「本の呪い」が発動して、街が物語の世界に変わっちゃう? 本嫌いの少女が、街を救うために書物の世界を冒険することに――。深緑野分さんの最新刊は、本の魔力と魅力を詰め込んだ、まさに空想の宝箱。10月8日の刊行に先駆けて、特別に第一章をまるごと試し読み!
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「何も滅びなくても」
「マジックリアリズム小説って、村や街が滅んで終わることが多いよ」
「いや、そうじゃなくてさ! 架空のお話ならいいけど、本当に滅んじゃったら大変じゃん!」
夜に飛んだ時には暗かったせいで気づかなかったが、空と読長町の境目に、薄く黄色みを帯びた靄が立ち上って、まるで壁のようにあたりを囲っていた。川の向こう岸や、線路が走る橋梁の先も見えない。読長町のまわりがシェルターのようなもので閉じられた様子だった。
「本当だ、あんたが言ったとおり、読長町だけが呪いにかかってるんだ。アニメとかゲームとかで観る結界って、きっとこんな感じなんだね」
人の行き来はどうなるんだろう。読長町の外にいた住民に呪いはかかるのか? よそから来た人にも呪いはかかるのか? 車は? 電車は? 深冬はきょろきょろと視線を動かして、線路を捜した。電車は一輛たりとも走っていなかった。
謎が多すぎる。ふと、夕方に道場へ寄った時、崔が話した奇妙な苦情の電話のことを思い出す。誰かが警報装置が鳴ったと言い、崔や他の人は鳴っていないと言う。
何かが引っかかるが、点と点はばらばらで像を結ばない。
それから数十メートルほど空をすべったところで、真白はあゆむが入院している病院の屋上に降り、深冬も降ろした。屋上は一面に苔が生していたようだが、その上を真珠が埋め尽くし、粒と粒の隙間から茶色く変色してしまった苔が見える。
深冬の狐化はなおも進み、手足や顔の表面までオレンジ色のふかふかした毛が覆いはじめていた。
「……少しずつ狐になっていくんだ」
しげしげと自分の手を見つめ、「ああー、わかりそうでわからない!」とひとりごちる。
その間、読長町を取り囲む靄の境に、カラフルな原色の点がちらちらと揺らめいて、こちらに近づいてくる。一方からではなく、四方八方に現れ、見る間に大きくなっていくのだ。それは最初に御倉館に現れた満艦飾の旗の群れだった。
旗の群れの先頭にいるのは、先ほど泥棒を捜しに飛んでいった書店員たちだった。彼ら、彼女らは、同じようにカラフルなエプロンを翻し、両手を翼のように広げ、深冬たちを目指して一直線に飛んでくる。
「泥棒!」
「泥棒を見つけた!」
「全体、降下、降下!」
聞こえてくる声に深冬が空を仰いだ時には、満艦飾の旗は軽く病院一棟を吞み込めるほど、巨大に広がっていた。
「げげっ!」
怒りに燃える書店員たちは巨大化した旗の連なりを投網のように操り、街をまるごと覆い尽くそうとしている。
その時、深冬の肩でじっとしたままだった狐が悲鳴を上げ、飛び降り、脱兎のごとく──脱狐となって逃げていった。
「あっ、どこ行くの!」
呼び止めようと手を伸ばしかけた瞬間、深冬の頭の中で何かが稲妻となってひらめいた。狐は病院の屋上の隅まで走ると柵の隙間から飛び出し、病棟を包もうとしている緑の旗にしがみついたかと思うと、ぽうんと弾み、その勢いで下へと滑空する。
「真白、あの狐を追いかけて!」
しかし真白はまだ状況が摑めていない様子で、「狐なんか放っておいて、旗から逃げないと!」と言う。実際、全身から怒りの湯気をたぎらせている書店員たちが鬼の形相で目の前に迫っていたが、深冬は問答無用と真白の手首を摑み、屋上の柵まで駆ける。
「いい? あの狐が泥棒なんだよ! もっと早く気づけばよかった!」
深冬ははっきりとそう告げた。
真白の話によると、この世界の原作である『繁茂村の兄弟』に狐は存在しないらしい。なぜ狐なのか深冬にはわからないが、ともかく、何か別のルールによって人間が狐化させられている。逆に言えば、この世界にいる狐は、元々人間である可能性が高い。
