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試し読み

『また、桜の国で』『革命前夜』の須賀しのぶ 渾身作にして最新作『荒城に白百合ありて』試し読み#1

「読書メーター」読みたい本ランキング単行本部門第1位!

月間(2019/10/18~2019/11/17)日間・週間(2019/10/31~2019/11/6)
いま最も注目を集める作家、須賀しのぶの最新作『荒城に白百合ありて』の
冒頭 80 ページを5日にわたってお届け!



 序

 半鐘が鳴ったのは、朝六ツ半時だった。
 朝霧を切り裂く不吉な音に、さちはしを置いた。思いがけず高い音が響き、向かい側に座っていた母がわずかにまゆひそめる。が、口に出してとがめることはせず、ぼんやりと明るい障子のむこうを見つめるように目を細めた。
「昨日のくちは勝ち戦と聞いたけれど」
 母はへいたんな声で言った。
 政府軍があい藩境のなりとうげを突破したとの知らせがもたらされたのは二日前、けいおう四年(一八六八)八月二十一日のことである。昨夜はいよいよ、割り場の半鐘が鳴らされたら、ただちに城に入るべしと通告が来た。祖母は、万全の備えをせよと家じゅうに命じ、幸子もいつでも城に走れるよう準備をしていた。
 けたたましい鐘の音に、幸子はすでに腰を浮かしていたが、母の横顔は常と変わらず人形のように美しい。幸子は、この母が慌てたところを一度も見たことがなかった。それでも、耳障りな半鐘の中、母が再び箸を手にとった時にはさすがに目を疑い、食事中は許しなく話してはならないという禁を破ってしまった。
「母上、早くあいばんしょ」
 今朝もいつも通り、自分のあさの前に、病にせている祖母の食事の給仕をした。ほとんど手足の動かぬ祖母の世話は、八歳の子どもには厳しく、母は何度も女中にやらせるから良いと言ってはくれたが、せめて食事だけはと幸子が頼みこんだ結果だった。目上のものを敬いなさい。藩の大事な教えである。自分より二歳下の弟も、あぶなっかしい手つきで父と母の給仕をしていた。弟がいなくなった今、自分が忠孝の勤めを受け継がなくてはならないという、強い意志があった。
 しかし今朝の祖母はごわかった。いつもはくちもとに運べばおとなしく食べてくれるのに、今日は何を察していたのか頑として口を開かなかった。孫の粘りにうんざりしたのか、最後はどうにか口を開いてくれたが、それでもいつもの半分も食べなかった。
 へとへとになり、いつもよりずっと遅い時間に母とともに朝餉をとることになったが、母は文句を言わなかった。祖母のもとに運んだ時にはふっくらとして美味おいしかったであろうかぼちゃ飯も、そのころにはすっかり冷えてべちゃべちゃになってはいたものの、感謝して口にした。正直、一昨日から緊張のし通しで眠れなかったせいで腹もかず、味もろくにわからなかったが、いつも通り淡々と朝餉をとる母に倣い、必死の思いで胃のに詰め込んだのだった。
 半鐘が鳴った以上、この味気ない食事も終わりだ。早く、早くお城へ。もり家は三の丸に近い場所にあり、今すぐ向かえば難なく入れることだろう。早くしなければ、鬼のような薩長が城下に雪崩なだれこんでくる。
 が、く娘をいだ目で見やり、母は言った。
「さすけね」
 父や祖母が頻繁に使う口癖だった。さすけね。心配ない。五月、しらかわぐちに出陣した父は、不安げに見送る幸子や、涙をこらえる弟・とらすけの頭を順にでて、さすけねぇと笑って出て行った。そして一月後、首だけ帰ってきた。持ち帰った若党の話によれば、隊を率いて勇猛果敢に戦うも最新式の銃の前になすすべなく、足と肩を撃たれていよいよ動けなくなり、足手まといになってはならぬと草陰で腹を切ったという。
 一昨日、母成峠が破られたという知らせの後、若党に連れられ家を出る弟に、父そっくりの顔をした祖母が「さすけね」と力強くうなずいた。六歳の幼い弟は、母方の遠縁の家を頼ることになり、門を出てからも何度も何度も振り返りながら去って行った。
