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試し読み

角川文庫キャラクター小説大賞〈読者賞〉受賞作『帝都つくもがたり』試し読み!

◎第4回角川文庫キャラクター小説大賞《読者賞》受賞作!

小路幸也氏、高里椎奈氏が選考委員を務める角川文庫キャラクター小説大賞。

第4回の受賞作の刊行を記念した試し読み第1弾では、〈大賞〉を受賞した大塚已愛さんの『ネガレアリテの悪魔』を、つづく第2弾では、〈優秀賞〉を受賞した朝田小夏さんの『天命の巫女は紫雲に輝く 彩蓮景国記』をお届けしました。

そして第3弾では〈読者賞〉を受賞した佐々木匙さんの『帝都つくもがたり』をお送りします。

怖がりの売れない作家と強引な新聞記者、腐れ縁の凸凹コンビの怪異譚に、是非ご注目ください!



 零話 つくもの始まり


 せきの馬鹿がまたも僕、大久保おおくぼじゅんの静かな思索の場をぶち壊しにやって来たのは、梅雨もそろそろ明けたかという時分だった。帝都・東京の片隅は牛込にある、我が家での出来事である。
「やあやあ、元気にしているか。相変わらず縦に長いな、大久保」
 夏らしい麻の背広にカンカン帽。分厚い眼鏡、肩には写真機カメラをぶら下げて、関信二しんじはどこから見ても怪しいブン屋以外の何者でもない。少しは慎みをもって己の胡散臭さを隠すべきだと僕は思う。
「人並みには。夏はまだ楽だよ」
「そりゃ何よりだ。気鬱が心配だったからな」
 それより、と関は僕の方を見て言った。彼の背はそれほど高くはないが、僕の方がやや身を屈めていたので、ぴたりと視線が合う。
「中に入れてくれよ」
「嫌だよ!」
 僕は完全に押し売りに対する態勢を取っていた──すなわち、片目が覗くほどに細く戸を開け、しっかりと足でつっかえをして開けられないようにしていたのだ。
「ま、また何か妙な話を持ち込むんだろう。門前払いしたってよかったくらいだ。いいか、僕はもう君の口車には……」
「失礼」
 ぐい、と関は案外な力で戸を引き開けた。身体こそ大きいが元来虚弱な僕は直ぐに力負けし、ああ、と情けない声を上げる。人を呼ばぬつもりで色の褪せ草臥くたびれた着流しを着ていたのも露わになってしまった。
「まあ、悪い話じゃないさ。君だってなかなか筆で食えてもいないんだろう」
「そりゃそうだが、僕の清貧と君の陰謀とは何も関係がない」
「陰謀なんて滅多なものじゃない。まあ、中で話でも」
「それは僕が言う台詞せりふだ」
「そうかい、ありがとうありがとう」
「まだ言っていない!」
 結局、負けた。関は僕の静かな家にずかずかと歩み入る。いつものことではあるが、実に業腹だ。
 僕はいわゆる三文文士である。彼の言う通り、親の遺産が少しばかり残っていなければすぐに食いはぐれる程度の人間だ。立場は弱い。
 より騒々しく鳴き出した蟬の声を背に、僕は忌々しく虚空を睨むとぴしゃりと戸を閉じた。多分、それが間違いだったのだと思う。だが、この後悔すらいつものことだ。何となれば、この三流新聞社に勤める胡乱うろんな男と学生時代に知り合ってしまった時点で、僕は何かを間違えたと思う。

「怪談をね、集めているんだ。紙面に載せるんでね」
「怪談? まあ、季節には合っているが」
 結局中に踏み込んできたので、仕方がなくちょうど煎じていた麦湯を出してやる。関はそれを飲んで一言、薄いな、と言った。知るか、君のその薄情な顔立ちの方がよほど薄いと言い返したくなったが堪えた。
「僕は特に知らんよ。そういった出来事に遭ったこともない」
「別段、大久保先生の霊験には期待していないさ。君に頼みたいのはな、あちこちで取材をするのを手伝ってはくれないか、ということなんだ」
「僕が?」
 湯吞みを持ち上げる手を止めた。何を言い出すのかこの唐変木は。
「ちょっと待て。僕の恐怖癖は知ってるだろう」
「知ってるさ。子猫も怖がるくらいだ」
「あれは爪を立てるから……いや、それはいい。どうしてわざわざ向かない人種を誘うんだ」
 学生時代から、僕の怖がりときたら皆の物笑いの種になっていた。高い場所は目が眩む。暗い場所は何が出て来るかわからない。狭い場所は息が苦しい。自分でも何度も悩んだが、もういっそ危機察知能力が強いのだということにして放置している。当然、関の方もそれは先刻承知の上と思っていたのだが。
「それがいいんだよ。そこが狙いで、怪談に向かない人間を連れて行くことで、新鮮な反応を記録出来るんだ」
「何?」
「幽霊だのの話を聞くだろう。怖がった君が思わず叫ぶ。俺はそこで、大久保氏深々たる恐怖に耐えかね絶叫す、とこう真に迫った文が書けるという訳だ」
「出て行け」
 僕が遠慮を知った人間でなければ蹴り飛ばしていたかも知れない。この男はこういう人間である。人の性分を全て体系的に把握して、自分の損得に結びつける。
「何、何なら名前は伏せるよ」
「そういう問題じゃない」
 言い募ろうとしたところ、ぺらりと懐から紙を出される。……見慣れたものだ。あまり丁寧に扱われていないので、あちこち皺が寄っている。『金三十円也』。借用書だ。僕の、関への。これを出されると僕は黙らざるを得ない。何せ、五年以上無利息で止まっているのだ。
「御利益のあるお札だ」
「今度、今度稿料が入ったら半分だけでも……」
「金に関しては俺は君を信用しちゃいないよ。それに、返してもらうよりこれを形に言うことを聞いて貰った方が得だ」
「しかし怪談だろう」
 僕は頭を抱える。友人同士のお遊びの百物語の会では、いつも目と耳を塞いでいたものを。
「話は話さ。本当に化けて出るなぞそうある事じゃない、とまあ、上は言っていた」
 関は回り込むようにして、僕の肩を叩く。この口調だと、本人もそう乗り気というわけではないのだろう。そこで都合のいい相手のことを思い出し、折角だから巻き込んでしまえとそういう腹だ。僕には見出しの大文字のようにハッキリと読めている。
「それこそ、取材費は出させて貰うよ。俺に幾らか返してくれるなり、酒代にするなりそこは君に任せるが」
「…………」
 恥を忍んで言うが、これが最後の一撃だった。酒代。僕は不承不承頷いた。関は満足そうな顔になる。
「しかしな、君。もう少し部屋を片付けるといいよ。酷い有様じゃないか」
 関はそう言うと周囲を見渡した──床に飲み干した酒瓶のごろごろと転がった、僕の静かな思索の場を。

