「隼人」
匠の声だった。
弱々しくて、控えめで、しかし確かに聞こえる。
目の前に、白い光があった。
「隼人」
それで、夢を見ているのだと分かった。
まるで何もない空間に、光が射していて、そこにぼんやりとした匠の顔がある。
匠、と声に出そうとする。今までどこにいたのか、祖母の葬式があったのに──そう言おうとしても、出ない。喉が詰まったようになっていて、一言も。
しかし声に出さなくとも、理解しているようだった。
匠は優しく微笑んで言う。
「おばあちゃん、死んじゃった」
涙が出た。どうして微笑んでいられるのか。泣いたっていいのに、そんなふうに考えて、涙が出る。
「ごめんね、隼人、面倒なことに付き合わせたね」
なんで匠が謝るのか。一番
何より、今、夢に匠が出て来たということが何を表しているのか。故人が夢枕に立つという話は古今東西よく聞く。つまり──そんなことは考えたくもない。
匠はごめんね、と何度か繰り返した後、
「どうしても、心残りがある」
そんなことを急に言う。
心残り。その言葉で、見たくなかった現実が確定してしまったと思う。
夢に現れて心残りを伝えるのは、死人だけだ。
いや、これは自分の願望から来る幻覚なのだ、と思い込もうとする。
まだそうと決まったわけではない。幻覚だ。
「面倒ついでに聞いてくれる?」
匠は笑顔のままそう言う。
「心残りがあるんだ」
そんなに強調しないでくれと思う。死んだなんて思いたくないのだ。
それでも匠は、隼人の目をまっすぐに見つめている。
「隼人にしか頼れないから」
隼人は
真剣な目をしている人間を、突き放す気になれなかった。
ありがとう、と短く言って、匠は申し訳なさそうな顔をする。
「俺ね、ほとけさまに、恩返しをしてないんだよ」
頷き仏のことだ、と思う。
「辛い時も、いつも助けてもらった」
匠の苦労を想像する。色々な苦労だ。
このような、何もない土地から努力して勉強し、東京に出て来た苦労。しかし、それはごく表層的な表現で、勉強以外ももっと沢山の苦労があったことだろう。
そう言えば、飲み会にもほとんど来たことがない。昼も、学食を利用せず、こそこそと隠れるようにして、銀紙に包んだおにぎりを食べていた。
匠は弱々しい外見をしていたが、不平を漏らしたり、誰かに
自分が彼の立場だったら、と想像することすら
隼人は仏教のみならず、特定の信仰を持っていない。というより、目に見えないものは信じないようにしている。
しかし、匠が「助けてもらった」というのなら、そうなのだろう。ご利益というよりももっと、純粋な心の支えだ。心の支えとしての信仰は、自分が信じられなくても尊重したい。
「今度は俺が、ほとけさまを救いたいんだ」
ほとけさまは救う存在で、救われる存在ではない。違和感がある。しかし、匠の言いたいことはなんとなく理解してしまった。あの男のことだ。
「あの男、ここを
匠はそこまで一気に言ってから、また隼人の目をじっと見た。
なぜかその時、合点がいった。
幻覚ではない、と思った。
これは匠だ。本物の匠で、正確に言えば、匠の幽霊。
幽霊、と思うと途端に悪寒が走る。
匠の肌はうす青い。生きていた頃の「色白」という
死人だ。
「隼人に怖がられたら、俺……しんどい」
声が悲しく震えている。
隼人は申し訳ないと思った。しかし、知らなかったのだ。たとえ親しい友人であっても、幽霊は恐ろしいことを。
「ごめん、無理言って。当たり前だよね、怖いよね」
匠はまた、申し訳なさそうに頭を下げる。
やめてくれ、と思う。むしろ謝りたいのはこっちの方だ。
「でも、どうしても、お願い、聞いてほしい」
頷いた。頷けているかは分からないが、とにかく、そういう意思があった。
それが伝わったのか、匠は微笑んだ。頰に薄らと涙が伝っている。
「嬉しい、嬉しい。ありがとう。これで、ほとけさまに恩返し、できる」
匠の目は相変わらず昏く、洞穴のようだった。それでも、彼が喜んでいることが隼人は嬉しかった。
しかし、ほとけをあの津守という
そう思っていたところ、匠が、おもむろに口を開いた。
「隼人、大事なものを知ってる?」
大事なもの、という言葉を聞いて真っ先に思い出すのは、家族のことだ。しかし、匠は首を横に振る。
「人じゃなくて。自分の中で、大事なもの。少し考えてみて」
言われている意味が分からなかった。
ふ、と何かが頰を
思わずのけぞった。よくないもののような気がした。
「怖がらないで」
匠の声が震えている。先程と同じように、傷ついたような、すまなそうな顔をしている。
強烈な違和感がある。しかし、その正体は分からない。
匠はとうとう涙を
「隼人」
匠が、顔に当てていた手をパッと離した。
その顔を恐ろしいと思う。でも、間違いなく、匠の顔だ。なぜ恐ろしいと思ってしまうのか分からない。
隼人は、恐怖をごまかすように、大事なものはなんだろう、と心の中で唱える。
「まず指だ」
手元を見る。隼人の手には、左右合わせて十本の指が付いている。
「指は大事なものだ。指をほとけさまに差し上げる」
思わず
差し上げるとは、つまり、指を切って──
匠がふ、と笑った。
「大丈夫。本当は本物の指を使うところだけれど、すぐに用意はできないもんね。俺、隼人に無理させたくないし」
隼人は少しだけ安心する。しかし、同時に、やはり、指というのはこの指のことなのだ、と分かる。
「だから、本物じゃなくて、指みたいなものでいいんだ。それくらいは、できると思うから」
匠の口調は穏やかなままだった。しかし、断定的で、圧迫感のある言い方だ。
「木でも、粘土でも、肉でもいい。今のところはね。ああ、いつも思ってるけど、鳥の足なんかは、人間の指によく似てるよね」
匠はにこにこと笑っている。
隼人は思わず目を
そのはずなのに、なぜか、今回に限って、匠は答えず不気味で意味の分からない話を先に進めてしまう。
「大丈夫だよ。たかが、本物じゃない指だ。絶対に何も起こらない。悪いことは隼人には起こらない。でもね、本当のお願いなんだよ。俺にはできなくて、隼人にはできることだから。本当の本当に、お願いなんだ」
隼人は頷いた。最早先程の、友人への同情と思いやりからではない。ただ、目を覚ましたかった。早くこの夢から逃げたかった。
「ありがとう。家の裏を歩けば、すぐにあるからね。お願いだよ」
お願い、と何度も何度も、聞こえる。耳にこびりつくようだった。
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