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試し読み

角川文庫キャラクター小説大賞、選考委員絶賛の《大賞》作品! やさぐれ弁護士と天才少女が消えた絵画の謎を追う『海棠弁護士の事件記録』、特別試し読み

第5回を迎えた、角川文庫キャラクター小説大賞。「東京バンドワゴン」シリーズの小路幸也氏、「うちの執事が言うことには」シリーズの高里椎奈氏のお二人に選考いただいた作品が、いよいよ刊行となります。
絶賛を受けた《大賞》受賞作品『海棠弁護士の事件記録 消えた絵画と死者の声』は、3月24日発売。今回は特別に、試し読みを増量してお届けします。熱意を失ってしまった弁護士と、生意気な天才少女が追う事件の真相は――?

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 ◆ ◆ ◆

 応接室のソファに腰を落ち着け、ミルクティーでのどを潤してから、少年が語った事情とは以下のようなものだった。
 彼の名前はすぎうらりよう。十一歳。この近くのマンションで、共働きの両親との三人暮らし。父親は早くに両親を亡くしており、母親は実家と絶縁状態であるために、涼太は八歳になるまで祖父母というものを知らずに育った。しかし友人から「じいちゃんに釣りに連れて行ってもらった」「新作ゲームを買ってもらった」といった自慢話を聞くたびに、「じいちゃん」なるものにひそかなあこがれをつのらせていたのである。
 そんな涼太が初めて自分の祖父と対面したのは、八歳になって間もないころ、下校途中に見知らぬ若い女性から声をかけられたことがきっかけだった。
 女性の名前はまきはらはる。涼太の母親の従妹いとこに当たり、今日は自分の伯父おじ、すなわち涼太の祖父である槙原へいぞうに頼まれて涼太に会いに来たのだと、きびきびした調子で自己紹介した。
 春香は物静かな涼太の母親とは正反対の勝ち気な印象の女性だったが、言われてみればどことなく目鼻立ちが似ているような気がしないでもない。
「良かったら今から私と一緒に、おじいちゃんちに行ってみない? 君が行ったらおじいちゃんすっごく喜ぶよ」
 春香からそうもちかけられて、涼太は即座に飛びついた。むろん「知らない人の車に乗ってはいけません」との教えは家や学校で散々聞かされてはいたが、「じいちゃんに会える!」という興奮を前に、頭から飛んでいたのである。
 今から思えば、まことに軽率極まりない。
 仮に春香が誘拐犯か変質者のたぐいであったなら、その後の展開はまったく違ったものになっていたことだろう。しかし涼太にとって幸いなことに、春香の素性に偽りはなく、彼女はきちんと祖父の待つ屋敷へと送り届けてくれた。
 とはいえ、全てが涼太の期待通りに運んだかといえばそうでもない。待っていたのは涼太の抱く「じいちゃん」像とは似ても似つかぬ、いかめしいわしばなの男性だった。

「お前が涼太か」
 祖父はひじけ椅子に腰かけたまま、無表情で問いかけた。その鋭い眼光にはすでに五、六人殺していそうななんとも言えない迫力があり、涼太は反射的に「違います」と帰りたくなるのをこらえ、「はい」と小さく頷いた。
 春香は屋敷に向かう車中で「おじいちゃんは色々事業をやってたんだけど、今は引退しているの」と説明していたが、一体なんの事業をしていたのだろうか。
「今はなん年生だ」
「三年生」
「学校の成績はどうだ」
「ええと、まんなかくらい」
「なにが得意だ」
「算数と理科」
「体育はどうだ」
「この前五十メートル走で──」
 尋問のようなやり取りがいくらか続いたあと、やがて質問が尽きたのか、ふたりの間に沈黙が降りた。
 もう祖父の用事は済んだのだろうか。だとしたら、自分は帰るべきなのか。しかし春香は既にこの場におらず、自分ひとりでどう帰っていいのか分からない。
 泣きそうな顔で辺りを見回す涼太をなんと思ったか、祖父は「家の中を見て回るか」と提案してきた。
 この状況で嫌だと言えるはずもない。涼太がおっかなびっくり応じると、祖父は「じゃあついて来なさい」とそっけない口調で言い捨てて、少し左足を引きずりながら先に立って歩き始めた。涼太はこの前習った『ドナドナ』を思い出しながら祖父のあとに続いたものの、次から次へと扉を開けているうちに、次第に緊張は解けていき、なにやら楽しくなってきた。
 祖父の屋敷は2LDKの自宅とはまるで異なる古くて大きな洋館であり、思いがけない小部屋や戸棚がたくさんあって、中には風変わりな絵や珍しい品々が所狭しとつめ込まれている。そのひとつひとつについて、祖父は淡々と、しかし少しも面倒がらずに涼太に説明してくれた。
「どうだ。この家は」
 一階と二階をひと通り見て回った後、祖父はぼそりと問いかけた。
「大きいね、それに絵がいっぱいある」
「絵のしゆうしゆうはわしの唯一の道楽だからな。うちには良い絵がたくさんあるから、ときどき美術館のやつが頭を下げて借りに来るんだ」
 そう言う祖父は相変わらずの無表情だったが、なにやら少し得意げに見えた。
 やがてふたりは三階にある祖父の寝室へとたどり着いた。そこはどっしりした家具にふかふかのじゆうたんがあるたいそう立派な部屋だったが、中でも涼太の目を引いたのは、ベッドの枕元にかけられた一枚の絵だった。
 それは柔らかな色合いの日本画で、一匹の黒猫が庭先で丸くなっている様が、優しい筆遣いで描かれていた。

