今、最も注目される作家・芦沢央さんの新作『僕の神さま』は驚きと切なさが共存する、新境地ミステリー!
おじいさんが大事にしていた桜の塩漬けを台無しにしてしまった僕は、何でも謎を解決してしまう「神さま」のような小学生探偵・水谷くんに相談を持ち掛けます。そこで水谷君が提案してくれたのは意外な方法で……。じわっと心が温かくなるラストに安心したのもつかの間、二話目からはガラッと雰囲気の変わる展開に驚くこと間違いなし! まずはその第一話目となる「春の作り方」を、お読みください。
◆ ◆ ◆
牛乳を取ろうとした手の甲に、何かが当たった。
落ちてきた瓶が、スローモーションのようにゆっくりと宙を舞う。
その動きを、目は追っているのに、腕が少しも動かない。どん、という衝撃が足の裏から響いてきて、あ、という叫び声が喉の奥に吸い込まれた。
──中身がこぼれてしまっている。
僕は居間の奥の和室を振り向いた。
だが、昼寝をしているおじいちゃんには今の音が聞こえなかったのか、起き出してくる気配はない。
床に散らばってしまったのは、おばあちゃんが作った桜の塩漬けだった。
──どうしよう。
おばあちゃんが桜の塩漬けを作るようになったのは、おじいちゃんが校長先生を定年退職して数年経ってからだった。
きっかけが何だったかは僕も覚えている。おじいちゃんが緑茶の入った湯呑みをちゃぶ台に置いて、ふいに『不思議なもんだなあ』とつぶやいたのだった。
『本当はずっと、桜茶が苦手だったはずなんだよ。香りよりも塩気ばかりが主張しすぎている気がしてね。お祝いごとだから仕方なく飲んでいただけで、いつもほとんど味わってはいなかったんだ。だけど、いざ飲まなくていいとなると、何だかなあ……』
『春が来た感じがしませんか?』
おばあちゃんが両目を細めて尋ねると、『そうなんだよ』と顔を上げる。
『そう、そう。春が来た感じがしないんだ』
おじいちゃんは気持ちを上手く表現してもらえたことが嬉しかったのか、声を弾ませた。おばあちゃんはゆったりとうなずく。
『校長先生になってから長かったですものねえ』
それからおばあちゃんは、毎年、三月の下旬になると菩提寺の桜並木から花びらをもらってきて桜の塩漬けを手作りするようになった。水洗いをして塩をまぶし、梅酢に漬け、一週間ほどしたら取り出して天日干しをし、もう一度塩をまぶす。それを熱湯で消毒した瓶に詰め、冷蔵庫にしまっておくのだ。
おばあちゃんは、僕の目の前で桜の塩漬けを作りながら解説してくれた。おじいちゃんが校長先生をしていた小学校では、毎年卒業式や入学式には桜の塩漬けにお湯を入れて作る桜茶を飲んでいたこと、おじいちゃんは僕が生まれてから今までの時間よりも長い間、校長先生として生きてきたこと。
そしておばあちゃんは、秘密の話をするような声と表情で続けた。
『卒業式や入学式でみんなに向かって話をするおじいちゃんはとてもかっこよかったのよ』
初めの年は作ってすぐに飲んでいたけれど、翌年からは桜が咲き始める頃に前年に作ったものを飲み、また新しく作ったものを来年用に保存するようになった。
桜茶を飲むたびに、おじいちゃんは縁側からまぶしそうに外を眺めて、ああ、今年も春が来た、とつぶやいた。
その、桜茶よりもおばあちゃんが考えた表現を味わっているようなどこか得意げな横顔に、何だかおじいちゃんってかわいいな、と思ったことを覚えている。
だけど、去年の夏、おばあちゃんは死んでしまった。
急に心臓が止まってしまったらしく、苦しまなくてある意味幸せだったのかもしれないと言う人もいたけれど、おじいちゃんはお葬式の間中たくさん泣いて、それ以来少し小さくなってしまったような気がする。
僕の前では今までと同じように笑ったり面白い折り紙の折り方を教えてくれたりするけれど、僕が遊びに行くとほとんどいつも仏壇にまだ燃えかけの線香が立っているようになった。
おばあちゃんの得意料理だった卯の花を自分で作っては、作り方を教えてもらっておくべきだったなあ、とため息をつくおじいちゃん。
おじいちゃんはきっと、今年の分の桜茶を飲むのを楽しみにしていただろう。おばあちゃんの桜茶があれば、少しは元気になれたかもしれないのに。
僕は床に膝をつき、散らばった桜の塩漬けをかき集めて瓶に戻した。でも、埃や髪の毛なんかが交じってしまっていて、とてもこのままじゃ使えない。
一度水で洗って、もう一度塩漬けにし直す? ダメだ、それじゃあ花びらがボロボロになってしまうはずだ。それなら──
僕は考えがまとまらないままに瓶をジャンパーのポケットに突っ込んだ。そっとおじいちゃんの家を出て、さっき通ったばかりの通学路を駆け戻っていく。
水谷くんなら、とすがるように考えていた。