「それに見て。狐に変化するのは少しずつで、時間がかかるんだよ。あたしの耳はもう狐だけど、この手はまだ人間の形をしている。つまり、すぐに変化するわけじゃないってこと。それなのに、あの狐はあたしが本を読んで、御倉館を出た時点で、もう狐だった。つまり誰よりも早くこの世界にいたってことになる。そんなの、呪いが発動するきっかけになった泥棒本人しかいないじゃん! 真白、飛んで! 飛んであの狐を追いかけるの!」
深冬はそう叫び、真白と手に手を取って屋上から飛び降りた。落下する速度に深冬は固く目をつぶったが、真白は目を見開き、深冬の腰に手を回して支えると、白く長い足で病院の壁を蹴った。
真白と深冬が飛ぶと同時に、書店員たちも方向転換し、旗もその後に続く。猛スピードで疾駆する真白に深冬はしがみつきながら、猛烈な風の中、薄目で狐の姿を追った。狐は電信柱から電線を伝い、看板、路上駐車中のトラックの荷台などを渡り、地面に降り立つと、駅の方へ駆けていった。
「あそこ、真白! 駅へ向かって! まったく助けて損した!」
真白は電信柱を蹴り、弾みをつけてホームの屋根と屋根の間から線路の上へと滑り込む。線路にはいつもの青い電車が停まっており、その脇を真白と深冬はすり抜け、ホームに降り立った。
しかし狐は改札の手前にいた。自動改札機のフラップドアは人間の腰の位置にあるので、切符がなくとも狐の大きさならば下をくぐってホームへ出られるはずだ。しかし狐は改札を通らず、切符売り場のある花壇の方へ向かった。深冬と真白は互いに顔を見合わせ、改札の上を飛び越えて狐の後を追う。
読長町の空は巨大化した旗に覆われてしまい、建物や人が、赤や青、緑色に染まっている。万引きへの日頃の恨みを晴らさんと、怒りに燃える書店員たちが駅に着くのも時間の問題だった。
逃走中の狐の目当てはコインロッカーだった。駅を彩る花壇の向かいに黄緑色の小さなドアが二十個、中くらいのドアが十個、大きなドアが四個備え付けられたコインロッカーの左端で、ぴょんぴょんと懸命にジャンプしている。逃げる余裕はあるはずだが、深冬たちの姿を見てもまだジャンプしていた。
「……何してんの?」
深冬が近づくと、狐はむっつりした顔で振り返り、丸っこい手で上を指した。ロッカーは鋼板製なので、狐は爪を立てて登れないのだろう。大きなドアの列の上段だ。狐の代わりに深冬はロッカーに手をかけた。しかし鍵がかかっていて、把手を引いてもがたがた揺れるばかり。
「鍵、かかってるし」
舌打ちして腰に手を当てた深冬に狐が飛びつき、器用にするするとよじ登って肩の上に乗った。狐の手にはどこで拾ったのか、二本のヘアピンがある。
「ま、まさか」
狐は口元をにやっと歪め、深冬の腕を足場に、ロッカーの鍵穴にヘアピンを差し込んだ。しばらくかちゃかちゃといじくった後、ややあって、錠が開く音がした。
次の瞬間、ロッカーのドアが勢いよく開き、中から大量の本が滝のごとく溢れた。
白地に墨でかがんだ人を描いた表紙の本、街がとぐろを巻いている絵の本、真紅の本、指輪が描かれた本、奇妙な鳥の仮面をかぶり葬儀の衣装をまとった人物が表紙の本、海よりも青い本──他にもさまざまな小説が解放され、外に出るやいなや、ページを翼のように広げ、飛び立った。
本が鳥となって飛翔する姿に、エプロンをはためかせていた書店員たちの怒りも消え、空を覆っていた旗たちも急速にしぼみ、消えていく。
いつの間にか日が暮れて、あかね色に染まる空の下、夕日に溶けていきそうな本の群れを見送る深冬は、危うく狐を取り逃がすところだった。足音立てずに深冬の肩から飛び降り、抜き足差し足忍び足、そうっと逃げ失せようとする狐の、その首根っこを真白がむんずと捕まえる。
狐は悲鳴を上げたが、真白の握力は強く逃げられない。
「まったく、油断も隙もない」
深冬は狐を睨みつけ、手錠をかけるように狐の前足を両手で摑んだ。
その時、大きく地面が揺れた。
(つづく)
▼深緑野分『この本を盗む者は』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
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