天命の巫女は紫雲に輝く
角川文庫キャラクター小説大賞〈優秀賞〉受賞作『天命の巫女は紫雲に輝く 彩蓮景国記』試し読み!
◎第4回角川文庫キャラクター小説大賞《優秀賞》受賞作!
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小路幸也氏、高里椎奈氏が選考委員を務める角川文庫キャラクター小説大賞。
第4回の受賞作の刊行を記念した試し読み第1弾では、その世界観造形が選考委員から絶賛を受けた、大塚已愛さんの『ネガレアリテの悪魔』をお届けしました。
第2弾では、〈優秀賞〉を受賞した朝田小夏さんの『天命の巫女は紫雲に輝く 彩蓮景国記』をお送りします。
「巫女×王宮×ラブ」の大本命・中華ファンタジーに、是非ご注目ください!
第一章 蠱毒と王座の争い
序
夜陰に紛れて一人の男が雪の残る大路を急いでいた。笠を被り、短剣を帯び、うつむき加減で歩く。粗末な黒衣をまとってはいるが、髻を留めている簪は銀である。
年のころは三十。
背丈は高く武術の心得はないのだろう、怯えたようにしきりに左右を確かめながら上ずった足取りで月光の陰を行く。
そこに都を守る兵士が数人、戈を手にして見回っているのを見つけると男は闇を縫うように路地を曲がった。ちょうど月が雲から半輪を現したので、男の姿がわずかに闇から浮かび上がった。髭のない純朴そうな男である。帯から垂れる宦官の身分を示す印綬(身分証)が歩く度に揺れて見え隠れする。
こんな夜中に出歩くような度胸などなさそうだが、道をゆく足取りに迷いはない。男は兵士たちがいなくなったのを確認すると、寒さに曇った息を吐き、暑くもないのに額から汗の粒がつたうのをしきりに手巾で拭いた。その時、背中に気配を感じ、はたと足を止めてそっと振り返った。
そこにあったのは──黒い靄である。
真っ黒な靄が地面を蠢き、土壁をつたって近づいてくる。しかし、よく見ればそれはただの靄ではないようで、時に一つの塊となり、時に煙のように消えながら、音もなく足元に忍び寄ってくる。男は一瞬にして蒼白となった。
──まずい。
じりじりと近づいてくる黒い靄。
意識を集中させると、震える手で短剣を抜いた。しかしいくらそれを振り回したところで空を切るばかりでなんの効果もない。男は動きを止めた。動けば動くほど、この黒い靄は活発になるのに気づいたからだ。瞳だけが忙しく左右を窺い、靄の次の動きを読もうと忙しい。
──このままでは喰われる!
靄は足元にまで及んだ。男はとっさに身を翻すと全力で走り出したが、黒い塊は彼を追いかけてきたかと思うと、音も立てずに一気にその脚に食らいついた。そして一瞬にして男の半身を覆い尽くす。
悲鳴ともつかぬ声が夜の闇を裂いた。
1
死体が上がったとの報告が貞家にもたらされた。
しかも宦官のものだという。
霧のかかる朝方、明河の黄色い水にぷかぷかと浮き上がっているのを漁師が見つけて棹でつついて岸に上げたらしい。河辺に寝かされたままの遺体の損傷は激しく、異臭を放っている。しかも下半身がない。何かに喰われたように肉と皮が強引に引きちぎられている無残な死体だった。
「まったくとんだことを命じられたわ」
金糸の獣文を襟にほどこした白衣姿の小柄な少女が、死体を前に口を袖で覆いながら言った。
彼女の名は貞彩蓮。
ここ景国の神権を握る覡一族、貞家の一人娘であるが、霊力は未熟な十七歳。
黒髪に縁取られた白い顔に賢そうな瞳、頰紅を差したわけでもないのに赤い頰が愛らしく、母親を早く亡くしたせいもあり、一族の人間には可愛がられているけれど、半人前だからと与えられる仕事はいつも雑用ばかり。
今日も覡の長、太祝である祖父、貞白に朝早くに呼ばれたかと思うと、「怪しげな死体が河で上がったそうだから見てまいれ」と言われてここにいる。
彩蓮は膨れ上がった死体に眉を少し歪め、何も言わずに踵を返した。紅玉の耳飾りが歩く度に左右に揺れる。
「死体は何かに食べられているわ」
「この傷だと獣か大魚でしょうか」
死体の骨を検めていた髭面の大男、皇甫珪が言う。
「そうかも。でも嫌な気が死体から漂っている。蠱かもしれない」
蠱とは、蛇などを瓶に入れ共食いさせて、その生き残ったものからも作ることができる、人の恨みや悲しみが「物象」となったもののことで、元来、自然界にも存在する下等な動物や虫の霊物である。人智を超えた存在である霊物には形のあるものと、幽霊のような形のないものがあるが、蠱は前者で、肉食で獰猛なわりに知能が低いので呪者が操りやすく、非常に危険である。
「蠱を使った呪術を総じて蠱術と呼ぶんだけれど、操るには高度な能力が必要とされるわ」
「そんな恐ろしい術が巷で使われるなど怖い世の中になったものですなぁ」
彩蓮の後ろにいた皇甫珪が濡れた手を拭きながら立ち上がった。
「これは思っていたよりも大きな事件になりそうね」
「義父上に応援を頼まないといけませんな」
皇甫珪は、彩蓮の義兄である。もと禁軍武官だったが仕事で問題を起こしてやめさせられ、今は彩蓮の父の妾となった母親を頼って貞家に雇われている。彩蓮の目付け兼、護衛である。頭の切れもよく未来の貞家の長の側近にはぴったりの男だが、三十路独身元武官。最近、汗臭さと小うるささが増してきており、若い彩蓮には鬱陶しがられている。
