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試し読み

須賀しのぶ×幕末×ロミジュリ=2019年の大本命! 『荒城に白百合ありて』試し読み#2

大藪春彦賞を受賞した『革命前夜』や高校生直木賞を受賞した『また、桜の国で』など
ヨーロッパを舞台にした大作のイメージがある須賀しのぶがはじめて挑んだ
幕末大河小説『荒城に白百合ありて』。 80 ページの試し読み、更新2日目です!

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  第一章

      一

 三千石積みの船なのだ、と兄は言った。
「この国で一番大きいのは千石船だから、その三倍も大きいということだなあ」
 するすると筆を動かす彼の目は、見たことがないほど輝いている。口と手を休むことなく動かし続ける兄の隣で、鏡子はまばたきも忘れて机上の紙に見入っていた。
 墨を含んだ筆は、ただの薄っぺらい紙の上に、瞬く間に見事な帆船を描き出す。六つ上の兄・万真かずまは、幼いころから書が巧みで、よわい十六にして唐様の大家に認められるほどの腕前である。しかし兄は絵のほうをより好んでいるようで、書の練習をしていてもすぐに落書きを始める癖があった。
 たしかに手習いは退屈だ。鏡子も六歳から、どこぞの奥方のゆうひつであった近所の婦人のもとに通っているが、朝早くから弁当を持参し、昼過ぎまで延々手習いである。まず見本を与えられて真っ黒な草紙で繰り返し練習をし、清書をして師匠に見せ、良しとなれば次の手本を与えられる。ひたすらその繰り返しだ。
 今日は休日だが、家でも手習いは変わらない。いつもは家にいない兄が今日はたまたま家におり、せっかくだから妹の手習いを見てやろうということになった。しかし案の定早々に飽いて、黒船なるものを描き出した。
 相模さがみうらに異人の船が居座っており、その船が途方もなく大きいという噂は鏡子も耳にはしていた。たしか昨年の六月にもやって来て、その時は十日ほどで消えたそうだが、今回はしぶといらしい。えい七年(一八五四)の正月が開けて間もないころにやってきて、浦賀に居座り二十日以上になる。
 前回よりも大きな艦隊でやってきたものだから、江戸からも連日のように野次馬が押し掛けているらしい。万真もその物見高い人間の一人だった。先日家にやってきた父のほうばいが、浦賀へ黒船を見に出かけると話しているのを聞いて、自分も行きたいと頼みこんだらしかった。子は娘ばかりだという朋輩は万真を我が子のように可愛がっており、二つ返事で承諾した。父は当初こそ渋い顔をしていたが、これからは世界の広さを知らねばならんと朋輩に説得されて、結局は送り出したらしい。
 世界の広さ。大きな船を見ることが、それを知ることになるのだろうか。鏡子にはさっぱりわからなかったが、出立前と兄の顔つきが変わっているところを見るに、正しいのかもしれないと思う。
 会津藩こそは将軍家の信頼あつき天下の雄藩。長く江戸湾の防備に携わってきたのは会津であり、黒船が来た時も海上を警備していたという。万真は会津の威光あるからこそてきの船は何もできずに去ったのだと行く前はうそぶいていたが、帰ってきてからはもう黒船の話しかしなくなった。会津のあの字も出ない。
 わずか一日で、いやほんの一目で、世界ががらりと変わることがあるのか。鏡子は、兄の躍るような筆遣いを見て知った。兄が動かしているのは手と口だけだが、隣にいるだけでもその体が熱を発しているのがわかる。ゆらめく陽炎かげろうすら見えるようだ。ひょっとしたら、抱え込むように独占している火鉢のせいかもしれないが。
「そもそも千石船とは、どれぐらい大きいのですか」
 黒船。その途方もない大きさで、兄をこれほど高揚させるもの。
 力強い線で描かれる船は立派で、ずいぶんと強そうではあるが、なにぶん半紙の上では大きさはわからない。十歳になったばかりの身では、船自体あまり見る機会もなかった。
「なんだ、鏡子は千石船も見たことがないのか。でかいぞう。だが黒船はその三倍もある!」
