怪しげな骨董品店の店員、凄腕の風水師、ハリウッドホラー界の巨匠に脱走希望のやさぐれパンダまで
訳ありの25人(と3匹)の運命が上海の一流ホテルで交錯する――。
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◆ ◆ ◆
なんだかなあ。
落合美江(35)は、やたらと広く派手な会場を歩きまわっているうちに疲労を覚えた。
どうも、こういうのはあたしの趣味じゃないのよねえ。
思わずスーツの肩を揉む。
最近、何貼っても効かないわあ。
上海の最もにぎやかな中心部からはやや外れているが、それがかえって高級感を醸し出すことに成功している、四つ星クラスの、最近料理が美味いと評判の中規模ホテル、青龍飯店。
ここは最上階の、大きな宴会場である。
眩いシャンデリア、目の覚めるようなエメラルドグリーンの絨毯、錦糸を織り込んだ華やかな壁紙にずらりと並んだ絵。
そこに、着飾った多くの紳士淑女、いかにもカネが唸っていそうな派手な面々が集っている。ボーイは高級シャンパンのグラスを手に飛びまわっているし、中華をモダンにアレンジした一口サイズのおつまみも豪華だ。
そこを、すらりとした、美人でスタイル抜群の日本人女性が、上品なキャメルのスーツ姿でゆっくりと歩きまわっていた。
これでも銀座のギャラリーの三代目。だが、どちらかといえばデッサン画やエッチングを好む彼女には、趣味が合わない。
絵を飾るのに、こんなに明るいシャンデリアってのもなあ。壁紙もうるさいし。
美江は場内の明るさに、思わず目をしばたたいた。
このところのアジアの現代アートの高騰は凄まじい。
中国の若手アーティストの一億円プレイヤーが続出し、今も値段は上がり続けており、それをまたこぞって、一気に購買力をつけた国内の富裕層と、今ならまだ新しいコレクションのスタートに間に合い、お値打ちだと考える海外の富裕層が買うのである。
東京や上海、香港やシンガポールなどの大都市で、高級ホテルのフロアを借り切り、限定した顧客相手にそういった若手アーティストの作品の展示即売会を開く、というのがこのところの流行りである。美江も、馴染みの顧客の依頼を受けて、彼らの趣味に合う作品を探しにやってきたのであった。
しかし、やっぱ大陸風というか、全然日本とスケール感が違うわねえ。
美江は会場内を回りながら圧倒される。
とにかく絵の号級がでかい。少なくとも、日本の家庭に飾るサイズの絵ではない。
しかも、どれも強烈な色彩、くっきりとした輪郭、限りなくシュールな具象画である。
壁一面を埋める巨大なキャンバスに、歯を剝き出しにして笑っている男がみっちり並んでいる絵が目に入った時は、「この絵を見ながらご飯を食べるのは、あたしには無理ね」と呟いた。
だが、絵とは需要と供給。欲しい人がいれば、商売は成立する。自分の趣味は、ここでは二の次だ。
うちのお客さんの趣味じゃないけど、歯磨き粉を作ってる会社に売るっていうのはどうかしら。家王とかライアンとか、あるいは、日本歯科医師会館のロビーに飾るとかならなんとか─
「美江さん!」
そこに、短い髪に黒いメタリックな四角い緑の眼鏡を掛けた、やたらと輪郭の濃い男がにょきっと彼女の前に顔を出したので、美江は思わず「わっ」と跳びのいてしまった。
「ごめんごめん、驚いた? でも、美江さんが熱心に僕の絵観ててくれたから、嬉しかったよ」
ニコニコと手を振っているのは、確かにこの「嗤う男」シリーズで一億円プレイヤーにのし上がり、今アジア現代アート界でブイブイ言わせている蔡強運(31)である。
元々何不自由ない金持ちの息子で、東京にもニューヨークにも留学経験があり、大柄でお洒落でハンサムと来ている、まさに名前通り「最強運」な男なのだった。
「美江さんのところで買ってくれるなら、交渉権、優先するよ」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、そんなこと無理でしょう。あなたの窓口はゴールド・ドラゴン・ギャラリーでしょ? うちの予算じゃ、門前払いだわ」
美江はそっと顧客を自分の周りに集めている中国人系アメリカ人、マックス・チャン(33)に目をやった。これまた蔡に負けず劣らず大柄でスマートな物腰であるが、目は鋭く抜け目ない。彼が、今評判のアジアの一億円プレイヤーを何人も抱え、中国アートの値段を吊り上げた張本人と言われている新興画商、ゴールド・ドラゴン・ギャラリーの経営者である。今回のアートフェアの主催者でもある。
「マックスは、商売人ね。僕ら、持ちつ持たれつ」
蔡はちらっとマックスを見ると肩をすくめた。
「彼、勝手にスイスの美術館と話つけてきたよ。これと同じ大きさの新作、二億円で買うって言ってるね」
「二億円?」
美江は思わず叫んだ。ずいぶんとまた、価格上昇が激しい。
蔡は首を左右に振る。
「僕、じらすつもりね。言われるままに描いてどうするね。高額商品の過剰供給、よくないよ。適度な飢餓感ないと、ダメ」
「それはそうね」
日本の現代アートも、今やたらと青田買いが流行り、サブカルとナイーブアートとの境界線が目新しがられ、まだ作風も技術もままならぬひよっこのようなアーティストに、どんどん高額の注文が入ったりしている。彼らがアートで食べていけるのは確かに素晴らしいことではあるが、単に投機の対象として買うコレクターしかつかないと、アーティストが育つ前に濫作で潰れたり、すぐに飽きられて市場に放出され、作品がだぶついて価格が下落し、あっというまに消えていってしまったりするのだ。
「それにしても、あそこのいちばんいいスペースが、なんで空いているのかしら?」
美江はさっきから気になっていた、蔡の作品の隣のだだっぴろい壁に目をやった。
「うふふ」
蔡は意味ありげに笑った。
「あそこに、これから、この展示会の目玉作品がお目見えするね」
「ええ? あなたの作品なの?」
美江が目を見開いて蔡の顏を見ると、彼は悪戯っぽくウインクをしてみせた。
「さあね。それは、見てのお楽しみね」
〈第4回へつづく〉
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