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試し読み

母親は熱心な宝塚ファンで、高校生の妹は、オレのあとの風呂は絶対に入らない。――畑野智美『家と庭』試し読み③

好評発売中、畑野智美さんの『家と庭』は、下北沢に生まれ育ったフリーター男子・望の恋と仕事と決意の物語。本作の冒頭を4回に分けて試し読みを特別公開します。
>>前話を読む

 ◆ ◆ ◆

 庭の花は、ばあちゃんとお母さんが世話をして、育ててきた。ばあちゃんが入院して、お母さん一人では手に負えないらしい。この花も、いつかオレのものになる。
「っていうかさ、マンガ喫茶でシャワー浴びればいいんじゃねえの?」林太郎に聞く。
 光熱費節約のために、バイト上がりにシャワーを浴びて帰る奴が何人かいる。
「あっ、僕、湯船ないと駄目なんです」窓の外を見たまま言う。
「ああ、そう」

 バイトのある日は家で夕ごはんを食べるが、休みの日も家にいるのは気まずい。
 学生の時の友達は働いているし、彼女は一年半くらい前からいない。地元の友達は、大学卒業後にほとんどが下北沢から引っ越していった。都内でうちより便利なところは家賃が高い。そのせいか、地方に就職した友達も多い。うちはお父さんも東京出身だから、田舎に対するあこがれのような感情はある。夏休みに、友達が遠くのおばあちゃんの家に行くのをうらやましいと思っていた。でも、自分が地方で暮らしていけるとは思えない。
 行く場所も居場所もないから、休みの日は新宿か日比谷で映画を見て夕方に下北沢に戻ってくる。家には帰らず、南口を出たら右に曲がって商店街をずっとまっすぐに行き、餃子ギヨウザの王将の手前で右に曲がったところにあるマリアに行く。
 マリアは、下北沢に昔からあるバーだ。
 お客さんは、地元の人が多い。演劇や音楽関係者もよく来る。
「こんばんは」
「いらっしゃい」
 ママはいなくて、店員のヨージさんがいた。
「カウンターいいですか?」
「どうぞ」
 バーと言っても、店の雰囲気はカフェみたいだ。カウンター席以外に広いテーブル席もある。テーブルも椅子も流木のような素材でできている。壁はどうくつみたいにボコボコ膨らんでいて、青や白や茶色のタイルが貼ってある。薄暗い照明があたると、海の底みたいに見えた。
 二軒目に来るお客さんが多いから、七時前だとまだすいている。オレ以外には、奥のテーブル席に一組いるだけだ。
「葉子ちゃん、帰ってきてるんだって?」
 ヨージさんがオレの前に立つ。店の雰囲気に合わないごつい身体をしている。前に立たれると、そこに壁ができたように感じる。
「そうなんですよ。文乃ちゃんから聞きました?」
 文乃ちゃんは王将の前にある本と雑貨を扱う店で、契約社員として働いている。ヨージさんも下北沢出身で、文乃ちゃんとは小学校と中学校で同級生だった。子供の頃から仲が良かったわけではないけれど、最近はたまに話したりするらしい。
「なんかあったのか?」
「それが分からないんですよね」
 葉子ちゃんが帰ってきてから、明日で一週間になる。
 お母さんやオレが何を聞いても、葉子ちゃんはメイの転園準備で忙しいとか言うだけで、何も話さない。なんだかんだ言って、幼稚園が始まる前に帰るんじゃないかと思っていたが、昨日の夜には品川のマンションから荷物が送られてきた。和室に運びこんだので、そこを自分とメイの部屋にする気なのだろう。
 明日からメイは幼稚園に通うようだ。転園することをまだ嫌がっているみたいだけれど、文乃ちゃんと弥生に遊んでもらって、機嫌良さそうにしている。
「文乃ちゃんが苦しまないといいけど」
「そうですね。今は、葉子ちゃんに対するイライラとメイに対するかわいいっていう気持ちで、半々ってところですね」
 同級生だったヨージさんが知っている文乃ちゃんと、オレが知っている文乃ちゃんも、違うんだと思う。
「そうか」
「はい」
「で、何飲む?」
「ビールください」
 カウンターの奥に行き、ヨージさんはグラスにビールを注ぐ。オレの前に置いた後、テーブル席のお客さんの注文を聞きに行く。
「こんばんは」扉が開いて、女の人が入ってくる。
 あまねだった。
 会社帰りみたいで、カバンの他にファイルが入った紙袋を持っている。
「よっ!」
「また飲んでんの? フリーターが」あまねは、オレの隣の席に荷物を置く。
「お前だって、飲みにきたんだろ?」
「社会人だもん」
「実家暮らしじゃねえか」
「あんたに言われたくないわよ」
 オレとあまねは、幼稚園から高校まで一緒に通った幼なじみだ。
 幼稚園の頃、あまねの家族はつきかげ荘に住んでいた。あまねのお父さんはミュージシャンを目指していたけれど、たまにライブに出るだけで何もしていなかった。スズナリの裏にある教会の庭やお互いの家で、近所に住む友達とあまねのお父さんでよく遊んでいた。小学校に上がる前に両親が離婚して、あまねはお母さんと二人で近所のマンションへ引っ越した。その後、お父さんがどこで何をしているのか、あまねは知らない。
「ビールもらいますね」
 テーブル席のお客さんと喋っているヨージさんに言い、あまねはカウンターの中に入る。
 大学生の頃、あまねはマリアでアルバイトをしていた。音楽関係のお客さんの中には、あまねのお父さんのことを知っている人がいて、懐かしそうに話していた。その人達も、最近はお父さんと会っていないからどこにいるか知らないらしい。
「何か食べる?」あまねがオレに聞く。
「いいよ。お前、もうバイトじゃないんだから、働くなよ」
 あまねは、大学を卒業して食品関係の会社に就職した。仕事は楽しいみたいだけれど、こういう店で働く方が合っている気がする。OLの読む雑誌そのままのような服装は、コスプレにしか見えない。
「働き者なの。誰かさんと違って」
「オレだって働いてるよ」
「バイトでしょ? 今日だって休みだったんでしょ?」
「うるせえな」
 こういうことを言われると前はむかついたが、最近はどうでもよくなってきた。
 マリアのお客さんの中には、オレよりもどうしようもない生活をしているのに、楽しそうな人がたくさんいる。
「いいよね。金持ちのお坊ちゃんは」
 カウンターから出てきてオレの隣に座り、あまねはめ息をつく。
「なんかあった?」
「なんで?」
「いや、なんとなく」
 嫌みを言われるのはいつものことだ。
 子供の頃からあまねの方がしっかりしていて、「ちゃんとしなさい!」と、言われつづけている。すぐに手と足が出る葉子ちゃんや、オレが何をしても怒らない文乃ちゃんよりも、お姉ちゃんのようだった。それでも、他人だから、これ以上言ってはいけないという線がある。「金持ちのお坊ちゃん」と言われてもオレは別になんとも思わないけれど、あまねはそれは言ったらいけないことだと思っているようだ。
 それでも言ってしまうのは、仕事か男関係で嫌なことがあった時だけだ。
「なんにもないよ。なんにも」ビールを一口飲み、あまねは呟くように言う。
「ふうん」
「何かあればいいのにね」
「何かって?」
「うーん」
 マリアのママやヨージさんから聞いただけでよく知らないが、あまねは不倫しているらしい。「父親がいないから不倫とか、ベタなことやってんな!」と言ってやりたいが、オレが「彼氏いないの?」と聞いた時には、「いない」という答えしか返ってこなかった。ママやヨージさんは、当然オレが知っていると思ったから喋ったのだろうけれど、オレとあまねはそういうことはあまり話さない。
 不倫相手がどんな男なのか、どういう付き合いをしているのか、問い詰めたい気持ちはあっても、あまねが自分から話さないかぎりは聞いたらいけない。彼女のためにオレができることはないと、よく分かっている。
 扉が開いて、ママが帰ってくる。
「あら、早いのね」オレとあまねを見て言う。
「こんばんは」
「お酒だけ? 何か食べなさい」
「はあい」
 メニューを開き、注文する。

