『悪い夏』が大ヒット中、染井為人さんの最新作『黒い糸』の刊行を記念して、大ボリュームの試し読みを掲載します!
結婚相談所で働くシングルマザーと、彼女の息子が通う小学校の担任教師が主人公。
ちょっと(?)不運な彼らの日常が、思いもよらぬ大事件に繋がっていくサスペンスです。
全4回の連載形式で毎日公開。底なしの恐怖にどうぞご注意を……!
染井為人『黒い糸』試し読み#3
「なんかいいことあった?」と、祐介はただいまの前に言った。
「手こずっていた論文がようやく片付いてな。今夜はその祝いだ」
兄がそんなものを書いていたことを祐介は今初めて知った。風介は基本的におしゃべりだが、肝心なことはあまり口にしない。幼い頃からそうだ。
風介と暮らすようになってそろそろ半年が経つ。きっかけは兄夫婦の離婚で、家を追い出された彼は大きなリュックを背負って弟宅にやってきた。「すぐに出てくから」のはずが、今日に至るというわけなのである。
ちなみに離婚の理由は聞いていない。が、十中八九、今回もまた奥さんの方が風介に耐えられなかったのだろう。兄の離婚歴は二回目になる。
祐介の知る限り、風介ほどの変人はいない。
「馬鹿にも理解できるように書くってのは結構骨が折れるもんだな」
乾杯し、互いにワインを
祐介は「そうなんだ」と相槌を打ち、スプーンを手に取った。「うん。
だが風介は弟の感想を無視して「大前提として人のDNAというのは――」と一方的に語り始めた。
ここから一時間、彼は自分で作った料理にいっさい手をつけず、対面の弟に向かってひたすら口を動かしつづけた。
風介の勤め先は都内にあるH大学大学院だった。彼自身もこの大学院の出身で、学生時代に人間社会研究科の臨床心理学の博士課程を修了し、修了後も研究員として研究室に残ったのである。
そんな兄
「これによって、いかなる教育も子どもの人格形成にさほど影響を及ぼさないってことが改めて証明されたわけだ」
と、風介は身も
「もう一本買っておけばよかったな」と、風介が舌打ちをする。
「これくらいがちょうどいいんだよ。我々はアル中の素地が十分にあるんだから――だろ?」
祐介がそう言うと、風介はがははと豪快に笑い、「その通り」と人差し指を立てた。
自分たちの父親はアルコール依存症だった。酒に酔って家族に暴力を振るうことも暴言を吐くこともなかったが、ベッドから起き上がるためだけに枕元に酒瓶を置く父を見て、祐介はこうはなるまいと幼心に思った。
風介によれば、アルコール依存症は遺伝率が高いらしい。つまり、祐介も風介もアルコール依存症になりやすいということだ。
これは兄の仮説ではなく、残念ながらさまざまな研究結果から導き出された真実のようなので、だとすれば気をつけるほかない。
よって祐介も風介も、一年のうちに飲酒する回数は数える程度だ。
「そういや例の女の子ってまだ見つからないのか」
風介が思い出したように
「見つかってたらすでに話してるし、ニュースになってるだろう」
「少しの進展もないのか」
「何も。最近では警察からの連絡も減ってきたよ」
「ふうん。おまえ、目の具合は?」
このように唐突に話が変わるところもやはり変わっている。
「こっちも何も。良くもなってないし、悪くもなってない」
「そりゃ良くなることはないだろ。そういう病気なんだから」
これだ。
祐介はこうした兄の変人ぶりを見せつけられるたびに、こう思う。
DNAなんて当てにならないな、と。
自分たち兄弟は血縁関係にあるが、性格も
自分はまだまともだ。少なくとも風介に比べれば百倍マシだろう。
翌日の午後、五・六限目の授業時間を使って、体育館で初めて卒業式の演習が行われた。
本番は一ヶ月以上も先なのだが、小学校にとって卒業式は最大の式典のため、万全を期す必要がある。
「そこ、列を乱さないで」
指揮を務める六年一組担任の
