◎第4回角川文庫キャラクター小説大賞《大賞》受賞作!

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小路幸也氏、高里椎奈氏が選考委員を務める角川文庫キャラクター小説大賞。その第4回の受賞作が4月と5月に2ヶ月連続で刊行されます。第1弾ではその世界観造形が選考委員から絶賛を受けた、大塚已愛さんの『ネガレアリテの悪魔』(受賞時タイトル「夜は裏返って地獄に片足」)が4月24日に発売となります。美形×人外のコンビが謎に挑む冒険活劇、是非ご注目ください!
 * * * *


 第一話 Alea iacta est.

 

 一


「この絵は止めた方がいい。君もわかっているだろうが、これは贋作だ。一シリングの価値もない」
 不思議な目の色をした青年は、少女へ向かい、そう告げた。
 それは、事実だけを告げるような声だった。
 一八九五年、秋。大英帝国・ロンドン。
 その日エディス・シダルは、ブルームズベリーに出来たばかりの画廊を訪れていた。大英博物館やロンドン大学のあるこの地区は、文教施設が集まる場所として知られており、画廊も多く建ち並ぶ。
「ようこそお越しくださいました。本日はどのようなご用件で?」
「父の使いで、在英フランス大使に贈る絵を探しています」
 中に入るなり店員に声をかけられたエディスは、素直に父の名刺を差し出して用件を告げた。
 エディスの父親は、ハンズベリー男爵であると同時に凄腕の外交官でもある。語学に堪能で、交渉の名人でもあり、父が秘密裏に行った外交によって、何度ロシアとの衝突が食い止められたかわからない。英国とロシアはグレートゲーム以降、不倶戴天の敵であり、今もなおアジアでは火種が燻っていた。更には新興のドイツ帝国も虎視眈々とアジア進出を狙っている。対独関係が緊迫感を帯びてきているからこそ、フランスと英国は友好関係をしっかりと固めておかなければならない。大使の機嫌とりも外交官の大事な仕事だ。
 しかし、父親は仕事一辺倒な人間であるため、芸術への興味が一切ない。男爵としての嗜みと興味は、専ら狩猟と競馬に向けられている。骨董趣味の母方の祖父とは大違いだ。そのため、各国の要人に何か贈り物をするときなどは、絵心のあるエディスが代わりに美術品を見繕う。
 折悪く画廊の主人は別の客の応対をしていたため、店員の勧めもあり、エディスは主人の体が空くまで店内を見て回ることにした。
 エディスは絵が好きだ。幼い頃は画家になりたかったほどである。画家になる夢が潰えた今も、絵画に対する熱意が冷めることはない。
 画廊には各々特有の色があり、主人の好みによって品揃えにも偏りが出る。この画廊は、唯美主義とエキゾチシズムが得意なようだ。最近流行の印象派も数点ある。
 数ある絵の中でも、エディスが特に心惹かれたのは、河鍋暁斎という作者の日本画だ。小鬼や妖精のように見える異形の怪物が力強い筆致で描かれているかと思えば、エキゾチシズムに満ちた女性の絵は優美で美しい。伸び伸びとした筆致は、まるで大空を征く鷹のように濶達だ。こんな線が描ける人間は、どれほど心が自由なのだろう。羨ましい思いでそれを見つめていた。
 日本画を堪能し、次は何を見ようかと視線を廻らせると、ふと、部屋の奥で、微動だにせず一枚の絵を観ている人影に気が付く。
 すらっとした、頗る長身の男性だった。
 筋肉隆々というわけではないが、さりとて痩せているわけでもない。細身で錆色の三つ揃いを着て、頭にはケンブリッジ・ハットを被っている。上着越しにもよくわかる、引き締まった背中をした素晴らしい体だ。ステッキの類いは持たず、かわりに肩から四フィート(一フィートは約三十センチ)ほどの細長い筒状のケースを提げている。後ろ姿しか見えないせいで、顔形はわからないが、襟足にかかる白に近いプラチナ・ブロンドの髪が目を惹く。
 しかし、何よりもエディスを惹きつけたのは、美しい体でも輝く白金の髪でもなく、その立ち姿だ。人間は、足にこそ気品が出る。十三歳の時にマドリッドでベラスケスの《フェリペ四世図》を見たときから、エディスはそう確信していた。
