4/10(水)より配信中の「文芸カドカワ」2019年5月号では、谷村志穂さんの新連載「半逆光」がスタート! カドブンではこの新連載の試し読みを公開いたします。
長年連れ添った夫のパソコンで見つけたのは、若い女との、親密なやり取りだった。
知らない夫の姿を目の当たりにした妻・香菜子は――。
一話 二十一年目の猫
〈真崎儿様
このメール・アドレスは、まだ生きていますか?
ずいぶん久しぶりのメールです。もう十年以上になるかもしれません。
今日メールをさせていただいたのは、ナイロンが昨夜、天国へ旅立ったからです。数えると、ナイロンと暮らしてもう二十一年が経っていました。
五年ほど前からは、腎臓が悪くなっていて、長くてあと一年ほどだと獣医からは宣告されていました。それでもナイロンは、最後まで立派でしたよ。命が尽きる前日まで、ふらつきながらも自分の脚で歩き、粗相をすることもなく、生きる気力に満ちていました。この一年は自然と痩せていきましたが、相変わらず、ずっときれいな緑の目をした猫でした。
私の結婚相手である人が、自宅でナイロンに点滴をしてくれました。
私は怖くて、できなかった。
主人も娘もよくナイロンを愛してくれたと思います。でも最後は、ナイロンと私だけの静かな時間でした。
ご報告だけはさせていただきたくて、メールしました。届かないかもしれないけれど、儿さんと出会ってからの時間も、ほぼ同じだけ、二十二年になるのか、と考えていたところです。
梶内玲季
私は今は、あの頃の不調が噓のように元気でいます。〉
〈梶内玲季様
ご無沙汰しています。
このメール・アドレスは今も生きています。
ナイロンの奴がそんなに生きたとは、正直、驚いています。時々、あいつはどうしているかなと考えることがありました。僕らの都合で可哀想なことをしたと思っていました。どこかで野垂れ死んだろうかと想像することもありました。あれから二十一年も生きたのは、玲季やご家族がずいぶんよくしてくれたからでしょう。
すぐに返事ができなくて、済まなかったね。
玲季になんと書いたらいいのかわからなかった、というのが正直なところでした。
君はすっかり、落ち着いた暮らしをしているようですね。メールの文章から伝わってきます。ただ、夫を主人だなんて呼ぶ必要はないんだよと言いたくなるけど、もう余計なことだね。
僕の方は自分でも嫌になるが、もう六十を超えました。会社の方は一度定年を迎え、今は出向の身で医療系の小冊子の編集をしています。鎌倉の母の介護を、カミさんが通いながらやってくれていますが、おかげさまで、僕は元気にしています。
さて、なんと閉じたらいいのだろう。
玲季は本当に書くのはやめてしまったの? だとしたら残念でなりません。
真崎儿〉
夫の名の登場する二通のメールを真崎香菜子が見つけたのは、次男、貴徳が出ていった部屋の片付けをしていたときのことだった。
静岡に本社のある楽器店への就職が決まった貴徳は、荷造りを終えた後の部屋の片付けを香菜子に押し付け、今朝早くに、友人の運転するワンボックスカーで杉並の住まいを出ていった。
長男の喜典は、すでに家庭を持ってさいたま市におり、これでいよいよ夫婦二人きりの暮らしになるのだという思いで片付けを始めた矢先だった。
「うそ、なんなの?」
思わず裏返った声が出て、香菜子はパソコンの前で首を傾げた。脇の下を変な汗が流れたが、それは最近では珍しくもないことだった。
ひとたび思い直して、本当にこれは夫のパソコンなのかと確かめたが、サイドにはかつて夫がこのパソコンにかじりつくように仕事をしていた頃によく見た虹色のステッカーが確かに貼ってあった。
何か悪い冗談かともう一度そのメールを読み直したが、そこにある真崎儿という名前も、どこか硬い文章の書かれ方も、夫に違いなかった。
何も覗き見しようとして、起動したわけではなかった。それは、ある種の愛おしさからだった。
二人の息子がまだ小さい頃は、夫はよく自宅でも書斎にこもり、仕事をしていた。この部屋は、次男が中学生になるまで、儿の書斎だった。机に向かっているときの儿は、妻から見ても意気込みが逬っていた。四十前の大きなガタイの男が放つ熱気が、当時の香菜子には眩しかった。夫が外の世界に向けて放つ熱と引き換えに、香菜子は息子たちの世話に没頭した。出版社で新しく生まれる文芸に日々向き合う夫と、どんどん成長していく二人の息子たちの間で、香菜子は自分なりに毎日を奮闘してきたつもりだった。次男が大学生になるまでは、特別な寂しさを感じる間もなかった。
旧式のデスクトップ・パソコン。それは、いつもこの部屋の窓辺の机に置いてあったものだ。書斎にいるときの儿は、自分で好きな濃さにいれたコーヒーを大きなマグカップで運び、太い指で煙草の煙を頻繁に吐き出しながら、その前に座っていた。