 壱話 赤子をよばう


 友というものは、きちんと選ばなければ後々苦い後悔が残るばかりだ。
 僕が関信二と初めて出会ったのは、大学に入ってしばらく後、五月の麗らかな日の照る午後の事だったと記憶している。もう六年かそこらは前の事だ。その頃僕はまだ酒も覚えてはおらず、腹に凝る様な鬱屈は抱えながらも筆で書き飛ばし、恐れ知らずにもそれを方方の識者に向けて送りつけては渋い返事を受け取り、といった活動を始めていた。いずれ来たる梅雨と酷暑と秋曇と冬の絶望を知らず、燦々さんさんと降り注ぐ春の太陽を己の前途全てと取り違えていた時代だった。
 何だったかの講義を終え、特に勤勉に質問をすることもなく講堂から退散した僕は、出口付近で後ろから声をかけられた。
「よう、確か君、何やら書き物をしてるって話の奴だろう」
 僕は振り返ってじろりと相手を見定める。擦り切れた紺色の袴。背はあまり高くない。情も薄そうなあっさりとした顔立ち、細い目に眼鏡。式典か何かで見かけたことくらいはあったかもしれないが、取り立てて顔を覚えてはいない相手だった。妙に態度が大きく、気安い調子で話しかけてくる。
「なんだか無闇に大きな男がそうだと聞いた。珍しいな、文学の方には行かなかったのか」
 出会い頭に手際がいい事であるが、ここで彼は僕の神経をふたつほど素早く逆撫でした。僕は中学生の頃から目立ちたくもないのに図体ずうたいが大きくて難儀していたし、文筆の道を志していた癖に父親の意向に唯々諾々と従って経済学部に所属していることは、春の光溢れる日々に落ちる静かな影であったからだ。
 だから僕は、特に返事もやらずにそのまま歩いて去ろうとした。闖入ちんにゅう者はなおも横にぴたりとついてくる。
「待て待て、頼みがあるんだよ。大学新聞作りに誘われたんだが、どうも人員不足で紙面が埋まらないときた。だから筆の立つ奴を探して……」
「頼みなら、まず名前を名乗ったらどうだい」
 神経が逆立った気分のまま、苛々とそれだけ言う。細目の男はほう、と初めて気づいた様な顔で口をすぼめた。
「これは失敬。関信二という。箱根の関の関に信用の信。二番目の生まれだ」
 どうも信用という言葉が似合いの男とも思えなかったが、何か執筆をさせてもらえるかもしれない、という誘いには少々心が動いた。
「確か大久保君だったな。下の名前は……」
「純。純真の純」
「自分で純真とは恐れ入るな。まあいいや。詳しい話をさせてくれよ」

 そうして関は、僕の背を押す様にして不良学生共の集まりに連れ込んだ。僕の会心の随筆はあまり受けが良くなかったし、関は特に礼もしてくれなかった。おまけに大学新聞部に出入りするうちに僕は酒を覚え、今では立派な酒浸りである。名前についても、何が純真だ単純の純だろう、と散々からかわれるのがお決まりになる。悪友とするにも最悪な思い出と言わざるを得ない。
 それでも、何故か腐れ縁は卒業の頃まで続いた。借金をした僕の後ろめたさもあってしばらくは行き来が途絶えたものの、ここ一、二年ばかり、彼は何故か僕の下に面倒事ばかりを持って来るようになった。
 その極めつきが、今回のこの怪談記事、という訳だった。

 関と僕が最初に訪ねたのは、現在は目黒にある高等女学校の教師をしているという、松代まつしろ圭吾けいごという元同級生の家だった。
「手近な人間をネタにするなよ」
 そうぼやくと、逆に胸を張られる。
「人脈の有効活用と言ってくれ給え」
 外界はそわそわと蟬時雨が響き、落ち着いた道を行く人々の服装も軽やかに、じっとりとした空気の他はいい季節だ。夕暮れの空も綺麗に染まっている。出不精の僕も、少しは外を歩きたくなるというものだ。
「たまにはこうして出かけるのもいいものだろう」
 関が心を読んだような事を言う。それは正論だが、脅されすかされて気の向かない仕事に向かうことは確かなのだ。どうも釈然としない。
「何、俺は君を心配して言ってるんだぜ。一時は籠りきりだったそうじゃないか」
「あれは仕事が溜まっていたからで」
「溜まるほどの仕事が来るような売れっ子か、君は! いや実に羨ましい。牛鍋でも奢れ」
 わざわざ心配だ心配だと強調する男が本当に心配するものだろうか。確かに冬の頃の僕は寒さにやられ鬱々としていたのは事実であるが。今は陽光も燦々と眩しく、明るい季節を誇るかのようだ。そうだ。この時間に聞く怪談ならそう怖いことも無かろう。あれは夜の闇のあわいに流れるから恐ろしいのであって……。
「おい、着いたぜ。どこまで行く気だ」
 考え込んだ結果、危うく僕ひとり、松代の住まいであるアパートメントを通り過ぎるところであった。慌てて駆け戻る。いつものこととて関は見向きもせずさっさと建物の階段を登っていった。
 屋内に入ると日差しは遮られるが、空気はどこかむっと籠ったようである。三階へ行くまでに着流しの襟元がじっとりと湿った。
「普段動かないからそうなる」
五月蠅うるさい」
 ふう、と息をつく僕に関はからかいの言葉を投げる。僕が短く言い返すと、彼は肩を竦めて呼び鈴を鳴らした。
 りん、と音が鳴る。中から足音が聞こえ、松代が顔を出した。甘い顔立ちに、なかなかの洒落た色男と昔は評判だった。今も様子はそれほど変わっていないが、心なしか瘦せて、顔色が青白い気がする。
「やあ、よく来てくれた」
 松代は我々を中に招いてくれた。広くもない、単身者向けのアパートメントだ。日当たりは悪くない。そこそこ綺麗に片付いており、真鍮しんちゅうの縁取りをされた大きめの姿見なぞが置いてあるのが松代らしい。そこにはやたら上背ばかりある、よれた着流し姿のしょぼくれた男───つまり僕が映っていて、じっとりとした目つきでこちらをねめつけているように見えた。慌てて目を逸らす。そうしてぐるりと辺りを見渡した時、僕はなんだかよくわからない居心地の悪さを感じた。
 何だろう。匂いか。色か。ほのかに漂う、決してそれ自体は悪い物ではないのだが、こちらを拒否するかのような、そんな空気があった。気にはなったが、あちこちを覗くわけにもいかない。もしかすると、恐怖で些か神経が敏感になっているだけかも知れないな、と大人しく示された座布団に座った。
「いや、助かったよ。知り合いにあちこち連絡をしたら、丁度君がいい話を知っていると言うじゃないか」
「大した話でもないさ。ただ……僕の方も人に話しておきたくてね」
 おや、と思う。妙に切羽詰まった声音に聞こえたからだ。ともあれ、僕の役目は話を聞いて、せいぜいいいところで怖がることくらいだ。覚悟を決める以外にすることはない。目に入る姿見を横目で気にしながら、僕は覚悟を決めた。
「ああ、ちょっと待って……」
 関は使い古された手帳を取り出す。そして、ほんの少し顔を引き締めると松代を促した。
「今日は取材に応じて頂き有難う。それでは、始めてくれ給え」
 松代は頷き、語り出す。それは、こんな話だった。

