「罪悪感は抱かないわけ?」
「ちっとも。おれはな。ただ、ふつうの人間には無理だろうな」
「飯田先生はふつうの人間だよ」
「だから自責の念に駆られて、メンタルが崩壊して休職したんだろ」
 そうなのだろうか。そんなふうに言われると、そんな気もしてきてしまう。
 だが、だとしても飯田美樹には同情する。彼女はその電話の直後、学校をあとにして櫻子を捜索しているのだ。もっともこれも、〈あなたも捜して。担任でしょ〉と小堺由香里から強制されたかららしいのだが。
「それはそうと、娘の櫻子ってのはどんな子だったんだ?」
「明朗、活発、だったそうだけど」
「おまえ自身はまったく知らないのか。自分の学校の児童なのに」
「全校児童で何人いると思ってるんだよ。自分が受け持ってるクラスや学年じゃなければわかるわけないさ」
「ふうん。そんなもんか」
「そんなもんさ――で、どうして櫻子のことが気になったのさ」
 この人は理由もなく弟に質問をしない。何かしら興味が湧いたのだ。
「そうしたれつな両親の血を受け、育てられた子はどんなヤツなんだろうと思っただけさ。さぞヒステリックなガキだったんじゃねえかってな」
「そんなことなかったみたいだよ。まあ、それなりに気は強かったらしいけどね」
 ゆえにクラスの女子児童の中には、小堺櫻子のことを苦手に思っていた子もいたと聞く。
「けど、櫻子も成長するにつれて母親のようになっちゃうんだろ。兄貴の言い分だと」
「別におれの言い分じゃないさ。ただし、そうなる可能性は高いだろうな。子の性格の半分は親からの遺伝で決まるんだ」
 祐介はため息をつき、背もたれに身を預けた。
「その手の話を聞かされると気がるよ」
「なんだよ、その手って」
「カエルの子はカエルだし、うりつる茄子なすびはならないし、トンビがたかを生むのは幻想なんだろ」
 祐介が天井に向けてそうぼやくと、風介は「トレーニング中に笑わせんなよ」と肩を揺すった。
「全部兄貴から聞かされた話だろう。こっちは頼んでもないのに」
「おれは常に例外はあるとも言ってるはずだぜ。トンビが鷹を生んだ例なんていくらでもあるからな。ま、それも実は親であるトンビに鷹の資質が内在してたってことなんだけどな」
「ほら、そうやって気が滅入ることを言うじゃないか」
 そう抗議すると、風介は腕立て伏せをやめ、床にあぐらをいて座った。パンプアップされているので、ふだんにも増して両胸がこんもりと盛り上がっている。肩など滑り台のような角度がついていた。
 兄が筋トレにハマり出したのは十年ほど前、三十歳の頃だった。それまでは風が吹けば飛ぶほどガリガリだったのに、今ではボディービルダーのようなたくましい肉体を誇っている。
「なあ。兄貴は何が楽しくてそんなに身体を鍛えてるんだ」
 が、風介はこの質問には答えず、「おまえはまるでわかってないな」とかぶりを振った。
「いいか祐介、たしかにおれのしている研究はともすれば残酷で、希望がないように映るかもしれない。けどな、だからこそ、世の中に必要なんだ――って、昨日のおれの話をちゃんと聞いてなかったのか」
 ほとんど聞いてなかった。せっかくのごそうがまずくなるからだ。
「ったく。じゃあ改めて話してやるよ」
「いや、いい」
 そう断ったのだが、風介はこれも無視して、「大前提として人のDNAというのは――」と昨夜同様の切り口で話を始めようとしたので、祐介は「本当に大丈夫だから」と両手を突き出して拒否をした。
「ダメだ。聞け」
「どうせ最後には、人間は環境じゃなく遺伝子によって人格や才能が形成されてるって話になるんだろ。もうお腹いっぱいだよ」
