今からおよそ一五〇年前の、明治三年。
前年の大火を受けて火除け地になっていた神田川沿いのその場所に、鎮火祈願のための神社が建てられた。祀られたのは火伏の神・秋葉大権現である。そこから人々はこの広大な火除け地を「秋葉の原」「秋葉っ原」と呼んだ。この空き地に人が集い、見世物小屋や飲食店が並び、サーカスなどの興行も行われたそうだ。
明治中期から昭和にかけては鉄道や都電がこの地を通り、物流・交通の要衝となった。戦争で一旦は焼け野原となるも、近くにあった電気工業専門学校(現東京電機大学)の学生がアルバイトで始めたラジオの組み立て販売の盛況を受け、ラジオ部品を供給する闇市が立ち並ぶようになる。
高度経済成長期には、家電ブームに交通の便のよさが加わり、その地は生活家電からマニア向けの電子部品まで全てが揃う、一大電気街へと成長した。
だが発展はそこで止まらない。
時の流れに合わせ、七十年代にはマイコンの店が、八十年代にはコンピューターゲーム関連の店が増えた。九十年代、量販店の台頭で一般家電のシェアが減ると、この地は一気にパソコンの街へと変貌を遂げる。
そして二〇〇〇年、アニメ・音楽・映像ソフトを扱う店が増加。
二〇〇一年、世界で初の常設型メイド喫茶がオープン。
二〇〇五年、この地からAKB48がデビュー。
めまぐるしい変化の中で支えるコンテンツは変わっても、常に人が集まり、一世紀半もの間、マニアやオタクにとって最先端の聖地であり続ける街。
秋葉原。
この物語の舞台である。
とまあ、なんだか堅苦しい出だしになってしまったけれど、本書は実にスットンキョー且つコミカルな物語だ。少なくとも前半は。――前半は? まあ、それは後述するとして、まずは本書のアウトラインを紹介しておこう。
秋葉原駅から徒歩七分。中央通りを西に折れ、蔵前橋通りに面した場所にある小さくて古い交番――秋葉原先留交番に住む(従って厳密には駐在所である)権田利夫。ブサメンのオタクにして毒舌。だが実は東大出身で頭は抜群に切れる。
そこに、後輩の向谷弦がやって来る場面で物語は幕を開ける。こちらは超イケメンで女性に優しい社交家だが、オツムの方がかなり残念。行く先々で女性と問題を起こしているボンクラ警官だ。今回も、奥多摩の駐在所での女性問題で謹慎を言い渡され、先輩の権田に頼るべく先留交番を訪れた次第。
このとき、向谷には連れがいた。なんと、前任地で出会った幽霊である。しかも――これがおかしいのだが――足だけの幽霊、なのだ。実は向谷は霊感体質で、〈見える〉クチ。そこに元来の社交性が重なって、幽霊といえども女性を放っておけず連れてきたというわけだ。
幽霊の名は渡井季穂。秋葉原で殺されたらしいのだが、なぜ幽霊として奥多摩にいたのか、なぜ足だけなのかわからない。自分が誰にどのように殺されたのかも覚えていない。足しかないので会話ができず名前さえ伝えられないのだが、権田の機転で、何とかコミュニケーションがとれるようになった。
ブサメンオタク警官とイケメンボンクラ警官、そして足だけの幽霊という奇妙なトリオの誕生である。
物語は連作形式で、第一話ではフィギュア誘拐事件、第二話ではメイドカフェの従業員を狙った抱きつき魔、第三話は行方不明の子どもを捜索するというふうに、各話で事件が起き、それを三人が――というか主に権田が解いていくミステリ仕立てだ。そして全話を通して少しずつ季穂の殺人事件に迫る、という構造になっている。
だが、ただの連作ミステリではない。順を追って読んでいくと、実はこの構成に著者の深い企みが隠されていることに気づくだろう。
私は先ほど「本書は実にスットンキョー且つコミカルな物語だ。少なくとも前半は」と書いた。第一話は実に楽しく、ユーモアミステリのお手本のような一作だ。権田と向谷のコントさながらの会話には何度も吹き出し、視点人物(視点幽霊?)である季穂の鋭くも正直過ぎるツッコミが笑いに拍車をかける。何より、季穂につけられた当座の名前が〈足子さん〉である。どう転んでも深刻になりようがないではないか。足子さんて。