 これはつい先頃、一週間も遡らぬ頃に松代自身が経験した出来事なのだという(僕が「先週か!?」と声を上げたところ、まだ早いと関に鉛筆で叩かれたため、後は意地でも静かにしている事にした)。
 教師の仕事というものは門外漢が想像するよりもよほど忙しいものなのだそうで、その日も日が落ちる頃まで松代は課外活動の見回りだの次の日の準備だの、用事を済ませるために立ち回っていたのだそうだ。
 職員室の窓の外は徐々にだいだいに染まり、照らされる影もゆらゆらと長く色濃くなって来た。西日に目を射られながらも松代は作業を続けた。主に生徒の日誌の確認だ。面倒ではあるものの、時折新鮮な文章も飛び出す、なかなかに楽しい作業だった、と言う(関は女生徒の日誌という単語に妙に興味を示していた風だった)。
 そうして熱中していると、今度はゆっくりと外が暗くなってくる。黄昏たそがれ時だ。空は未だ橙と茜を残していたが、しばらくすると手元が見えなくなってくる。不便であるので、そろそろ電気を点けるか、と椅子をひいた時だった。
 足元に赤ん坊がいたという。それも生まれたばかりの様子の、あの薄ら赤く、湿った肌をした、人間とは別の生き物のような赤ん坊が。
 松代はぎょっとし、椅子から立ち上がろうとした。尋常の、這うことも出来ないような頃の赤ん坊がこんな場所に居ようはずもない。だが、それは案外に素早く動き、全身で松代の脚にしがみ付いた。
「な、ま、え」
 思ったよりもよほど強い力であったと言う。ぎゅう、と脚が締め付けられ、みしみしと音がしそうだった。そして、赤ん坊は何か声を発してすらいたのだ。
 松代は、ぞっとしながら振り払おうとした。赤ん坊は力を増して締め付けてくる。
「なまえを、よんで」
 それは、にい、と大人のように笑った。松代は肌にふつふつと湿疹が出来そうな、嫌な恐怖に慄然とした。
 小さな赤ん坊の口には、既に不似合いにも真白い歯が全て生え揃っていたのだ。
 大声で叫んで床に転ぶ。無様に這いつくばって逃げようと試みた。そこに、がらりと戸が開いて、声を聞きつけた他の教師が慌てて駆け込んできた。
 赤ん坊は、残念そうにゆるゆると引き下がり、どこかに消えてしまったと言う。

「なるほど……!」
 関が身を乗り出し、部屋の隅に下がって耳を塞ぎかけていた僕をちらりと見る。期待通りの反応だったかどうかは知らないし興味もないし、一刻も早く帰って水割りでも飲みたかった。蚯蚓みみずと赤ん坊は苦手だ。どちらも地面をうぞうぞと這う。
「それで、その後は」
「それきりさ。何かいい因縁があれば君の記事には良かったかも知れないが──学校が建ったのが産院跡だったとかね──残念ながら何もなかった」
「そうだなあ。君が連続嬰児えいじ殺害魔だったとかな」
 松代は当然ながら嫌な顔をする。関はこういうところが馬鹿だ。冗談の勘が悪い。
「まあいいさ。適当にデッチ上げ……整えるからな。大久保も実にいい反応をくれた。満点だよ」
「そんな満点は要らん」
 座布団に戻ると、僕は仏頂面で呟く。
「いや、聞いてくれて良かったと思うよ。どうも本当にあった話なのかどうか自分でもあやふやで……途中で来てくれた同僚も赤ん坊は見たようなそうでもないような、とどうも心許なくてね。その後は何もないし。だから、少しスッキリしたよ」
「有難う、なかなか良かった。記事になったら一部送ろう。勿論名前は伏せるさ」
 関は立ち上がる。
「さ、そろそろおいとまするぜ、大久保。まさか腰を抜かしてはいないよな?」
「馬鹿にするなよ! ……足が痺れただけだ」
 松代が笑い出した。少しは元気が出たらしい。道化になった甲斐があったというものだ。なりたくてなった訳ではないのだが。
 僕はじんじんとする足を強いて立ち上がらせた。その時、何か松代の持ち物にしては綺麗な物が床に落ちているのが目に入る。細長いリボンか何かだ。髪を束ねる為の物だろう。
 ああ、と先に覚えた居心地の悪さの正体に得心がいった。女だ。松代には女が居るのだな、と思う。しかもリボンの鮮やかな赤の色味からすると、若い女だ。羨ましい事だな、と僕は思った。酒瓶と万年床の我が家とはおよそ事情が異なる。
 僕と関はそれから松代宅を辞した。少し昔話でも、と思わなくもなかったが、関に急かされる。彼はどうもその辺りの機微に疎い。人を駒のように見る癖があると言うか、早い話が人でなしである。
 重い扉が閉まる。関は満足そうに頷いていた。外は黄昏の薄闇が静かに辺りを染める頃合いになっていた。何となく先の赤ん坊を思い出してしまい、背筋が痒くなる。僕らはそのまま階段を降りようと足を踏み出した──。
 瞬間、物凄い叫び声が聞こえた。今まさに出て来た部屋の中からだ。松代だ。僕らは顔を見合わせた。あの話の後だ。まさか、と思う。僕は恐怖から、関は恐らく保身から、扉を再び開けるのを躊躇ためらった。
 ばん、と大きな音を立て、中から扉が開いた。顔をひきつらせた松代が飛び出してくる。脚には──何か、肉の赤の色をした小さな物がひしとしがみついている。
 僕は、ぞっと体温が冷えるのを感じた。それは確かに赤ん坊だった。目が合ってしまったのだ。それは、確かに笑っていた。愛しい人を眺める時の笑み、のようだった。
 松代は脚を引きずりながら滅茶滅茶に走ろうとし、そしてぐらりと体勢を崩し──僕らの目の前で、階段の手すりを乗り越えるようにして真っ逆さまに落ちていった。
 ぐしゃ、と嫌な音がした。僕は嫌だ嫌だと思いながらも薄目で下を見る。脚と腕が奇妙に捩じくれた松代が倒れていた。赤ん坊はもう何処にも居なかった。
「ありゃあ、担架だな」
 関が妙に冷静な声で言った。顔は少し青くなっていたようだが。