渡辺は祐介の六つ下、三十二歳の男性教師だ。くだんの事件によって同学年の担当になり、距離が近くなったことで、
「ほら、おしゃべりしないで歩く」
約百名の卒業生が横に並べられたパイプ椅子に沿って行進していく。六学年は三クラスあり、各クラス約三十五名の児童が在籍していた。
「卒業生一同、着席」の声で、児童がいっせいに腰を下ろす。
その中の一つだけ、パイプ椅子は空いていた。小堺櫻子の席だ。まだ亡くなったと決まったわけではないので、彼女の席も用意しておかねばならない。
卒業式当日、小堺櫻子はあそこに座ることができるだろうか。
それから着々と演習は進み、祐介は体育館の隅に立ち、その様子を傍観していたのだが、国歌斉唱となったところで、おや、と思った。
我がクラスの委員長である
当然、壇上の渡辺からも彼女の姿は見えているだろうに、彼は気にしていない様子である。周りの児童たちも慣れている感じがした。
「
祐介は傍らにいる三組担任の湯本の耳元でささやいた。
「ああ、長谷川先生知らないんだ」と、四十四歳の女性教師がささやき返す。「まあ、そうよね。まだ受け持って一ヶ月だし、引き継ぎだっていっさいされてないんだものね」
前任者の飯田美樹は休職後、完全に音信不通だった。一応、各児童の個人情報や特徴はデータ化されているのだが、祐介はその他の業務に忙殺されていて、すべてを把握しきれてはいなかった。
「実はね、倉持さんの父親、日教組のお偉いさんなのよ」
やはりそうか。もしかしたらと内心思っていたのだ。
日教組の問題はこれまで勤めていた小学校でも何度か経験していた。運動会で国旗掲揚をするのはいかがなものかと、会議で物議を醸す発言をした同僚がいたこともある。その人物もまた君が代は絶対に歌わなかった。
「以前、飯田先生が、なんで君が代を歌わないのって、倉持さんに訊いたことがあるそうなのよ。きっと本人は理由をわかってなくて、親に強制されているんだろうなって思ったから質問したそうなんだけど、そうしたら彼女、『君が代を歌うことは軍国主義、全体主義の復活に
倉持莉世はクラスでも一際目立つ児童だった。成績優秀でスポーツ万能、なにより彼女は風貌がとびきり大人びていた。こうして眺めていても、周りの児童と同い年とは思えない。それこそとなりにいる平山小太郎なんかと比べると、歳の離れた姉弟のようだ。
平山小太郎――ため息が漏れた。
このあと彼の母親が面談に来校するのだ。そしてその前には小堺櫻子の両親の対応もしなくてはならない。
これまでにも小堺櫻子の両親とは、校長と教頭を交え、何度か話し合いをしていた。夫の方はまだ冷静――この人物もまた癖が強いのだが――なものの、母親はすぐに興奮してしまい、まともな会話ができなかった。彼女は最後には必ず半狂乱と化して「娘を返せっ」と声を荒らげるのである。
きっと誰かを責めていないと正気を保てないのだろう。我が子を失った親の気持ちはいかほどか、独り身には想像がつかない。
だが、さすがに祐介も
いくら騒いだところで、娘さんが帰ってくるわけではないんですよ――油断していたらうっかり口に出してしまいそうだ。
卒業式の演習を終えたあとはクラスに戻り、帰りの会を行った。
まずは各係から連絡があり、次に『今日の振り返り』に移行した。これは一人の児童が今日の印象的だった出来事を話すコーナーだ。担当は名簿順で日々変わる。
今日はクラス委員長の倉持莉世の番だった。
「初めて卒業式の練習をしてみて、わたしは本当にこの小学校を卒業するんだなって、少しだけ実感が湧きました。わたしは私立中学に入学することになっているので、このかけがえのない仲間たちと過ごせる時間はあとわずかです。だから毎日を大切に過ごそうと思いました」
ここで倉持莉世は斜め後方を振り返り、とある机を見た。小堺櫻子の席だ。
「それと、卒業式当日は誰一人欠けることなく、全員で参加できたらいいなと思いました。以上です」
