怪しげな骨董品店の店員、凄腕の風水師、ハリウッドホラー界の巨匠に脱走希望のやさぐれパンダまで
訳ありの25人(と3匹)の運命が上海の一流ホテルで交錯する――。
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◆ ◆ ◆
空はどこまでも雲ひとつなく晴れ上がっていた。
が、抜けるような青さというわけではなく、どこかうっすらと紗の掛かったような、ざらざらした印象を与える空である。
見渡す限り、遮るもののない大平原だ。遠く地平線が見え、ホコリっぽい砂を含んだ風が地面を渡ってくる。
振り返ると、高層建築の影が蜃気楼のように浮かんでいる。だだっぴろいところではあるが、どこかの都市の郊外という感じだ。
しかし、そこには無数の影があった。
数百名のカーキ色の軍服を着た青年たちが、一糸乱れず整然と並んでいるのだ。
吹き抜ける風が、彼らの軍服の裾をわずかにはためかせる。
そして、彼らの前に、彼らの上官と見られるいかめしい顔をした軍服姿の東洋人の男と、ずんぐりした中年男、髪をしっかり七三に分けた若いスーツ姿の男性、苦虫を嚙みつぶしたような仏頂面の白人の大男と、同じく当惑した顔の白人の小太りの男、無表情に佇む色白の東洋人女性と中肉中背の東洋人男性が立っている。
七人の視線の先には、顔を覆って地面につっぷしている金髪の白人男性がいた。
ぐしゅぐしゅという鼻をすする音がする。どうやら、泣いているらしい。
何やら、呟く声もする。
「ううっ、ダリオ─かわいそうに、ダリオ─許しておくれ、ううう」
そして、彼の前には小さな十字架の墓標があった。
どうやら、そこに埋められているのが、彼が先ほどから名前を呼んでいるダリオのようである。
ずんぐりした中年男が早口で何かをまくしたてた。
若いスーツ姿の男が、綺麗な英語で通訳する。
「中国政府及び上海共産党幹部を代表して、お悔やみを申し上げます」
「それはどうも」
白人の大男は、ますます苦虫を嚙みつぶしたような顔になった。
いかめしい軍服姿の男も何か言った。
再び、澄まし顔の若い男が通訳する。
「人民解放軍第二三七師団を代表して、哀悼の意を表します」
「それは、どうも」
やはり神妙に会釈を返していた白人の大男は、ずっと何かをこらえていたが、わなっと肩を震わすと、次の瞬間、切れた。
「××××!」
と、字幕には出せない四文字を天に向かって叫ぶ。
他の六人は、その言葉を聞いていないふりをした。
ただでさえ二メートル近い大男なだけに、真っ赤になって怒っているさまはド迫力だ。
「まったく、今回はいったいどうやって持ち込んだんだ? ああん? ジョン、おまえ、本当に気付かなかったのか? 今後ニッポンで入国許可が下りない可能性もあったんだぞ。近づきたくもないセンセイ方のコネまで使わされて、下げたくもない頭を下げたんだ。今回だけはよせと言ったのに。ここをどこだと思ってる? えっ? この大馬鹿野郎があのクソ忌々しいケダモノを持ち込んだばっかりに、これで三日間スケジュールがパアだ。一日遅れるごとに一〇万ドルがパアになるんだぞ!」
「『輸入』したんですよ」
小太りの男は、疲れたような口調で呟いた。
「なんだと?」
「SARS騒ぎの時はハクビシンが原因かと言われていったん途絶えましたが、なにしろ四本足は机以外ぜんぶ喰うと言われてる国ですからね。ありとあらゆる手段を使って、世界中から『食材』が集まります。フィルはそこんところに目をつけて、『食材』として輸入扱いにしたらしいです」
「ふん。それで本当に調理されちまったんだから、ヤツも本望だろう」
「しっ。刺激しないでください、彼も参ってるんですから」
小太りの男は慌てて人差し指を口に当て、金髪男を見たが、相変わらず、彼は小さな墓標を涙で濡らしていた。
「─大丈夫かな、フィルは。あんなに嘆き悲しむなんて」