 ベラスケスは加筆修正をよく行ったが、特にこの絵は顕著で、何度も描き直した跡がある。最初はフェリペ四世を大股に描いていたものの思うところがあって、加筆の果てに今の気品ある閉じた足に描き直したという。その変更があったからこそ、ベラスケスのフェリペ四世はエレガントで気品ある王として鑑賞者の目に映る。
 目の前の青年は立ち方も実に綺麗で、真っ直ぐに伸びた膝は勿論、ぴんとした背筋がスタイルの好さを際立たせていた。肉体に統制が取れていて、画家として思わず描きたくなるような、そんな姿をしている。
 美しい姿勢を保つ彼の視線の先が気になり、エディスは真っ直ぐ画廊の奥へと足を運んだ。それなりに雑音がある中なのに、自分の足音が妙に大きく聞こえる。
 しかし、男性はこちらを振り返ることもなく、じっと絵に集中しているようだ。それを良いことに、エディスは彼の斜め後ろに立って、同じ絵を静かに見つめた。
 つい最近発見されたという触れ込みの、十七世紀の大画家ルーベンスの未発表作品だ。結婚式の祝いに興じる庶民を描いた農村画で、この画廊の目玉商品の一つである。《婚礼の日》という短いタイトルが印象的だ。
 ルーベンスは弟弟子のヨルダーンスとは異なり、風俗画を描いたことがない――そう考えられてきた。彼は宗教画や歴史画、そして神話画の巨匠であり、決して庶民の生活に目を向けることはなかった画家である、と。
 しかし、この作品はその「空白」を埋める絵だった。大発見と言っていい。
 ルーベンスの未発見の絵、しかも風俗画であれば、購入金額は数千ポンドを下るまい。本来ならば国の美術館に収蔵されるべきもので、個人の画廊で扱うような代物ではなかった。それだけで、この画廊の主人の実力が窺える。
 五フィートほどの高さの絵は、ルーベンスの特徴を非常に濃く表していた。一目見ただけで、作者が誰か素人にもわかるはずだ。
 友人や両親、召使いまでを巻きこんだどんちゃん騒ぎは、結婚式の絵に相応しい幸せそうな空気と狂乱、そして滑稽さに満ちあふれている。皆が笑い合い、飲み、喰い、若い夫婦への祝福を行う、明日への希望を高らかに歌い上げた絵でもある。小道具として描かれている色取り取りの花々も、とても瑞々しく、繊細で美しい。
 登場人物の中で唯一、花冠を被った花嫁だけが後ろ向きだが、きっと幸せに微笑んでいるのだろう。賑やかで楽しげで、非の打ち所のない幸福な絵だ。
 しかしエディスは、不思議な違和感を覚えていた。この絵は、色のおさまりが悪いというか、どこか洗練されていないように感じられる。
 当時の画家によくあることだが、ルーベンスは自分の工房で仕事を請負っていた。つまり、一人ですべてを仕上げるのではなく、構図と仕上げ、メインの人物を画家本人が、背景や建物などを弟子達が分担して描いていたのだ。外交官としても多忙だったルーベンスが生涯に二千点以上の作品を生み出せたのは、このおかげである。
 工房式の場合、弟子が描いた部分が多いほど値段が下がり、逆に画家本人が描いた部分が多い絵は吊り上がる。中には、画家が署名のみしか手を加えていない絵もあるほどだ。それ故、真作であってもルーベンスらしからぬ絵というのは、どうしても生まれてしまう。とはいえ、仕上げだけであろうと画家本人がかかわっていれば、作品には画家独特の輝きが必ず宿るはずなのだ。
《婚礼の日》からは、いわゆる『本物』と呼ばれる絵にある、強烈な画家の個性を確かに感じる。けれど、それはルーベンス特有の黄金の輝きとは全く違う、闇の輝きだ。この作品には、ルーベンスらしからぬ奇妙な闇がある。
 今までエディスが観た彼の作品は複数あるが、卓越した画力によって、闇に潜む恐怖や神話の愛憎が巧みに描き出されていたものもあった。しかし、それらはすべて鑑賞のための美的に作り上げられた闇だ。見る者の肌を粟立たせる、作者の内面から湧き出るようなものではない。
 けれど《婚礼の日》には、絵の向こうに、寒気がするような敵意が潜んでいる。結婚式を描いているのに、予期された幸福を裏切るような、そんな不安が微かに滲む。
 ルーベンスの絵にあるのは常に、祝福と幸運の光だ。恐怖や悲劇は、すべて演出されたものの筈だった。彼は、光の作家であったから、カンバスに闇を作ることは出来ても、闇を込めることはまず行わない。その筈なのに――。