その当時のパソコンが、まだ取ってあったのも不思議だった。パソコンに関しては、買い換えのたびに、担当作家たちの原稿やメールの集積されたデータを慎重に空にして、交換処分を頼んできたはずなのだ。
なのにこの一台、もう何年も使っていなかったはずのパソコンだけが、バティックに包まれて置いてあり、どこか骨壺のような印象を与えた。六畳間に付随したクローゼットには、ハンガーや、明らかにもう着ない革のジャンパーなどの他に、息子の遊び道具がぐちゃっと残されてあった。ケースに入ったままのエレキ・ギター。誰だか知らない選手のサイン入りのバスケットボール。一時流行ったキックボードのタイヤには泥がついたまま。ゲームセンターで当てたらしい大小のぬいぐるみの類いまで押し込まれていたクローゼットの片隅に、バリ島で買ったバティックに包まれた箱型のものがあり、開いてみたらパソコンだったのだ。
香菜子は、カーペット敷きの六畳間の中央に、そのパソコンを引きずり出した。窓の外でバティックの上に降り積もった埃を払い、パソコンをコンセントにつなぎ、ちょっとした悪戯心をおこして電源を入れてみたのだ。
ウンともスンとも言わず、もうとっくに死んでしまったパソコン――まあそんな風だろう。
どうあれ、あの若い日の儿の、逬るような情熱をつかの間感じ取れる気がしていた。今では、いつも背を丸めぎみのすっかり初老の男にしか見えない夫だ。三十年以上も連れ添った夫婦においては、お互い様なのだが。
大学の同級生だった儿と、香菜子は結婚した。同じ文学部で儿は国文、香菜子は心理学を専攻していた。香菜子の選んだ心理学研究サークルに、儿も入ってきた。
生まれも育ちも鎌倉という都会派の儿は、千葉の田園地帯から通い、化粧っ気もなかった香菜子を、入学式から大っぴらにくどいた。帰り道も堂々と追いかけてきてお茶に誘った。
「君は気づいていないだろうけど、なんとも言えない色気があるよ」
こそばゆいような言葉を平気で口にする男を信用してなるものかと思いながら、卒業の前年に、香菜子は儿の別荘ではじめて女になった。
そのまま卒業後、三年経って結婚。その後五年以上は子どもを授からないままで、香菜子も新宿にある旅行代理店の受付として働いていた。儿は、就職試験で卒なく難関を突破して、出版社勤務。子どもができるまでは、帰りに儿の会社の近くのカフェでよく待ち合わせをしたものだ。
杉並にあるこの家を中古の建売で購入したのは、長男の喜典が生まれて間もなくだった。同級生の一人が不動産会社に入り、資金難で安価で家を手放す客があると紹介され、最長のローンを組んだ。
電源を入れるとそのパソコンは、少しの間の後、まるで生き物のようにボンと弾くような音を立て、〈Hello Jin〉という表示を、画面いっぱいに浮かべて立ち上がった。当時のコンピュータにはよくそんな遊び心ある仕掛けがあって、夫は好んでいたはずだった。
起動と同時に、かつては有線でインターネットに接続されていたはずのメールソフトが、家の中のWi-Fiを捉え、何かしらの更新をしたようだった。
一通のメールを受信したことが、それも実際に郵便が届くような簡単なアニメーションとともに伝達された。
どこか生き物が目を覚ましたようなその反応に釣られ、香菜子は床に膝をついたまま、ガムテープでパソコンの上に貼られていた灰色のマウスに慌てて指をあてた。
いけないこととは思ったが、メールのマークをクリックしてみた。手に少し汗が浮かんだが、とうの昔に拾いそびれた事務連絡でも届いたのだろうくらいにしか思っていなかった。
だがこのメールは、事務連絡どころの内容ではなかった。ここにある二人の親密さは、なんなのだろう。
夫はこの女性を、玲季と呼び捨てにし、相手は儿さんと呼んでいる。
出会って二十二年。緑の目の猫……。
えっ、えっという声がしだいに音程を高くしていき、体の奥底から溢れ出た。メールを開いたまま、デスクトップ画面に目を移すと、そこには二つきりのフォルダが並んでいる。
Rei Mail
Rei Novel
マウスに置いた手が震えた。
Rei Mail
一旦目をつむり、深呼吸を繰り返した。
空であってほしい。ただの儿の空想の中の箱であってほしい。
そうに違いない。
二十二年? ちょうど今日出ていった貴徳の生まれた年に、儿に特別な出会いがあったなんて、そんなひどい裏切りがあるはずがない。空であるはずだ。そのために自分は確認するのだ。
香菜子は息を吞んだ。
長い長い連なり。膨大なスレッド。どこまでスクロールしても終わらない、二人のやり取り。
床に尻餅をついた。しばらく息をするのも忘れていた。
「ただいま。香菜子、いるの?」
玄関で、儿の声がした。