 当主を失い、戦うにはまだあまりに幼い唯一の男子をわかまつの外へ避難させた今、森名家に残っているのは病がちの祖母、母と幸子、あとは老僕や女中ばかりである。
「けんど……」
「森名家の者が慌てて駆けつけては笑われますよ」
 母の声は決して高くはなかったが、逆らうを許さぬ響きがあった。
「立派におつとめを果たした父上の顔に泥を塗るようなことはあってはなりません」
 母はめったに会津の言葉を使わない。かんぺきな会津婦人との誉れ高い母の、唯一の欠点である。幸子は物心ついたころから、父や祖母と同じように会津の言葉を話していたから、ひとり言葉を話す母のことが不思議ではあった。なにより、母にこのすっきりとした言葉で叱られると、ひときわこたえる。決して声を荒らげることはなかったが、厳格な祖母に雷を落とされるよりもよほど、言の刃はするどく胸に突き刺さるような気がした。
「はい、母上。申し訳ありません」
 幸子は恥じ入って顔を伏せた。知らず、母の言葉遣いがうつっている。母は満足げに微笑んだ。
「最後までしっかりむのですよ」
 その後は、静かに食事が続いた。障子の外で荒々しく鐘が鳴り響いているというのに、ここだけはまるで違う世界のようだった。
 母の言う通り、いつも以上によく嚙むことを心がけていると、ふしぎと心も凪いでくる。
 そうだ、ここから長いろうじよう戦が始まるのだ。この家で食事をとれるのも、これが最後かもしれない。幸子は心して、しっかりと味わって食べた。親しい友人たちはもう城に入っただろうかと気にかかったが、口に出すことはしなかった。
 食事が終わるころには、霧は冷たい雨に変わっていた。幸子は自室に戻り、念入りに身支度を調えた。いざという時は城にあがり、てる姫様をお助けせよと、父は言った。八歳の身ではできることもかぎられているだろうが、誠心誠意お仕えするつもりだった。
「幸子」
 音もなく、障子が開いた。雨と半鐘の音にまぎれて、足音が全く聞こえなかったので、幸子はぎょっとして振り向いた。そして、そこに立つ母の姿に声を失った。
「刻限です。こちらに着替えなさい」
 母が差しだしたのは、自身がまとうものと同じ、白装束だった。
「……母上」
 幸子は、震える声で母を呼ぶのが精一杯だった。白装束のせいか、母は生きた人間のように思えなかった。なにより、この香り。びやくだんにまじり、ほのかに血のにおいがする。
 おばあさまは。
 とっさに尋ねたが、驚いたことに全く声が出なかった。口の中が干上がり、のどははりついたように動かない。
「おばあ様とよく話し合って決めたことです」
 動けぬ娘を前にして、母は穏やかに言った。
「城には城下の者たちが殺到します。一人増えれば、そのぶん一人が飢えることとなりましょう。もし父上が戦えぬ状態ならば、足手まといになるよりは、会津武士の誇りを守り、この先祖伝来の土地を守って皆で自裁しようと決めておりました」
 装束こそ異様なれど、それをのぞけば母は全くいつも通りだった。口許にいた淡い笑みは、語る言葉とはあまりにそぐわず、幸子の混乱していた頭はかえってしんと冷えた。
 私は、悪い夢を見ているのだ。そう思った。
「父上がいらはんなくても、私たちも立派に戦えるのではないですか」
 幸子は母を見据えて言った。
「母上は薙刀なぎなたの名手でおざりやす。私もいくらかの心得はおざりやす。死ぬのはそれからでもよいのではないですか。幸子は武家の娘として、城を枕にみごと討ち死にしとうおざりやす」
 心臓が早鐘のようだった。母に口答えをするなど、いつ以来のことだろう。夢とはいえ、なかなかの勇気が要った。
 だが、どうしても言いたかった。死は怖くない。死を恐れるなど、会津の武家の女としてありえぬことだ。すでに自害の作法も知っている。時を迎えた際にし損じることのないよう、薙刀のけいを始めた時に繰り返し動作はたたきこまれている。扇を懐剣に見立てて、母がまず胸を突き、返す刀で首をすぱんと斬る様は舞のように美しく、見とれたものだ。あこがれて何度も練習し、母が満足げに頷いた時にはうれしかった。
