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試し読み

「たしかに、それは謎の匂いがするね」神さま・水谷くんはそう言って図工室へ向かい――『僕の神さま』 発売記念特別試し読み! 第二話「夏の『自由』研究」②

今、最も注目される作家・芦沢央さんの新作『僕の神さま』は驚きと切なさが共存する、新境地ミステリー!
何でも謎を解決してしまう「神さま」のような小学生探偵・水谷くんと僕は、図工の時間に起きた事件をきっかけに、クラスメイトの川上さんから相談を受けますが、二人がとったある行動が、思いがけぬ結果を引き起こしてしまうことに……。
一話目とはまったく違う展開、そして予想もつかないラストには驚くこと間違いなし。
一話目をすでに読まれた方も、一話目をこれから読まれる方も、是非この二話目で、その驚きを体験してみてください。

 ◆ ◆ ◆

>>夏の『自由』研究・第1回から読む

 なるほどね、と水谷くんは鼻の下を指でこすった。
「たしかに、それは謎の匂いがするね」
 いつものセリフを口にして、胸の前で腕を組む。
 放課後の校庭、半分地面に埋まっているタイヤの列には僕と水谷くんだけ、というシチュエーションも含めて見慣れた光景だ。
 僕は、タイヤから腰を滑らせて身を乗り出した。
「何かわかった?」
「君は、僕のことを情報を入れれば答えが出てくる機械みたいに思っているところがあるよね」
 水谷くんは気分を害したというよりも、単に分析するような口調で言う。僕は、ごめん、と謝ってから、で、と続けた。
「水谷くんはどう思う?」
「まあ、騒がない方がいいだろうね」
「どうして?」
 水谷くんが小さく首を傾ける。
「逆に訊くけど、収まった話をもう一度蒸し返して何かいいことがある?」
「ないけど……」
 そう、水谷くんの言う通りなのだ。
 川上さんと谷野さんの間で話をしてお互いが納得しているのであれば、先生が言っていたことが本当でもそうじゃなくても、外野の僕がどうこう言うことじゃない。僕が変に騒いだりしたら、余計に川上さんが嫌な思いをすることになるかもしれないのだ。
「でも……ひどいよ」
「つまり、君は義憤に駆られているわけだ」
「ぎふん?」
「道義に外れたことや不公正なことに対する怒り」
 水谷くんは辞書に載っている説明を覚えているように解説してくれる。どうぎ、というのはやはりよくわからなかったが、不公正というのはわかった。
「うーん、不公正なのかどうかはわからないけど」
「わからないことが気持ち悪い?」
「うん、まあ、そう」
 なるほど、と水谷くんは顎を撫でる。
「本当に先生が言うように間違ってバケツを倒してしまっただけならそんなにひどくないかもしれないけど、自分が見た印象ではそれが本当ではない気がするし、かと言ってプールのときの話が原因というのもピンとこない。何が本当の理由なのかわからないから、ひどいと思うのも違うのかもしれないけど、とりあえず汚れた水を服にかけられたことはかわいそうだから、ひどい」
 水谷くんはすらすらと言った。
「本当にひどいと思うことなのかわからないのに、とりあえずひどいと思ってしまっている状態が気持ち悪いから、本当のことを知りたい」
「うん、そう」
 僕はうなずきながら、やっぱり水谷くんはすごい、と思う。どうして、こんなふうに僕自身にも上手く言葉にできない気持ちを言い当てられるんだろう。
 水谷くんは、「語り手である君が、どんな気持ちでその現場を目撃したかを整理するのは大事だからね」と当然のことのように言った。
 僕は首を傾げる。
「大事なの?」
「見たものをありのままに話しているつもりでも、その人が持っている印象によって話の中で出てくる情報は変わる」
 水谷くんは人さし指を立てて宣言した。まるで、名探偵の鉄則を助手に向けて話すように。
 それで僕も、見たものをありのままに、と口の中でつぶやく。
 たしかに、そうかもしれない。絵だって、僕は見たものをありのままに描いているつもりだったのに、描かれた絵は全然ありのままになっていなかった。
「川上さんは、たしか図工室の──黒板側を北だとすると東の方でりんごを描いていたよね。谷野さんはどこで何を描いていた?」
「さあ……」
 僕は視線を宙にさまよわせる。記憶を探るが、谷野さんが元々どこにいたのかはまったく思い出せない。
「じゃあ、行こうか」
 水谷くんはタイヤを降り、校舎の方へ向かって歩き始めた。
「どこに行くの?」
「図工室」
 水谷くんは歩を緩めず、前を向いたまま答える。
「忘れ物をしたとでも言って先生に入れてもらおう」
「何しに行くの?」
「もう一つ」
 水谷くんは、再び人さし指を立てた。
「まずはとにかく現場へ行け」