「……また猫か」
「え?」
 きょとんとした涼太に、海棠は「いやなんでもない」と手を振った。
「海棠さん、話の腰を折らないでください」
 瑞葉がぴしりと言うと、涼太に対して「それで、その絵がどうかしたんですか?」と熱心に先をうながした。
「うん、その絵が問題なんだよ」
 涼太は話を続けた。

 涼太が思わず見入っていると、祖父が「気に入ったのか」と後ろから声をかけてきた。
「この猫、うちのクロに似てる。去年ロウスイで死んじゃったけど」
「老衰か。可愛がってたのか?」
「うん。毎日一緒の布団で寝てた」
「そうか……」
 祖父はしばらくなにやら考え込んでいたが、やがて意を決したように口を開いた。
「おい涼太」
「なに?」
「これはわしの一番大切な絵だが、わしが死んだらお前にやる」
「本当?」
「ああ約束だ」
 祖父は書き物机からルーズリーフを一枚とると、万年筆でなにやらしたためて涼太に渡した。そこには「私が死んだらこの家の黒猫を孫の杉浦涼太に譲る。槙原平蔵」と記されていた。
 涼太はうれしさに顔を紅潮させた。
 じいちゃんからゲームをもらったと自慢してきた友達に「俺はじいちゃんから絵をもらう約束をした」と言えるのが嬉しかったし、大好きだったクロによく似た絵をいつか自分のものにできるのが嬉しかったし、なによりも祖父が一番大切な絵を自分にくれること、それ自体が素直に嬉しかった。
「ありがとうじいちゃん」
「うん」
「俺もう家に帰らないと。遅くなると母さんが心配するし」
「そうか。良かったらまた来なさい。わしはいつでもこの家にいるから」
「うん。絶対来るよ」
「また春香を迎えにやろう」
「駅からの地図を描いてくれたら、次はひとりで電車に乗ってくるよ。俺もう三年生だもん」
 涼太が言うと、祖父は骨ばった手で涼太の頭をわしわしとでた。

 しかしながら、再会の約束が果たされることはついになかった。
 二週間後、地図を片手に訪れた涼太を待っていたのは、家財道具が運び出された屋敷の変わり果てた有り様だった。
 一体なにがあったのか。祖父はどこに行ったのか。
 近所一帯を走り回って、やっと見つけた公衆電話から祖父にかけるもつながらず、涼太はこの前教えてもらった春香の番号に電話をかけた。そして四コール目に出た春香から、まるで想像だにしなかった恐ろしい事実を聞かされた。
 祖父は涼太と会った三日後に、足をすべらせて階段から落ち、帰らぬ人となったという。一緒にいた春香が近所の主治医を呼びに行ったが手遅れで、既に葬儀も終わり、絵のコレクションは故人の遺言で地元の美術館に、絵画以外の財産も全てしかるべきところに寄付されたとのことだった。
「涼太くんのおじいちゃんは足が悪かったから、いつも階段では危ないなって思ってたのよ。寝室を一階に移した方がいいって、何度か伝えたんだけど」と春香は沈痛な声で言った。
 涼太の母親には一応連絡が行ったはずだが、葬儀には参列しなかったし、財産の処分についても特に異を唱えることはなかったらしい。
 涼太の記憶によれば、その日も母はいつも通りにふるまっていて、特に悲しむ様子も見せなかったし、もちろん涼太に対してなにも伝えることはなかった。母と祖父との断絶の大きさを改めて思い知らされて、涼太は二重にせんりつした。