慌ててパソコンの上にバティックやクローゼットにのこっていた衣類をかけると、扉を閉めて部屋の外に出た。
まるで悪いことをしていたかのように、動悸が治まらず、マスクを鼻の上まで持ち上げて、エプロンで手を拭った。
目の前にぬぼーっと立っている儿が、別の人間に見えた。
自分が愛してきた夫は、変わらず一見強面だ。シャツにカーキのコートを羽織り、深いインディゴのジーンズを穿いている。
「おかえり」
沈んだ声しか出なかった。同時に、涙まで溢れてしまい、慌てて手の甲で拭う。
「あれ、どうしたの?」
儿は苦笑しながら、背中を向けて靴を脱ぐ。
いつの間にか、玄関先にバスケットボールが転がり出ていたようだ。
「懐かしいのが、出てきたな」
そう言うと儿はボールを拾い上げて、玄関のフロアで少しついて見せた。
「もう空気、抜けてるよ、これ。あいつ、置いてったの?」
あいつ、その言葉がまた虫ピンのように、香菜子の心を刺してきた。
儿の背中を見ながらリビングへと進むと、窓からの風でブルーの遮光カーテンが揺れていた。
「会社へ行こうとしたら、おふくろから電話があってさ、またぶつぶつ文句言ってるから、しばらく公園で聞いてたんだ。そうしたら、行くの、面倒になっちゃってさ。まあ、今の仕事なら、どこでだってできるし」
マスクを外して、エプロンのポケットに入れようとして、香菜子はふたたび足元に転がってきたそのボールを拾って、放り投げた。それは思いの外、強い勢いになり、ボールは儿の手で弾かれて窓にあたると、鈍い音を立てた。
「なんだよ、急に」
ぶつけられてもビクともしない風貌で、苦笑いしている。
「貴徳の部屋の片付けの最中なのよ。まだガラクタだらけ。山ほどあるの。どうしろって言うの?」
いつもそんなに苛立って話す方ではない。けれど、今は何もかも、貴徳さえ憎く思えてきた。この家の皆が、自分をばかにしているように感じた。
夫はいつもと同じように黙って目を見開いて、こちらを振り返った。ガタイは良いが、香菜子とは違って、さして贅肉はつけずに年を取った。儿とは大学の同級生同士の結婚だった。だからどちらも同じ頃に白髪が始まり、背中が少し丸くなり、小さな文字が見えなくなった。白髪混じりの髪が、今はこざっぱりと形のいい頭に沿っている。
「早くあの部屋を片付けなきゃ。元々、あなたの書斎なんだから」
儿が少しは動揺するのかと深い色の瞳を覗き込んだが、表情が動くことすらなかった。それが余計に憎かった。
息が苦しくなってしゃがみ込むと、視線の先には、転がったままのバスケットボールが見えた。NBAというマジックの文字が見える。隣のご主人が、二人の息子を代々木体育館へ連れていってくれたときに、二軍の選手からもらったサインだ。儿は家庭的なことなど、一度もしなかったが、それは、仕事に没頭しているからだと疑いもしなかった。
「ぼくなら、そんなに急いでいないよ」
儿は少し目尻を下げて、新聞を広げる。
「急ぐわよ」
気づかぬうちに、また涙がこぼれた。
「そんなに寂しいのか?」
そう言って立ち上がってきて、儿が肩に手を置きかけたので、思わず払いのけていた。
ばかにするのも、いい加減にしてほしいと、香菜子は思う。なのに、今すぐに夫を自分の両腕の中に閉じ込めたくなる。
儿は憮然とした面持ちでしばらく香菜子の目を見つめ、肩をすくめた。
窓辺に立つと外を眺め、伸びをした。
「今日は、帰らなきゃよかったか。本当は、一緒にお昼でもどうかと思ったんだけどな」
改めて脳裏に点灯したのは、「Rei」というその名をつけた二つのフォルダだった。
Rei mail
Rei Novel
その二つだけが、放課後の下足室に残された靴のように、きっちりと並んでいたのだ。
だけど、それを見て何がある?
もしもそのパソコンの電源さえ入れなければ、今だってこんな惨めな気持ちの中にはいなかった。急に帰ってきた儿と、久しぶりにどこかのランチコースでも狙って、グラスワインの一杯くらい飲んでいたかもしれない。いつしか互いをパパ、ママと呼ぶようになった二人が、子どもたちの巣立った家で、これからどうやってもう一度暮らすのか、久しぶりに同級生時代に戻った気分で話してもいい日だったはずだ。
「食欲がないの」
遮光カーテンは薄い光だけを通し、風に揺れていた。
「今からこれじゃ、ちょっと先が思いやられるじゃないか」
何も知らない儿が、嫌味を放つ。
「会社へ行ったらどう? そうしてください」
儿は、いよいよ深くため息をつく。
「じゃあ、とりあえずぼくは、外で昼飯、済ませるよ」
そう言って、肩からトートバッグを下げて、夫は玄関に戻った。
その足音が外へ向かって溶けていくのを確かめて、香菜子は再び貴徳の部屋の扉に手をかけた。
※「文芸カドカワ」2019年5月号より
(このつづきは単行本『半逆光』でお楽しみください)