目が覚めたのか、覚めていないのか分からない。
どこにいるのか分からない。
足が動き、手が動き、心臓が動いている。
耳障りな声はもうしない。うるさくて、鼓膜が破れそうで、口に布を詰め込んだ。
びくびくとのたうっている。足に体重をかける。
指がスコップを
指先が
腕にいくつも細かい傷がついている。爪でひっかかれたような、細くて赤い線がいくつも。
表面がつるつるとしている。湿っていて、何か
人間の目はきらきらしている。
スコップがもう一つの穴を
もう一方は、やや灰色がかっている。
同じ場所から取れたものなのに、少しだけ違う。
色も、輝きも、紐のようなものの形も。
「軟らかくて、
中に水が詰まっているのは知っている。しかし、意外と弾力があって、癖になる触り心地だ。何度もつついていると破れてしまいそうだと思って、そっと包み込む。
もう目を取ってしまったから、器には用はない。
乱雑に持ち上げて、どこかに隠そうと思う。しかし、そんな場所はない。仕方がないから、竹林の中に放り投げる。
空が曇っている。
曇りの日は、雲の白さが目に
人間の目は今、きらきらしている。晴れの日より、ずっと。
少しだけ、腰を下ろす。
周囲を見回して気がついたことは、ここは、妹が捨てられていた場所に似ているということだった。
二つの目を見る。
妹はこれくらいの年だった。
長い髪の一部だけ、耳の上で結んでいた。「うさぎちゃんにして」と可愛くねだってくる声が思い出せる。確かにいた。花模様のワンピースを着ていた。
お兄ちゃん、と呼ばれた気がして振り向く。
誰もいない。
笑いが込み上げる。誰も見ていない。
妹を殺した人間もこのように愉快な気分だったかもしれない。
これはこうれいじゅつだ。
いますぐやめなさい。
わるいものがはいる。
誰の声か分からない。
覚悟を見せた。それだけだ。文句を言われる筋合いはない。
とうとう
大事なもの。
指、舌、目。
捧げたのだ。だから、もう悪いことは何もない。
死んだら極楽はあるんかいねえ、と声が聞こえた。野崎の声だ。
しかし、幸せに死にたいし、死んだあとも幸せでいたいというのは、普遍的な願いで、祈りであると思う。それは、誰にも邪魔されるべきではない。
だから野崎も死んでみて、はたして極楽があったかどうか、確かめたのだと思う。
野崎は笑顔でこちらを見ている。
ということは、極楽は存在したということで、疑いがない。
野崎ももう止めないだろう、頷いている。
頷かれるととても幸せな気持ちになる。
匠もよくこうして、うんうんと頷きながら、隼人の話を聞いた。
なんでもないことでも、うんうんと頷いてきて、気分が良かった。
気分が良かったから、少しはいい思いをさせてやろうと思った。
自分の容姿は他人より優れているという自信があった。ほんの一瞬でも、良い思いをさせてやろうと。これから先、匠が隼人より容姿の良い男に好意を受け入れてもらえることがあるとは思えない。善意だった。
これは、田舎臭い純朴さで、頷いて、隼人をいい気分にさせてくれたことへの礼だった。
善意と善意だったのだ。始まりは。
誰にも責められるべきではない。
「頷いてくれて、ありがとなあ」
隼人は立ち上がり、ゆっくりと足を進めた。焦って駆け足になる必要はどこにもない。
極楽に行くのはもう決まりきっている。
みんないるのだ。寂しくない。これが正しい形だ。
目の前に一本道が通っている。いや、違う。もうある。
隼人は少し低い場所に立っている。周りは斜面になっていて、そこにぽつぽつと、ほとけがいる。
まわりまわりのこぼとけは
歌がかすかに聞こえて、噴き出してしまう。
歌詞どおりではないか。ほとけが隼人を取り囲んで回っているのだから。
目を握り締めていることに気がつく。慌てて、
これは大事なものだ。
極楽に行くためには、大事なものを捧げる。決まりだ。恩返しだ。
拳を開き、皿のようにする。二つ、きちんとある。
相変わらず、どこに置いていいか分からない。
仕方ないから、自分の目の前に置こうと考える。
そして、
体に衝撃が走った。
すさまじい音がした、と感じたときには、体が投げ出されていた。強く地面に打ちつけられ、身を
こんなに痛くては死んでしまう。
死んで──
隼人は痛みと共に
今まで眠っていたのが、ようやく起きたような思いだった。
複雑なことを考える前に、脳が一つの言葉で支配される。死にたくない。
