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試し読み

夜空と思っていたものは、巨大な黒猫の体だった。朝を取り戻した深冬を、街の人々が待ち受ける。深緑野分『この本を盗む者は』刊行直前特別試し読み#11

「本の呪い」が発動して、街が物語の世界に変わっちゃう? 本嫌いの少女が、街を救うために書物の世界を冒険することに――。深緑野分さんの最新刊は、本の魔力と魅力を詰め込んだ、まさに空想の宝箱。10月8日の刊行に先駆けて、特別に第一章をまるごと試し読み!



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 真白はそう言って棹のすぐ横に体を近づける。黒猫の目は金柑きんかんの実のような濃い黄色だ。深冬は、先ほど見た満月を思い出す──そして黒猫を抱き上げてやろうと、立ち上がりかけた。
 しかしここは雲の上、それも足下は犬の背中だ。曲芸師ならまだしもごく普通の少女が動物の背で立ち上がるのは至難の業、膝が震えた。深冬は逡巡しゅんじゅんした結果、スニーカーを脱いで裏返しにし、肩から降ろした狐と一緒に真白の背中に置くと、膝を曲げて真白の背中に足の裏を乗せる。
 しゃがんだ体勢からゆっくり腰を上げて膝を伸ばし、足の裏に汗がじわりと湧くのを感じつつ、真白の背中から両手を離す。ゆっくり、大丈夫、下を見るな、ゆっくり──その時、東の方から冷たい夜風がびゅうと吹き、バランスを崩した深冬は息を呑んで、両手をばたばたぐるぐると回した。前に傾いたタイミングで銀の棹に指先が触れ、決死の思いで摑む。深冬の長い黒髪とネクタイが風にはためく。
「下を見ちゃだめ、下を見ちゃだめ」
 自分で自分に言い聞かせながら、深冬は左手で棹を握り、右手を伸ばして黒猫に触ろうとした。しかし黒猫はすっかりおびえて、赤い口を開けて威嚇してくる。
「こっちへおいで、いい子だから」
 片手では無理だ。深冬はきゅっと歯を食いしばって、左手も棹から離す。たちまち体は再び不安定になり、膝が震え、足裏にじわじわと冷や汗をかく。ほんのかすかな風でバランスを崩してしまいそうで、夜の奈落ならくへ落下していく自分を想像してしまう。それでも深冬は両手を黒猫に伸ばした。
 指先が柔らかく温かな体に届く。黒猫も今度は威嚇することなくじっとして、深冬の手を受け入れる。深冬は手のひらを猫の脇の下に滑り込ませ、優しく抱き上げた。
「よし、捕まえた!」
 次の瞬間、夜が動いた。
 漆黒の空そのものがぐうっと動き、突然、深冬の目の前で光が丸く膨らんだ。
 満月だった。あまりのまばゆさに目がくらみ、うっかり足をよろめかせた深冬は体勢を崩し、腕に黒猫を抱いたまま真っ逆さまに宙へ放り出される。
「あおん!」
 すかさず真白が方向転換し、両手は折りたたみ、両足は真っ直ぐ伸ばして、弾丸のように素早く、落ちていく深冬の後を追った。雲を突き抜ける前に真白のきばが深冬のはためく長いスカートの裾をとらえ、ぶうんと勢いをつけて跳ね上げた。深冬はぽうんと浮かんでから、真白の背中に着地する。
「こ、怖かった……」
 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を袖でぬぐう。先ほどの黒猫は深冬の腕からするりと這い出て、真白の背中の真ん中にちょこんと座っている。その後ろにむすっとした表情の狐がいて、新参者を胡散臭うさんくさそうに睨んだ。
「黒猫はここにいるのに、どうして満月があるの。夜もまだ明けないし」
 深冬が呟くと、地鳴りのような音が響き渡った。山ほどもある巨大な石臼いしうすを巨人がごろごろと転がすかのような音だ。すると満月の隣にもうひとつ満月が現れ、その下にピンク色の穴がぽっかりと開いて、「なおお」と野太い鳴声が漏れた。
 夜空だと思っていたものは、巨大な黒猫の体だったのだ。黒猫は再びごろごろという喉を鳴らす音をとどろかせ、伸びをし、夜がぐらぐらと揺らぎ、耳と耳の間から薄紫色に染まる夜明けの空が覗く。
 すると深冬が助けた普通サイズの黒猫が嬉しそうに「なー!」と鳴き、ぴょんと跳び上がって、宙に身を躍らせた──そしてしがみつく。夜の黒猫の毛皮に、黒猫はぺったりとくっついたのだった。仲間が無事に銀の棹から降り、自分の元へ帰ってきたことに満足したのか、夜の黒猫は満月の両目を薄く細めて挨拶すると、仲間を背中に乗せたまま巨大な体を軽々と翻し、猛烈な風を吹き荒らしてどこかへ飛んでいった。