「だからそこがわかってないって言ってるんだ。おれが本当に伝えたいのは、遺伝がもたらす力が半分しか受け入れられていない現代社会の在り方についてだ。半分というのはたとえば、短距離走の選手の子は足が速い、歌手の子は歌が上手うまい、学者の子は勉強が得意だ。これらのことはもはや常識として認知されているが、じゃあ、これを逆にして考えたときにはどうだ。それらは生活環境や本人の努力次第で向上すると世間一般では考えられているだろう。だけども、それは聞こえのいい物語でしかないし、ここに現代社会の闇があるとおれは考える。どれだけ努力しても足の遅い子はいるし、訓練したって音痴を矯正できない子もいる。それと同じように、どんなにがんばろうが勉強のできない子だって一定数、確実に存在するんだ。学校の先生であるおまえなんか誰よりもわかってるだろう」
「あのさあ、兄貴――」
「もっと言えば、親が陽気なら子も明るい性格になる。これを逆にすると、親が陰鬱いんうつなら子も暗くなるという論理が成り立つし、実際にそうした研究はなされていて答えも明確に出ている。その答えはイエスだ。しかし、世の学校教育はそうした子どもの存在に蓋をするし、研究成果から目をそむけるだろう。だから不登校や学級崩壊なんかが起きるし、いつまで経っても大人になりきれず、社会に馴染めない人が出てきちまうんだ。要するに、何事も本人の努力や頑張りによって乗り越えられるという教えこそが悪で――」
 祐介はソファーを離れ、脱衣所へ向かった。すると風介が後ろをついてきた。
「風呂に入らせてくれよ」
「まだ話は終わってない」
 そう言って本当に脱衣所の中までついてきた。
「つまり、我々が本当に目を向けなければならないのは環境や教育ではなく、まずは遺伝子そのもの――」
 祐介は両手で兄の背中を押して、力ずくで追い出した。 すぐさま脱衣所のかぎを閉める。
 さっと衣服を脱ぎ、浴室に入った。
 そうしてシャワーを浴びていると、
「つまるところ、人は生を受けた時点であらゆる能力の限界値が決まっているんだ。伸び代はけっして無限では――」
 と、再び風介の声が背中側から聞こえてきた。 
 驚いて振り返ると、りガラスに兄の姿がにじんで映っていた。どうやら脱衣所の施錠を解いたらしい。爪を差し込めばなんなく開いてしまうのだ。
「勘弁してくれよ」祐介は泡だらけの肩を落として言った。
 だがこの変人が聞き入れるはずもなく、彼は磨りガラス越しに延々としゃべりつづけるのだった。
 やがて祐介は湯船にかった。当然、兄の演説はつづいている。
「現代人の不幸は平等意識をはき違えちまっていることだ。だから、よけいに差別感情が膨れ上がる。生まれながらにしてできる者とそうでない者がいることを認め、その上でコミュニティ、ひいては社会というものを構築しなければこの先我々はより不幸に――」
 祐介は鼻をつまみ、頭ごと湯の中に潜り込んだ。これでようやく声が遮断された。
 どうしてああいう兄を持ってしまったのか。そもそも、我々は本当に血が繫がっているのだろうか。
 熱い湯の中、ふと疑問が湧いた。
 どこからどう見たって、自分たち兄弟は似ても似つかないのだ。
 一度真剣にDNAを調べてみようか――一瞬思ったが、それこそ兄の説をすべて肯定しているような気がして、祐介はその考えを打ち消した。

 翌朝、祐介は雨音で目を覚ました。ベッドを出て、カーテンを開くと、眼下に濡れそぼった街並みが見えた。空は悲しいほどどんよりとしている。
 祐介はため息を漏らし、だらだらと身支度を始めた。別室の風介はまだ眠っているようだ。彼はフレックス勤務なので、毎日起床する時間がばらばらなのだ。
 それにしても昨夜は散々だった。風呂を出たあとも延々と説を浴びせられたのだ。兄の話を聞いていると、人が行うすべての努力は無駄に思えてくる。
 焼いた食パンにバターを塗って、コーヒーで流し込んだ。その間、テレビで天気予報を見ていた。気象予報士によると、関東かんとうは終日雨らしい。
 やがて出勤の時間が迫り、祐介はテレビを消して、ひっそりと家を出た。
