「本の呪い」が発動して、街が物語の世界に変わっちゃう? 本嫌いの少女が、街を救うために書物の世界を冒険することに――。深緑野分さんの最新刊は、本の魔力と魅力を詰め込んだ、まさに空想の宝箱。10月8日の刊行に先駆けて、特別に第一章をまるごと試し読み!
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昔ながらの古書店の並びは、元の世界と同じように、「めぼしい本はないか」と店頭や店内の棚を漁る愛書家でいっぱいだった。だからこそ全員、御倉館に背を向けている──獲物を前にしてぼんやり後ろを向いている狩人などいやしない。
「待てよ。それなら、ここに紛れちゃえばいいのでは? ううん、むしろこの人たちの中にいるのかも」
泥棒はなぜ本を盗むのか? 本を盗む理由は、稀覯本を欲しがる人に高値で売って稼ぎたいか、自分自身で所有したいかのどちらかだと考えた深冬は、愛書家の群れに泥棒が紛れている可能性が高い、と考える。
しかしこの全員に声をかけるのか。ただでさえ多かった愛書家たちだが、深冬がこうしてまごまごしているうちに、どんどん増えている気がする。百人が二百人、二百人が四百人、四百人が八百人……いったいどこから湧いて出るのかと思うと、どうやら道路の側溝の穴からむにゅりと人が現れ、増殖しているらしい。
「おかしくなりそう」
お手上げだ。どうにもならない。深冬は腕の中の狐を抱く力を強め、狐は不思議そうに見上げる。
「あたしに泥棒が捕まえられるわけがないし、もっと優秀な誰かに任せてしまえばいい。うん。真白にそう言おう」
その時、黒い虫おそらくゴキブリがぶうんと翅を震わせて飛んできて、目の前の本棚にとまる。深冬は情けない声を上げ、狐が虫に向かって「ギャッ」と威嚇する。
「よし狐、あのゴキブリを食べて!」
すると真白が深冬の袖を引いた。
「深冬ちゃん、あの虫について行こう」
「げっ、絶対に嫌だ!」
「そう言わないで。『繁茂村の兄弟』では、甲虫のような黒い虫を〝甲羅がある虫〟と呼んで、神の使いとして崇めてるの。西と東、別々の道を歩いた兄弟が再び巡り会ったきっかけの虫だから。そして今の読長町は繁茂村と同じ。ひょっとしたら泥棒の元へ案内してくれるかも」
ゴキブリは確かに、いつも台所やゴミ捨て場で深冬を驚かせてくる姿よりも、翅が丸く盛り上がって甲羅を背負っているようにも見える。客がやってきて店のドアを開けると、ゴキブリは体を震わせた。そしてつやつやと光る甲羅をすぐに持ち上げ、隠れていた絹のごとく薄い後翅を現し、真珠雨の中を満月へ向かって飛び立った。
「……ねえ。本当に読長町はあの本の世界に変わっちゃったわけ? あのおじさん、米是留がどうとかって」
「そう、そう。だから早く泥棒を見つけないと」
真白は深冬の手を引き、スカートの裾を翻しながら風のように軽やかに駆ける。ゴキブリを追って──真白と手を繋いでいると、自分も翅がついたように体が軽くなったと感じ、足が地面に触れたかどうかもわからなくなった。
夜だが生き物が隠れ眠る闇はもう都会にない。住宅地の家々の明かりやスーパーマーケットの白い照明に、埋没しそうなパブの紫色に淡く光る看板、ぽつぽつと灯った街灯がびゅんびゅん過ぎて、やがて深冬は道場の前を通りかかった。ちょうど師範代の崔が道ばたにいて、事務の原田に話しかけているところだった。茶色く染めた長いワンレングスの髪に、目鼻がすっきりとした顔立ちの原田は、細い煙草をくゆらせながら崔の話に頷いている。一方、彼女に夢中の崔は、耳や後頭部から愛らしい赤やピンクの花を咲かせていた。
「鼻の下を伸ばしすぎ」
ふたりとも深冬たちには気づかず、ただつむじ風がそばを通ったかのように、靡いた髪を片手で押さえる。
真白の足は速い。あまりにも速くて、深冬の肩に乗った狐が悲鳴を上げたくらいだ。いつしか真白の手足は犬のそれに変わり、前傾姿勢になって四つ足を大地に着けた。ついに制服を着た大きな犬に変身した真白は、背中に深冬を乗せ、真珠と色とりどりの植物や旗でいっぱいの道を走り抜ける。甲羅をつけたゴキブリは悠然と空を飛び、ひとりと二匹が後ろを追ってこようが、意に介さないようだ。