拍手が沸き起こる。これだけで涙ぐむ女子児童もいた。
つづいて『先生の言葉』の時間がやってきた。
祐介は教壇から首を左右に振り、児童たちを見回した。そうしないと視野の狭い祐介は全員の顔を見ることができないのだ。
「倉持さん、素敵なスピーチをありがとう。先生もこのクラスの全員を送り出してあげたいと心から思いました。そうなるようにみんなで願いましょう」
頷く者もいたが、大半の児童たちは無反応だった。白々しく聞こえたのだろうか。
彼らからすれば祐介は距離のある先生なのだ。前任者の飯田美樹はクラスの児童たちから慕われていたという。感情表現が豊かだった彼女は、何か感動的な出来事があると、すぐにハンカチを目に当てていたらしい。だから児童たちは親しみを込めて、泣き虫先生とからかっていたそうだ。
その点、祐介は淡々としていて面白味に欠けるのだろう。陰で色眼鏡先生はAIみたいと
「では明日も元気に登校してきてください。さようなら」
「さようなら」と児童らの合唱。
運動好きな男子たちから順にぞろぞろと教室を出ていく。その様子を教壇から眺めていると、倉持莉世がやってきて「長谷川先生」と声を掛けてきた。
「これを小堺さんのお母さんに渡してもらってもいいですか」
そう言ってクリアファイルを差し出してくる。中にはA4用紙が束になって収まっていた。
「これは?」
「わたしのノートをコピーしたものです」
理由は、小堺櫻子が再び学校に来られるようになったとき、彼女が授業についていけずに困ってしまうだろうから、というものだった。
「わざわざありがとう。でも、これは小堺さんが戻ってきてからお願いしようかな。親御さんも複雑な気持ちになってしまうかもしれないしね」
「でもわたし、小堺さんのお母さんから頼まれたんです」
眉をひそめた。「本当に?」
「はい。昨日、小堺さんのお母さんがうちの家に来てて、そこで。小堺さんのお母さん、このあと学校に来るんですよね」
聞けば、小堺櫻子の母親の由香里は事件後、度々倉持宅を訪れているらしい。そこで倉持莉世に今の学校やクラスの様子を教えてほしいとせがんでくるのだそうだ。
祐介は初耳だった。おそらく他の教員もこのことを知らないだろう。
「そうだったんだ。じゃあこれは先生が預かります。ありがとう」
「よろしくお願いします」
彼女は
「長谷川先生も大変ですね」
「え」
「急にうちのクラスを押しつけられちゃって。では失礼します」
そう言ったあと、彼女は長い髪をふわりと浮かせて、教室の隅で一人残っていた
「お待たせ。帰ろ」と、倉持莉世が佐藤日向の手を取る。
そして二人揃って、「さようなら」と祐介に頭を下げてきた。
祐介は
教室に一人になった祐介は、しばらくそのまま教壇に立っていた。
薄ブルーの虚空に目をやりながら、「押しつけられちゃって、か」と、唇だけで独りごちる。
やはり
クラスの児童たち、とくに女子はみな、倉持莉世を
成績優秀で、運動もできて、周りにも親切な、絵に描いたような優等生。
おそらく佐藤日向と親しくしているのも彼女なりの気遣いなのだろう。
佐藤日向は昨年十一月にこの小学校に転校してきたばかりで、中々教室に
だが、そんな矢先、彼女はたった一人の友人を失ってしまった。何より二人は事件が起きる数分前まで一緒にいたのだ。小堺櫻子が下校を共にしていたのは佐藤日向なのである。
事件後、
祐介はこれを先月行った一対一の面談で、佐藤日向本人から聞かされていた。その際、彼女は「倉持さんのおかげで少しだけ元気が出てきました」とも話していた。
何はともあれ、佐藤日向には深い同情を禁じ得ない。
なぜなら彼女は去年の春に事故で父親を亡くしたばかりで、それをきっかけに母親と共に松戸市内に越してきたという背景があるのだ。
彼女は父を失い、転校した先で早々に友人を失ったのである。
幼い心にどれだけの傷を負ったのか、想像するだけで胸が苦しくなる。