「どうしてかしら。この絵はまるで、怒りと羞恥に引き裂かれているよう……」
 絵を凝視していた男が、呟きに反応して振り返る。その面立ちはエディスが想像していたより若く、彼女と同じか少し年上に見えた。
 青年の瞳は、不思議な色をしていた。紅玉を嵌め込んだような深紅。茫としているくせにどこか憂いを帯びている。静かな光を湛えるその目は、何かの痛みに耐えているようにも思えた。
 この青年は、誰かに似ている。それが誰かを思い出すことが出来ぬまま、エディスはその目に見惚れていたが、すぐに我に返った。まじまじと男性の姿を見つめるなど、不躾だと反省する。
「ごめんなさい。鑑賞の邪魔をしてしまったかしら」
 慌てて謝罪すると、青年は頭を振った。動じた様子もなく、無表情に低く言う。
「いいや、別に。こちらこそ、急に振り向いてすまない。わかってしまう者がいるとは思わなかったから」
 声までも無感情で素っ気ない。けれど、拒絶されているようではなさそうだ。
「あの……今、貴方が言った、『わかってしまう』って、一体何のことかしら? 貴方も、この絵から何かを感じたの?」
 エディスの問いに、青年が微かに目を瞬いた。無表情なのは変わらないが、やはり、彼も何か思うところがあったらしい。黙って待っていると、少し考えるようなそぶりをしたあと、短く答えた。
「……この絵自身が己を呪い、且つ羞じている、ということを」
 随分詩的な表現だが、この青年がロマンチストであるようには到底思えない。何処までも地に足が着き、事実しか言わないような、そういう所が強くあるように見えた。
 確かにエディスには、青年の言う『己を呪い、羞じている』という表現がしっくりくる。この絵からは強烈な敵意の他にも、どこか縮こまっているような雰囲気を感じられたからだ。
「私には、この絵が何かに怒っている一方で、誰かに助けを求めているようにも思えるけれど、貴方にもそう思えるの?」
 青年が茫とした目のままでエディスを見つめ、小さく頷く。
「君は随分と絵に詳しいようだが、ここの画廊の関係者だろうか」
 店員かと訊かない理由は、明らかに言葉遣いと服装が身分の高い淑女のものであるからだろう。
「いいえ。私はただの客よ。贈り物の絵を買いに来たのだけれど、ご主人が忙しいから、しばらく待ちぼうけをくっているの」
 エディスの言葉に青年はなるほど、と頷くと、少し思案するように目を瞬かせ、ぽつんと言った。
「だったら、この絵は止めた方がいい。君もわかっているだろうが、これは贋作だ。一シリングの価値もない」
 当たり前のことを当たり前に告げている、何の他意もない物言いだった。
 突然に告げられた「贋作」という単語に、エディスはどきりとする。思わず彼に訊き返す。
「それは一体、どういう意味なの?」
「そのままの意味だ。この絵はルーベンスの真作ではない。精巧な贋作だろう。だから、絵が己を羞じて、畏縮している。君の目に、これが助けを求めているように見えるというのなら、おそらくはそういう理由だ」
 氷のような声だった。無感情も極めると、温度さえ失うらしい。半ば茫然として、エディスは呟いた。
「この絵が贋作ですって? そんな……」
 画廊では持ち込まれる有名作家の絵を、必ずその画家の研究の第一人者による真贋鑑定にかける。彼等が本物だと判断したものが、贋作であるわけがない。しかし、この絵の違和感を表現するのに、実に最適な言葉だった。
 何より青年の言葉には不思議な引力がある。物静かな声は勿論、憂いを帯びた目には、どこにも嘘がないように見えた。彼が言うのであれば、きっとそうに違いないと信じてしまう。少なくとも、エディスは信じたいと心の何処かで思ってしまった。
 けれど、二十歳そこそこにしか見えない青年が、はたして専門家も見破れなかった贋作を見抜けるものだろうか。
「……真実だ。証明もできる」
 エディスの疑念を見抜いたのだろう、青年は無造作に腕を上げ、絵を指差した。淡々とした、銀色の声が鼓膜を揺らす。