 白い息を吐き、透明のビニール傘を差しながら、バス停を目指す。勤務先までは電車を使った方が早いのだが、三十歳を過ぎてから駅で人とぶつかることが多くなったので通勤手段を変えたのだ。朝から舌打ちをらいたくない。 
 そうして沿道を歩いていると、後方から自転車に乗ったサラリーマンがやってきて、追い越された。彼は器用に黒い傘を片手で差していた。
 祐介にはまずできない芸当だった。
 自動車はもちろん、自転車にも乗れない。傘は透明のものしか持てない。今さら悲嘆に暮れることもないが、ふつうというものに対してうらやましく思う気持ちは未だにある。
 バスを一回乗り継ぎ、目的の停車場で下車した。ここから十分程度歩けば旭ヶ丘小学校に着く。まだ七時なので辺りを歩いている児童の姿はない。 
 校庭には大小の水まりができていた。我が校の校庭はやたら水はけが悪いのだ。今日明日の体育の授業は体育館になりそうだ。
 職員室に入ると、電話を受けていた事務職員が、「あ、ちょうど長谷川先生がいらっしゃいました」と言って、祐介に受話器を持ち上げて見せた。
「佐藤日向さんのお母様からお電話です」
 祐介は電話を代わり、「もしもし、長谷川です」と応答した。
〈おはようございます。娘の日向なんですが、夜中からお腹を下していて、なので本日学校をお休みさせて――〉
 相変わらず若い声だなと思った。以前にも一度、電話で話したことがあるのだ。
 もっとも祐介はまだ佐藤日向の母親と顔を合わせたことはない。
 今年に入って早々、就任挨拶のために六年二組の保護者に教室に集まってもらったのだが、佐藤日向の母親は都合がつかず、欠席をしたのである。
 ちなみにそのときは平山小太郎の母の亜紀も欠席した。彼女たちは共にシングルマザーなので仕方ないだろう。
「昨日は元気な様子だったので心配ですね」
〈ええ、おそらく昨夜の夕飯に食べた生魚が当たったのかなと思うんですけど〉
「ああ、なるほど。病院には行かれるんでしょうか」
〈いえ、発熱もしていませんし、今はだいぶ治まっているようなので、このまま自宅で様子を見ようかと思います〉
「そうですか。最近、日向さんはクラスメイトの倉持莉世さんと仲良くしているようで、少しずつ学校にも慣れてきたのかなと思っているんですが、ご家庭ではいかがでしょうか」
〈ええ。本当に莉世ちゃんのおかげで。家でも学校のことや莉世ちゃんとのことを楽しそうに話してくれます。転校してすぐにああいう事件が起きてしまったものですから、娘もしばらくはふさぎ込んでいたんですが、最近になってようやく笑顔を見せてくれるようになったので、親としては心からホッとしているんです〉
「そうですか。それは何よりですね」
〈はい、本当に。長谷川先生、短い期間ではありますが、卒業まで日向をよろしくお願いします〉
「こちらこそ。ではお大事に」
 電話を切ったあと、祐介はノートパソコンを立ち上げ、クラス児童の身上書のデータが入っているフォルダを開いた。そこから佐藤日向のファイルを探し出し、クリックする。
 事故で父親を亡くした上、転校して早々にクラスメイトの、それも唯一親しくしていた友人を失ったのだから、佐藤日向も、そして母親もつらいところだろう。
「ん?」
 祐介は眉をひそめた。
 佐藤日向の保護者の欄に、佐藤せいと名前が記されているのだが、彼女の生年月日の記載がおかしいのだ。
 これを計算すると母親の年齢は現在二十四歳になる。娘の日向の年齢はもちろん十二歳だ。  
 これはいったい――。
 祐介が口に手を当て、思案にふけっていると、「長谷川先生。そろそろ行きましょうか」と渡辺が声を掛けてきた。
 毎朝、三人の教師が校門に立ち、登校してくる児童を出迎えるのだ。これは交代制で行われており、今日は六学年を担当している自分たちの当番なのである。