「それにしてもどうして宦官の死体だと分かったの? 上半身だけでは分からないわ」
答える代わりに皇甫珪が何かを彩蓮に投げた。
「これがあの死体の腰で見つかったのです」
それは木でできた印綬で、張賢とある。
所属は陽明殿。あわせて指に高価な翡翠の指輪があったらしい。
彩蓮はこめかみを押さえた。もし、宮殿に関わりのあることならば、それはここ数年ほどの後嗣争いが原因の可能性がある。やっかいなことに巻き込まれてしまったことになる。
「とりあえず、この男のことを調べて。宦官が蠱術によって殺されたとすれば、何らかの陰謀が絡んでいるかもしれない。ただし、まだ物取りや、怪奇な殺人事件の可能性も捨てたくはないわ」
「分かりました。すぐに配下に命じましょう」
「あとは、早く死体を片付けなくてはね」
祖父の貞白からは死体を見に行くように命じられたが、それは実際に『見る』だけを意味しない。問題を上手く隠して穏便に済ますように言いつけられたのである。
漁師他、その場にいた者を集めて、彩蓮は金を配り、この地を速やかに立ち去り、三年ほど離れるように命じた。もちろん、皇甫珪は、口外すればただではおかないとつけ加えるのを忘れなかった。蠱術が使われたなどと噂になれば、民は動揺し、貞家やひいては王家の威厳が損なわれるからである。
「分かったならこのことを黙っていなさい」
彩蓮はそこまでの仕事を終えると、弔いの儀を済ませた死体が、荷車に乗せられ貞家に引き取られていくのを眺めていた。
──一仕事これで終わり。
すらりとした手足を伸ばして、大きく息を吸うとゆっくりと吐いた。美しい河の水は、澄んでこそいないが、その風は、死体を見た後の嫌な気分を払拭してくれる。
彩蓮は大河を見渡せる大岩の上に座った。
そして一緒に来た神官たちが河を浄める神事を行っているのをぼんやりと見つめる。白衣の男女が獣面を被って酔ったように踊り、神を降ろした若い巫女が、中央で白目を剝いて体を揺らしていた。住民らは手を合わせて河の神に穢の許しを乞いながら太鼓を叩く。
こういう儀式は貞家の直系として彩蓮が率先してやるべきことだが、今日はそんな気分ではなかった。
というのも、一族のほかの女たちは着飾って宮廷の儀式へと行っているからだ。片や宦官の腐った死体の始末である。がっかりするのは当然だった。汚くて地味な仕事ばかりが回ってくる。彩蓮は細い指先で恨の文字を書いてすぐに足で消した。人を妬む気持ちはよくない。巫である前に性格として彩蓮はそう思っていた。
「何かが近づいてきますね」
ずっと黙って御神酒を飲んでいた皇甫珪が、西の方を指差した。人の群れが、川伝いの道をこちらに近づいて来ているのである。
旗は赤。景国の軍旗の色である。背の低い彩蓮は大岩の上に立ち上がると、遠くに霞む軍列を額に手を当てて見やった。
「異民族の胡国を討伐に行った兵が帰国したようです」
皇甫珪が明るい顔で彩蓮を見上げる。
「もう帰って来たの? 出兵してまだ二年じゃない。噂では、胡人は勇猛であと何年もかかるって聞いていたのに」
「俺もずっと先かと思っていましたが、討伐が早く片付いて帰国したのでしょう」
軍列は規則正しい足音を立てていた。子供らが邑から集まってきて、畝を走り抜けて手を振り、女たちが兵士に食べ物を差し入れる。
彩蓮はその中でひときわ美しい黒馬に乗った鎧姿の男に目をとめた。
まだ二十代半ばの銀髪の男で、わずかに日焼けしているが、品のいい面長で秀麗な顔立ちをしている。きりりとした眉が男らしく、その相は極めていいと言っていい。しかし、彩蓮は影を感じた。深い影だ。日光が眩しくて急に立ちくらみしてしまうような感覚に似ている。冷たい彼の灰色の瞳がそうさせるのかもしれない。
「彩蓮さま? どうかされましたか」
気を失いかけた彩蓮に一番に声を掛けたのは皇甫珪だったが、一番にその異変に気づいたのは彼女の横を通り過ぎていた銀髪の男だった。彼はさっと馬から飛び降りると、岩の上から崩れ落ちそうになった彩蓮を、すんでのところで革の鎧をつけた胸の中に抱き止めた。
「大丈夫か」
瞳と瞳がぶつかって、彩蓮は大きな目を見開いた。自分の顔が彼の瞳に映り、彼もまた近すぎる距離に驚いたのか、わずかに口を開ける。その健康そうな白い歯を覆う整った唇が、何か言いかけたけれど、彼は言葉を飲み、彩蓮は彼の神秘的な顔立ちに見惚れた。
しかしそれは瞬きほどの時間のこと。
すぐに眩しさと暗闇がいっぺんに彼女を覆い、目をつぶれば、闇の深層に足が引っ張られる。あまりの恐ろしさに彩蓮は思わず男の厚い胸板を突き飛ばそうとした。
「ご無礼をいたしました」
走り寄った皇甫珪が男に代わりに詫びた。
「お前は──」
男は皇甫珪を見知っているらしい。何か言おうとしたが、先に皇甫珪の方が頭を下げて遮った。
「巫なのです。お許しを」
そう言われてはじめて男は彩蓮が白衣をまとっていることに気がついたらしい。はっと目を見開いて、「すまなかった」と低い声で言う。巫女にみだりに触れることは神への不敬に当たる。男は礼儀正しく天に仕える彩蓮を石の上に座らせた。
「わたし……」
彩蓮はお礼に男に忠告をすべきか迷った。