 水谷くんは職員室に行き、図工室に消しゴムを忘れてしまったと話した。
 明日にしなさい、と言う先生に、消しゴムを一個しか持っていないので、このままだと宿題ができません、と食い下がって鍵を借りる。
 そのまま足早に図工室へ向かうと、躊躇いなくみんなの描きかけの絵が並べられている作業台に近づいた。
「谷野さんの絵を探して」
 絵に視線を走らせながら、短く言う。
 僕は水谷くんとは反対側から、端が少し波打っている画用紙を一枚一枚めくっていった。
 二列目の一番下をめくったところで、谷野みなみ、という文字が現れる。
「あった」
 顔を上げると、水谷くんは川上さんの絵を見ているところだった。〈川上千絵〉と裏に書かれている画用紙を戻し、僕の前まで来て谷野さんの絵を受け取る。
 谷野さんの絵には、観葉植物が描かれていた。
 濃い緑の葉に薄い緑で模様が描き込まれていて、本物とどのくらい似ているのかはわからないけれど結構上手だ。
 そう言えば、りんごや鹿の角の他にも、観葉植物を描いている人たちがいたなと思い出した。
「観葉植物が置かれていたのは、あっちだよね」
 水谷くんは図工室の黒板側の隅を指さす。
 そこは、僕がいた席からも見えるところだった。けれど、りんごに向き合ってしまえば完全に視界に入らなくなる。
「行こう」
 水谷くんが絵を戻して図工室を出た。僕は後ろから追いかけて、「何かわかったの?」と尋ねる。
「とりあえず鍵を返してから」
 水谷くんは慣れた仕草で鍵をかけ、職員室への道を戻り始めた。僕はランドセルの肩ベルトをつかみながらついていく。
 廊下を歩く間、水谷くんは無言だった。
 こういうときは話しかけない方がいいというのを、僕は経験上知っている。きっと今頃、水谷くんの頭の中ではいろいろな情報が整理されているのだ。
 職員室で鍵を返すと、水谷くんは校門へ向かった。さっきまでいたタイヤのところでは、他の学年の女子たちが馬跳びをしている。
 僕は小走りで水谷くんの横に並んだ。それでも水谷くんはずんずんと前だけを向いて歩いて行く。しばらく進んだところで、ふと通学路ではない道へと曲がった。どこへ行くの、と問いかけようと口を開きかけた瞬間、唐突に足を止める。
「可能性はいくつかあると思っていた」
 水谷くんは、ほとんどひとり言のように言った。
 ──始まった。
 僕はランドセルの肩ベルトをつかむ手に力を込める。
「まず考えたのは、君がプールのときに聞いたという話だ。でも、川上さんがズル休みをしたのだと思って憤ったとしても、それで突然水をかけるというのはさすがにやりすぎだ。じゃあ、他に何か理由があるのか」
 水谷くんはガードレールに腰かけた。
「次に考えたのは、川上さんの絵の背景に谷野さんが描かれていたという可能性だった。そこに描かれていた自分の姿が嫌なものだったから、やめてほしいと言いに行き、でもいくら呼びかけても返事をしてくれないから、カッとなってバケツをひっくり返した」
 僕は、考えてもみなかった指摘に息を呑む。
 けれど言われてみれば、それは腑に落ちるものだった。耳を赤くして、声をひそめて何度も話しかけていた谷野さんは、たしかに何かに焦っているように見えた。
「でも、川上さんの絵の焦点はりんごに合っていて、背景はそれほど鮮明には描かれていなかった。それに、そもそも谷野さんが座っていたのは川上さんの背中側だから、描かれているはずもなかった」
「あ」
 僕は間の抜けた声を出した。
 ──そりゃそうか。
 納得しかけたことが恥ずかしくなる。
「そして、二人がりんごと観葉植物というまったく別の絵を描いていたことから、もう一つの可能性も否定できる」
「もう一つの可能性?」
 僕が首を傾げると、水谷くんは僕を見た。
「君も言っていただろう。──『僕が描こうとしていたのと同じりんごのはずなのに、それが信じられないくらい、僕の絵とは全然違う。別のものを描けばよかった』」
「それが何なの?」
「せっかく頑張って描いたのに、川上さんがこんなに上手に描いたら、自分の絵が下手に見えてしまう。川上さんの絵がなければ……」
「そんなこと思わないよ!」
 僕は慌てて遮る。
「そりゃあ別のものを描けばよかったとは思ったけど、だからって川上さんの絵がなければなんて」