 祐介は脱いだばかりのダウンコートを羽織り、渡辺と湯本と共に職員室をあとにした。
 三人で校門に向かう途中、祐介は佐藤日向の母親の年齢のことを話題に挙げた。
 すると渡辺が、「びっくりしますよね。彼女が転校してきたときに、我々六学年の教師の間でも話題になりましたもん」とニヤニヤして言った。
「おそらく日向ちゃんは亡くなった父親の子で、今の母親は再婚相手なのよ」これを言ったのは湯本だ。「なのに父親の方が先に亡くなってしまったものだから悲劇よね。だって母親からすれば血の繫がってない子を、これから一人で育てていかなきゃいけないわけでしょう。ちなみにこの血縁関係のこと、飯田先生もどこまで深掘りして聞いていいのかわからないってしばらく悩んでたんですよ」
 そこはしっかりと把握しておかなくてはまずいだろう。なぜなら日向本人は今の母親を実母と認識している可能性もあるのだから――いや、それはありえないか。聖子の年齢を考えれば再婚時期は遠い昔ではないはずで、となれば日向は彼女が継母ままははであることを知っていることだろう。
 何はともあれ、佐藤日向はかなり複雑な家庭環境にあるようだ。
「あー寒ぃー。冬の雨は最悪だな」
 校門に到着したところで渡辺が手に白息を吹きかけて言い、湯本が「ほんと。春が待ち遠しいわよねえ」と同調した。 
「春といえば春川はるかわ先生、四月からまた育休に入るみたいっスね」
「ああ、そうらしいわね」
 春川というのは二年一組の担任の三十二歳の女性教師で、数ヶ月前に懐妊の報告があったのだ。
「これで四人目でしょう。すごいわよねえ」
「ほんと、すごいですよ。うちなんて息子一人ですけど、めちゃくちゃ手が掛かって四苦八苦してるのに」
 それから二人は、春川が出産のたびに育児休暇を取っていることを「羨ましい限り」と言い合った。
「だから春川先生って、実質は五年くらいしか現場に出てないのよ」
「あ、そういうことになるのか。でもその間、給料は出てるわけですよね」
「そりゃそうでしょう」
「うーん。なんかそれもなあ」
「ねえ」
 そんな会話を交わす同僚たちを祐介は冷ややかな目で見た。きっとこういう人たちの存在も日本の少子化の一因なのだろう。
 出産をした者が経済的にも得をしなくては子どもの数など増える道理がない。むしろ日本は子どもに対する手当が薄過ぎるのだ。
「何にしても、春川先生がいなくなったらちゃんと教員を補充してくれるんスよね。こっちにまで累が及ぶのは勘弁ですよ」
「わたしだってイヤよ、また合同授業がつづいたりなんかしたら」
 小堺櫻子の事件後、担任だった飯田美樹が休職してしまったため、しばらくの間、この二人が六年二組の授業を分担して受け持っていたのだ。
 これを解消するために今年から祐介が六年二組を任されることになり、それまで祐介が見ていた四年一組は臨時的任用職員が受け持つこととなった。この人物を探すのも相当苦労したと聞いている。
「でも、いるかしら。ここに来てくれる人」
「教員免許って意外と持ってる人少ないんですかね」
「持ってる人はたくさんいるわよ。なりたい人がいないの」
 教員不足はここ千葉県に限らず、全国的に大きな問題だった。二十年前、祐介が教員を目指した頃は倍率が高く、狭き門だった。たとえ教員試験に受かったとしても空きがなく、採用されるのは一部の人たちだけだった。それが今やこの有様である。
「あーあ。飯田先生、どうにか復職してくんないかな」
 渡辺がこのようにぼやくと、「どうかしらねえ。あの人もまたアレだからねえ」と、湯本が意味深に目を細めた。
「なんスか、アレって」
「別に」
「教えてくださいよ。気になるじゃないですか」
「まあまあ。一つ言えるとしたら、飯田先生は渡辺先生が思っているような清純で可愛らしい女の子じゃないかもよってこと」