 まるで自分がその黒船の主であるかのように胸を反らす兄を、鏡子は冷ややかに見やった。父・あおがきへいもんは二十年前に定詰として江戸にやってきた会津藩士で、万真も鏡子も江戸城くらもん内の会津上屋敷内で生まれ育った。兄はしんばしの中屋敷内にある藩校に通っていることもあり、頻繁に門の外に出ているが、鏡子の生活範囲はごく限られている。今年に入って和田倉門の外に出たのは、一月の寺社のさんけいが最後だ。八間にごく小さな庭。両親と兄、二人の奉公人。それが鏡子の世界のほとんど全てだ。近所の子どもたちと遊ぶのもあまり好きではないから、たいてい家にいたし、今まで外に出たいと思ったこともない。この小さな家は鏡子にとって充分に広かった。納戸掛である父は織師や染め師にも知己が多く、身分に関係なく客がよく訪れた。また裁縫の名手である母のもとには、時々年頃の娘たちが習いにやってくる。一時的に華やかな風が吹き、彼らが去れば、また静寂が戻ってくる。自分は同じ場所にいるだけで、それを眺めている。生きるということはそういうことだし、それでよいのだと漠然と思っていた。
 しかし、はるばる浦賀まで出向くことを許された兄の話を聞き、はじめて胸がざわついた。
「そんなに大きな船が来ては、水があふれて浦賀は沈んでしまうのではありませんか」
 鏡子は立ち上がり、障子をわずかに開けた。ひさしのむこうは雨にれ、つきやまも赤松も重たげな色に沈んでいる。ほころびかけた梅はこの冷たい雨でまたつぼみを固く閉じるだろうか。この寒さでは、雨は雪に変わるかもしれない。
 築山の手前には、ごく小さいながらも池がある。今は時折金魚が跳ねる程度だが、昔は夏に兄がよく入り込んでは金魚を追いかけ、母に叱られていた。池の端で見ていた鏡子もよくびしょ濡れになったものだった。
 自分が見られる光景は、これが全てだ。江戸にいながら、海もろくに知らない。浦賀など想像もつかなかった。
「ははは、そんなことはない。寒い、閉めてくれ」
 そう言いながら、兄は黒船に海を描き足し、別の半紙にだいぶ小さな船を描きはじめた。たしかに黒船の半分もない。鏡子は仕方なく障子を閉めた。
「これが千石船。そしてこれが鏡子だな」
 と、小さい船のほうに、ちょんと豆粒を足す。
「こんなに小さくはありません」
「小さいさ。あれを見ると本当に、俺たちはなんと小さいのかと思うぞ。米利堅メリケンの船乗りもなあ、大きいんだ」
 万真は手を止め、遠くを見るように目を細めた。その澄んだひとみともるものを見て、鏡子はまた首を傾げた。皆、この国を付け狙う夷狄とさげすむ。兄も先日まではそうだったはずだ。
「夷狄の船乗りと会ったのですか」
「いや、遠目で見ただけだ。中にはわざわざ小舟で近づく者もいたが、さすがにあれはどうかと思う」
「そんなに大きいのなら、間近で見たいものではないですか」
 鏡子の素朴な疑問に、万真は気まずげに笑った。
「本当は行きたかったのだが、さすがに止められた」
「やはりそうでしたか。船は、浦賀よりこちらには来ないのですか」
「あの船がいよいよこの江戸まで来たら、終わりだろう」
 途端に、心臓が大きな音をたてた。
「終わり、とはどうなるのですか。彼らは何をするのですか」
「そうだなあ。まずは海から大砲を撃ち込む。あの大砲なら、このあたりまで届くかもしれないな」
「海から、お城に届く?」
 繰り返して、鳥肌が立った。ここからではどうやっても海は見えないというのに、夷狄の船はそれほど大きいのか。なんと、凶暴なのだろう。
 見たこともない船の、見たこともない大砲が火を噴くさまを想像する。大砲は知っている。だがそれが動くところは見たことがない。きっと巨大な火の玉が城下に降ってくるのだろう。黒い船から放たれた真っ赤な玉が、優美な白いお城に襲いかかる。
 誰もが仰ぎ見る、太平の世の象徴そのもののように揺るぎない城は無残に砕け、燃え上がる。
 お城も、人も。何もかもが押しつぶされ、炎にめ尽くされる──
「おい、大丈夫か」
 心配そうな声に、鏡子は我に返った。瞬きひとつでも、まぼろしが消える。かわりに、こちらを気遣わしげにのぞきこんでくる万真の顔があった。間近で見ると、頰の面皰にきびが潰れ、血がにじんでいる。一昨年から急激に身長が伸び出した兄は、とうとう父と背丈が並び、頰からも丸みが消えてきたせいで、時々見知らぬ男のように思えることもある。しかし、こうして面皰を端から潰した跡を見るとやはり兄だと思う。
「怖い話をするからです」
「はは、悪かった悪かった。まさかそんなに怖がるとは。鏡子にも怖いことはあるのだなあ」
 頭をでる万真は心なしかうれしそうだった。
 鏡子は豪胆だなあ。兄はよく言った。父にも言われたことがある。万真と性格が反対ならちょうどよかったかもしれん。あれはどうも、わしの悪いところに似てしまったようだ。たしかに兄は、好奇心おうせいでなんにでもとびつくが、こらえ性がなく、飽きっぽいところがあった。これをしろと言われれば、やめろと言われるまで淡々と続ける鏡子とは正反対だった。
「ちょっと脅しすぎたな。大丈夫だ、ここまで届くわけがないし、そもそも近くに来ることなどないさ」
「でも去年黒船が来たおりは、ぼう様がおかくれになったり、大変だったではありませんか」