彼女には一族の皆のように安定した霊力があるわけではない。
気まぐれにふらりと向こうから何かを告げてくるのを待つだけなのだ。だから、今のこの感覚が正しいのかも、どう言い表していいのかも分からない。父や祖父からは他人の未来を安易に告げてはならぬとも言われている。それでも何かしてやらねばという思いに駆られて彼女は口を開いた。
「気をつけて。栄光と闇が近づいている」
「どういう意味だ?」
「都は危険よ」
彩蓮はそれだけ言うと助けを求めるように皇甫珪を見た。彼は彩蓮を立ち上がらせて、頭を垂れる。
「では失礼します」
皇甫珪は荷物のように彩蓮を肩に担ぎ、覡たちがちょうど豚の血を天にささげている方へと行った。ちらりと彩蓮が見たかぎり、銀髪の男は、ただこちらをじっと眺めていただけだった。
2
彩蓮はそれから都に戻っても男のことばかり考えていた。
「色男でしたなぁ」
そんな風に皇甫珪は茶化すが、彩蓮は男の端整な顔でも精悍な体つきでもなく、あの光と影を併せ持つ不思議な気に心を奪われていた。それは普通の巫ならば、その不吉な未来の予感に関わりを持とうとも思わない類のものであるが、好奇心旺盛の彩蓮には気になってならないのである。
「あの人はどうなるのかしら? 何か大きなことが起きそうな気がするのよ」
「さあ。俺は巫覡ではないので分かりませんがね。後嗣争いで宮廷は大騒ぎですから、何かひと悶着あるのではないでしょうか」
皇甫珪が耳をほじりながら言う。
彩蓮もそれに頷いた。
王には七人もの公子がいる。
長子で庶子の恭文と、次男で王妃の息子の永潤の二人のどちらが太子になるかで揉めているらしい。それにこの度、異民族討伐を指揮したという三男も加われば、後継者争いは激化するだろう。都の誰もがどこかの派閥に属し、熾烈な争いを繰り広げている今、あの男もその波に飲まれていても不思議ではない。彩蓮の実家である貞家は、祖父の貞白の方針で中立を保っているが、それも時の問題のはずである。いつかは腹を決めなければならない時が来る。
しかし、彩蓮に銀髪の男のことばかりを考えている暇はなかった。
まだ宦官を殺した犯人を見つけることができていないのである。
ここ景国の祭祀を司るのは貞家である。貞家は、天地が二つに分かれた太古より神事に携わり、王をも凌ぐ権力を持つ古い家柄である。王族さえ道を譲り、王も貞白に巫覡の最高位である太祝位を与え、太祝が登城するときは必ず正装して迎える。そこに属する巫覡たちは厳格に管理され、むやみに蠱術を使わないように厳しく決められている。にもかかわらず、今回このようなことが起きて貞家の面目が失われた。これは神権を独占する貞家にとって一大事なのである。
けれど、それも仕方ないといえる。
なにしろ、乱世の昨今、小国は次々に滅ぼされ、異国の巫覡が国境を越えて景国に流れてもまったく不思議なことではない。しかも王は他国からの人材を積極的に受け入れているから、多くの得体の知れない者が仕官を求めて遊説しており、景の都は異国の言葉で溢れている。その中には異国の覡もいれば、化けた妖かしの類もいる。貞家はそんな巫覡と妖を管理するのが仕事であり、悪さをしないように取り締まる。
「蠱術が使われたのは確かなのか」
しわがれた声に彩蓮ははっとした。眼の前には呆れた老人の顔があった。
「彩蓮、聞いているのか」
「あ、はい」
彩蓮は祖父の書斎に呼び出されていたことを思い出した。香と古びた竹簡の束の臭いが入り混じり、人骨や怪しげな呪具が並ぶ部屋は、白く長い髭を垂らす老人にぴったりな場所である。彩蓮は、そんな部屋の中央に座す祖父を見て、目が合うと、すぐにまつ毛を伏せた。老人は皺だらけの手で、扇をぱちりと鳴らした。
「何か気にかかることでもあるのか」
「いいえ。なんでもありません」
彩蓮は慌てて真面目な顔を作り、今分かっていることだけを報告する。
「死体の状態や、殺される直前の残影を巫女に調べさせたところ、蠱術であると思われます。蠱は共食いするので通常なら群れないというのに、今回は男の半身を食い散らすほど大量に発生しています。わたしは蠱が人為的に集められたのではないかと思っています」
「それで?」
「それだけの蠱の数を操れる巫覡はそれほどいないので、この国の者ならば直ぐに見つかると思いますが──」
「景人ではあるまい」
「わたしもそう思います」
「うむ」
「宦官が何か恨みを買っていなかったかも調べさせています」
「うむ。しっかり調べ、必ず術者を見つけるように。この国で巫術を扱っていいのは我ら貞一族だけだ。その規律を乱してはならぬ」
「はい、お祖父さま」
「儀式をするのも巫覡の大切な役割だが、これも大切な務め。心して調べよ」
彩蓮は拝手し、祖父の部屋を下がった。そして漆の柱が並ぶ長廊で緊張を解いた時、舞の練習から帰ってきた一族の女の子たちとすれ違う。みな、彩蓮と同い年ぐらいで、見目麗しいものが選ばれる。しかも今日は本番用の長い袖の付いた絹の衣を着ていた。
彩蓮は唇をぎゅっと嚙んだ。
彩蓮はこの宦官殺しの調査のせいで全員での練習に参加できなかったため、他の巫女たちと調子が上手く合わず、宮殿での儀式の舞手に選ばれることがなかったのである。人一倍練習をした彼女は、去っていく少女たちの背を羨ましげに眺めることしかできなかった。