深冬は真白の首のあたりにしがみつきながら、声を張り上げて訊ねた。
「ねえ真白。あの『繁茂村の兄弟』ってどんな話なの? 最後はどうなるの?」
読書嫌いの深冬だが、今さらながら、あれを最後まで読んでおけばよかったかもしれない、と思い始めていた。本に興味が出たのではなく、この奇妙な世界から出るためには内容を知っておくべきではという気持ちになったのだった。真白はちらりと後ろを向くと、静かに話しはじめた。
「雨男のベイゼルと晴れ男のケイゼルは、甲羅のある虫にそれぞれ導かれて、荒れ果てた土地にたどり着く。そこは兄弟の運命の地であった。大人に成長していたふたりは、いくらか天気をなだめすかすことができるようになっており、大地は太陽と雨の恵みをいっぱいに吸収した。川が流れ、湖ができ、花々は絢爛と咲き乱れ、草木がこの世は常春とばかりに育ち、繁茂した。たっぷりの水と繁茂した植物は豊かな土を作り、家畜を太らせ、痩せていた土地はたちまち肥沃になった。そうなると次第に人が集まるようになり、家を建て、やがて村となった。
ベイゼルとケイゼルは力を合わせて村を治め、兄のベイゼルが政治を司る村長に、弟のケイゼルが村の産物を仕切る植物局長になった。しかしある時、ベイゼルは村の女、ハウリに恋をする。すると、雨が真珠に変わってしまった。
真珠雨は美しかったので高値で売れ、村の財は潤った。けれど繁茂村の売り物だった植物に、真珠雨など害でしかない。村の人々はふたつに分かれてしまった──すなわち真珠で利益を得たい真珠派と、農産物で利益を得ることを継続したい植物派。植物局長のケイゼルは村を守るため、兄にハウリとの恋をやめるように訴える。けれどもベイゼルはケイゼルを追い返し、その上植物局長の役を廃止して、完全に真珠でやっていくと宣言してしまった。
ケイゼルは怒り狂い、満月を黒猫に封じて空に放ると、どこかへ消えてしまった。それ以来、月が沈まないので夜が続き、太陽が昇らなくなってしまう。いつまでも明けない夜、降り止まない真珠雨の中、ついにベイゼルとハウリの婚礼がはじまる」
「まさか、それが明日?」
「そう」
いつの間にか真白は空を飛んでおり、深冬は肩の狐が落ちまいと爪を立てているのを感じる。眼下には読長町が広がっている。
真珠雨は雲の上に昇ることで止み、ひとりと二匹は漆黒の夜空の中へ出た。ゴキブリは相変わらず飛び続けていたが、雲の上に出たあたりから、ふいに、あれほど皓々と照っていた満月の姿が見えなくなった。それでもゴキブリの後についていくと、雲がぐるぐると渦巻く地点で、銀色に光る棹を見つけた。棹は地上から伸びていて、長さはおよそ数千メートルはあるだろうが、針のような細さでも揺らぐことなく凜と突き立っている。
ゴキブリがその棹にとまったので後に続くと、頂点に、黒猫が体を丸めて縮こまっているのが見えた。
「今度は猫」真白はうんざりした様子で鼻を鳴らす。「泥棒猫かな」
他の生き物、特に猫や狐に敵意をむき出しにするのは、完全に犬になった証拠なんだろうかと思いながら、深冬は真白の体をぽんと優しく叩く。
「さすがに違うでしょ。猫がどうやって本を盗むっていうんだよ」
「……そうだね。虫が犯人を教えてくれるんだと思ってしまって」
真白は気落ちした様子を隠さずに耳を垂れる。
「あの猫はたぶん、ケイゼルが満月を封じて放り投げた〝夜の黒猫〟だと思う。地上へ降ろしてやればきっと朝が来るよ、深冬ちゃん。そうしたら少し話が動くかも」
(つづく)
▼深緑野分『この本を盗む者は』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
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