頰を触ると、あまりの痛みで声が出た。何かの破片が深く突き刺さっていた。
それを引き抜く。
機械油のような臭いが鼻を突く。
バタン、と音がした。人影が見える。よろよろと近づいてくる。
「おい」
津守はぼろぼろだった。
服は元の色が分からないくらい土にまみれ、破れている。
顔には無数の切り傷があり、特にひどいのは口元に斜めに走った傷だった。赤くて、中から何かが飛び出している。
津守だと判断できたのはサングラスのおかげだ。しかし、もうそれもひしゃげていて使い物にならないだろう。
「つ、つも……」
唇が
涙で土埃が洗い流されて気づいた。
大きなトラック。装甲車のように板が
隼人の口から、
信じられない。
津守は、車で家を引き潰した。
壁が崩壊して二階にある物置部屋が露出している。
「ど、どうして……どうして」
隼人の口からどうしてどうしてどうして、そればかりが流れた。
「どうでもえいがじゃろ」
怒鳴るように津守は言う。
「とんでもないことしくさって、クソ、今はどうでもえいわ、今すぐ逃げろ」
何故平然としているのか。
いや、平然とはしていない。脂汗が額から伝って、焦っている。しかし、悪いとは思っていないことも分かる。
他人の家を破壊しても、なんの罪悪感もないのだ。いや、罪悪感がないのは──
「逃げろち言うちょるがじゃろっ」
どくどくと血が流れる頰に、ひやりとしたものが触れた。これは、匠の指だ。
「もういいじゃないですか」
隼人の口が動く。
「死んでみないと分からないじゃないですか」
こんなことを言いたくはない。それでも言葉が止まらないのだ。
「だからもういいじゃないですか、死んでみて、それから判断すれば」
バチン、と音がした。遅れて脳天が熱くなる。
痛くはない。
津守が細い腕を振り上げている。
「馬鹿野郎!」
もう一度頭を
呼吸が荒くなる。
恐ろしいことだ。自分の考えのはずなのに、余計なものが流れ込んできて、自分で考えたことが分からない。
「兄ちゃん」
隼人は声を出さずに津守の顔を見た。
「自分がおかしいってようやく分かったか。もう、色々は言わん」
口元に笑顔が見える。しかしそれは、
「逃げよう。でも、ずっと見つづけろ」
何をか、というのは聞かなくても分かった。ぞろりと取り囲み、こちらを見ているほとけだ。
どこからともなくまた、歌が聞こえてくる。
隼人は鬼なのかもしれない。でも、誰も選ぶ気はない。だから、永遠に回りつづける。
一歩、また一歩と後退する。
目が痛い。雲が
目を
少女の死体だった。吐きそうになる。
それでもどうにか踏ん張って、転ばないようにした。
そのせいだった。
「ああああっ」
津守が絶望的な声をあげていた。
目玉が転がっている。
津守が手を伸ばした。しかし、そんなことをしても、二つの目はすうっと、吸われるように消えた。
「契約だ、約定だ」
声が聞こえる。もう、何の声かは分からない。
ほとけはぐるぐると回りつづけている。
津守がへたり込む。首だけ回して、隼人の方を向いた。
「君……これを、
津守の声が震えている。
同時に、笑いも含んでいる。
そうだ、
諦めた笑いなのだ。
「頷いとるんやない、
一斉に、ほとけの首が、かくりと動き、目が合っ
(気になる続きはぜひ本書でお楽しみください)
作品紹介
極楽に至る忌門
著者:芦花公園
発売日:2024年03月22日
四国の山奥にある小さな村。そこには奇妙な仏像があり、大切に祀られていた。帰省する友人・匠に付き添い、東京から村を訪れた隼人は、村人たちの冷たい空気に違和感を抱く。優しく出迎えてくれた匠の祖母の心づくしの料理が並ぶなごやかな夕食の最中、「仏を近づけた」という祖母の言葉を聞いた瞬間、匠は顔色を変える。その夜、匠は失踪し、隼人は立て続けに奇妙なことに巻き込まれていくが――。東京での就職を機に村を出て、親族の死をきっかけに戻ってきた女性が知った戦慄の真実。夏休みに祖父の家にやってきた少年が遭遇した恐るべき怪異。昭和、平成、令和と3つの時代の連作中篇を通して、最強の拝み屋・物部斉清ですら止められなかった、恐ろしい土地の因縁と意外な怪異の正体が浮き彫りになっていく……。ホラー文庫30周年記念、書き下ろし作品。
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