 松代は気絶したまま担架で近くの病院に運ばれた。命に別状はなく、ただ大きな怪我としては左手と右脚の骨が無惨に折れているとの事だった。少しばかりほっとする。人でなしの関は少々つまらなそうにしていたが。
「ただ」
 話好きそうな看護人ナースが少し気遣わしげに言う。関の細い目が嫌な感じにきらめいた。
「おかしいんですよ。手の方は綺麗にぽきりと折れているんですけど……。ただ脚が。階段から落ちただけであんな風に骨が砕けるものかしら」
「ほう、ほう!」
 関よ、関よ。確かに人の不幸は君の飯の種かも知れんが、その態度を表には出さない方がいいと僕は思う。
「まるで……そう、大きな何かに挟まれたみたいで」
「そりゃいい」
 さすがにこれは小声で言うと、手帳にさらさらと書き出す。
「なあ、大久保。これはどうもあの赤ん坊、松代の奴と因縁があると思わないか」
「あろうがなかろうが僕はもう手を引きたいよ。あんな物何度も見たくはない」
「なんだ、友達甲斐のない奴め」
 これはお前には言われたくない、と思う。腹が立つと途端にアルコールが飲みたくなってきた。病院には消毒用くらいしかあるまいが。
「俺はもう少し調べてみようと思うよ。進展があったらまたそちらに行こう。電報の方がいいかな」
「連絡がない方がいい」
「直接だな。よしわかった」
 何もわかってはいない。
 結局松代は目を覚ましてもしばらく恐慌状態が続き、僕らは夜も更けきらぬうちに病院を退散した。

 再び関が牛込の我が家を訪ねて来たのは、二日後の事だった。額に少し汗をかいて、片手に何か袋を持っている。昼になってから起きた僕は、陽光の眩しさに目を細めながら渋々彼を迎えた。
「何か進展はあったのか」
「何もない。だから直接本人にまた話を聞こうと思ってね。流石にもう落ち着いたろうよ」
 やはりこの男、友人を心配する気持ちは微塵みじんもないと見た。
「嫌だなあ、行きたくない。あの赤ん坊、昨日も夢に見たよ」
 うなされて汗みずくで起きて、落ち着くのにブランデーの気付けが必要だった。悪夢である。
「何、今日は真昼の盛りじゃないか。あれは黄昏の頃に出るのだから心配はなかろうよ」
「そういう問題じゃあないだろう」
 話を聞くのが怖いのだから、と言い募ろうとしたところ、またも証文をごそごそと取り出そうとするので止めた。関は悪びれず言う。
「まあまあ、とにかく行ってみよう。何もなくても友人の見舞いは出来るのだし」
 だからそれを先に持って来るものだろう普通は、と思った。

