「本の呪い」が発動して、街が物語の世界に変わっちゃう? 本嫌いの少女が、街を救うために書物の世界を冒険することに――。深緑野分さんの最新刊は、本の魔力と魅力を詰め込んだ、まさに空想の宝箱。10月8日の刊行に先駆けて、特別に第一章をまるごと試し読み!
>>前話を読む
書店員は、新刊書店の人も、古書店の人も、絵本専門店の人も、ブックカフェの人も、みな一様に怒り、深冬の損失はいかばかりかと同情してくれた。そうして語るうちに憤りが沸点に達し、青エプロンの書店員の耳から煙が噴き出して、ロケットのごとく空高く舞い上がった。続いて赤エプロン、緑エプロンの書店員たちも宙へ発進し、エプロンをマントのように翻しながら飛んでいく。
「ちょっと、泥棒は? 知ってるの? 知らないの? ……行っちゃった」
書店員たちがいなくなった後も深冬は担がれたまま、商店街へ入った。並んでいる店も、水色と赤を基調にした入口のアーチも元の世界のままだ。しかし、やはりずいぶんと変わっている。
スピーカーから流れる商店街放送は〝本日セール、一挙両得青果店にてミニトマト詰め放題一パック真珠百グラム〟〝鮮魚のおすすめ、干上がり湖のぬかるみから獲れたてタニシ。バッタと併せて佃煮はいかがでしょうか〟などとしゃべるし、赤いテントが目印の駄菓子屋では真珠を握りしめた子どもたちが、壺に棒を突っ込んで、ぬるりとした虹色の飴を掬い取っていた。いがぐり頭の少年が店主の老婆に真珠を渡すと、老婆は亀のようにしわしわの首をにゅっと伸ばして勘定をし、ビニールに包まれた真っ赤な菓子をぶっきらぼうに渡した。
青果店の店頭では、かぼちゃほどの大きさがありそうなトマトが鎮座していて、その傍らで茄子と茗荷を売っていた。深冬は晩ご飯に食べるつもりだったことを思い出し、ぐうとお腹を鳴らす。鮮魚店では何かやたらと長い魚をあぶっている。
元の世界とずれているところはあれど、おおむねいつもの光景だった。学校帰りに、ここで買い物をした──たった数時間前の出来事なのに、昨日のことのように感じる。いや、ひょっとすると一週間前だったか? それとも一ヶ月前? 一年前?
いったい今は〝いつ〟なのだろう? その上深冬は、鶏肉専門店から大量の鶏が逃げ出し、目の前で大騒ぎになっているのも、鮮魚店の発泡スチロールの箱の中でうにょうにょとうごめいている巨大なタニシも、真珠での支払いも、おかしいとは感じなくなっていた。
深冬はこの世界に馴染みはじめているのだ。
しかし集団の後ろにぴったりとくっついていた真白は、すんすんとにおいを嗅ぎ、あたりを警戒し続けていた。
「深冬ちゃん。深冬ちゃん、見て」
担がれて、人の群れからにょっきり飛び出ている深冬を大声で呼び、商店街の人々の尻に起きた異変を教えようとする。みんな太い尻尾が生えているのだ。全員同じ、太くてオレンジ色の、先端だけ白い毛の尻尾だ。深冬の肩に乗った狐とよく似ている。しかしいくら真白が注意を促そう、教えようとしても、深冬はぼんやりしてまるで聞いておらず、異変にも気づきそうになかった。
商店街の通りを真っ直ぐ進み、駅に近づいたところで、深冬をよいしょする集団はふいに立ち止まった。
駅の方から華やかな音楽が聞こえ、少しずつ近づいてくる。
駅は坂の上にあり、海抜の低い商店街から行くには階段を上らねばならない。階段の高さはゆうに建物の三階分はあって、下にいながら上の様子を知るのは困難だった。音は聞こえども、何が起きているのかわからない。やがて音はどんどん近づいてきて、目の前に立ちはだかっていた灰色の階段のてっぺんに、透き通ったオーロラ色の旗が見えた。
「米是留さんの婚礼だ!」