祐介は振り返り、黒板の横の壁に掛かっている時計を見た。
「さあ」
と、つぶやいて教室を出た。
小堺夫妻が来校したのは十六時を十分過ぎてからだった。遅刻なのだが、どちらからも
狭い応接室で机を挟み、夫妻と向かい合う。窓の向こうの校庭では男子児童たちがサッカーに興じていた。彼らが上げる声が部屋の中まで聞こえている。
「何度も申し上げていますけど、わたしたちが貴校にお願いしているのは二つです。一つはビラ配り人員の確保、もう一つは飯田美樹の懲戒免職です」
母親の由香里が前のめりで訴えた。寝不足なのか、以前にも増して濃くなった目の下の
「お母様のお気持ちはお察し致します」と、祐介は深く頷いて見せる。「ですが、どちらも現実的ではありません。まずビラ配りですが、我々教職員は平日は学校で公務が――」
「だから朝と夜にやってほしいって、これも何度も言ってるじゃないですか。わたしたち夫婦は毎朝六時と夕方七時から駅前に立ってるんですよ。夫なんかはそのあとに仕事に行って、終わったらまた駅でビラを配ってるんです。もちろん先生方にわたしたちとまったく同じことをしろなんて言ってません。でも、交代制で通勤前の三十分とかだけでも協力してくれたっていいじゃないですか。どうしてこれくらいのことも学校はしてくれないんですか」
逆にどうしてこういうことを平気で言えてしまうのか。祐介には不思議でならない。
「おたくの校長も教頭も、すぐに給特法がなんたらとか言いますけど、わたしたちはそういう法律的なことじゃなくて、一人の人間としてお願いしてるんです。だって先生方が勤務外で個人的にやっているってことであれば、誰にも文句は言われないわけでしょう」
「お気持ちはわかります」祐介は改めて言った。「しかしながら、やはりむずかしいと言わざるを得ません。逃げ口上のように聞こえてしまうかもしれませんが、我々教職員も一人の人間として生活があります。勤務外だからといって――」
「何よそれ。あなたたち、責任を感じてないの」
「責任というのは何をもって――」
「それでも学校の先生? 教育者? 一人でも多くの協力があればそれだけ櫻子が見つかる可能性が高くなるのに」
こちらはまともにしゃべらせてももらえないのか。
「たしか長谷川先生、と
祐介はちょこんと頭を下げた。
「ただ、わたしたち夫婦は落胆しているんですよ。これほどまでに学校側は非協力的なのか、とね。ビラ配りの件もさることながら、学校側は何一つ動いてくださらないじゃないですか。だいいち事件後、あなた方が一度でも我が家を訪ねてきたことがありましたか。こうした話し合いの場だって、毎回わたしたちが申し入れて、足を運んでいるわけでしょう。わたしたちは情報を欲しているんですよ。今現在の、櫻子のいない教室の様子とか、ほかの児童たちが櫻子についてどんな話をしているのかとか、どれだけ
「ええ。なので、児童の個人情報に関わること以外であればすべてお話ししますと、前回お伝えしたかと思います」
「しかし妻はあなたから連絡を受けたことは一度もないと言っています。毎回こちらから問い合わせているだけだと」
それの何が気に入らないのかわからない。
「もちろん何か特筆すべき報告があればこちらから連絡致します。ただ、これまでそうした状況になかったということです。もし、こちらからの定期的な報告を希望されるのであれば、毎週金曜日の夕方、わたしからご自宅にお電話をさせていただき、その週のクラスの様子などを口頭でお伝えしますが、いかがでしょうか」
祐介が冷静にそう告げると、その態度が
彼は目を細めてじっと祐介を見てくる。
「前回も思いましたけど、長谷川先生はずいぶんと冷静な人なんですね」
「そうでしょうか。自分ではよくわかりませんが」
「そうですよ。落ち着いていて、話が理路整然とされている。少なくとも前任の飯田先生のように感情的になって取り乱すことがない」