「ああ、よく来てくれた」
 病室では弱々しい声で松代が迎えてくれた。脚と手は不格好に吊られており、首や頭にもぐるぐると包帯が巻かれている。
「この様だろう、動けなくてなかなか辛い」
「大変そうだな」
 関は口先ばかりで言うと、手に持った袋から桃を取り出した。隠しから小刀を取り出し、するすると器用に皮を剝く。見舞いの品のようだ。
「骨が繫がるまでこうだそうだ」
「酷い折れ方だったんだって?」
 瑞々しい、少し時期の早そうな桃は小皿に並べられ、爪楊枝を刺される。よくもここまで準備したものだなと思う。関は人の心の機微はわからないことが多いが、こういった手間は決して惜しまない。
「ああ」
 松代の顔が曇る。
「その……あれだ。君らは見たのか。あの時の……」
「赤ん坊」
 松代はこくりと頷いた。関は頷き返すと……桃を自分で取って食べた。
「おい」
「俺はぼんやりとしか見ていないが、大久保ははっきり目が合ったそうだよ。なあ大久保」
「まあそうだけど、その桃」
「恐ろしい事だよなあ」
 もぐもぐと口を動かしながら彼は問いかける。
「本当に心当たりはないのか」
「ないよ……」
 流石に呆れた声で松代は返す。当然ながら桃を食いたそうだ。あまりに哀れなので僕は加勢してやる事にした。
「おい、それは松代の」
「そんなに美味くはないよ。少し早すぎたようだ。甘みも少ない」
「味どうこうじゃないだろう。松代にも」
「君もひとつどうだ」
「え?」
 僕は目をぱちくりとさせ、思わず答えていた。
「い、いただきます」
「まあ早生わせには早生の良さがあると言う事だ」
 ひとつ摘む。成る程、まだ味が薄いが、果汁が口の中に溢れ出すこの感じは何事にも代え難い。強い酒に漬けて置いておけば、なかなか熟れた味になるのではないだろうか。
 松代が苛々と自由な方の指で寝台の端を叩いている。しまった。そうではない。
「松代、今持って行ってやるからな……」
「その前に。松代。どうなんだ。本当になにも知らんのか」
「知らないと言っているだろう……」
「松代」
 桃をもうひとつ、関は持ち上げてゆらゆらと振る。
「少し青臭いところが、俺はなかなか」
「ああ、もう、わかった、わかったとも!」
 彼は叫ぶように言った。ふたつ目を摘もうとしていた僕はその声に驚いて取り落としてしまった。皿の上で良かった。
「心当たりという程じゃない……が、赤ん坊というキイワードには覚えがある。それだけだ」
 関は僕の方を見てニヤリと笑って見せた。これではこいつと僕が示し合わせて脅迫でもしたようではないか。実に心外だ。嚙み締めるふたつ目の桃はやはり美味い。
「……女が居たんだ。ある日急に子供が出来たと言い出した。僕は産ませるわけにはいかなかったから、産科に行かせた。医者はあれこれ診察をして、女は妊娠なぞしていないことがわかった」
「そんなに簡単にわかるものなのか」
「月経が止まっていなかったんだそうだよ。馬鹿らしい。そんな事も考えずに狂言で気を引こうとしたんだ」
 それが証拠に、しばらく経ってもその女の腹は少しも大きくならない、と彼は言う。僕は少し、頭がくらくらとしていた。
「狂言とは限らんだろう。本人は信じ込んでいたのかもしれん」
「どちらだって同じようなものだ」
 吐き捨てる様に言う。
「とにかく、僕にはそいつと添い遂げる気もなかったし子供も要らなかった。結局子供は居なかったのだから、何も問題はない。赤ん坊の幽霊なぞに襲われる事なんてある筈がないのだ」
「お前、少しは考えて物を言え。命の尊厳を何と心得ている。大体お前の無責任が全部の原因だろうが。問題がない訳がない」
 腹がむかむかとして、つい大きな声を出してしまった。こんな事を言い出す奴だったとは思わなかった。
「大久保の言う通りだぞ」
 意外な事に、関が口を出してきた。この男が倫理を説くとは思えないが。
「問題がない訳がない。現に赤ん坊は現れているんだ。つまり、赤ん坊の怪異は単なる『赤ん坊の幽霊』ではないという事になる」
 そこか、というのと、また訳のわからん事を言い出したな、というのとで僕は顔を歪めた。
「そこを間違えると大変な事になるぞ。根っこを確かめないと撃退も出来まいよ」
「撃退?」
 僕と松代は口を揃えて言った。
「そうともさ。撃退だ。いいかね、諸君。俺はこの怪異をどうにか退治して友人たる君の命を守ろうと言うのだ。そうして、子細を我が紙面に連載し売り上げを……」
「危険に過ぎる!」
「大久保。お前はいつもそうだな。口先で人情めいた事を言っては大事になると及び腰だ」
 痛いところを突かれたが、だが、それの何が悪い、と思う。文士はブン屋ではない。わざわざ相撲の最前列で砂を被るような稼業ではないのだ。
「俺は違うぞ。中身は欲得ずくだが、やることはやる。金の為だがお前は守る。どうだ、松代。俺に任せてみないか」
「当てはあるのか」
 松代は掠れた声で言った。関は頷く。
「取材で知り合った、霊験あらたかなその筋の知り合いが居る。御本人は忙しい身だが、霊符くらいは分けて貰えるさ」
「頼む……」
 ああ、と関は力強く言った。松代は力が抜けたような顔になる。やはり恐怖はまだまだ強かったのだろう。
「桃をやろうな。もうあまり残っていないが」
 もぐもぐとしながら関は言い、皿を松代の自由な方の手に近づけてやる。半分は彼が食した。
「安心しろ。俺と大久保に任せろ、な」
 松代が泣きそうな顔で何度も首を縦に振った。巻き込まれた僕は全くもって釈然としないまま、首を捻っていた。
 と、外から戸を叩く音が聞こえた。それから若い女の失礼します、という声。松代がハッとした顔になり声を張った。
「ああ、入って来給え」
 戸が開いて中に来たのは、若いというよりは幼い、女学生らしき少女だった。見舞いらしき袋を抱え、緊張した顔で松代と、見知らぬ人間である僕らを交互に見ている。
「あの、学級の代表で来ました」
「うん、わかっている。そういう訳だ。今日は有難う」
 後半は僕らに向けた物だった。関と僕は顔を見合わせ、帰るか、と頷き合う。桃の皿は脇の机に置かれた。
「それじゃあ、養生し給えよ。また来る」
 出口に向かう時、セーラー服姿の女生徒とすれ違った。彼女はお下げを揺らしながら、心配そうに寝台に近づく。全く慕われた物だな、と思ったその時、揺れる髪を結ぶリボンが目に入った。鮮やかな赤色のそれは、どこかで見たような──いや、僕は覚えている。松代の部屋だ。僕はあの床のリボンを見て、松代には若い女が居ると思ったのだ。よくよく見れば、リボンは右と左とでほんの少し色味が違う。
 僕はゾッとした気持ちで一瞬立ち尽くした。関が腕を引く。慌てて病室を出る。
 松代は、生徒に手を出して居る。あの女生徒がその相手だ。
「……随分やらかしているな、あいつ」
 廊下を歩きながら、関が薄い顔に厳しい色を見せる。
「あれじゃあ仕方がないのかも知れんな、少しくらいの火傷は」
「あいつ……あの子は」
「君も気づいたのか」
 犬がいつの間にか芸を覚えていたのを見る時のような顔で、関は僕を見た。
「あの空気は出来てるよなあ。あいつ、邪魔だからって俺たちを追い出しやがった。あんなに必死だった癖にな」
「空気は知らんが、物証があった」
「なるほど。お盛んな上に始末も甘い。どうしようもないな」
 ふう、と息を吐き、早生には早生の良さがある、と呟いた。それにしても、一日でこれほどまでに松代の評価が地に落ちようとは思わなかった。
「だが、助けるぞ」
「君は……」
 関の声は、意固地な程の響きに満ちていた。僕はそこにある物が何か知っている。それは決意と言う。
「いかな下劣な野郎とは言え、人間であるのは確かなのだからな」
「君は、まだあの赤ん坊が来ると思ってるな。何故だ?」
 看護人が何やら詰まった箱を重たそうに運んでいく。関はそれを避けながら振り返った。
「あんな怪異を起こす様な奴が、骨の一本二本で済ますとはとても思えないからさ」
 次があればあいつ、死ぬぜ。彼はそう言って陰鬱に笑った。

 その女生徒と出会ったのは、病院の建物を出てすぐのところだった。入り口近くの塀の辺りをうろうろとしていたのだ。制服も髪型も先の病室の生徒とほとんど変わらない。背が少し低いくらいだろうか。同じような少女が三、四人並んでいれば誰が誰だかすぐにわからなくなってしまうような型の平凡な娘だった。
「君。もしかすると松代先生に用事かい」
 呼びかけるとさっと顔色が変わった。即座にくるりと僕らに背を向けて去ろうとする。
「大久保」
 そう言うと関は素早く彼女を追い抜き、前を塞いだ。僕は後ろに立ちはだかる。少女は怯えた顔で鞄を抱えた。まあ、無理もなかろう。これは悪漢の所業である。僕はもちろん、中背の関ですら少女よりはよほど大きい。
「ああ、お嬢さん。我々は別に人攫いだとかではないよ。大丈夫。少し話を聞かせてもらいたいだけなんだ」
「なんにも」
 首を横に振る。お下げ髪が揺れた。
「知りません」
「いや、本当に怖い事をするつもりはないんだよ。俺たちは松代先生の友人だ。どうしてあいつがあんな酷い目にあったのか、それを調べてるだけなんだ」
 関は続ける。少女はガタガタと震え出した。
「私……私、なんにもやってない」
「別に君を疑っちゃ……いや、待てよ」
 関はジロジロと無遠慮に少女を眺める。大人しそうで、目の下に黒子ほくろがあるのが特徴と言えば特徴、といったくらいの、本当に平凡な子だ。あまりに縮み上がっているので、さすがに哀れになってきた。第一、この布陣は通行人からの印象があまりに良くない。
「なあ、関。いい加減に……」
「大丈夫だ。大丈夫だよ、お嬢さん」
 関は猫撫で声を出してなおも続けた。
「どこか落ち着いた場所でゆっくり話したいんだ。その……赤ん坊の話をね」
 それが止めだったらしい。女生徒はびくりと震え、急に大人しくなった。
「私、本当に……違うんです……」
「わかってるさ。わかってる。なあ、俺達は君を助けたいんだ。本当だよ」
 手練手管、という奴だろうか。関は泣きそうな女生徒をなだめるようにして話を聞く事に成功したようだった。呆れるばかりである。
「ここいらだと、いい喫茶店があるよ。席が広いし、煙草臭くない」
 死刑執行間際のような顔の少女に比べ、関は何だか饒舌で陽気だった。いいネタが摑めそうだ、とでも思っていたのだろう。