西條奈加はデビュー作『金春屋ゴメス』(新潮文庫)で二十一世紀の江戸というスットンキョーな設定にコミカルでテンポのいい話運びを見せてくれたが、その後は時代小説を主戦場として心にしみる作品を多く発表してきた。ここまでユーモア全開の楽しい作品は久しぶりだ。デビュー作で発揮されていたその手腕、いささかも鈍っていないと嬉しくなった。
だが。これこそが西條奈加の策である。
一話ずつ、少しずつ、楽しい物語の中に苦みが痛みが混じりこむ。オタクと呼ばれる人たちが抱くコンプレックス。オタクに対する根拠のない揶揄や見下し。そこに通底するのは、好きなものを否定される悲しみだ。
この〈好きなものを否定される悲しみ〉が全編を通してのテーマになる。
第三話は、大好きなお父さんが、大切な夫が、他者により否定される悲しみを描いたジェントル・ゴースト・ストーリーだ。どんなにダメな親でダメな男でも、子どもにとっては、妻にとっては、大好きな家族なのだという事実が優しく、切なく描かれる。また本書には、いじめやモラハラのエピソードも登場する。自分が否定される絶望。大切な人が否定されるのを目の当たりにする痛み。
そして本書で最も衝撃的なのは、学歴も実績もある権田が一警察官として先留交番に居続ける理由が明かされるくだりだ。そこでは、読者の記憶にもまだ新しい現実の事件が語られる。大好きな街を、そこに集う仲間たちを脅かした、あの事件。これもまた、〈好きなものを否定される悲しみ〉の発露なのだ。
西條奈加は、「本の旅人」二〇一五年十月号に掲載された恩田陸との対談で、自らもアニメオタクだと語っている。アニソンのCDを買おうとしたら友人にドン引きされた、と。好きなものを好きと言える、周囲から否定されても堂々とオタクでい続ける、そんな人たちへの憧れと、〈好きなものを否定される悲しみ〉を抱くすべての人への共感が、この物語には詰まっているのだ。
だからこそ、第一話と二話ではフィギュアやメイドといういかにもなオタク文化を扱いつつ、そこから次第に話を普遍的なモチーフへ広げていくという手法をとったのである。〈好きなものを否定される悲しみ〉はオタクだけのことではない、すべての人にとって同じなんですよ、という思いを込めて。
第一話では、深刻になりようがないだろうと笑っていた〈足子さん〉という呼び名が、終盤では切なく胸に刺さった。一冊を通して著者が積み重ねてきたものが、こちらの中にも積もってきた証拠である。
長い間、その時代ごとにその時代特有のオタクたちが集ってきた秋葉原。鉄道ファン、ラジオ好き、無線マニア、パソコンオタク、ゲーマー、アニメファン、ドルオタ。ここは〈誰が何と言おうとこれが好き〉という思いの集積地であり、〈好き〉という思いを誰はばかることなく解放できるパラダイスでもある。
秋葉原は〈好き〉が作り上げた街なのだ。
だから本書は、秋葉原が舞台なのだ。
そんな秋葉原に、先留交番は実在しない。モデルになったのは以前存在した末広町交番で、現在は地域安全センターに変わっている。末広、という文字の逆の意味として、先留、と名付けたのだそうだ。
架空の交番だからこそ、書けることがある。多くの人の〈好き〉を受け止め、それでいいのだと、堂々と好きでいろと、背中を押してくれる存在として、先留交番は誕生した。普通の交番は街の治安を守る番人だが、先留交番は私たちの〈好き〉の番人なのだ。〈好き〉という気持ちを守り、鼓舞してくれる勇気の象徴なのだ。
秋葉原に〈好き〉が集まる限り、先留交番には存在し続けてほしい。
そのためにも、著者には是非とも続編を書いてもらわねば。権田・向谷・足子トリオの再結成に向け、まずはうちわを作れと、私の中のオタク成分が吠えている。