祐介は同席していなかったが、事件後に設けられた話し合いの場において、飯田美樹は毎回大泣きしていたらしい。だがそれも仕方のないことだ。
「きっとあなたは優秀な人なんでしょうね。もし民間企業にお勤めだったらさぞ出世されていることでしょう――もっとも、幼い子どもを預かる教師としての資質に関しては疑問符がつきそうですが」
「…………」
「相手の気持ちを
教師になって十六年、面と向かってこんな言葉を浴びせられたのは初めてだ。
「ほら、ここまで言われてもあなたは顔色一つ変えない。ある意味、恐ろしい人だ」
小堺啓治が肩をすくめる。
「とりあえず、改めてこちらの要望を――」
ここから再び、小堺夫妻の無茶な要求が始まった。教師を動かせないのであればクラスの児童や保護者たちを動員してビラ配りをさせろというのだからむちゃくちゃだ。
祐介は聞くだけ聞いて、「申し訳ありませんが、やはり承諾は出来かねます」と改めて突っぱねた。
そして露骨に腕時計に目を落とし、「次の予定がありますので」と強引にこの場を打ち切った。当然この対応に小堺夫妻は憤っていたが、祐介はこれ以上相手にしなかった。本当に次の予定が迫っているのだ。
小堺夫妻と共に廊下を歩く。来客用玄関で二人が靴を履いたところで、祐介はクリアファイルをまだ渡していないことに気がついた。倉持莉世が自身のノートをコピーしたものだ。
クリアファイルを差し出し、「たまに倉持さんのお宅に行かれているんだとか」と訊くと「何かいけないんですか」と
「
静香というのは倉持莉世の母親だろう。
「ほかの人は口先だけ。みんな心配しているふりをしてるだけ」
「由香里。もうその辺にしておきなさい」と夫が
小堺夫妻を来客用の玄関で見送ると、ちょうど入れ替わる形で一人の女性がやってきた。一見して平山小太郎の母親の亜紀だとわかった。顔がそっくりなのだ。
彼女はすれ違った際の小堺夫妻の形相がよほど恐ろしかったのか、二人に声を掛けず、その背中を数秒ほど見送っていた。
祐介はそんな平山亜紀に声を掛け、初見の挨拶を手短に交わし、先ほどの応接室に彼女を案内した。
着席し、向かい合ったところで、「小堺櫻子ちゃんのこと、何かわかったのでしょうか」と彼女が控えめに訊いてきた。
「いえ、残念ながらまだ何も」
「そうですか。先ほど奥様が涙ぐまれていたご様子だったから、もしかしたらと思って」
もしや
「ほんと、信じられない話ですよね」
「ええ。本当に」
「もし、自分の子だったら、耐えられないと思います。仕事なんかまったく手につかないだろうし、何にもやる気がなくなっちゃう」
祐介は相槌を打つだけにとどめておいた。
それから平山亜紀は居住まいを正し、用件を切り出した。
「親の
「たしかに春から中学生になりますし、身体も大きくなればそのぶんリスクも増しますしね」
「そうなんです。そこなんです」と平山亜紀が身を乗り出して言った。「昨日の件だって、たまたま中川くんに怪我がなかったからいいものの、もし当たりどころが悪かったら大変なことになってたでしょう――あ、そういえば中川くんのお母さん、怒ってませんでしたか」
「ええ。お電話で一連の報告をしたところ、うちの息子が先に平山くんに悪口を言ったんだから自業自得だ、むしろこっちが悪い、とおっしゃっていました」
「本当ですか」
「ええ。もちろん」
「そうですか。ならいいんですけど」
「何かありましたか」
訊くと、平山亜紀は少し
昨夜、自宅に無言電話が十数回も掛かってきたのだという。
「それはちょっと不気味ですね。また次も掛かってくるようなら警察に相談した方が良いかと思います」
「はい。そうします」
それから話を元に戻し、小太郎の
彼女の話によると、一学期にも二回、二学期にも二回、小太郎は友人と揉め、暴力行動に出たのだという。