「まずは絵の表面の細工から説明しよう。ごくごく薄く、樹脂――おそらくフェノール樹脂が塗られている。カンバスの具合から見て、炉で一定時間加熱もされているようだ。これはアルコール鑑定法への対策だろう。大部分は加熱で絵の具と融合したようだが、溶け残りがここに在る」
 青年の指差す箇所には、確かにニスとは異なる光の反射が見て取れた。目を凝らせば、つやつやとした、琥珀のようなとろみがあるのもはっきりわかる。
 絵画の真贋判定で最も多く用いられる方法は、アルコールを浸した綿で絵画の表面を拭く、というものだ。贋作は大体が短時間で制作されるため、絵の具が生乾きの場合が多い。アルコールで拭いたとき、新しい絵は色が落ちるため、贋作と判断できるのだ。それを防ぐために樹脂を塗り、カンバスを焼いたのだろう。
「これは……」
 言われて初めて気付いた痕跡に、エディスの喉から戸惑いの声がこぼれる。このとろみは、確かに十七世紀の絵画にはありえない。
 青年の指がしなやかに動き、今度は絵の表面に出来た罅(ひび)――クラクリュールを指差した。クラクリュールの隙間には黒い埃が入り込み、そのせいか、絵の具がすこし浮いている。まるで書物を読み上げるような調子で、青年は言葉を紡ぐ。
「次に、表面のクラクリュールだ。これは経年劣化で入ったものではない。新しく描かれた絵を古く見せるため、フェノール樹脂を塗ってから、一度絵を炙って出来たものだ。絵を炙ると樹脂によって画布が縮み、クラクリュール風の罅ができる。一方で、そのパターンはどうにも平均的であるから、おそらく焼く前にローラーで表面を割れやすくしておいたのだろう」
 クラクリュールとは、古い絵画の表面に見られる非常に細かい特徴的な罅割れのことだ。その原因は、乾燥と経年劣化によって絵の具が弾力性を失い収縮することと、木枠の緩み、あるいは板の反りのために貼られている画布の張力が変化することの二つがある。本来はクラクリュールを人工的に作ることがとても難しいため、絵画の真贋鑑定にも大きな役割を果たしている。
 しかし、青年の言うとおり、この絵のクラクリュールは妙に均衡が取れていた。たわみからの発生とは異なる罅だ。
 エディスは青年の目の鋭さに酷く驚く。まるで警察の鑑識だ。しかし彼は、相変わらず無表情のままだ。今度はカンバス全体を俯瞰するよう、低く言う。
「……贋作の証明は他にもある。クラクリュールの間に埃が詰まっているように見せかけるため、コーヒーの中にカンバスごと漬け込んでいたようだ。十七世紀の絵にしては、カンバスの色にセピアが濃い」
「コーヒーですって?」
 意外な単語に、エディスは思わず絵を見つめ直した。カンバスは確かにセピアをまとっていたが、これは経年劣化の類いとは違うのだろうか。
「この国のコーヒーには大抵チコリが混ぜてあるから、それが埃を閉じ込めて、画布を古い風合いに変化させるんだ。ローストしたチコリは埃を引き寄せ、乾くまでの短い間でクラクリュールに墨入れをしたような風合いを生み出す。一石二鳥だ」
 英国で流通しているコーヒーは、チコリなどの混ぜ物が合法とされている。チコリの根をローストするとカラメル色になり、コーヒーに味と香りがよく似たものが出来るが、やはり偽物は偽物で、まったく美味くない。そのうえ、チコリ入りのコーヒーは、砂糖を入れなくても妙にべたつく。あの粘りが罅の中に入り込めば、確かに古い埃の詰まった感じが出せるだろう。
 エディスは青年の言葉に感心することしか出来なかった。まるであの名探偵シャーロック・ホームズのように見事な解説だと思う。
 青年は僅かに目を細めると、微かに首を振る。
「……気の毒なことに、この絵は最初から贋作として作られた。故に、絵そのものも、己を呪い、羞じている。だから君は、絵が引き裂かれていると感じたのだろう」
 無感情だった青年の声に、はじめて感情が篭もる。同情を感じさせる声音だった。
 エディスは改めて青年を見つめた。じっと作品を眺める彼の目に滲むのは、深い憂いと哀しみだ。寄る辺のない子供のような、そんな目だった。こんな目をする人間を、エディスは他に知らない。
《婚礼の日》が贋作であることを、画廊の人間は否定するだろう。けれど、彼の言葉が真実だと、確信に満ちた思いを抱いていた。