「そんな顔をしなくたって、次は選ばれますって」
恨めしそうに見ていたのだろうか、壁にもたれて待っていた髭面の皇甫珪が声をかけてきた。
「わたしが不細工だからどんなに努力してもやらせてくれないんだわ」
「彩蓮さまの笑った顔は千金に値すると、みんな言っておりますよ。笑窪があって可愛いって──」
「気休めを言わないで」
ぴしゃりと言った少女の強い口調に大男が肩をすくめる。
巫覡として生まれたからには、天を祀り、地を崇めるのが仕事である。呪詛にしろ、殺人を調べる部署というものは本来、別にある。なぜ彩蓮が宮中の儀式を休んでまでやらなければならないのか──。
ただ、選ばれない一因が自分にあることは、彩蓮も本当はよく分かっている。ただでさえ半人前なのだから、もっと頑張らなくてはならないのに、いろいろ言い訳してしまうのだ。早く一族の要になりたいのに、そうできない──歯がゆくてならなかった。彩蓮は死骸の臭いが染み付いた衣の袖の臭いを嗅いだ。
「下半身のない宦官なんて興味ないのに」
大男が頭を搔く。
「下半身があったって興味などないでしょう。そんなことを言っていないで出かけましょう。宦官が襲われたと思われる場所を部下が特定してあります」
「ええ……」
皇甫珪が足を止めた。
「その白い巫覡の衣はちょっと目立ちますから、街では着替えた方がいいかもしれませんね」
片目を瞑って見せた皇甫珪。
彩蓮ははっとして彼を見た。
「普通の衣を着た方がいいってこと?!」
「そういうことです」
彩蓮は瑞々しい瞳を輝かせた。家も巫覡であるし、仕事も聖域で、いつも白い衣を着ている。身分が高いから襟に紋を入れることはできるが、毎日、毎日、白しか着たことがない。普通の町娘のような格好をしたいとずっと思っていた。
「お金を持ってくるわ!」
破顔した彩蓮は、巾着を取りに行こうとして時間がないと皇甫珪に止められた。
めずらしく買ってくれるらしい。
彩蓮は涙が出るほど嬉しかった。今度、祖父に皇甫珪の給料を上げるように言おうと思うほど嬉しかった。ただし、その店に入るまでは──。
「何よ、これ?」
「何って、何か変ですか」
「見て分からない?!」
彩蓮は閉口した。
なにしろ皇甫珪が連れて行ってくれた店はどう見ても花街の古着を売っている店で、目が覚めるような赤や桃色の衣や、襟がわざと開くように縫ってある衣など、どれも硬派な巫覡の少女には不向きなものばかりだったからである。
「最新の流行ばかりを扱っている古着屋と聞いたのです」
「……どこで聞いてきたのやら」
皇甫珪は頭を搔いた。
どうせ妓楼だろう。
しかし皇甫珪なりに頭を捻ってくれていたらしいことは分かる。彩蓮が宦官の遺体よりも宮殿の儀式の方が気になるのは、その衣装を着たいのも理由の一つだととっくにお見通しだったのだ。しかし女といえば妓女しか話し相手がおらず、しかも三十路の無骨な武人が十七の少女の着るもののことなど分かろうはずはない。彩蓮のために聞いてきてくれたのだろう。
「これはどう?」
それでもなんとか小豆色の地味なものを見つけた。
「なんで、そんなおばあさんみたいな色を選ぶのですか。今は青とか碧とかが流行っているそうですよ」
物知り顔の皇甫珪。
彩蓮は戸惑いながら、美しい碧の衣を手に取った。
帯紐を黄色にし、赤い佩玉を垂れれば、まるで商家のお嬢さんといった風だ。彩蓮は鏡の中の自分をとても気に入った。髪を耳に掛けてみたり、外してみたりして、顔の左右を観察すれば、碧という色が存外、自分の色白の肌によく映えることに気がついた。しかし、「欲しい」と言うのが恥ずかしい。もじもじしていると皇甫珪の方が「これをくれ」と言ってくれたので、今度は「ありがとう」と言うのが恥ずかしくてもじもじする。
「……ありがとう」
やっと絞り出した言葉に、皇甫珪の方が照れたように鼻をこすった。
「どういたしまして」
大きな手が彩蓮の髪をかき混ぜた。本当の兄と妹のようだった。もうちょっと身分が高ければ、皇甫珪の母も妾ではなく継室となり、長く寡夫でいる父と気苦労することなく幸せになれたことだろう。父もいつまでも死んだ母に義理立てなどせず、周囲の反対を押し切って堂々と妻にしてやればいいのにと彩蓮は思う。もし、そうなれば、皇甫珪も義理の妹に敬語で話す必要もなく、対等に彩蓮と接することができるはずだ。
「さあさあ、さっさと靴をお履きください」
侍女を連れてこなかったから、皇甫珪が彩蓮の前に靴を置いた。彼女はしゃがんだ大男の肩に手を置いて靴を履かせてもらう。どうもそういう仕事は元禁軍武官には似合わない。それなのに白い歯を見せた男に、彼女は戸惑って、慌てて肩から手を離した。
「行きましょう」
準備も整ったことであるし、これから宦官の実家に行ってみようと彼女は思っている。友人がいればそれも調べ、恨まれていなかったか、何か問題を抱えていなかったか聞き込みをするのだ。
「店主はいるかい?」
そこに荷物を背負った男が店に入ってきた。行商人だろうか。
「聞いたか」
開口一番、店の主の袖を引っ張る。
「何を?」
「野犬が次々に死んでいるって話をだよ」