「あれ、でもお母さまには遺留分がありますよね?」
 口を挟んだのは瑞葉だった。自分で話の腰を折るなと言っておきながらよくもまあ。対する涼太は「いりゅうぶん?」と首をかしげている。
「子供にはなにも残さないという遺言があっても、その内の何割かは遺言の内容に関わりなく受け取ることができるんですよ。──ですよね?」
「良く知ってるな」
「ミステリファンの教養ですよ。なんといっても醜い遺産争いはミステリの華ですから」
 誇らしげに言うようなことでもない。
「確かにお前の言う通り、子供や配偶者といった特定の法定相続人は遺留分として相続財産の一定割合を受け取ることが認められている。ただし被相続人が死んだら自動的に転がり込んでくるんじゃなくて、受け取る側が遺留分侵害額請求権を行使する必要があるんだ。つまり故人の遺志を尊重するか否かを相続人サイドに選ばせるシステムなんだよ。涼太のお母さんは権利を行使せずにおじいさんの遺志を尊重したんだろう」
 あるいは父親の物なんてなにも欲しくはなかったか。
「分かりました。それじゃ涼太くん、続けてください」
 瑞葉は矢車草のティーカップを持ち上げながら、悪びれもせずにうながした。

 しばらくの間、涼太は口もきけずにボックス内で立ち尽くしていたが、やがて我に返って、祖父と交わしたもうひとつの約束、すなわち黒猫の絵のことを思い出した。今となってはあれが自分と祖父とを結ぶほとんど唯一のきずなであり、自分と祖父が会ったという唯一のあかしでもあった。
 涼太は受話器を握り締め、必死な思いで問いかけた。
「ねえ春香さん、黒猫の絵は? 寝室にかかってた黒猫の絵も美術館に行っちゃったの? あれは俺にくれるってじいちゃんが約束してたんだよ」
 しばしの沈黙ののち、返ってきたのは「悪いけど、黒猫の絵なんて知らないわ」と困惑したような声だった。
「私は黒猫の描かれた絵なんて、知らないし見たこともない。遺言のリストの中にも、黒猫の絵なんてなかったはずよ」
「そんな……だってあったんだよ。じいちゃんの寝室のベッドの上だよ。大きな黒猫の絵だよ。覚えてないの?」
「ごめんね、本当に知らないの」
 その後は涼太がなにを言っても、春香は「なにも知らないし分からない」とただいたずらに繰り返すのみ。しまいには、「悪いけど、今はちょっと忙しいから。ごめんね、涼太くん」と一方的に通話をうち切ってしまった。
 むなしく響く発信音の中、ただ春香の最後の言葉が、涼太の耳の中でこだましていた。
 ごめんね、涼太くん