「そう、ですか。赤ん坊、ご覧になったんですね」
 喫茶『海鷗かいおう』は確かに悪くない店だった。酒が出ないのはともかく、蓄音機からは静かな音楽が流れ、珈琲コーヒーの味もなかなかだ。
 女生徒、名を菅沼すがぬま透子とうこ嬢は目を伏せ、観念したような顔で呟いた。
「あの、本当に全部秘密にしてくださいね」
「勿論だともさ」
 関はずるい男だが、こういうところで噓はつかない。記事にはかなり作為の入った出鱈目でたらめが並ぶ事になるだろう。
 去年からずっと担任の先生だったんです、と透子嬢は語った。
 学級の委員を務めていた彼女は、自然松代と接触する機会も多く、一度自宅に招かれたのを切掛けに深い仲になっていたのだという。
 誰にも言えぬ関係ではあるが、それなりに安定していた二人の仲が急に変化したのは、やはり透子嬢の妊娠疑惑が持ち上がってからだった。
「どういう訳かわかりませんが、私、絶対に赤ちゃんが出来たって思い込んでいて。ただ体調を崩しただけなのに先生にわざわざ伝えてしまって」
 不安だったのかもしれません。そう言って彼女は薄く笑った。不確かな関係をより強固にするよすがが欲しかった、ということだろうか。だが、松代は狼狽ろうばいし、激怒し、結果最悪の形で透子嬢を捨てた。
「これは仮の話だけれど、松代との事を暴露してしまうというのは考えなかったのかい」
 僕は気になった事を聞いてみた。透子嬢は首を振る。
「そんな事があかるみに出たら、私も学校に居られなくなってしまうし、それに……」
 そこから先は無言だったが、何となく推察は出来た。未練がまだあったという事か。こんな酷い男にも。
「だからそれでも私、黙って耐えていようと思って。上手くいっていたんです。先生が前田まえださんと歩いているところを見るまでは。私、許せなくて。頭がわっとなってしまって」
 前田、というのは先の病室で会った女生徒のことだろうな、と予想がついた。松代は性懲りもなくまた生徒に手を出したのだ。
「でも、それだけです。そしたら先生が職員室で何かに襲われたって噂が立って、実際あんなことになって。心配で病院に行こうと思って、それだけです」
「それだけじゃないだろう。君は赤ん坊のことを知っていたんだから」
 関は珈琲をすすり、カップを置いた。眼鏡の奥の目が鋭く透子嬢を射た。
「君、何かしたんじゃないのか」
「…………」
 透子嬢は下を見た。ぎゅっと手を握る。まるで万引きか何かを咎めているような空気になった。そうして、彼女は絞り出すように告白をした。
「おまじないを、しました」
「お呪い?」
「学校で少し流行っていたものです」
 関はふん、と鼻で笑った。
「最近の学校じゃ恐ろしいものが流行る」
「違います」
 遮りながら彼女は、頭を大きく横に振った。
「違うの。そんな大したものではなかった筈なんです。気持ちが離れてしまった人に、想いを伝えるって、それだけなんです。でも、私の場合、あんな物が生まれてしまったんです」
「あの赤ん坊だね」
「はい。先生が襲われるたび、あれは私のところに帰って来ました」
 ガタガタと震えながら彼女は言う。
「あれ、私の生まれて来なかった赤ちゃんなんです。きっと」
 沈黙が降りた。管楽器の響きが柔らかく店内を包む。
「そういう他愛のないはずのお呪いが、実際に力を持ってしまうことってのは、ままあるようだな」
 関が再び切り出す。
「儀式に本当に意味があった場合か、実行者の意志がどうしようもなく強かった場合か」
「私、でも、先生にあそこまでのことをしたいなんて思ってませんでした」
 透子嬢が反論する。
「それは、恨めしい気持ちはあります。でも」
「ああいったものは、融通の利かないレンズのようなものだ。君の心を正確に映して勝手に拡大して、独り歩きする」
「詳しいな」
「昔取材した事があるよ。恋に効く呪いっていう触れ込みで黒魔術めいたことをやった女生徒がいた。結果、周囲の五、六人が死んだそうだ」
 嫌だ。彼女は小さく呟く。
「どうにか出来ないんですか」
「呪いを解く方法は?」
「知りません。紙に名前を書いて燃やして、それきりだから何も残っていません」
「だとしたら、再びあれが現れた時に返り討ちにしてやるしか……」
 関の声が止まった。おい、とだけ言ってそっと指を伸ばす。
 その先の床、透子嬢の足元には、あの赤ん坊がニヤニヤと笑いを浮かべて居た。
 ガタン、と音を立て、僕は椅子の上によじ登るようにして震え上がった。同じ床の上にいるのが恐ろしい。透子嬢が色を失った。
「なまえを、よんで」
 一言、歯の生え揃った不自然な口でそう言うと、赤ん坊はするすると這って、ふいと消えてしまった。
「おい、これ、まずいんじゃないのか」
「ああ、松代のところに向かったと見て間違いない」
 関は立ち上がる。
「お嬢さん、急いで付いて来てくれないか。対処できるかどうかはわからんが、とにかく追いかけて止めるしかない」
 透子嬢は依然色を失っている。関は彼女の肩を摑んだ。
「あんな野郎でも人間だ。命がある。俺は」
 関は、妙に強い口調で続けた。あの人でなしが。
「俺の目の前で、むざむざ人に人を殺して欲しくはない」
 彼女はこくこくと頷く。半分泣きそうだったが、それでも立ち上がって鞄を抱えた。
「行くぞ大久保。逃げるなよ。まだ証文はあるんだからな」
 椅子の上で縮み上がっていた僕は、心を読まれたような気持ちになる。僕は、もう本当に帰って寝ていたかったのだが、どうにか震える手で懐からジンの小瓶を取り出し呷った。酒の香りと酩酊めいてい感が、どうにか僕のなけなしの勇気を守ってくれた。
「わかったよ。行けばいいんだろう!」
「その意気だ。マスター、悪いけど会計は帝都読報のツケで頼む」
 僕ら三人は、急ぎ外へと飛び出した。駅前は薄暗い、黄昏の曖昧な闇に包まれつつあった。
「赤ん坊の這う速さだ。こちらの方が先に着ける」
「なあ、さっきの。『なまえをよんで』というのは一体何だ?」
 松代の体験談にも出て来た言葉だ。僕は何故かどうにも引っかかった。
「あれがこの子の赤ん坊なら、何か名前を付けたりしてたんじゃないのか」
「いえ、そういうのは特には……」
 早足で行くと、直ぐに病院の前に着く。面会時間外だが、関は守衛と看護人に幾ばくか握らせて中へと入った。そのまま松代の病室を目指す。
「じゃあ、あの言葉は何なんだろう」
「わかりません。関係あるんですか、それ」
 松代の病室の前で透子嬢が顔を歪めた瞬間。
 ずる、と何かを引きずる様な音がした。
 ゆっくりとそちらを見ると、廊下を裸の赤ん坊がゆっくり這って、こちらに近づいて来ている。僕らは慌てて病室の中に駆け込んだ。
「松代、気をつけろ!」
 ひとり寝台の上に寝かされている患者はひどく驚いた顔で僕らを見る。それはそうだろう。僕らだけではない、自分が捨てた少女が付いて来ているのだから。
「話は後だ。赤ん坊が」
 はっと関は口を噤んだ。廊下に居た筈の赤ん坊が、寝台の傍をずるずると這っている。
 生まれたての、湿った赤い肌のくしゃくしゃした赤ん坊が、手探りで周りのものを避け、ばたばたと足を動かして。
「なまえを、よんで」
 またあの言葉だ。関が手元から消しゴムを投げた。それは赤ん坊を通り抜けて地面に転がる。実体が、ないのだ。
「よんで」
「おい、何だ。止めろ。来るな。お前の名前なんて知るか」
 松代が動く方の身体をガタガタと揺らしながら悲鳴を上げる。身動きが取れぬ状況で何者かにじわじわと近寄られる恐怖を思い、僕は心底ぞっとする。
「助けてくれ」
「止めて」
 透子嬢のか細い声が重なった。
「止めて。ごめん。私が悪かったの。もう止めて」
 駆け寄って抱こうとするが、やはりその手もすり抜ける。
「なまえを」
 寝台の下で、赤ん坊は抱っこをせがむ様に両手を広げた。
「せんせい」
 その場の全員が、凍りつく様に動きを止めた。
「せんせい、だいすき」
 そうだ。そうだったのか。僕は不意に、土砂降りの中雷に打たれたように合点がいった気がした。覚えがある。点と点が繫がる様な、あの身体が震える一瞬間。
「と」
 息を吸って、吐き出すように、声を絞り出した。尋常でない力が必要だった。先程ジンを飲んでおいて良かった。
「透子さん」
 僕は震える声で名を呼んだ。青ざめた顔の透子嬢がこちらを向く。そして、清潔な寝台によじ登りかけた赤ん坊が、ぐりん、と首を回す様にして僕を見た。
 微かに瞼が下りる。お前ではないと言いたげに。そうして、またじわじわと松代に近づくことを続けた。
「今のは……?」
「透子さん。わかった」
 僕には勇気がない。今にも気絶しそうになりながら立っている。関の様にいざという時に機敏に動く事は出来ない。賢く立ち回ることも出来ない。ただの酒浸りだ。だが、ひとつだけ出来ることがあったことに、ようやく今気づいた。
「あの赤ん坊は君の子供ではない。君の子供はどこにも居なかった。あれは、君自身なんじゃないのか」
 横に立ってじっと黙って、人の心を観察し、物語を綴ることだけは、関には出来ない、僕のなけなしの得意技だ。
「松代に、先生に名前を呼ばれたかったのは、君だろう。先生を憎んでいたのも、大好きだったのも君だろう!」
「止めてください、あんなの私じゃない」
 松代が声にならない悲鳴を上げる。ゆっくり、ゆっくりと赤ん坊の小さな手が近づく。関が引き剝がそうと飛びついた。だが、出来る筈もない。
「止めろ。そうだ、名前、名前を呼べばいいのか。幾らでも呼んでやるよ。透子!」
「松代! お前じゃない!」
 懐の酒瓶の事を思う。今は飲んでいる暇はない。酔いの魔法が解けないうちに、どうにかしなければならなかった。僕は叫ぶ。
「違う。本当にあれの名前を呼ばなきゃならないのは、透子さん、あなた自身だろう」
「嫌だ」
 赤ん坊が、じわじわと松代の首を絞めようとしていた。実体はなくても、あちらから触れることはできるらしい。足を砕いたほどの力だ。やがて頸椎けいついは砕けて彼は死ぬ。
「自分の始末は自分でしなさい」
「嫌だ、けど、でも、先生、先生!」
 透子嬢は目に涙を溜めて叫ぶ。
「止めて、透子、私!」
 彼女は、自分自身を受け入れた。醜い想いを、犯した過ちを、果てに生まれた化身を、そして、まだ心の裏に切々と流れる愛着を受け入れた。
 赤ん坊ははっとした顔で手を止めた。ゆっくり、ゆっくりと小さな顔を彼女に向ける。そうして、初めて本物の嬰児のような、透き通った無邪気な笑みを浮かべた。あるいは、透子嬢がいつか秘密の恋人に向けた笑顔は、こんな風であったのかもしれない。
 まだ指も小さな手が松代の首元から離れ、産みの親に向け伸ばされる。透子嬢も勇気を振り絞ったような引きつり顔でつんのめるように前に飛び出すと、そっと右手を差し伸べた。
 指先が微かに触れ合ったのかどうか、それは彼女にしかわからない。ただ、赤ん坊はそのまま、虚空に溶けるようにして消えた。
「…………」
 しばし、病室に沈黙が落ちる。松代は恐怖からか半分意識を失っていた。関は行き場を失った手を、ゆるゆると引き戻す。透子嬢は、しゃくり上げるようにして泣き出した。自分を抱き締めるように、己の身体に腕を回して。
 僕はというと、ジンの小瓶を取り出して、ようやく人心地を取り戻す事が出来た。叫んだ分喉がからからなのだから、これは必要経費。
「何事ですか。一体……」
 看護人が血相を変えて入って来た。関は適当に誤魔化しながらまた何がしか握らせると、僕らを促して外へと出た。

