「読書メーター」読みたい本ランキング単行本部門第1位!
月間(2019/10/18~2019/11/17)日間・週間(2019/10/31~2019/11/6)
いま最も注目を集める作家、須賀しのぶの最新作『荒城に白百合ありて』の
冒頭 80 ページを5日にわたってお届け!
序
半鐘が鳴ったのは、朝六ツ半時だった。
朝霧を切り裂く不吉な音に、
「昨日の
母は
政府軍が
けたたましい鐘の音に、幸子はすでに腰を浮かしていたが、母の横顔は常と変わらず人形のように美しい。幸子は、この母が慌てたところを一度も見たことがなかった。それでも、耳障りな半鐘の中、母が再び箸を手にとった時にはさすがに目を疑い、食事中は許しなく話してはならないという禁を破ってしまった。
「母上、早くあいばんしょ」
今朝もいつも通り、自分の
しかし今朝の祖母は
へとへとになり、いつもよりずっと遅い時間に母とともに朝餉をとることになったが、母は文句を言わなかった。祖母のもとに運んだ時にはふっくらとして
半鐘が鳴った以上、この味気ない食事も終わりだ。早く、早くお城へ。
が、
「さすけね」
父や祖母が頻繁に使う口癖だった。さすけね。心配ない。五月、
一昨日、母成峠が破られたという知らせの後、若党に連れられ家を出る弟に、父そっくりの顔をした祖母が「さすけね」と力強く
当主を失い、戦うにはまだあまりに幼い唯一の男子を
「けんど……」
「森名家の者が慌てて駆けつけては笑われますよ」
母の声は決して高くはなかったが、逆らうを許さぬ響きがあった。
「立派におつとめを果たした父上の顔に泥を塗るようなことはあってはなりません」
母はめったに会津の言葉を使わない。
「はい、母上。申し訳ありません」
幸子は恥じ入って顔を伏せた。知らず、母の言葉遣いがうつっている。母は満足げに微笑んだ。
「最後までしっかり
その後は、静かに食事が続いた。障子の外で荒々しく鐘が鳴り響いているというのに、ここだけはまるで違う世界のようだった。
母の言う通り、いつも以上によく嚙むことを心がけていると、ふしぎと心も凪いでくる。
そうだ、ここから長い
食事が終わるころには、霧は冷たい雨に変わっていた。幸子は自室に戻り、念入りに身支度を調えた。いざという時は城にあがり、
「幸子」
音もなく、障子が開いた。雨と半鐘の音にまぎれて、足音が全く聞こえなかったので、幸子はぎょっとして振り向いた。そして、そこに立つ母の姿に声を失った。
「刻限です。こちらに着替えなさい」
母が差しだしたのは、自身が
「……母上」
幸子は、震える声で母を呼ぶのが精一杯だった。白装束のせいか、母は生きた人間のように思えなかった。なにより、この香り。
おばあさまは。
とっさに尋ねたが、驚いたことに全く声が出なかった。口の中が干上がり、
「おばあ様とよく話し合って決めたことです」
動けぬ娘を前にして、母は穏やかに言った。
「城には城下の者たちが殺到します。一人増えれば、そのぶん一人が飢えることとなりましょう。もし父上が戦えぬ状態ならば、足手まといになるよりは、会津武士の誇りを守り、この先祖伝来の土地を守って皆で自裁しようと決めておりました」
装束こそ異様なれど、それをのぞけば母は全くいつも通りだった。口許に
私は、悪い夢を見ているのだ。そう思った。
「父上がいらはんなくても、私たちも立派に戦えるのではないですか」
幸子は母を見据えて言った。
「母上は
心臓が早鐘のようだった。母に口答えをするなど、いつ以来のことだろう。夢とはいえ、なかなかの勇気が要った。
だが、どうしても言いたかった。死は怖くない。死を恐れるなど、会津の武家の女としてありえぬことだ。すでに自害の作法も知っている。時を迎えた際にし損じることのないよう、薙刀の
今こそ、あの成果を。しかも母と共に散ることができるのだ。そう思えば心も浮き立つが、その前にせめて一矢報いたい。幸子とて、薩長には腹の底から怒りを感じているのだ。一人でも、
「幸」
母は不思議なものを見るように幾度か瞬きをした。目許と口許から、
「言うようになったこと」
母が微笑むところを見るのが、幸子はなにより好きだった。
武家の妻の
「幸子の心意気は立派なものです。父上もさぞお喜びになるでしょう。ですが、おばあ様は戦えません」
華やいだ幸子の心が、たちまち
昨年から寝込むようになった祖母は、今や人の手を借りねば起居もままならぬ状態だ。なんとか城まで運ぶことはできたとしても、足手まといとなることは明らかだった。森名の家名を何より重んじる祖母が、それを許すはずはない。
「……ばあさまはなじょしたのがし」
さきほどからの予感が確信に変わるのを感じつつ、幸子はとうとう
「お見事でした」
母の答えは