「わたしがこのクラスの担任になってからも二回目なので、合計六回か。たしかに少なくない数ですね。とはいえ、けっして多いわけでもないと思います。わたしが過去に受け持っていた児童で、毎日のように取っ組み合いの喧嘩をする子もいましたから」
「でもその子って、ふだんからそういうことをするやんちゃな子ですよね。でもうちの小太郎はふだんは大人しくて、むしろ気が小さいのに、突然キレるから怖いんです。なんていうか、そういう子の方が危ない感じがするというか」
「おっしゃりたいことはわかります。ただ、わたしが見ている限り、小太郎くんにそこまで大きな問題があるようには見えませんが。お電話でもお伝えした通り、彼はしてしまったことに対して素直に反省もできますし、中川くんにきちんと謝罪もしてましたから」
そう告げると、平山亜紀は下唇を嚙かんで押し黙った。そして、「それも少し、不安なんです」と声を落として言った。
理由を問うと、小太郎の父親がそうだったからだと彼女は告白した。
彼女の別れた夫はDV癖があり、おもてでは良き夫として振る舞うのだが、家庭内では
「なるほど、つまり小太郎くんが父親のそういう気質を受け継いでしまっているのではないかと」
「はい」
祐介はやや思案して次の言葉を選んだ。
「たしかにそういった親の気質が子に遺伝することもあるそうです」
兄の風介から散々聞かされているのだ。彼によれば、この手の気質は身長や体重よりもよっぽど遺伝率が高いらしい。もちろんそんなことを話すつもりはないが。
「とはいえ、元の旦那さんは内側で、小太郎くんは外側に向けてなので、そこに明確なちがいはあると思います。そもそも小太郎くんの方は友達との喧嘩の延長ですから、あまり深く考えなくてもいいのではないでしょうか。吹っかけられた喧嘩を買ったら、ついやり過ぎてしまったということなわけですから」
「そうでしょうか」
「ええ。わたしはそう思います。一ヶ月足らずの担任が知ったような口を利いて申し訳ありませんが」
「いえ、そんなこと」と彼女は慌てて左右に手を振る。「でも、そう言ってもらえて少しホッとしました」
ここで平山亜紀は八重歯をのぞかせてチャーミングに笑んだ。資料によればたしか彼女は祐介の一つ年上だったろうか。
これを機に、彼女は祐介に気を許したのか、言葉を崩し、あけすけに家庭内のことを語った。小太郎は家では甘ったれで、今でも母親と一緒に
また、平山家の経済事情は「ギリギリかつかつ」だそうで、そんな話の中で彼女の職業が結婚アドバイザーだということも教えてもらった。
「失礼ですけど、長谷川先生、ご結婚は?」
「自分は独身です」
「じゃあ今度、入会の申込書を持ってこなきゃ」と冗談めかして言う。「公務員の人気はすごいですから、すぐお相手が見つかりますよ」
祐介は肩を揺すり、「ダメですよ、わたしなんて」と微笑んだ。
「あら、どうして。まだお若いのに」
「実はわたし、目の病気なんです」
彼女の顔から笑みが消える。
言わなきゃよかったなと後悔した。
(つづく)
作品紹介
黒い糸
著者 染井 為人
発売日:2023年08月30日
横溝賞出身、『悪い夏』の著者による初のホラーサスペンス
千葉県松戸市の結婚相談所でアドバイザーとして働くシングルマザーの平山亜紀は、仕事で顧客とトラブルを起こして以降、無言電話などの嫌がらせに苦しめられている。
亜紀の息子・小太郎が通う旭ヶ丘小学校の6年2組でも、クラスメイトの女児が失踪するという事件が起きていた。
事件後に休職してしまった担任に替わり、小太郎のクラスの担任を引き継いだ長谷川祐介は、クラス委員長の倉持莉世から、クラスの転入生の母親が犯人だという推理を聞かされて戸惑うが、今度はその莉世が何者かに襲われ意識不明の重体となってしまう。
特定のクラスの周辺で立て続けにおきる事件の犯人は同一なのか、またその目的とは。
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