 黄昏の時間は終わり、とっぷりと闇が世界を覆っていた。仄かな街灯や建物の光が闇から僕らを救ってくれている。
「前田さんの名前、呼んでたんです。街で見かけた時。下の名前を。『セツ』って。呼び捨てで」
 半分泣きながら、透子嬢はそれでも、しっかりとした口調で話してくれた。強い娘なのだろう。今回のように、その強さがおかしな形になることもあるのだろうが。
「悔しかった。私も透子って呼んでもらってたんです。学校とは違って、名字じゃなくて。それがとても嬉しかった。先生に名前を呼んでもらっていた時間が、何より幸せだったんです」
 街灯に寄りかかる関の顔は、少し苦笑いだった。奴はこういう心を動かす類の話を受け付ける様には出来ていない。
「だから、もう一度呼んで欲しかったんですね、私」
 涙の跡が残る顔で、彼女はしんみりと呟いた。
「少しは落ち着いたかい」
「わからない。まだざわざわしているみたいです。でも、もうお呪いなんかに頼るのは止めます。全部、自分で抱えていく」
 それが良かろうと思う。いや、何かと酒に逃げる僕には耳の痛い言葉ではあったが。兎も角である。
「先生のことはまだ整理が付きません。大好きだし、大嫌い。でも、助けられて良かったと思う。酷いことをしてしまったから、きちんと謝ります」
 ぺこりと頭を下げる。お下げ髪が揺れた。
「有難うございました」
 そうして、彼女は僕らに背を向け、闇に溶ける様に帰っていった。次があるかどうかは知らないが、また会う時はきっと、僕は彼女の顔を他の少女と間違えはしないだろうと、そう思った。
「……いや、しかしさっきは君に助けられたな」
 関が言う。
「珍しいぞ、怖がりがあんな声を出して」
「僕も夢中で、何が何だか」
「自分の始末は自分で、なんて良く言うよ。酒瓶の始末も自分でやれ」
「うるさいな……」
 そう、僕はと言えば疲弊したまま建物の壁にもたれて立っていた。格好をつけて透子嬢を見送りたかった物だが、もうこれは性分で仕方がない。
「珍しいと言えば、君もだろう。あんなに松代を助ける助けると。何か恩義でもあったか」
「ないよ。第一、俺が助けたかったのは松代じゃない、透子嬢……というか、怪異の本体だ。人殺しをさせたくなかった」
 奇妙に陰翳のある表情で、関はそんな事を言う。らしくないぞ、と言うのも何だか勝手な気がして、僕は口を噤んだ。
「先に、呪いで人を殺した女生徒の話をしたろう。俺は何も事件の目鼻が付かなかった時、その子と少し親しくなった。彼女は自分のせいで周りに被害が出たなぞ少しも思っていなかったよ。そうして全てが明らかになった時、当然の様に酷く衝撃を受けて……」
 とんとん、と爪先で地面をつつく。まるで鶏のようだ。
「俺の目の前で首を搔き切って自死をした」
 自動車がごとごとと通り過ぎる。その灯りが関を照らした。泣いてはいなかった。笑っても。少し怒った様な顔で、関はただとんとん、と爪先を動かしていた。
「いい記事になったよ。だが、俺はもう二度とごめんだと思ったね、そういうのは。人は人を、少なくとも何も知らずに殺すもんじゃない」
「君もそういうことを思うのだな」
「思うさ。まあ、五年に一度くらいね。あとは忘れている。今日はたまたま思い出しちまった。もう忘れた」
 空を見上げる。街の灯りで星が少なくなったと年寄りはこぼすが、それでも夏の大三角は綺麗に瞬いていた。
「あとは、いい具合に誤魔化して恐怖記事に仕立て上げるだけさね。いや、熱血漢の真似事をした甲斐もあった。君の文のいい素材にもなったんじゃないのか」
「そのまま書いても赤本にしかならんだろう。もっと上品にいきたい」
「そうやって選り好みをするから君はいつまでも……まあいい」
 関は身を起こし、帽子のつばを上げた。
「行こうか」
 僕らは街の光に引き寄せられる様に、ゆっくりと歩いて行った。夏の始まりの、じっとりした空気の中を、ゆっくりと。

