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社会派ミステリを通し、人間の思いの謎を描いた著者らしい小説――『震える天秤』染井為人 文庫巻末解説【解説:千街晶之】

高齢ドライバーによる死亡事故、それは本当に〈老いの宿命〉だったのか?
『震える天秤』染井為人

角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開! 
本選びにお役立てください。

震える天秤』染井為人



『震える天秤』染井為人 文庫巻末解説

解説 
せんがい あきゆき(ミステリ評論家)

「三面記事」という言葉がある。新聞の一面や二面に載るような政治・経済の記事ではなく、社会面の記事を指す言葉だ。しかし、犯罪や事故の報道でも、大規模なものや衝撃度が著しいものは一面に載ることもあるので、三面記事という言葉にはそこまで大きな事件・事故ではないというニュアンスも感じられる。新聞以外の媒体、例えばTV報道や週刊誌の場合は、報道の順番などで事件に格差がつけられることになる。
 とはいえ、一見よくある事件であっても、当事者にとっての衝撃は大事件と変わりはないし、その種の事件の背景に、実は思いもよらない深刻な事情が隠れている場合もあるだろう。そめためひとの『震える天秤』(二○一九年八月、KADOKAWAから書き下ろしで刊行)は、三面記事として片づけられそうなありがちな出来事の背後に潜む真実に迫ってゆくミステリである。
 著者は一九八三年生まれ。介護の仕事や派遣会社勤務を経て、芸能プロダクションでティーン向け雑誌のモデルのマネージャーとなり、二○一二年にはソメイヨシノ名義で児童書籍『うちらのオーディション物語』を刊行している。やがて演劇プロデューサーとして活躍しはじめるも、毎日時間を問わずかかってくる電話から逃げて、ひとりで静かに仕事がしたいと思うようになり、二年ほどかけて初めて書いた小説『悪い夏』で二○一七年に第三十七回よこみぞせいミステリ大賞の優秀賞を受賞、本格的に作家デビューを果たした。
 この『悪い夏』は、生活保護の不正受給をめぐってエゴイスティックな人々が引き起こす騒動を描いている。著者は他の作品でも社会的テーマを扱うことが多く、『海神わだつみ』(二○二一年)では東日本大震災を背景に、実際にあった復興支援金詐欺事件をモデルにしているし、『鎮魂』(二○二二年)で事件の遠因として描かれる出来事は、二○一二年に半グレ集団がろつぽんで起こした人違い殺人事件を想起させる。
 また著者の小説では、どうしようもない悪党が登場することはあっても、彼らが絶対悪として描かれるとは限らないし、善人の中に潜む悪が描かれる場合もある。『正義の申し子』(二○一八年)の主人公二人は、正義のユーチューバーを自称しつつ家庭では妹に暴力を振るう引きこもり青年と、彼のターゲットになった悪徳請求業者であり、いずれもまっとうな人間とは言い難いけれども、ある事件に巻き込まれたことから彼らは悪と戦うことになる。『正体』(二○二○年)では、一家三人を惨殺した罪で死刑判決を受けた男の逃避行を通じて、彼に接触した人々のさまざまなリアクションを描いている。『鎮魂』に登場する凶悪な半グレ集団のメンバーにすら、子供にだけは父親の自分を見習わずまっとうに育ってもらいたいと考える者や、過去の罪をしんに悔悟している者がいるし、一方で彼らに怒りを燃やす側にも、独善的な正義感にかれて暴走する者がいる。著者は、主婦と生活社のウェブメディア「フムフムニュース」のインタヴュー(二〇二二年五月八日掲載)で「私自身はミステリーを書いているという意識はありません。ミステリーと言うとトリック、真犯人というイメージですが、私の作品にそういう要素はないと思います。私が書きたいのはいろいろな環境、境遇にいる人たちが考えていること、感じていることです。同じ環境にいてもそれぞれ考えていることは違ったりするもの。そういう人たちの気持ちを表現できればと思っています」と答えているが、そうしたかん的な描き方が、著者の人間描写に深みを与えているのだろう。
 本書もまた、そのような著者の作風の二つの特色がうかがえる小説となっている。
 主人公は、三十七歳のフリージャーナリスト、しゆんどうりつ。彼は隔週誌の編集長から、福井県で起きた交通事故について取材依頼を受ける。おちしようぞうという八十六歳の老人が車を運転中にコンビニエンスストアに突っ込み、店長のいしばしのぼを死亡させたという事故だ。