 エディスは、自分の直感を信じる。正確に言えば、自らの心の暗闇――心の沼に咲く、蓮の花がもたらす確信を信じている。
 人の心は複雑で、沼に似ている。清澄な上澄みが普段の自分だとしたら、暗い淀みの泥の部分は本能だ。心という沼の底で芽吹き、本能という泥の中から花を咲かせるその蓮は、自分でもどうにもならない感性の囁きだった。
 その感性の花が囁くのだ。
 ――彼の言葉は真実であり、この絵は己を羞じている、と。
 しかし、エディスの口から飛び出したのは、思いとは矛盾する言葉だった。
「……でも、私は、この絵が贋作でなければいいと思っているわ」
 青年が表情を僅かに変えたものの、あまりにも僅かすぎて、エディスには心情を読み取ることができない。ただ、確かに彼の心が揺らめいたことだけはわかる。
 だから、言葉を選んでゆっくり告げた。
「貴方を信じていないわけではないの。貴方の説明は理路整然としていた。私が絵を見て感じた違和感を綺麗に言葉にしてくれていたわ。納得もした」
「……では、何故君は、この絵が贋作であることを否定するんだ?」
 青年の問いに、エディスは微かに口元を笑みの形に吊り上げた。無理やりに笑顔を作って、そして、言う。
「この絵が贋作だとはっきり証明されたら、きっと処分されてしまうもの。それはあんまりだわ。だって、絵そのものには何の罪もないのだから」
 この絵を生み出したのは、人間の欲だ。罪は人間の側にあって、絵にはない。しかし贋作だと判明すれば、必ず破壊されるか、或いは何処かに封印されるだろう。
 贋作は、あってはならないものだから。
 けれど、それは不公平だ。悪いのは贋作を作った人間なのに、その罪を背負うのは絵の方だけ。それでは、割に合わなすぎる。
 エディスの言葉に、青年が一瞬、何かを言いかけた。しかし、思いとどまったように口を閉ざす。そうして一拍の間を置くと、彼の言葉はまた無感情に戻っていた。
「確かに、それ自体は罪を犯したわけではない。けれど、贋作は生まれてきたことが、そもそも罪だ。自分のものでもない罪を、未来永劫、この世に在る限り背負い続けるくらいなら、いっそ破壊された方が、救われるのではないかと僕は思うが」
 ――生まれてきたことが、そもそも罪。
 随分と身勝手な言い分だ。それは人間の見方であって、破壊される絵自身の考えではないはずだ。
 けれど、エディスは彼の言葉を聞いても何故か怒りを感じなかった。どこまでも無感情な青年の口調の裏に、奇妙に切実なものを感じたからだ。存在することが許されないと語りながら、誰かに許しを求めている。そして、その矛盾する祈りのような感情は、エディスもよく知っているものだ。
 ふいに、脳裏に一枚の絵が蘇る。この青年が誰に似ていたか、ようやく思い出した。
 ――この人の目は、ドラクロワの《怒れるメディア》のあの子に似ているのだわ。
 夫の裏切りにより、怒りに狂った母に殺されようとしている二人の子供のうちの一人、昏い目をした黒髪の幼子に、この青年は似ているのだ。解説書などでは、その子供は短剣の切っ先を見つめているとされるが、エディスにはカンバスの向こう側にいる鑑賞者を糾弾しているように見えた。
 母に殺されることを悟り、救いを求めても、誰も手を差し伸べることはない。目の前に突きつけられた黄金の短剣の切っ先が、やがて自分の体を引き裂くという現実に打ち拉がれた、あの眼だった。
 諦念の色と、何も出来ない鑑賞者を糾弾する、光。
 エディスには彼にかける言葉が見つけられなかった。思わず青年の緋い眼を見つめるが、すぐに視線を逸らされてしまう。
 傷口にようやく張られた薄皮に触れるような、奇妙な緊迫が続く。ぱつりと音がして、それが破れてしまったら、彼は、そしてエディス自身も、どれだけ傷ついてしまうのだろうか。
 自分が傷つくのは構わない。けれど、この人を傷つけてしまうのは嫌だった。これほど憂いを帯びた眼差しを持つ人に、あらゆる言葉から血を滲ませているような人に、また新しい傷をつけたくはない。
 無限のような沈黙を破ったのは、遠くから聞こえてきた至極呑気な声だった。
「申し訳ございません、お客様。お待たせしてしまいまして……」