店にいた男たちがひそひそと噂話を始めた。彩蓮は、衣の裾を直すふりをして、好奇心から耳をそばだてた。
「もう五、六匹、この界隈で死んでいるのが見つかったってさ。それもここからそう遠くない場所だ。あんたも気をつけろ」
「悪い病の始まりではないか」
「腹の内から何かに喰われているらしい」
「腹の内? なんだそりゃ」
「腹の中が空になった死骸がそこかしこにあるっていう話だ」
彩蓮の第六感が何かを告げた。同時に皇甫珪も彩蓮と同じようにこの件は調べる価値があると感じたようで二人は互いに顔を見合わせた。
「今度は犬の死骸かぁ……」
せっかく着替えたのに、本当についていない。
3
皇甫珪と彩蓮は路上で揉めていた。
掘り起こした犬の死骸の腹を裂くのに皇甫珪の剣を借りようとしているのに、なかなか渡してくれないのである。
「ちょっとくらいいいじゃない」
「だめです、武人にとって剣は神聖なもの。不浄にあったら大変です。いざとなった時に剣が我々を助けてくれないではないですかっ」
「もう! そんなことはないわ。あとで清めればいい話じゃない!」
「絶対にだめです。これは父の形見なのですから」
しかたなく、彩蓮は近所で包丁を借りてくると、臭う犬の前に立った。
「さあ、やってちょうだい」
「は? 誰が何をですか」
「あなたが、この死骸の腹を裂くに決まっているでしょ」
「なんで俺が」
「もしこの犬が本当に蠱に襲われて死んだのなら、腹を裂いた瞬間蠱が溢れ出てくるわ。それをわたしは鎮めないといけないんだから、あなたが腹を裂くしかないでしょ」
「……蠱が腹から出てくるのですか」
「ええ。たぶん、たくさん……」
「た、たくさん……」
大男が怯えて、包丁を抱きしめる。
「そんな顔をしたってだめ。この調査は、本当のところはあなたが責任者なのよ。わたしなんてお飾りにすぎないんだからね。お祖父さまからお叱りにあうのはわたしじゃなくってあなたでしょ。しっかりして」
戦場に何度も行った経験があって、それはおぞましい体験をしたのだと、いつも酔っては自慢げに話すくせに、随分小度胸だ。背だって彩蓮の倍ぐらいはあるのに。
「俺はですね、呪術とかそういう目に見えないものが恐ろしいのですよ」
「わたしは人の方が恐ろしいと思うけれど? だって蠱術は人の恨みや苦しみが形になったものよ」
いつまでもこの男を待ってはいられない。彩蓮は、艷やかな長い髪をさっと一つに束ねると呪を唱え始めた。
今日はどうやら調子がまあまあいいらしい。からりと晴れた天気のせいだろうか。
犬の死骸が呪によって白く光りだした。狩りに出てはイノシシを解体するのが得意な皇甫珪が、まるで初めて刃物を握らされたようにへっぴり腰で死骸に跨る。そしてゆっくりと死骸の腹に包丁を入れる。
「うわっぁ、出やがった!」
皇甫珪が尻もちをついたかと思うと、大量の黒い蠱が、犬の腹の中から出てきた。衣の中に逃げ込んだらしく、大男は踊るように必死に袖を振る。
しかし、彩蓮にそれを払ってやる余裕はない。何万もの蠱が一気に犬の腹から出てきたのである。予想を遥かに超えた数で、通常なら鎮めるには三人の巫覡は必要であるというのに、それを今は一人でやらなければならない。
──まったくなんでこんなに!
汗が額に滴った。
それでも呪を唱えるのをやめずに右手の人差し指を天に掲げて、下等な蠱どもの動きを封じる。しかし半人前の彩蓮ではどうしても鎮めきれない。あっという間に皇甫珪は蠱にまみれた。彩蓮は無我夢中で最後の呪を叫んだ。
「天地に従い、我が声に応えよ!」
ぱたりと蠱が動きを止めたかと思うと、一斉に地の中に潜っていった。皇甫珪の背中に入り込んだ蠱も大慌てで出ていくと、地中に消えていく。
「ああ、びっくりしたわね。どうなるかと思ったわ」
振り返りざまに微笑んだ彩蓮。その笑顔を向けられた皇甫珪は、半目を開けて大の字で地面に倒れていた。
「ちょっと、大丈夫?!」
揺さぶっても応答がない。
「大丈夫ってば?」
どこかを蠱に喰われたのかと思いきや、単に恐ろしかっただけらしい。正気になると包丁を放り投げて、もう二度とこんなことはしないと訴えた。
「情けないわね。それじゃ、貞家ではやっていけないわよ」
「自分でも自信を失っています」
「そうでしょうね。蠱ぐらいで気絶したなんて言ったら、みんなに笑い者にされるわ」
「それを今夜、夕食の肴にするんでしょう?」
彩蓮はそれに笑った。
そして逃げ遅れた一匹の蠱を素手で捕まえると、竹筒の中に入れる。
「どうしてそんなものに触れられるのか不思議ですよ。カエルは持てないくせに」
「カエルは目があるじゃない」
万といると気持ちが悪いが、蠱というものは一匹なら黒い蛆虫の大きいのぐらいの見た目だ。貞家は職業柄、蠱を飼っているので、これは農家がお蚕さまを扱うようなものだと言っていい。一匹二匹なら危険ではないし、可愛いものである。
「そう言うけれど、皇甫珪だって触ったじゃない」
「あれは触ったんじゃありませんよ。向こうが俺の衣に入ってきたってだけの話です」
「繊細ねぇ」
「ガサツですねぇ」
「なんか言った?!」
「いえ、なんでも」
彩蓮は赤い唇をツンと尖らせ、
「それより、犬の腹にこんなに蠱がいたということは、もしかしたら犬は、蠱に襲われたあとの宦官の死骸を食べたのかもしれないわね」と本題に戻る。