 現地に到着した律は、昇流の父親で事故現場となったコンビニのオーナーの石橋ひろし、コンビニ本社の店舗担当スーパーバイザーさかこうすけ、コンビニ店員のら関係者に取材する。宏は事故による金銭的損害ばかり気にしており、とても父親の態度とは思えない。おまけに、律の記事の方向性にまで勝手に口を出し、誓約書を交わすことすら要求してくる。また、関係者への取材を重ねるうちに、昇流は店長としての働きぶりが極めてルーズで、人柄も褒められたものではなかったという事実が浮かび上がってきた。
 当初、律は編集長の指示通り、高齢者の運転問題という方向性で取材を進めようとする。この観点からまとめるのであれば、被害者がどのような人物であろうと、記事の方向性に何か影響があるわけではない。しかし、関係者から話を聞くにつれて、コンビニの補償問題、被害者や遺族の裏の顔といった、記事の題材として興味深そうな話題が次々と現れる。そして、加害者である落井正三について調べるうちに、律の中で疑念が濃くなってゆく。落井は、半年ほど前に山崩れの被害に遭い、間もなく廃村が決定しているだに村の出身である。その埜ヶ谷村を訪れた律は、村長のくにやすひと、村役場職員のいわもとかずらに取材するが、彼らは落井が認知症だということを強調し、その点に律が疑問を投げかけた途端、不自然なほど過剰な反応を見せる。果たして、この事故は見かけ通りのものなのか。そして、埜ヶ谷村の閉鎖的な風土は真相と関係しているのだろうか……。
 俊藤律は決してヒーロー的な人物ではなく、むしろミステリの主人公としては平凡なタイプだろう。だが、彼にはジャーナリストとしての正義感と、気になったことは徹底的に調べずにはおかない探究心があり、そのため、取材者に食いついて離れない執念深さも持つ。ただし、過去にある人物の罪を報道したことが、その後に起きた悲劇の原因になったのではないかという苦い思いも胸に秘めている。そんな彼が今回の取材の果てにいだしたのは、ジャーナリストとしての義務と、人間としての良心を載せた天秤をどちらに傾けるのが正しいか、熟考を余儀なくされるような真相だった。
 ミステリファンであれば、本書からアガサ・クリスティーのある長篇や、ひがしけいのある長篇を想起するかも知れない。しかし律は、落井の行動に含まれている矛盾から、関係者たちすらも想像できなかった事故当時の彼の心の動きに思い至るのであり、そこに先例とは異なる本書のユニークさがある。それが間違いのない真実だとはっきり書かれているわけではないけれども、小説は必ずしも答えを出さなくてもいいがミステリは答えを出さなくてはならない──という矛盾的難問に、著者なりの解答を示したと言えるだろう。
 ラストにおける律の選択については賛否両論あるだろうが、その彼の立場を相対化するのが、元妻で裁判官のさとである。性格的にも律とたいしよてきな里美は、裁判官らしからぬマイペースな言動によって、このシリアスな物語にある種の可笑おかしみのアクセントを加えているけれども、そんな彼女は律と全く異なる答えを出す。律の選択を正しいとも間違っているとも描かないことによって、著者は天秤がどちらに傾くのが正しいかを、読者おのおのに問いかけているのである。
 ありふれた三面記事のひとつひとつに、実は思いがけない真実が、そしてそれを報道する人間の迷いが隠されているのかも知れない。本書は、社会派ミステリとしてのテーマ性を通して、外部からは容易に窺い知れない人間の思いの謎を描いた著者らしい小説である。

作品紹介・あらすじ



震える天秤
著者 染井 為人
定価: 858円(本体780円+税)
発売日:2022年08月24日

高齢ドライバーによる死亡事故、それは本当に〈老いの宿命〉だったのか?
高齢男性の運転する軽トラックがコンビニに突っ込み、店員を轢き殺す大事故が発生。
アクセルとブレーキを踏み違えたという加害者の老人は認知症を疑われている。
事故を取材するライターの俊藤律は、加害者が住んでいた奇妙な風習の残る村・埜ヶ谷村を訪ねるが……。

「この村はおかしい。皆で何かを隠している」。

関係者や村の過去を探る取材の末に、律は衝撃の真相に辿り着く――。
横溝賞出身作家が放つ迫真の社会派ミステリ!

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322201000354/
amazonページはこちら


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