その隣で、中肉中背の東洋人男性が、隣の女性にこっそり話しかけていた。
「映画撮影がダリオの供養になると言い聞かせるしかないですね」
女性は前を見たまま低く返事する。
「しかしなあ。やっぱり、目の前であんなもの見せられちゃなあ─トラウマになるだろうなあ」
男性は、ぶるっと全身を震わせた。
それは、三日前の晩、日中米の三ヶ国合作であるホラーアクション映画、『霊幻城の死闘・キョンシーvs.ゾンビ』の撮影クルーの宿となった青龍飯店で起きた。
夕食の六時間ほど前。
青龍飯店の料理長である王湯元(36)は、新進気鋭の料理人であった。母方の曽祖父は紫禁城の料理人を務めていた家柄ということもあり、非常に研究熱心で、新たな食材とメニューの開発にも余念がない。彼の努力もあり、青龍飯店は、近年、食事がおいしいということで評判もウナギ上り。国内のみならず、海外からも王の料理目当てにお客がやってくるようになった。
優秀な料理人の常として、彼が早くから厳しく素材のチェックをしていると、ふと、視界の隅を横切るものがある。
鶏でも逃げだしたのかと思ったら、なんと、見たことのない、大きなトカゲに似た動物が厨房の床をうろうろしていたのだ。黄褐色の肌はつやつやしており、その身のこなしは優美ですらあった。
それは、映画監督であるフィリップ・クレイヴン(42)のペットで、イグアナのダリオであった。フィリップ・クレイヴンは普段からペットを溺愛しているが、特に撮影のあいだは孤独になるせいか余計にペットと離れることができず、アメリカ国内だろうが海外であろうが、現場に連れていくという悪癖がある。今回も姑息な手段で中国内に持ち込んだものの、こんな時、移動時間が長いせいもあり、ダリオはいつも出先で逃げ出してしまう。今回、彼は運悪く、いい匂いにもつられてか、王の厨房へと迷い込んだのであった。
はて、この食材はなんだろう、と王は首をかしげた。
最近、農家からの売り込みも激しく、新しい食材を次々と持ち込んでくるから、そのひとつかもしれない。
王はじっくりとこの生き物を観察した。この肌の美しさ、動きの機敏さ、病気持ちではないだろう。彼は、二年ほど前に料理人仲間と世界の食材を味わう旅に出た。その訪問先のひとつ、オーストラリアでワニを食べたことがある。硬い皮革に包まれた肉は意外に淡白で上品な味だったことを覚えていた。
今夜、遠来の客も大勢来ていることだし、この珍しい食材を試してみるのもよかろう。高温で蒸したらいいスープが出そうだ。いや、たっぷり時間をかけて素揚げにし、香辛料を利かせた甘酢をからめてみるというのは?
王はむくむくと職業意欲が湧いてくるのを感じた。
おいしそうなスープの匂いに気を取られていたダリオは、その時、殺気を感じた。
ふと、振り向くと、目を輝かせた男と目が合い、その手に握られた四角い庖丁に自分の姿が鈍く映っているのに気付いた。
ダリオが、飼い主の作るホラー映画の登場人物のごとく、悲鳴を上げたかどうかは不明である。
かくて、夕食の宴、ダリオの姿が見えないことに気を揉んでいたフィリップ・クレイヴン監督の目の前に、料理長からのスペシャリテが巨大な銀の皿に載せられて、しずしずと運ばれてきたのであった─
「うっうっうっ」
フィリップは泣き続けている。
「感じる」
日本の映画配給会社に勤める安倍久美子(32)は目を閉じ、呟いた。
「は?」
隣の日本側プロデューサー、小角正(31)が聞き返す。
「ダリオの霊が、彼の周りを飛び回っているわ─彼を慰めようとしているのね」
「え? え?」
正は目を白黒させながら、フィリップと久美子を交互に見た。
上海郊外の広い撮影用地。整然と佇むエキストラの人民解放軍第二三七師団のあいだを、乾いた春の風が渺々と吹き抜けていく。
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