 ペリー来航直後、突然、第十二代将軍いえよしこうきよした時には大変な騒ぎだった。客人たちは、寄ると触ると、夷狄の呪いだと恐ろしげにささやきあっていた。
「そんなことを言うとまた母上に叱られるぞ」
「でもあまりにも急でしたし、たびは去年より長いから何かあるかもしれません」
「なんだ、まるで夷狄に攻め込まれたほうがいいとでも言いたげだな。対岸の火事は愉快かもしれんが、自分の家が燃えるのはよろしくない。御公儀もそのへんはよくよくわきまえて……」
 万真は突然顔色を変え、慌てて半紙を机の下に隠した。が、少し遅かった。
「何をしているのです」
 開け放たれた障子の間には、母が立っていた。雨だれの音がやかましい。これほど雨が降っていても、部屋の中よりは庭のほうがまだ明るく、母の顔は陰になって見えなかった。それでも、目がぎょろりと動くのがわかった。
「鏡子の上達ぶりを見たいなどと言うから任せてみれば、また絵ですか」
「絵も文人の心得ではないですか」
 兄は開き直ることにしたらしい。紙を机上に広げてみせた。
「あれもこれもと気ままに手を出しては何もものにはなりません。書をやれと言われているでしょう。殿様にお褒めの言葉を賜ったからと慢心しているのではないですか」
 母の小言に、兄はまたか、という顔をした。
 二年前、嘉永五年の二月に、会津藩第八代藩主・まつだいらかたたかが病没し、その六年前にたか藩より養子に迎えられたかたもりが会津藩主ごのかみとなった。齢十八の時である。四歳年下の万真は、その書の腕前で容保に賞賛されたことがあり、その時から母は、我が子を殿の御祐筆にと考えているようだった。優れた書の才能をもつ者は藩内にも少なくない。どうにものんな兄が、母には気にかかって仕方がないのだろう。
「失礼いたしました。では、まずはみちざね公におびし、心を入れ替えてまいります」
 母の説教が始まる前に、万真は紙もそのままにさっさと退散した。逃げ足は昔から速い。共同の菜園へと続く垣根の近くにすがわらの道真公のお宮があり、万真にとっては定番の避難所でもあった。お宮の前では母も声を荒らげない。
「鏡子、おまえがねだったのではないでしょうね」
 案の定、母は行き先を失った怒りを鏡子に向けてきた。
「ねだりはしていませんが、黒船は見たかったので、止めませんでした」
「そんな絵、早くしまいなさい。黒船などおぞましい」
「母上、この船が江戸に大砲を撃ちこんだら、どうなりますか」
「そのようなこと、考えてはなりません。不敬ですよ」
「夷狄は不敬などと考えるでしょうか。私たちが考えたくなくとも、彼らが必要と判断すれば撃ちこんでくるのではないですか。しんの息の根を止めてしまったように」
「またそのような理屈を……。いったい、誰に似たのだか」
 母はあきれたようにため息をついた。
「いいですか、鏡子。私たちは、考えてはならないのです。私たちが考えるべきは親のこと、長じては夫のこと、そして我が子のこと。それだけです」
 鏡子は今の師匠について四年だが、手習いをはじめたころはちらほらいた男児も今はよそに移っている。同じ年頃の弟子で残っているのは女児ばかりで、それもずいぶんと減ってしまった。残っている者たちも、あと二年もすれば、今度は裁縫のけいに行くようになるだろう。彼女たちは、むしろそれを待ち望んでいるふしすらあった。なにしろ、手習いはあまりにも単調で退屈だ。兄が放り出すのも、わからないではない。しかも女子の場合は、仮名が読めれば充分だったので、内容もかぎられている。
 まずいろはを習い、次は百人一首、おんないまがわ、女大学、おんなていきん、女孝経。男子ならば四書五経を学ぶところだろう。このころから、すでに学ぶものが違う。藩士の息子は塾を終えていずれ藩校に通うが、鏡子たちは裁縫に励み、そして十五かそこいらで嫁に行く。そうたたき込まれてきたし、そういうものだと思っていたから、鏡子も「はい」と素直に返事をした。母の言うことはもっともだった。父とて、母の前ではあまり外の話をしない。近頃は時折万真と話し込んでいることもあるが、女の前でそのようなことを口にするのは好ましくないし、女のほうが興味をもつこともはしたないことなのだ。
「遊んでいるなら、糸繰りを手伝ってちょうだい。書は明日、父上に見ていただきましょう」
 母は冷ややかに言って、きびすを返した。
 はい、と小さく答えて鏡子は立ち上がる。一度そのまま部屋を出たが、ふと思い直して戻り、黒船と千石船が描かれた半紙をきれいに伸ばし、文箱にいれた。船の上で豆粒のように浮かぶ自分の姿は、改めてみじめで、しかし妙に愛らしかった。

