怪しげな骨董品店の店員、凄腕の風水師、ハリウッドホラー界の巨匠に脱走希望のやさぐれパンダまで
訳ありの25人(と3匹)の運命が上海の一流ホテルで交錯する――。
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◆ ◆ ◆
もごもごと白い毛で覆われた口が、咀嚼を繰り返している。
くわっと口が開き、尖った歯と灰色がかった舌が見えた。
バリバリと音を立てて、青い竹が、その口の中に吸い込まれていく。
白い、といってもやや薄汚れた白い毛が再び上下に動いて、口の中で竹が嚙み砕かれる。
その口の上に、黒い空豆形をした部分に囲まれた一対の目。
倦怠と虚無を滲ませつつも、時折どこか不穏な光がその瞳の奥に灯るのは隠し切れない。
「キャー、パンダだー」
「三匹もいるーっ」
「かわいー」
「竹食べてるー」
「上野みたいに混んでないねー」
突然、嬌声が聞こえてきて、その無機質な瞳がちろっと動いた。
ガラスの向こうで、小動物のような娘たちが飛び跳ね、手にした携帯電話をしきりにこちらに向けている。
隣では、嬌声に応えようと、若い者二匹が必死に竹を食べていた。一匹は最近やや神経過敏状態になっており、いささか過食症気味である。何を考えたのか、いきなり仰向けになって、バリバリと竹を食べ始めた。環境に適応しようとするあまり、ついお客にサービスしすぎて自分を見失う若い者をこれまでに何匹も見てきた。年季が浅いと、なかなかここでは自然体で時間をやり過ごせないのである。
独り、檻の奥の壁に背を付け、黙々と竹を食べるのはここでの牢名主、もとい、最年長のパンダ、厳厳(年齢不詳)であった。
じき、あいつも具合悪くなるな。
厳厳はフッと溜息をつく。
そりゃあそうだ、年柄年中あんな連中にカメラを向けられ、視線に晒されているのだから。そもそも、野生動物とは、人目に晒されることに慣れていない。自然界では身を隠していないと生きていけないのだし、身を隠している状態のほうが通常である。視線とは、いわば戦いの前兆。衆人環視は大変なストレスなのだ。
ああ、不毛だ。
厳厳は遠い目をした。
どいつもこいつも、やるこたぁ同じだ。今の、目ン玉ひんむいてぽかんと口開けてる、てめえらの顔を見たほうが、よっぽど面白いだろうによ。
厳厳は笹の茎を爪楊枝にして、歯の掃除にかかった。
山を渡る風の音を聞きながら、独りになりたい。俺のようなロートルに、この都会は似合わねえ。
ふと、視線を感じる。
そっと振り向くと、鉄の扉の小さな窓からこちらを見ている、ベテラン飼育係、魏と目が合った。
厳厳は、さりげなく目を逸らした。
ちっ。あいつ、警戒してやがるな。
厳厳は、魏の疑り深い視線に内心舌打ちした。
魏英徳(52)は、さっきの厳厳の様子が気にいらなかった。
またやる気じゃないだろうな。
庭に出る通路を水で洗いながら、さっきの不敵な横顔について考える。
赤ちゃん時代から動物園で育った他のパンダとは違い、ある程度歳がいってから、ほとんど偶然で捕獲されたせいかもしれない。元々放浪癖があり、一匹狼的な野性味溢れる(すなわち、やや凶暴な)厳厳は、その名の通り、アウトローなパンダであったのだ。
なにしろ、手先が器用で頭も回る。しかも、元来熊の前肢の力は相当なものである上、彼は山の中で鍛えているし、密かに檻の中で体力が落ちないよう、前肢のトレーニングをしている節もある。
過去二回のいずれも飼育員の不注意や不意を狙い、まんまと檻から逃げ出した。
特に二回目は、鍵を増やしもうひとつ柵を増やしたあとだっただけに飼育員に衝撃が走ったものである。おまけに、旧正月の花火の音に紛れて檻を破るという芸の細かさだった。
どちらもまだ広大な動物園内に潜んでいるうちに見つかったからいいようなものの、もし外に逃げていたらと思うとゾッとする。
英徳が見たところ、厳厳が脱走を考えている時は、いつもより静かになるのである。
前回の脱走から、既に二ヶ月近く経っている。
もしかすると、またやるかも。
英徳はそう確信し、いつもより念入りに戸締りを点検することにした。
〈第3回へつづく〉
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