「別に自分はなんとも思ってないですよ」
「あら、いつも鼻の下を伸ばしていたくせに」
 そんな会話を交わしていると、やがて児童らが登校してきた。みな、何人かのグループで固まって歩いている。
 小堺櫻子の事件以来、基本は班ごと、最低でも二人で登下校をするように児童たちに指導しているのだ。
「おはようございます」と挨拶をするたびに、「おはようございまーす」と児童らの元気な声が返ってくる。
 冬だろうと雨だろうと子どもは笑顔だからいい。仏頂面をしているのはいつだって大人だ。
 ほどなくして真っ赤な傘を差した、一際背の高い少女が下級生を引き連れてやってきた。倉持莉世だ。
「倉持さん、おはようございます」と祐介が声を掛ける。
「おはようございます」と莉世は頭を下げたあと、「日向ちゃん、今日はお休みだそうです」と教えてくれた。今朝、彼女は佐藤宅まで日向を迎えに行ったらしい。
「うん。今さっき佐藤さんのお母さんから連絡をもらいました」
「そうですか」と言ったあと、彼女は歩を進め、だがすぐに立ち止まり振り返った。「あの、長谷川先生、今ちょっといいですか」
 そうして祐介は少し離れた場所へ連れ出された。
 ここで雨音が大きくなった。水溜まりに打ち上げ花火を連発したような水紋が起きている。
 ブロック塀の前で共に傘を差しながら向かい合ったところで、「長谷川先生は日向ちゃんのお母さんと会ったことありますか」と莉世が切り出してきた。
「いや、まだ直接は会えてないんだ。佐藤さんのお母さんがどうかしたのかい」
 訊くと、彼女はやや逡巡した素振りを見せてから、「日向ちゃん、危ないかもしれないです」
と小声で言った。
「危ないって、どういうこと」
「日向ちゃんの命が危ないってことです」
 意味不明だった。
 その真意を問うと、
「わたし、こう思うんです。あの誘拐事件で、犯人が狙ってたのは櫻子ちゃんじゃなくて、本当は日向ちゃんだったんじゃないかって」
 祐介は困惑した。なぜこの少女はこんなことを言うのか。
「つまり、犯人は佐藤さんとまちがえて小堺さんを連れ去ってしまったってこと?」
「はい。もちろん証拠はないですけど、でも、たぶんそうだったんだろうってわたしは思っています。二人は背格好も似通ってますし」
 いよいよ頭が混乱してきた。
「待って。倉持さんは犯人が誰か、心当たりがあるのかい」
「いいえ、それはわかりません」と彼女は首を横に振った。「だって、実行犯はきっと、お金で雇われている人だろうから」
「雇われているって、誰に」
 訊くと莉世は切長の目で担任教師の顔を正視した。
「だから、それが日向ちゃんのお母――」

(続きは本書でお楽しみください)

作品紹介



黒い糸
著者 染井 為人
発売日:2023年08月30日

横溝賞出身、『悪い夏』の著者による初のホラーサスペンス
千葉県松戸市の結婚相談所でアドバイザーとして働くシングルマザーの平山亜紀は、仕事で顧客とトラブルを起こして以降、無言電話などの嫌がらせに苦しめられている。
亜紀の息子・小太郎が通う旭ヶ丘小学校の6年2組でも、クラスメイトの女児が失踪するという事件が起きていた。
事件後に休職してしまった担任に替わり、小太郎のクラスの担任を引き継いだ長谷川祐介は、クラス委員長の倉持莉世から、クラスの転入生の母親が犯人だという推理を聞かされて戸惑うが、今度はその莉世が何者かに襲われ意識不明の重体となってしまう。
特定のクラスの周辺で立て続けにおきる事件の犯人は同一なのか、またその目的とは。

詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/322304001094/
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