 それから三年が経過した。涼太は六年生になっていたが、祖父と黒猫の絵のことは心の隅にずっと引っかかったままだった。
 春香に誘われて祖父の屋敷に行ったこと。初めて会った祖父を怖い人だと思ったこと。あれこれ質問されたこと。一緒に屋敷を見て回ったこと。黒猫の絵をもらう約束をしたこと。頭を撫でてくれた骨ばった手も、「また来なさい」という優しい声も、なにもかも、手に取るように思い出せる。
 わしはいつでもこの家にいるから──そう言っていた祖父はもういない。
 天国か地獄か知らないが、とにかく「そういうところ」に行ってしまった。
 では黒猫の絵は?
 あの絵は一体どこに行ったのだろうか。
 そして今からちょうど十日前のこと。今度は見知らぬ若い男性が、下校途中の涼太に声をかけてきた。彼は槙原あきひこと名乗り、妹の春香が入院中で、死ぬ前にひと目涼太に会いたがっているから一緒に来て欲しいともちかけた。
「春香さんて……あの春香さんが?」
 あのきびきびした女性がそんなことになっていたのは驚きだったが、それにも増して意外だったのは、彼女が自分に会いたがっているという事実である。互いに懐かしがるような間柄でもないのに、今さらなんの用だろう。もしかして、黒猫の行方が分かったのだろうか。
 涼太は期待と不安に胸をざわめかせながら春香の病室を訪れた。
「……来てくれてありがとう」
 ベッドに横たわる春香は見る影もなく病み衰えており、秋彦の「死ぬ前に」という言葉が誇張でもなんでもないことを如実に物語っていた。
「別にいいよ。今日は塾もなかったし」
 涼太がぼそぼそと答えると、春香はかすかにうなずいて兄の方に視線を向けた。
「……それじゃ兄さん、涼太くんと大事な話があるから、少し席を外してくれる?」
「なんだよ。俺がいたらまずいのか?」
「プライベートなことだから……」
「ふうん、まあいいけど。それじゃ俺は──」
「プライベートなことってなに? 黒猫がどこにあるのか分かったんじゃないの?」
 涼太が待ちきれずに口を挟んだ。
「黒猫?」
 聞き返したのは槙原秋彦の方だった。
「じいちゃんの部屋にあった黒猫の絵だよ。じいちゃんが俺にくれるって約束してたんだけど、なくなっちゃって」
伯父おじさんはそんな約束してたのか……」
「うん。ねえ春香さん、黒猫の絵が見つかったんじゃないの?」
 春香はこわった表情でしばらく口を閉ざしていたが、やがて観念したように涼太を見据え、彼が想像だにしなかった衝撃の事実を口にした。
「涼太くん、今まで噓をついててごめんなさい。私、本当は黒猫の絵のこと知ってたの。伯父さんの部屋に飾ってあるのを何度も見たことがあるわ。あの絵は秋彦兄さんが盗んで、どこかに隠し持ってるの。秋彦兄さんは窃盗犯なのよ。死ぬ前に、それを貴方あなたに伝えたかった」
 春香はひと息に言い終えると、そこで精根尽き果てたように、ぐったりと目を閉じてしまった。
 一体なにを言っているのか。
 今言ったことは本当なのか。
 問いただそうとしたせつ、ぐいと肩をつかまれた。見上げると、秋彦が奇妙な表情で見下ろしている。
「……涼太くん、そろそろ帰るだろ? ほら、あんまり長居したらこいつの身体に障るしさ」
 優しげだが有無を言わせぬその調子に、涼太は頷くより他になかった。
 帰りの車中で、秋彦はひどくじようぜつだった。
 いわく、春香の言ったことは全てでたらめだ。自分は黒猫の絵なんて見たことがないし、もちろん盗んでもいない。伯父は足が悪かったため生前は常に家にいたのだし、死後は医者やら葬儀関係者やらが屋敷に出入りしていたのだから、そもそも盗む機会がない。春香が涼太に会いたいと言うから、わざわざ連れに行ったのに、まさかこんな言いがかりをつけられるとは思わなかった。長患いで頭がおかしくなっているのではないか、うんぬん
 焦ったように延々としやべりつづける秋彦の声を聞きながら、杉浦涼太は心の中で確信していた。この男が祖父の絵を盗んだのだと。