 一度だけ、筆名を考えようと関に軽く相談をした事がある。秋田あきた放郎ほうろうだとか海野うみの久留染くるしみだとか珍妙な名前を並べられて僕が深く後悔をした頃、彼はふとこんな事を言い出した。
「いいんじゃないのか、本名で。大久保純。純粋の純、純金の純だ。せいぜい金を生め」
 僕は面食らって目を瞬かせ、そうしてそのまま吞まれるようにして筆名の話を忘れてしまった。爾来じらい糊口ここうを凌ぐ為に年少者向けの小説を書く時以外は、そのまま本名の大久保純を使用している。純な文学と胸を張れるような物はあまりないが、それでもまあ、どうにか文士面をしてはいられるようだ。
 苦味の中にひと時だけ混ざった、若い桃の味のような記憶である。

 僕は関の勤める帝都読報なんぞという低俗な、強盗だの殺人だのばかり大きく載せるような新聞は取らないので、関はわざわざ家まで刷り上がった掲載紙を持って来た。曇ったインキの匂いをさせて、彼は僕の部屋の文机に紙面を広げる。
「なあ、見ろよ俺の苦心の作を。きちんと詳細が分からないようにぎして、どうにかなったろう?」
『帝都つくもがたり』と題されたその紙面の八分の一程を埋めた欄には、先の事件について記されていた──いや、これが先の事件の事とわかるのは、僕と関くらいではなかろうか。
『都内某法律事務所に勤めるM氏は、日頃黄昏時に姿を現わす赤子の霊に悩まされていた。(中略)M氏は近くの主婦T夫人と不倫の関係にあり、その痴情のもつれからT夫人は黒魔術の秘儀に手を染めたのだ。(後略)』
「職業から年齢から何もかもが違うじゃないか」
「そこが味噌だろうに」
「君は職業倫理があるのかないのかさっぱりわからんな。いっそ僕の同業になれよ」
 関は呵々かか大笑すると、麦湯をごくりと飲み干した。松代は怪我が落ち着き次第辞表を出すとしょぼくれていた。誰の為にも、それが良かろうと思う。僕は少し苦い感情を飲み込んである一節を指差す。
「大体、ここの文は何だよ」
「おお、そこが一番事実に即したところだ。俺の報道精神の精髄とも言える」
 僕は『O氏絶叫し恐慌のため、取材は一時中止の危機にあったものの』と記された活字をかりかりと引っ搔く。
「そこまではやっていない」
「何を。もう帰りたいと嘆いていた癖に。まあ、次もせいぜいいい悲鳴を頼むよ」
 本当にどうしようもない奴だ。僕は呆れながら冷や酒をあおる。
「次?」
「次だよ。不定期とはいえ連載だ。また心当たりがあるから、一緒に来てくれよ」
「勘弁しろ……」
 時は夏。外は蟬時雨。運勢は恐らく凶。
 僕の災難は、まだまだ終わる気配を見せないようだった。

(このつづきは本編でお楽しみください)
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