 夜の黒猫は姿を消し、代わりに朝が来た。
 白い太陽が輝き、うっすらと水色をたたえる薄紫色の空に黄金の帯がいくつも差し込んで、澄んだ風が吹いた。美しい晴天の朝だ。深冬も真白も、一匹残った狐でさえも、呆然と空を見上げる。いったい何が起きたのか、案内役のはずの真白もまた、「生まれたばかり」ゆえか、首を傾げている。
「ふりだしに戻る」
 そう言いながら再び地上に戻ってみると、朝の風が雲を吹き飛ばしたにもかかわらず、真珠雨はまだ降り続いていた。街の様子は少し変わっていた。ブック・カースが発動した直後は生き生きと繁茂していた植物は、茶色く、弱々しくなり、その代わり建物はどこもかしこも真っ白な真珠で装飾されて、きらきらつやつやと輝いていた。
「真白の言ったとおりだ。真珠雨が植物を枯らして、〝村〟の財は潤った」
 街の様子を呆然と眺めていると、人々が集まってきて、拍手で深冬たちを迎えた。
「お見事です!」
「あの大黒猫を追い払うだなんて!」
 深冬たちが降り立ったのはちょうど商店街の手前で、人々は見知った顔ばかりだった。拍手されたことなどこれまでほとんどなかった深冬は、なんともこそばゆい心地で頭を掻き、「ど、どうも」と照れ笑いで返した。
 しかしここでも、馴染みのあるはずの人々は、深冬が誰か気づかない。鶏肉専門店でやきとりの注文を取ってくれる由香里も、青果店の店員も──茶色い前髪をクリップで留めた髪型も、ちゃきちゃきとした雰囲気も変わらないのに、深冬には敬語を使い、まるで有名人かのように扱う。
「へえ、すごいですねえ。こんなにお若いのに」
「勇敢ですなあ」
 深冬は胸の奥の温度が下がっていくのを感じた。
「……みんな、どうしちゃったの?」
 あんなに御倉の人間と言われるのが嫌だったのに、今は御倉の名前を主張したい衝動に駆られる。けれどもぐっと口をつぐみ押し黙った──物語のせいだ。あのおかしな物語のせいで、みんなも変になってしまったに違いない。それならなおのこと早く世界を元に戻して、ひるね叔母ちゃんを問い詰めねば。
 しかし泥棒の手がかりは何ひとつ摑めていない。この中に犯人が潜んでいるかもしれないが、誰なのか皆目見当がつかなかった。
 商店街の面々や、青や赤や緑のエプロンをつけた書店の従業員たちに歓迎された深冬は、「御礼をさせて下さい。ぜひお茶を」と手を引かれて商店街の奥へといざなわれた。その中にはわかば堂のマッシュルームカットの青年もいる。みな揃ってにこにことし、機嫌が良さそうだ。その様子に冷えていた心が温まってきて、つられて深冬も笑う。頭にかすみがかかったようにぼんやりしはじめ、なんだ、案外こういうのも楽しいじゃないかと、へらへら口元が緩む。笑っていないのは、犬から体だけ人間に戻った、犬耳の少女真白だけだった。真白は、人々に囲まれて進む深冬の横顔をじっと見つめている。主人の安全を守ろうとする忠犬のように。
 まだ降り止まぬ真珠雨の下、深冬は商店街の面々に担ぎ上げられ、神輿みこしのように運ばれた。頭にぽこぽこと真珠雨が当たるが、不思議と痛くはない。わっしょいわっしょい三人がかりで足を支えられ、いつかの運動会でやった騎馬戦みたいだなとぼんやり思ったところで、ふと深冬は我に返った。私は何のためにここにいるんだっけ?
「あ、ねえ。誰か泥棒を知らない? うちの本棚から本を盗んだやつがいるの」
 すると後方にいた書店勤務の者たちが悲鳴を上げた。
「本泥棒ですって?」
「本を盗むだなんて許せない!」
「いったい何の本を盗んだんです? うちの店はこの間、マンガを一抱えもやられましてね、泥棒を捕まえるならうちの分も取り返して下さいよ!」
「うちなんて万引きされた分を給料で補填ほてんさせられたんだ! まったくもって腹立たしい、万引き犯だけでなくうちの上役も懲らしめてもらいたいね!」

(つづく)

深緑野分『この本を盗む者は』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321912000257/


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▲深緑野分『この本を盗む者は』特設サイト


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