 今こそ、あの成果を。しかも母と共に散ることができるのだ。そう思えば心も浮き立つが、その前にせめて一矢報いたい。幸子とて、薩長には腹の底から怒りを感じているのだ。一人でも、黄泉よみの道連れとしたい。彼らが地獄に落ちゆく様を、浄土へ行きながら笑ってやる。
「幸」
 母は不思議なものを見るように幾度か瞬きをした。目許と口許から、さざなみのように微笑みがひろがる。
「言うようになったこと」
 しつせきされるかと思いきや、母の声には喜色がにじんでいた。たちまち、幸子の心は弾んだ。
 母が微笑むところを見るのが、幸子はなにより好きだった。
 武家の妻のかがみ、会津の華。物心ついたころから、母への賛辞は常に耳にしてきた。しら百合ゆりのごときぼうにおっとりとした気性、しかし肝はそこらの男よりもよほど据わっている。江戸で生まれ育ち、教養高く、また武芸にも秀でた母は、幸子の目から見ても欠点らしきものが見つからなかった。この人の最初の子どもとして生まれたことを、幼いながらも何よりの誇りとしてきたのだ。
「幸子の心意気は立派なものです。父上もさぞお喜びになるでしょう。ですが、おばあ様は戦えません」
 華やいだ幸子の心が、たちまちしぼむ。
 昨年から寝込むようになった祖母は、今や人の手を借りねば起居もままならぬ状態だ。なんとか城まで運ぶことはできたとしても、足手まといとなることは明らかだった。森名の家名を何より重んじる祖母が、それを許すはずはない。
「……ばあさまはなじょしたのがし」
 さきほどからの予感が確信に変わるのを感じつつ、幸子はとうとういた。
「お見事でした」
 母の答えはよどみなかった。
 見事。祖母に、自らの胸を突く力など残っているはずがない。かすかな血臭を纏いつかせた、どこもかしこも白く輝くような母の姿を、幸子はこの時はじめて恐ろしく感じた。
「お城も、なかたけ殿がいれば問題ありません。妹のまさ殿も、ご母堂のこう様も、たいそうな女武者でいらっしゃいますからね」
「では……」
 つまりもう、父上が死んだ時から私はここで死ぬと決まっていたのですね。
 非難めいた言葉が口をつきかけ、幸子は唇を引き結んだ。
 今日の今日まで、母も祖母も、そんなことはおくびにも出さなかった。それがなぜかわかっている。幸子のためではない。一昨日家から出された虎之助のためだ。家族がここでみな自害すると知れば、あの子は出て行かないだろう。強引に連れ出させたとしても、耐えられないにちがいない。
 ならば私だって、よかったではないか。森名の血を継がねばならぬなら、長子の私こそ相応ふさわしい。まだ木刀もまともに握れぬ虎之助よりは戦えるし、森名家の一員としての覚悟もある。なのに、たまたま女に生まれたというだけで、ここで犬死しなければならないなんて。
 烈しい怒りが湧き上がる中、幸子ははっとした。
 今、自分はなにを考えた。犬死? まさか、そんなことはあるはずがない。これは、会津魂の昇華なのだ。国を思い親を思う心に、男女の差はない。
『大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例をもつて自らるべからず。し二心をいだかば、則ち我が子孫にあらず、面々決して従うべからず』
 会津御きん十五箇条、第一条。会津の魂は全てここに集約されている。
 この日のため、まさにここで果てて盾となり、城を、殿を守るために会津のさむらいはみな一心に生きてきたはずなのだ。それが犬死などであるはずがない。言い聞かせるように、幸子はつばを飲み込んだ。
「……では母上、この屋敷は、なじょなりますか。むくろを敵にさらすのですか」
 母は正しい。今まで一度も間違っていたことなどなかった。だからこれも、正しいに違いないのだ。