 振り向くとパーティションの近くに、画廊の主人らしき男が立っている。小太りの、穏やかそうな中年の男だ。そちらに気を取られている間に、青年はエディスから無言のうちに離れてしまった。画廊の外へ向かおうとする彼を、慌てて呼び止める。
「あの、私の名前はエディス。エディス・シダル。貴方は……」
 せめても、名前だけでも訊きたかった。青年は振り向きもせず、別れの挨拶のように軽く手を上げた。
「……サミュエル」
 それが名なのか姓なのかは教えてくれぬまま、サミュエルと名乗った青年は画廊を出て行く。その背には明らかな拒絶が感じられて、引き下がるしかなかった。
 エディスは未練を断ち切り、主人のもとへ戻る。サミュエルとは、この場限りで別れた方が良い、そう判断したからだ。あの祈りのような真摯さに応える術がないのであれば、彼を追いかける資格はない。
「今の青年はお知り合いですか?」
 主人の言葉に、エディスは出来るだけ素っ気なく首を振る。
「いいえ。《婚礼の日》について、少し話をしていたんです」
「なんと! それはお目が高い! どのようなお話ですかな?」
《婚礼の日》という単語を聞いて主人の目が光るが、エディスは気付かない。
「特に大したことではないですよ。ルーベンスが庶民の生活を描くなんて信じられない、という話ですから。本当に素晴らしい発見ですわ」
 贋作だ、とサミュエルが断じたことは言わなかった。そうした方が良いと思ったからだ。ついでにお世辞も言ってみると、主人は気を良くしたようだ。
「だから、この《婚礼の日》は素晴らしいのですよ。ルーベンスには工房作品も含め、二千点あまりの絵が残されておりますが、その中で庶民の生活を描いた絵は一枚もない。しかし師であるアダム・ノールトや弟弟子たちは、貴族からの依頼で数多くの豊かな庶民の生活を描いていますからね。ルーベンスもそのツテで、絵を依頼された可能性が非常に高い。この絵はタッチから推測するに、ルーベンスの工房作品でしょう。それ故、いささか『らしく』ない部分もあるのですが、しかし、絵の構図といい、サインの書き方といい、ルーベンスの特色はかなり濃い」
 上機嫌な様子で、過剰なまでに饒舌に絵の正当性を並べる主人の言葉に、エディスは静かに頷く。さらに気を良くした主人は、決定的な証拠でもあるかのように、得意げにこう言った。
「《婚礼の日》には今、国内外の美術館をはじめ、山ほど問い合わせが来ているのです。最終的には競売にかけることになるでしょうが、一体どれほどの価値になるかわかりませんな。実はさるロシア貴族から入手したのですがね。掘り出し物でしたよ」
「……そうですね」
 絵の価値よりも絵の値段を強調する主人に、エディスは敢えて逆らうことはしなかった。代わりに改めて用件を告げる。
「今回は父の使いで、フランス大使にお贈りする絵を探しているのです。何か良さそうなものを見せて頂けませんか?」
 些か性急に話題を変えたのは、あの青年との会話を他者に詮索されたくなかったからだ。あの絵が贋作だと話したことは、二人だけの秘密にしておきたかった。
 そもそも美術界に何の力も無いエディスが、贋作だと糾弾したところで何も始まりはしない。鑑定した人間の名誉を守るために、封殺されるのは目に見えていた。封殺どころか、一笑に付されるのが関の山だろう。
「畏まりました。カタログもありますから、応接室にご案内いたします。贈答品ならば、風景画が無難でしょうかな……」
 主人は話題転換にあっさり乗った。商売の話の方が、絵の話よりも好きらしい。
 主人に案内されながら、エディスは、ふと、またサミュエルと会えるだろうかと思った。別に会ったところで、何かが変わるわけでもない。けれど、別れ際、彼に何も言ってやれなかったことが、ほんの少しの後悔だった。
 その後悔は、棘が刺さった痛みと何処か似ていた。

書籍

『ネガレアリテの悪魔 贋者たちの輪舞曲』

大塚 已愛

定価 691円(本体640円+税)

発売日:2019年04月24日

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