「ではほかの野犬の死体がどのあたりにあったのか聞き込みをしましょう」
「ええ。そうしてちょうだい」
二人は歩き出した。
しかしいくばくも行かないうちに、食いしん坊の彩蓮の腹が鳴る。屋台からいい匂いが漂ってきたのである。すかさず彼女は豚の内臓の串焼きを見つけると、皇甫珪の袖を引いてねだった。脂がじゅうじゅうと音を立てて垂れ、香ばしい匂いがパリパリとなった皮からしてくる。
「お腹がすいた」
「だめです。朝ごはんを食べたばかりでしょう?」
「呪を唱えると力を使うのよ。ねぇ、買って、ねぇ」
袖を摑んで揺らせば、女にはからきし弱い大男が首の後ろを搔いた。
「純真無垢な顔をして、アレを見た後に、よくそんなのを食べたいと思いますね。見た目が蠱と一緒ではありませんか。白いか黒いかの違いしかありません」
「美味しいわよ。あなたも食べればいいのに」
「俺は、しばらくは細長いものは食べません」
「ふーん」
家業柄、彩蓮はもうそういう感覚は麻痺している。まだ青白い顔をしている皇甫珪は、彩蓮の代わりに金を払うと、さっさと歩き出した。慌てて彩蓮はそれを追う。人通りの多い道だ。肩と肩が触れ合うほどの混雑で、彩蓮は串を手に持って走っていたから、ぶつかってきた男を避けきれなかった。
その瞬間、彩蓮の脳裏に閃光が走った。視界が一瞬真っ暗になって、立ちくらみしたかと思うと、まだ食べていない串焼きを地べたに落としてしまう。
「悪い」
ぶつかった相手が言った。
彩蓮は文句の一つも言ってやろうと思った。こちらには皇甫珪がいる。喧嘩にはめっぽう強い。
「ちょっと、悪いじゃなくて、気をつけて……」
しかし勢いはすぐに削がれた。そこにいたのは、昨日の眉目秀麗な銀髪の男だったからである。
「あなたは──」
相手も彩蓮のことを覚えていたらしい。瞠目して、彼女を上から下まで眺めた。
「巫女ではなかったのか」
「事情があるのよ」
不躾な視線だったので、彼女はぶっきらぼうに答えた。それに今日の彼は絹の衣ではなく、綿を着て部下を五、六人連れているだけである。戦の垢を落とした武官が皆で街にくり出しているように見える。ぞんざいに答えて咎められるのは向こうの方のはずである。
「失礼いたしました」
異変に気づいた皇甫珪が人混みを戻ってきたかと思うと、彩蓮の頭に手を乗せて深々と下げさせ、そのままの体勢で、詫びを入れた。彩蓮は目だけ起こしたまま、体をくの字に曲げさせられる。
「人目に付く。改まったことをするな。皇甫珪」
男は皇甫珪の名前を知っていた。禁軍の元上官だろうか。
「それよりいつまでその子の頭を押さえている。俺に顔を見せたくない理由でもあるのか」
「い、いえ、そんなことは」
と、言いつつ、皇甫珪は彩蓮を背に隠す。
「禁軍を辞めたと聞いたが、今は何をしている? 帰国して聞いたから驚いた」
「今は貞家で働いております」
「貞家?」
「はい」
「ではその子は貞家の者か」
「は、はい。貞家の護衛を任されています」
「お前ほどの男が、婦女の護衛ではつまらないだろう?」
「そんなことは……」
キレの悪い返事を皇甫珪はした。そして彩蓮をもっと自分の後ろに隠そうとする。銀髪の男もそんな皇甫珪に気づいたのだろう。話題を変えた。
「ところで、このあたりに張賢という者の家があるのを知らないか」
「張賢?!」
男の問いに彩蓮が素っ頓狂な声を出して慌てて手のひらで口を覆う。張賢とは亡くなった宦官の名ではなかったか。
「知っているのか」
「いえ……」
曖昧な皇甫珪に男が瞳を鋭くした。
「知っているなら案内して欲しい。突然姿が見えなくなって案じているのだ。家にいるのではと来てみたが人通りが多くて道に迷ってしまった」
それで彩蓮は思い出した。張賢なる宦官は陽明殿で働いていたということを。陽明殿といえば第三公子の母、香妃の住まいである。いなくなったとなれば宮殿の人間が調査に乗り出すのは当然だ。彩蓮は皇甫珪の袖を引っ張った。銀髪の男は宦官が死亡した後に帰国したのだし、犯人ではない。ちょっと話を聞いた方がいい。しかし、皇甫珪は彩蓮を無視した。
我慢ならなくなった彩蓮は、髭面男の背からひょっこり顔を出した。
「わたし、張賢の家は知らないけれど、張賢がどうしているかは知っているわ」
「どこにいるのか知っているのか」
「どこにもいないわ」
「巫女はみんなそんな風な話し方をするのか」
「そんな風って?」
「どこにもいないなど、まるで死んでいるようではないか」
銀髪の男が、困惑を宿した瞳で彩蓮を見た。
「その通りよ」
「その通り?」
「あなたの言う通り、張賢という男はもうこの世にはいない」
「死んだというのか」
「ええ。それも呪われてね」
美麗な男がとっさに少女の口を押さえた。
縁起の悪い言霊は吐かない方がいいからなのか、はたまた誰かに聞かれたくないからなのか分からないが、男は、呼吸ができなくなった彩蓮が足搔くまで手を離さなかった。左右を見回し、やっと手を離したのは、脇道にそれたところだった。
「殺す気?」
「馬車がある。その中で話さないか」
馬車が人混みに押されるように道の隅にあった。しかし、皇甫珪が目の前の建物を指差した。
「それよりもいいところがあります」