しようぞうに火を放ってもらいます。国難に殉じ、火を放つ家は多いでしょう。城を囲む炎は、薩長を阻む壁となります。私たちの、最後のつとめです」
 それを聞き、ようやく幸子もほっとした。一度息をつき、迷いない目で母を見た。
「わかりました。森名家の娘として、お役目みごと果たしてご覧にいれます」
「それでこそ森名の娘です。まことの武士の血が流れていることを、母は嬉しく思います」
 母の微笑みひとつで、不安はたちまち霧散する。おそらくここで抵抗でもすれば、祖母にしたように母に刺されて終わったのだろう。どんなことでも人より巧みにこなす母のことだ、万が一にも手違いがあろうはずがない。一刺しで心の臓をとらえてくれるはず。
 それはそれで甘美な終わりかたのような気がしたが、武士の娘として、そこまで母に甘えてはならない。
 母と並び、ただ会津の魂を胸に、誇らかに黄泉路へと旅立とう。
「では、さっさっと着替えます」
「手伝いましょう。万が一にも乱れがあってはいけません」
 母が幸子の帯に手をかけた時だった。
 突然、庭のほうから荒々しい足音が聞こえた。一瞬身構えたが、雨の中走ってきたのは老僕の庄三だった。
「なんですか庄三、ここにはしばらく近寄らぬよう言っていたはずです」
 母がりゆうを逆立てて縁側に出ると、庄三はびしょれになりながらも、懐から文を取りだした。
りがったなし、へえ、げんじょもこれを必ずお渡しするようにと言われまして」
「……なんです、これは」
 庄三の手から、母は気乗りしない様子で文を受け取った。雨が降っていなければ、受け取りすらしなかったかもしれない。
「わかりませんげんじょも、危急の知らせだとかで。ともかくお渡しせよと」
「ここに至って危急も何もあるまいに。いったい誰が」
 文句を言いつつも、母は文を開いた。その途端、顔色を変える。
 幸子の位置から、文はよく見えなかった。ただ、母の横顔がはっきりと強張ったのは見てとれた。
 母の目が、勢いよく字面を追っている。長い文ではない。最後まで読み終えると、母は勢いよく文を握りつぶした。
「これは、誰が」
 庄三をにらむ目はらんらんと光り、声は震えていた。
「へ、へえ。そういえば見かけぬ者でしたが……」
「ここは郭内ですよ。そんなことがありえるのですか」
「だ、だげんじょも、森名家のきよう様へとたしかに申したもので、ともかくお渡しせねばと」
 おのれの名を呼ばれた瞬間、母の表情が変わった。変化は目をみはるほど鮮やかだった。
 白い、血の気のない肌が、ぶわりと華やいだ。今から死に赴こうというのに、春の盛りの花のような顔で、薄く開いたあかい唇を震わせる。そこから何も言葉を紡がぬかわりに、言葉がしたためられた紙を強く強く握りしめていた。まるで手から文字をとりこもうとしているようだった。
 誰だ、これは。幸子は不安に駆られた。
 目の前にいるのは、母であって母でない。一瞬にして、何かちがうものに変わってしまった。それが何か、なぜそうなったのか、幸子には全くわからなかったが、ただ変化してしまったことだけは確信できた。
「母上」
 呼びかけると、母の細い肩が揺れた。こちらに向けられた黒い目には、戸惑いがあった。
「手伝ってくれっかし」
 じっと見据えて念を押すと、母の目にはっきりとした動揺が走った。
 幸子、と名を呼ばれた。最初はためらうように。二度目は、びるように。そして三度目は、その名が我が子のものだと確かめるように。
「幸子」
 四度呼ばれた時、幸子はようやく返事をした。
 母から動揺が消え、いつもの姿に戻りつつあったからだ。
「なんだん」
「あなたは……」
 母はそこで一度、口を閉ざした。迷うように視線を床に向け、それから意を決したように幸子を見据えた。
 その迷いのない視線を見て、幸子は悟った。
 ──ああ、母上は。
 この美しい人は、今この瞬間、はじめて私を「見た」のだ。

 第2回へつづく

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