見事。祖母に、自らの胸を突く力など残っているはずがない。かすかな血臭を纏いつかせた、どこもかしこも白く輝くような母の姿を、幸子はこの時はじめて恐ろしく感じた。
「お城も、
「では……」
つまりもう、父上が死んだ時から私はここで死ぬと決まっていたのですね。
非難めいた言葉が口をつきかけ、幸子は唇を引き結んだ。
今日の今日まで、母も祖母も、そんなことはおくびにも出さなかった。それがなぜかわかっている。幸子のためではない。一昨日家から出された虎之助のためだ。家族がここでみな自害すると知れば、あの子は出て行かないだろう。強引に連れ出させたとしても、耐えられないにちがいない。
ならば私だって、よかったではないか。森名の血を継がねばならぬなら、長子の私こそ
烈しい怒りが湧き上がる中、幸子ははっとした。
今、自分はなにを考えた。犬死? まさか、そんなことはあるはずがない。これは、会津魂の昇華なのだ。国を思い親を思う心に、男女の差はない。
『大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を
会津御
この日のため、まさにここで果てて盾となり、城を、殿を守るために会津のさむらいはみな一心に生きてきたはずなのだ。それが犬死などであるはずがない。言い聞かせるように、幸子は
「……では母上、この屋敷は、なじょなりますか。
母は正しい。今まで一度も間違っていたことなどなかった。だからこれも、正しいに違いないのだ。
「
それを聞き、ようやく幸子もほっとした。一度息をつき、迷いない目で母を見た。
「わかりました。森名家の娘として、お役目みごと果たしてご覧にいれます」
「それでこそ森名の娘です。まことの武士の血が流れていることを、母は嬉しく思います」
母の微笑みひとつで、不安はたちまち霧散する。おそらくここで抵抗でもすれば、祖母にしたように母に刺されて終わったのだろう。どんなことでも人より巧みにこなす母のことだ、万が一にも手違いがあろうはずがない。一刺しで心の臓をとらえてくれるはず。
それはそれで甘美な終わりかたのような気がしたが、武士の娘として、そこまで母に甘えてはならない。
母と並び、ただ会津の魂を胸に、誇らかに黄泉路へと旅立とう。
「では、さっさっと着替えます」
「手伝いましょう。万が一にも乱れがあってはいけません」
母が幸子の帯に手をかけた時だった。
突然、庭のほうから荒々しい足音が聞こえた。一瞬身構えたが、雨の中走ってきたのは老僕の庄三だった。
「なんですか庄三、ここにはしばらく近寄らぬよう言っていたはずです」
母が
「
「……なんです、これは」
庄三の手から、母は気乗りしない様子で文を受け取った。雨が降っていなければ、受け取りすらしなかったかもしれない。
「わかりませんげんじょも、危急の知らせだとかで。ともかくお渡しせよと」
「ここに至って危急も何もあるまいに。いったい誰が」
文句を言いつつも、母は文を開いた。その途端、顔色を変える。
幸子の位置から、文はよく見えなかった。ただ、母の横顔がはっきりと強張ったのは見てとれた。
母の目が、勢いよく字面を追っている。長い文ではない。最後まで読み終えると、母は勢いよく文を握り
「これは、誰が」
庄三を
「へ、へえ。そういえば見かけぬ者でしたが……」
「ここは郭内ですよ。そんなことがありえるのですか」
「だ、だげんじょも、森名家の
おのれの名を呼ばれた瞬間、母の表情が変わった。変化は目を
白い、血の気のない肌が、ぶわりと華やいだ。今から死に赴こうというのに、春の盛りの花のような顔で、薄く開いた
誰だ、これは。幸子は不安に駆られた。
目の前にいるのは、母であって母でない。一瞬にして、何かちがうものに変わってしまった。それが何か、なぜそうなったのか、幸子には全くわからなかったが、ただ変化してしまったことだけは確信できた。
「母上」
呼びかけると、母の細い肩が揺れた。こちらに向けられた黒い目には、戸惑いがあった。
「手伝ってくれっかし」
じっと見据えて念を押すと、母の目にはっきりとした動揺が走った。
幸子、と名を呼ばれた。最初はためらうように。二度目は、
「幸子」
四度呼ばれた時、幸子はようやく返事をした。
母から動揺が消え、いつもの姿に戻りつつあったからだ。
「なんだん」
「あなたは……」
母はそこで一度、口を閉ざした。迷うように視線を床に向け、それから意を決したように幸子を見据えた。
その迷いのない視線を見て、幸子は悟った。
──ああ、母上は。
この美しい人は、今この瞬間、はじめて私を「見た」のだ。
〈第2回へつづく〉
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