それを見上げた彩蓮。
「妓楼じゃない!」
彼女のみが抗議した。
4
妓楼の個室は二間続きで、一室には朱色の卓があり椅子が四つ。花が活けられ、愛にかこつけた卑猥な詩が壁に掛かっている。よく見れば、奥には紫の帷がめぐらされた寝台さえある。彩蓮は居心地が悪くて仕方なかったが、皇甫珪はまるで自分の家のように椅子にどかりと座った。
一方、銀髪の男といえば、安っぽく装飾された部屋に似合わなかった。上品で落ち着いた彼は、部屋を見回すこともなく茶をすすると少しだけその味に眉を顰め、すぐに本題に入る。
「張賢が死んだというのは本当なのか」
「ええ。数日前のはずだわ。昨日、河で遺体が発見されたの。わたしはそれを弔いに行ってあなたとあそこで会ったのよ」
「ああ。なるほど。しかし、変死体なら、巫覡ではなく都の警備を預かる都衞府が出張る話だ。呪われたというからには、よほど尋常でない死に方だったのか」
「蠱術だと思うの」
「蠱術?!」
男は言葉を失った。それだけ恐ろしい術であることは巫覡でなくとも誰もが知っている。一度呪われたら、簡単にはその呪いを解くことはできない。
「しかもかなりの能力者によるものよ」
男は考えるように顎に扇子を当てた。武人らしい体軀であるのに、その仕草はとても優雅である。
「恨まれるような人だったの?」
「いや。全く。気のいい男だ。恨まれたのは別の人間だろう」
そう言われて彩蓮は、遺体がしていた翡翠の指輪のことを思い出した。袖から絹の袋を取り出すと指輪を卓にそっと置く。
「見覚えはある? 宦官の持ち物にしては高価過ぎるわ」
彼は手にとって窓に透かして見た。中に名が刻まれていたようで、それを見つけると、翠色の石を卓の上に置いた。
「ああ。持ち主を知っている」
蠱術で必要なものは流派によって違う。
しかし、大抵、毛髪や呪う相手が大切にしているものを使って行う。これが男の知り合いのものであるのなら、狙われたのは張賢なる宦官ではなく、その人だということになる。彩蓮は声を潜めた。
「知り合いの物なの? でも、なぜ、張賢がこれを持っていたのかしら?」
「さあ、それは持ち主に聞いてみなければ分からないな」
美麗な男はじっと彩蓮を見た。そして灰色の瞳が魅惑な光を貯めると、唇を触れながら尋ねた。
「君の名前は?」
「え?」
「名だよ」
「貞彩蓮──」
「巫女として優秀なのか」
「いいえ。優秀だったら儀式を執り行わせてもらっているわ。わたしはそうじゃないから、こんな事件を調査しているのよ」
「そうか? でも巫女なんだろう? 貞家の」
「あ、え、ええ」
「どうだろう。一度、宮女として後宮に紛れ込んではくれないか」
「後宮に? なぜ?」
「この指輪の持ち主は後宮にいる」
「でも祖父がなんて言うか分からないわ……」
貞家は二つの王朝に仕えた中原の巫覡集団である。地を治めるのが王の仕事ならば、貞家は王に天の声を伝えるのが務めである。その行動の多くは卜占で決められ、彩蓮が簡単に自分で決められるものではない。
「わたしはこの件の調査が残っているので無理だわ」
「君が、後宮に行かなければことの真相は分からない」
「別にすべての真相を明らかにする必要はないのがこの国の不思議なところよ。穏便に闇の中に葬るのが正しい処置だというときもある。宮殿に行くのが吉か、祖父に占ってもらった後でなければ、わたしは行けないから、誰か他の巫を探した方がいいわ。その方が半人前のわたしよりずっといいと思うの。これは巫覡として言っている」
男は少し困り顔を作った。
「分かった。すまない。言い方が間違っていた。客として陽明殿に呼ばれるように手配しよう。こちらから馬車をつかわして宮殿に招待する」
「だから──困るの、そういうのは」
もっと理由を言ってやろうと思ったのに、皇甫珪が卓の下で彩蓮の足を踏んだ。そしてあからさまな目配せで、「揉めないでください」と懇願する。彩蓮は軽く咳払いをすると、頰を緩ませた。
「そろそろあなたの名前を聞いていいかしら? 話はそれからよ」
「これは失礼した。とっくに横の大男から聞いているのかと思っていた。俺の名は騎遼という」
「騎遼さんね」
「さんはいらない。騎遼でいい。俺たちはもう友人なのだから」
男は真剣な眼差しで彩蓮を見た。
「助けてくれないか」
彩蓮は遠慮なく言った。
「まぁ、そりゃ、困っているのなら助けてあげたいわ。よかったら他の巫女を紹介するからその人に会ってみたら? 巫覡が人を殺すのは自分が穢れるから禁忌とされているの。それを犯して呪うのは普通では考えられないわ。よっぽどの事情があるか、相当な呪者よ。有能な巫を当たった方がいいわ」
「それだと俺が巫覡を後宮に呼んだのが人に知られる。できればそれは避けたい。君は一見、巫に見えないから怪しまれないだろう」
「それは褒め言葉なのかしら?」
「ああ、もちろん。人間味があって可愛いと言っているんだよ。君の瞳には生気がある。普通の巫は君のような瑞々しい瞳をしていない。一目で、巫かどうかは分かる」
片目を瞑ってみせた騎遼。彩蓮はわざとらしいため息を吐いてから言った。
「で? その指輪の持ち主は誰なの?」
騎遼は意味ありげな視線を向ける。反応を楽しんでいる顔である。
「な、何よ」