「君は思わないだろうね」
 水谷くんは、メガネの位置を直しながら言った。
「だけど、誰もが同じように考えるとは限らない」
「そんな……」
「まあ、でもこの可能性は潰れているわけだから」
 水谷くんはあっさり言うと、また前を向いてガードレールに座り直す。
 僕はうつむき、数秒してから顔を上げた。
「じゃあ、水谷くんは結局何が本当の理由だったと思っているの?」
 水谷くんは、これは推理というよりも推測の域を出ないけど、とことわってから、「やっぱりプールの話が原因だったんじゃないかな」と続ける。
「プールの話? やっぱり、川上さんがズル休みをしていると思ったからってこと?」
「いや、逆だよ」
 水谷くんは、前を見たまま言った。
「ズル休みをしていると思ったからじゃなくて、やっぱりズル休みじゃなかったんだと思ったから」
 ──ズル休みじゃなかったんだと思ったから?
「ズル休みじゃなかったと思ったんなら、怒る理由もなくなるんじゃないの?」
「たとえばもし、川上さんのスカートの腰のところが血みたいな色で汚れていたとしたら?」
「血?」
「生理だよ」
 水谷くんは躊躇いなくその単語を口にした。
「川上さんは、体調が悪いと言ってプールを休んでいた。そして、谷野さんはそれを生理のせいにしていると考えていた。プールのときは、そんなにしょっちゅう生理が来るわけがないからズル休みのはずだと考えていたみたいだけど、実際にその汚れを見たら、生理だというのは本当だったのかもしれないと考えた。生理の血が漏れてしまっているんじゃないかと」
 そこまで一気に言うと、小さく息継ぎをする。
「谷野さんの席は、川上さんの席のちょうど背中側にあった。何かの拍子に気づいて、川上さんに教えてあげようとこっそり声をかけに行った。でも、川上さんは話しかけても気づいてくれなかった。そうこうするうちに、周りの席の人たちの方が先に顔を上げてしまう」
 僕は目を見開いた。
「『漏れちゃって男子に見られたりしたら死にたくなる』──そう考えていた谷野さんは、慌てた。このままじゃ男子に見られてしまう。それはかわいそうだ。何とか早く伝えようと焦っていたときに、男子の一人が川上さんに声をかけ始めた」
 男子──僕だ。
「谷野さんは、咄嗟に目の前にあった、赤と茶色が混ざったような色の水をかけた。そうすれば、赤い汚れがあっても、絵の具のせいだと思ってもらえるから」
 谷野さんは、川上さんに意地悪をしたわけではなかった。
 むしろ、助けようとしていた。
 頭の中がぐるぐるする。あんなふうに悪口を言っていたのに。なのに、自分が怒られてまで助けようとするなんて。
 僕には、矛盾した行動にしか思えなかった。
 でも、そう言えば合田さんも、川上さんの絵を拭いていた。川上さんと谷野さんが先生に連れられて出て行った後、雑巾じゃなくて自分のハンカチを使って丁寧に。汚れがほとんどわからないようになって、ホッとしたように息を吐いていた合田さん。
「……僕が、川上さんに声をかけようとなんてしなければ」
「まあ、どっちにしても川上さんは話しかけられていることに気づいていなかったんだし、遅かれ早かれ同じ結果になったかもしれない、」
 ふいに、水谷くんが言葉を止めた。
 僕は不思議に思って顔を上げる。
 水谷くんは、僕の後ろを見ていた。水谷くんらしくない、動揺した表情で。僕はハッと背後を振り返り、固まった。
 そこには、川上さんがいた。

(つづく)



芦沢央『僕の神さま』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322004000165/

本作の発売を記念して、「芦沢央リモート読書会」の開催が決定いたしました。

オンラインイベントでは、芦沢さんが、過去作から本作に至るまでの裏話を語ってくださいます。
また、8月31日までの期間限定でサイン本付きのチケットもご用意!
詳しくはこちらご確認ください。
https://kadobun.jp/news/press-release/ct67dd4wgbcc.html


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