深冬を囲んでいた商店街の人々が一斉に歓声を上げて拍手をする。鶏肉専門店の由香里も、青果店の馴染みの店員も、中華料理店の白いお仕着せ姿の料理長も拍手で迎えるので、深冬もつられて両手を叩いた。
空はふんわりと眠たげな色をしている。深冬は、まるでウズラの卵の殻をむいて、内側はこんな色だったのかと驚く、あの色と同じ柔らかな黄みがかった青の空だと思った。雲ひとつない快晴のもと、真珠雨はまだ降っている。
これ以上ないほど婚礼にふさわしい天気だった。行列は旗、管楽器隊、弦楽器隊に続いて、合唱隊が現れ、朗々と歌い上げながら階段を下りて商店街に入ってきた。そして紙吹雪をまき散らす子どもの後ろから、新郎新婦が姿を見せた。
はじめは拍手していた深冬だったが、手の動きはだんだんゆっくりになり、ふたりの顔がはっきりわかったと同時に止まった。
「嘘でしょ、崔君と原田さんじゃない!」
道場の師範代の崔と、事務の原田が、互いに見つめ合い微笑み合いながら、ゆっくりゆっくりと歩いてくる。崔は白いタキシード、原田はウェディングドレスを着ていたが、どちらも胸に四角い布がゼッケンのようにあててあり、崔には深紅の字で〝米是留〟、原田には〝羽瓜〟と書いてある。
「ちょっと……ちょっと待ってよ」
深冬は体をくねらせてもがき、自分を担ぎ上げている三人に「降ろして!」と叫んだ。驚いた三人の腕から力が抜けた隙に地面に飛び降り、人だかりから脱出する。しかし婚礼の列に近づこうにも、商店街の店という店、付近の家という家のドアが開き、住民たちがこぞって出てきて、溢れんばかりの騒ぎになって近づけない。
肩の狐が抗議のうなり声を上げるのも気にせず、深冬はクロールの動きで、人混みにもまれながらどうにか人と人の隙間をかいくぐり、先頭へ出て「ぷはっ」と息を吐いた。
婚礼の列の先頭を行く旗手たちがオーロラの旗を掲げると、まるで海が割れるように人が退いて、道が開く。崔と原田はにこやかに微笑みながら衆人に手を振り、間もなく深冬の前を通りかかるところだ。
「崔君! 原田さん! あたし、深冬だよ! ねえ!」
すると列がふいに停止し、音楽も止んだ。崔と原田がゆっくりとこちらを向く。
「あれは何者だ?」
やっぱり忘れられている──ショックを隠せず震える深冬の手を、人間の姿に戻り追いかけてきた真白が握った。深冬と同じくらい小さく細いが、温かい手だ。
「大丈夫、今だけだよ。泥棒を捕まえて世界が元に戻れば、みんなも戻るから」
真白の黒々とした瞳は真っ直ぐで、嘘をついているようには思えない。深冬はこくりと頷き、真白の手を握り返す。
「じい、あの者は?」
崔の問いかけに、そばで控えていた細身の老人が「ははっ」とお辞儀し、しわくちゃの顔をさらに険しくして、深冬たちに近づいてくる。腰と首が曲がって、ししゃものような体つきの禿頭の老人は、今は頭や服に赤いリボンを結んで着飾り、〝従者〟のゼッケンをつけているけれど、現実世界ではBOOKSミステリイの主人で、要という名前だった。深冬はまだ幼児だった頃、公園で菓子を食べながら絵本を読んでいて、この要翁に「読みながら食べるな!」と怒鳴られた上に「御倉の一族にも本を愛さない者がいるんだな」と嫌みたらしく言われた。それ以来この老主人が大嫌いだった。
「婚礼の儀を妨害するとはなんたる不届き者、名を名乗れ!」
本の世界に変わっても要翁は同じだ、と深冬はつい笑ってしまい、ますます翁は怒り、ひょっとこに似た顔がゆでだこのごとく赤くなった。耳と鼻の穴から湯気まで出ている。すると青果店の馴染みの店員が、前髪のクリップを留め直しながら間に入ってきた。
(つづく)
▼深緑野分『この本を盗む者は』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321912000257/