「それは俺の母だ」
何か嫌な予感がする。彼はニコリと微笑んだ。
「我が母が陽明殿の主、香妃だ」
彩蓮はわなわなと震えた。
「もしかして、あなたが第三公子?! ってなわけないわよね?」
「そういうことになるかな」
騎遼はおかしそうに彩蓮を見た。確かに粗衣を着ていても品があり、銀髪は皇族に多い。身分低く装っているけれど、茶を飲む所作は宮廷のもので、ちらりと見える下着の袖は絹である。なぜ今まで気が付かなかったのだろう。彩蓮は後ろの髭面男を睨んだが、皇甫珪は苦笑いして誤魔化した。
彩蓮は心の中で舌打ちして、この男と関わってしまったことを後悔した。しかし礼儀はわきまえている。無礼は無礼。仕方ない。立ち上がると、手を右腰にそろえて頭を下げた。
「知らなかったとはいえ、公子さまにとんだご無礼をいたしました。お許しくださいませ」
少々棒読みだが、礼儀通りに詫びた彩蓮に騎遼が笑った。
「君らしくない。そういうのは似合わないよ」
「そういうわけには」
「普通に接して欲しい。俺は忍びで街に出ているから人に怪しまれたくないし、君は貞家の娘なのだ。大仰な話し方や礼は不要だ。宮廷でも貞家の者は略礼を許されているのだし、それに言っただろう? 俺たちはもう友達なのだと」
「でも……」
「それより俺の頼みを聞いて欲しい。これは母の命に関わることだからね」
彩蓮は顔を上げた。そう言われて嫌とは言えないのが、彩蓮だ。身分などではなく、困っている人がいたら助けてやりたくなる質なのである。彩蓮は少しだけ考えてから口を開いた。
「分かったわ。でも一つ条件があるの」
「俺にできることなら」
「皇甫珪がまた禁軍に戻れるようにして欲しいのよ」
「彩蓮さま!」
驚いたのは騎遼ではなく皇甫珪だった。そんなことを頼む必要はないと彼は唾を飛ばして言ったが、彼女は彼が禁軍勤務に戻りたいと思っているのを知っていた。酒を飲むといつも後悔を口にするし、道でばったり禁軍の昔の仲間に会うと気まずそうにしながらもその顔には戻りたいと書いてある。
「分かった。努力しよう」
騎遼は簡単でない願いに諾と答えた。
「本当に?」
「ああ。その代わり、もし張賢が母の代わりに殺されたとするならば、また呪われる可能性がある。犯人を捜すのと同時に対策を練って欲しい」
「分かったわ。わたしもできるかぎりのことはする」
これで二人の利害は一致した。騎遼から差し出された手。しばらくそれを彩蓮は眺めていたが、しっかりと握り返した。
「じゃ、近日中に使いをよこしてね」
「いや」
公子は握った手を離さずに口の端を片方だけ上げて笑った。
彩蓮は慌てた。
「ちょ、ちょ、ちょっと。離して。離してってば」
「離さない。近日中ではなく、君は今日、今から宮殿に行くんだ」
「皇甫珪、助けて!」
しかし勇猛な武人も王族の前では従順な子犬のようなものなのである。眉を垂れるばかりで助けてくれる様子はない。
「行こう」
彼は足取りも軽く妓楼を出た。もちろん、手は繫いだままだ。何も知らない人が見たらきっと美男美女の素敵な恋人同士に見えることだろう。飄々としている公子は人の目など気にすることもなく、馬車まで行くと、彼女の小さな体を持ち上げて乗せた。
「子供扱いね」
「こういうのは女扱いっていうんだよ」
文句を言った彩蓮に騎遼が訂正した。しかしすぐに髭面男が図々しくも同乗すると、公子は眉を寄せて睨みつけたが、皇甫珪はなに喰わぬ顔をして彼女の横に座った。皇甫珪の仕事は彩蓮の護衛と彼女の周りを飛ぶハエを追い払うこと。公子も例外ではない。
「あの、もしかして今から本当の本当に宮殿に行くの?」
「そうだよ?」
「わたしこれしか着るものがないの。他は白い衣ばかりで……やっぱり失礼になるから着替えてからの方がいいから、屋敷に寄って」
「それで十分だ。どこから見ても田舎官吏の娘の精一杯のおしゃれに見える」
彩蓮は相手が公子だということを忘れて拳を握る。
「失礼ね! 碧は今年の流行色よ!」
「そうか。都を長く離れていたものだから、とんと流行が分からなくなっていた。すまないな」
騎遼は十歳近く年上でしかも戦を生き抜いた人である。一枚も二枚も上手に子供っぽく嘴を尖らせた彩蓮をあしらい、そして微笑んだ。それは「楽しいな」「可愛いな」という笑みであるが、彩蓮からすれば馬鹿にされているようにしか見えずむっとする。
公子は、今度は皇甫珪の方を見た。
「昔、白い犬を飼っていたよ。きゃんきゃんうるさかったが、懐いて可愛かった」
「うちの子犬は嚙みつきますからね。お気をつけください」
二人が彩蓮のことを茶化していたのは分かっている。文句をきゃんきゃん言ってやろうとしたその時、ふと嫌な視線を感じて彼女は御簾をぱっとめくるとあたりを見回した。
「どうかしたのか、彩蓮?」
「嫌な視線を感じたの」
公子と皇甫珪の二人が同時に車外に顔を出したが、そこには無数の人々が街を行き来していて誰が怪しいのかさえ分からない。
「誰かに見られていた気がしたの」
西の空に黒雲が募り、彩蓮は空気に湿り気を感じた。
続きは本編で!≫『天命の巫女は紫雲に輝く 彩蓮景国記』
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