 ごはんを食べて酒を飲みながら話していたが、九時過ぎになって混んできたから、マリアを出た。
「夜になると、まだ寒いね」あまねが言う。
「そうだな」
「なんか、この辺り明るくなったよね」
「うん」
 王将から駅まで行く途中には夜になると、ピンク色に光るガールズバーの看板が現れて、キャバクラの客引きが立つようになった。下北沢に来る演劇や音楽の関係者がそういう店に行くのだろうか。
「駅の工事も進んでるし、町が変わっていくね」
「ああ、うん」
 地上にあった小田急線のホームが地下になり、それに合わせて周辺を工事している。何年後かには、ホームがあった場所は広場になって、バスターミナルができる予定だ。道が細くて入り組んでいるため今は、バスは茶沢通り沿いの北沢タウンホールまでしか入れない。北口にある闇市の跡地も、少しずつ取り壊しが進んでいる。
 工事は夜の間に進む。
 駅前を夜通ると、町が変わるのと同時に違う何かも変わっていくんだと感じる。それが何かは分からないけれど、オレには見えない何かが確実に変わろうとしている。
「踏切なくなったのは、便利だけどね」
「オレさ、バイト行く時にあの踏切のせいで、何度か遅刻したもん」
「バッカじゃないのって言いたいけど、分かる」
「あの踏切がなくなって、オレの人生も変わった気がする」
「変わってない、変わってない。それくらいじゃ、変わらない」
「そうかなあ」
 ホームが地上にあった時は、オオゼキの前に踏切があった。
 各停が通り、急行が通り、そろそろ開くと思ったら、ロマンスカーが来る。開いた隙に急いで渡らないと、五分から十分待たされることもあった。出勤時間ギリギリにバイトへ行こうとした時に限って、待たされて遅刻した。踏切で待つのが良かったとか、風情があったとか言っている人もいるが、なくなって良かったとオレは思っている。
 それに、工事中の駅は小田急線と井の頭線の乗換えにどこの階段を上り下りすればいいか分からなくなり、南口と北口を?つなぐ通路は工事の状況で場所が変わり、駅の周辺は新しい店と古い店がせめぎ合い、前以上のカオスを作り出している。小田急線のホームに下りる階段の辺りで信じられないくらい雨漏りしたり、線路が冠水したりしたこともあった。
 再開発反対運動をしている人もいるし、キレイになってしまうのは寂しい気もする。でも、どんなことが起きても、下北沢らしさはなくならない。
 茶沢通りを渡って坂道を上ると、周りは急に静かになる。
 駅周辺のけんそうは、ここまでは届かない。
「じゃあね」うちの前であまねが言う。
「家まで送ろうか?」
「大丈夫だよ」
「じゃあな」
 手を振って坂を上っていく後ろ姿を、見えなくなるまで見送る。

(第3回へつづく)


畑野智美『家と庭』(角川文庫)

畑野智美『家と庭』(角川文庫)


畑野智美家と庭』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321909000280/


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