 その夜、鏡子は夢を見た。
 江戸が燃える夢だった。
 空からは火の雨が降り注ぎ、あちこちでごうおんが響いている。炎がぜ、朱色の風がごうごうと吹く中を人々が逃げ惑う。誰もが必死に、白い城を目指した。
 鏡子はひとり、和田倉門へと殺到する人々を眺めていた。どういう仕組みなのかはわからないが、夢に論理的な説明を求めても無駄だ。
 ああ、炎が来る。城壁の外を燃やし尽くせば、それはいよいよ城へと侵入してくるだろう。
 私の、この小さな世界へ。生まれてから十年、何ひとつ変わることのなかったこの箱庭へ。家の中も、外もきっと変わらない。とくがわの天下はずっと変わらず、そしてこれからも変わらない。城壁に守られて、ただじっとしているだけ。
 だが、いよいよそれも終わるのだ。外からの容赦なき炎が、守りなど完全に焼き尽くす。
 どうがうるさい。もうすぐだ。ようやく、「終わる」。
 けたたましい音をたてて、門が崩れた。その合間から、ぶわりとれんが襲いかかる。逃げる間もなかった。
 ああ、私はとうとう──

 汗だくで目が覚めた。まだ冬だというのに、炎に巻かれたように全身が熱い。
 荒い息を整える間もなく、おそるおそる胸に手を当てる。早鐘のようだった。
 生きている。ようやく、大きく息がつけた。
 全身が心臓のようだ。すさまじい勢いで駆け巡る血潮を感じる。しつこいぐらいに、肺は空気を取り込もうと動いている。
 鏡子はうすく目を開き、納戸の暗い天井を見つめた。頰にそっと手をやると、濡れていた。指先を口に含むと、わずかにしょっぱい。
 そうか、私は生きているのか。なるほど、死んでいないことを、生きているというのか。
 当たり前のことを、鏡子はしみじみと思った。炎にみ込まれた瞬間を思い浮かべ、一度消えたはずの動悸と呼吸を全身で感じるのは、悪くない経験だった。

 〈第3回へつづく

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