「盗む機会は、ありますね」
 涼太が話し終わった後、瑞葉はさらりとそう結論付けた。
「おじい様が事故に遭ったとき、春香さんは主治医の先生を呼びに行った。つまりその間家を空けたわけですよね? ならその間に絵を盗み出すのは簡単です。おそらくおじい様が事故に遭ったとき、春香さんだけではなく、秋彦さんもその場にいたんじゃないでしょうか。ところが春香さんがお医者さまと共に戻ってみたら、秋彦さんはその場におらず、黒猫の絵も消えていた。そこで春香さんは秋彦さんが盗んだと確信したんでしょう。それを今までずっと黙っていたのは、実のお兄さんの罪を暴き立てることに抵抗があったから。今になって打ち明けたのは、自らの死を目前にして、秘密を墓場まで持って行くことに耐え切れなくなったからではないでしょうか」
「そうだ、きっとそうだよ! 警察に行っても全然相手にしてくれなかったけど、やっぱりあいつが盗んだんだよ」
 悔しそうに言う涼太に、瑞葉は「警察は頭が固いですからね」と慰めた。
「それにしても、黒猫の絵ですか。絵のしゆうしゆうだったおじい様が最も大事にしていたのは、一体どんな作品なのか、考えるだけでもちょっとわくわくしてきますね。猫を描いた日本画家といえば、たけうちせいほうはやぎよしゆうかわなべきようさいくまがいもりかずばやしきよちかといくらでも思いつきますけど、黒猫といえばやはり真っ先に思い浮かぶのはひししゆんそうですよねえ。海棠さんも重要文化財の『黒き猫』くらいはご存じでしょう?」
「そりゃ知ってるけど、黒猫を描いたことがあるからその黒猫も春草作ってのはさすがに安易すぎるだろ」
「分かってませんねえ。あの『黒き猫』は文展で発表されるや大評判になって、春草のもとには黒猫の注文が全国から相次いだんですよ。そのせいもあって、春草はあの他にも黒猫の絵を何点ものこしているんです。すなわち世に知られざる黒猫がもう一匹くらいいたところで不思議はないというわけです。涼太くん、おじい様にもらったメモはまだちゃんと持ってるんですよね?」
「もちろん。ほら、これがさっき言ってたやつだよ」
 涼太は折りたたんだルーズリーフを取り出して、ふたりに向かって差し出した。
 海棠が受け取って広げてみると、そこには「私が死んだらこの家の黒猫を孫の杉浦涼太に譲る。槙原平蔵」の一文が、右肩上がりの角ばった字──若干乱暴だが明らかに大人の筆跡──で記されていた。
「これでじいちゃんの絵を取り戻せる? 法律ではその辺どうなるの?」
「お前のじいさんが自分が死んだら絵をやると言って、お前はそれを承諾した。その時点で死因贈与契約が成立しているから、じいさんが亡くなった時点で絵の所有権はお前に移る。だからその絵を秋彦が持っているなら、お前は秋彦に対して所有権に基づく目的物返還訴訟を提起できる。ざっくり言うと、お前は絵の持ち主だから、槙原秋彦に対して自分の絵を返せって言うことができる」
「つまり取り戻せるってこと?」
「その結論を出す前に聞きたいんだが、槙原春香は今どうしてるんだ?」
「春香さんは……俺が帰ったすぐあとに死んだんだって」
 さもありなん。彼の答えは半ば予期したものだった。
 涼太が入院中の春香を見舞ったのが十日前。春香が元気でいるのなら、いや少なくとも命があるのなら、涼太は十日の間に再び病室を訪れて、詳細な説明を求めるくらいはしたはずだ。なのに涼太の話があそこで終わっているのは、新たな情報を得ることが不可能だったからに相違ない。
「槙原春香の告白は、お前と秋彦以外に誰か聞いているのか? 例えば病院の看護師とか」
「ううん、あのとき病室にいたのは俺と秋彦さんだけだった」
「それじゃ、取り戻すのは不可能だな」
 海棠はあっさり言い切った。
「冷たすぎませんか海棠さん」
「いや常識で考えろよ。相手が目的物を持ってるかどうかって以前に、そもそも目的物が存在するかどうかすら不明なんだぞ? じいさんのくれた紙切れじゃ黒猫がなんのことかも分からないしな」
「俺が噓ついてるって言ってんの?」
「裁判で立証できないって言ってんだ」
 海棠自身の率直な印象を言えば、杉浦涼太はおそらく噓をついていない。話の筋は通っているし、これといった矛盾もない。子供が単なる悪戯いたずらのためにでっちあげたにしては、いくらなんでも手が込み過ぎている。おそらく彼の言う通りのことが、実際にあったに違いない。槙原平蔵としてはいずれちゃんとした契約書を作るなり遺言を書き換えるなりするつもりだったのが、実行する前に不慮の死を遂げたために、あんないい加減な代物が残されることになったのだろう。
 とはいえ、それはあくまで法廷外における海棠個人の主観に過ぎない。
 民事訴訟で原告が請求認容判決を勝ち取るためには、「通常人なら疑いを差しはさまない程度」の高度な証明を必要とする。すなわち杉浦涼太が裁判で黒猫の絵を取り戻すためには、槙原平蔵がかつて黒猫の絵を所有していた事実、それが死因贈与によって杉浦涼太の所有に帰した事実、にもかかわらず現在槙原秋彦が占有している事実などを主張立証し、裁判官に「まあどっちかといえば涼太の方が信用できるかな」程度ではなく(それだと真偽不明で棄却される)、「涼太の方が正しいに決まってるだろ。常識的に考えて」というレベルの確信を持ってもらわねばならないのである。
 物証が黒猫を譲るというルーズリーフ一枚、人証が杉浦涼太本人しかいないとあっては、とてもじゃないが裁判官を納得させられるとは考えられない。これは完全に負け筋だ。
「それは現時点で訴えた場合の話でしょう? これから調査を進めていけば、色々と新たな証言が得られる可能性だってありますよ」
「そりゃ可能性はゼロではないけどな」
「ならばやってみてはいかがでしょう。始める前からあきらめてしまうのはいかがなものかと思います」
「そうだよ弁護士さん。とにかくやれるだけやってみてよ」
 涼太が我が意を得たりと同調した。
 彼の目には、瑞葉が自分の味方をしてくれる親切なお姉さんに映っているのだろう。しかしけてもいいが、瑞葉の発言は涼太のことを思いやってのものではない。ただ単に事態を面白がっているだけである。むしろ無謀な挑戦を止めようとする自分の方がよほど親切だ。
 海棠は厄介な流れを断ち切るべく、意地悪な質問を投げかけた。
「いつの間にか正式依頼みたいになってるけど、お前、親の許可もらってんの?」
「じいちゃんから絵をもらったのは俺だよ。親は関係ない」
「大ありだ。子供は自分で裁判起こせないんだよ。分かったら親の許可もらって出直して来い」
「せっかちですねぇ。裁判を起こすのは調査したあとの話でしょう? まずはひと通り調査して、それで裁判で勝てそうだと分かったら、その時点でご両親を説得すればいい話じゃないですか」
「それにしたって着手金がいるんだよ」
「着手金っていくら?」
 海棠が規定料金を告げると、涼太はそのまま黙り込んだ。
 まあ当然の反応だろう。海棠法律事務所の着手金は相場からするとかなり安い方だが、それにしたって小学生ごときにおいそれと払える額ではない。海棠からすれば、そんなことは最初から分かりきっていたことである。
 事務所の法律相談は通常仕事の前段階として行うものだが、今回の件に限っては、海棠はあくまでボランティアで良い子の法律相談を開いていただけで、最初から仕事につなげる気なぞなかった。来るもの拒まずの経営方針ではあるものの、さすがに小学生は問題外だ。
 杉浦涼太に関していえば、こうして事案に耳を傾け、「諦めろ」という法的助言もしてやった。けして子供好きではない海棠としては、それだけでも破格の対応だといえよう。
「じゃ、そういうことだから。もううちの呼び鈴鳴らすなよ」
 海棠の言葉にうながされ、涼太はのろのろと立ち上がった。そしてドアのところで一度こちらを振り返ってから、肩を落として法律事務所を出て行った。
「行っちゃいましたね」
「ああ、これで一件落着だな」
 海棠は立ち上がって大きく伸びをした。
 妙なことで時間を使ってしまったが、これでもう呼び鈴に煩わされずに済むと思えば、それなりに有意義なひとときだったとも言える。隣で瑞葉が「あーあ、可哀想に」「法と正義はどこに行ったのでしょう」などとわざとらしく嘆いているが、これっぽっちも気にならない。
 助けを求める人々の声に奮起して、ヒーロー気取りで力を貸すのはもうたくさんだ。
 刑事弁護でいきなりきつい洗礼を受けて、大手事務所を辞めたところまではまだしも熱意を保っていたが、それからさらに色々あって、とあるおぞましい事件に関わったことで、もう完全に冷め果てた。
 この数年間で得られた教訓はひとつ。
 弁護士稼業を長く続けるつもりなら、依頼者には深入りするな。線を引け。なにがあろうと他人の事件であることを常に肝に銘じるべし。
(そういえば、晩飯食いに行くところだったんだよな)
 息抜きに外で夕食を取るつもりだったが、帰るのが遅くなりそうだし、今日はもう買い置きのカロリーメイトでもかじりながら仕事の続きをやることにしよう。とにかくあの書面だけはなんとしても今日中に仕上げておかないと──などと考えているうちに、海棠の頭から杉浦涼太のことなどれいさっぱり消えせていた。

(このつづきは本書でお楽しみください)


雨宮周『海棠弁護士の事件記録 消えた絵画と死者の声』


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