山野さんのリコーダーがなくなったときも、クラスで飼っていたハムスターがかごから逃げ出してしまったときも、学芸会のためにみんなで作った幕が汚されていたときも、顔色一つ変えずに真相を推理して解決してきた水谷くんなら、何とかしてくれるんじゃないか。
何か困ったことが起きたとき、みんなが真っ先に相談するのが水谷くんだ。水谷くんは、先生みたいに怒らない。そして、水谷くんは、先生みたいに「起こってしまったことは仕方ないから、これからどうするかを考えましょう」なんてことを言わない。
何が起こったのか、何でこんなことが起こってしまったのかを知りたい気持ちに、とことん答えてくれる。そして、その上で、じゃあどうするかという方法を一緒に考えてくれるのだ。
他の誰も気づかないようなちょっとしたヒントを見つけて、まるでその場にいたみたいに本当のことを言い当て、しかも一番いい方法を考えてくれる水谷くんは、四年生になったばかりの去年の春頃、高木くんが「すげえ、神さまみたい」と言ったことから、「神さま」と呼ばれるようになった。学校ではあだ名が禁止されているから先生がいるところでは使わないけれど、子どもたちだけのところでは、みんな水谷くんを「神さま」と呼ぶ。ねえ、神さま、教えてよ。ねえ、神さま、助けてよ。
水谷くんは、本当は「神さま」じゃなくて「名探偵」と呼ばれたいらしいけど、学年で一番小さくて、なのに大人よりも大人みたいに、いつも淡々としている水谷くんは、たしかに僕たちとは違う生き物みたいだ。
お寺の前を過ぎ、公園の角を曲がり──自分がそもそもおじいちゃんの家に牛乳を取りに帰ったのだったと思い出したのは、水谷くんが待っている歩道橋が見えてきたところだった。
歩道橋の階段下に置かれた段ボール箱の前でしゃがんでいた水谷くんが顔を上げる。
「あ、ごめん、牛乳なんだけど……」
「いいよ」
言いかけた僕を、水谷くんが手で止めた。
「よく考えたら、牛乳はまずいかもしれない」
メガネのブリッジを押し上げ、段ボール箱に顔を戻す。
「まずい?」
「いや、牛乳は元々牛の赤ちゃんのための飲み物だからね。仔猫に飲ませたらお腹を壊してしまうかもしれない」
「あ」
僕は声を漏らしながら〈ひろってください〉と黒い油性ペンで書かれた箱の中を覗き込んだ。最初に視界に飛び込んできたのは黄緑色の毛布で、毛布が動いた、と思った瞬間に隙間から黒と茶色の斑模様が現れる。水谷くんが毛布ごと抱き上げると、まぶしそうに目を細めた仔猫は、みい、と小さく鳴いた。
「とりあえず、どこか具合が悪いところがないかどうかも確かめた方がいいし、動物病院に連れて行こう」
水谷くんは唇をほとんど動かさないしゃべり方で言ってすばやく歩き始める。いつもながらの決断力に、さすが頼もしいな、と思ったところで、ポケットに入れた桜の塩漬けのことを思い出した。
ポケットを手で押さえると、水谷くんは、
「それ、何?」
と、僕のポケットを顎で示す。
僕はどこか救われる思いで、ついさっき起こったことを話し始めた。
自分の家よりも近いからおじいちゃんの家に向かったこと、牛乳を取ろうとして冷蔵庫の上の方に手を伸ばしたら、うっかり瓶を落として中身をこぼしてしまったこと、それは死んだおばあちゃんが作った桜の塩漬けで、おじいちゃんがすごくがっかりするだろうこと。
それで、水谷くんなら何とかする方法を思いつかないかなと思って、と続けると、水谷くんは動物病院へ向かう歩を緩めないままに「まあ、選択肢は三つだろうね」と告げた。
「正直に話して謝る、お店で桜の塩漬けを買ってその瓶に入れ替える、あるいは作る」
「作るって、僕が?」
「今、作り方を言っていただろう」
水谷くんは当然のことを口にするような表情で僕を見る。
「おばあちゃんが作るのを手伝ったことがあるんじゃないの?」
「手伝うっていうか……隣で見ていただけだけど」
僕は瓶を握りしめた。
「無理なら買うしかない。ただ、その場合は作り方が違うはずだから味や見た目が違うものにはなるだろうけど」
「それは……」
「なら、正直に謝る?」
僕は、答えられずにうつむく。正直に言っても、おじいちゃんは怒りはしないだろう。そうか、と静かに言って、瓶を足にぶつけたりしなかったかと心配してくれる──おじいちゃんは、そういう人だ。
だが、だからこそ本当のことを言う気にはなれなかった。
「……僕に、作れるのかな」
「桜が咲いてさえいれば」
僕が声を絞り出すと、水谷くんは何でもないことのように答えて腕の中の仔猫を見下ろした。
「だけど、まずはこの子が先だ」
動物病院では、仔猫に牛乳を飲ませなかったことを褒められた。やはり、水谷くんの言う通り、猫用のミルクと牛乳とでは成分が違い、無理に飲ませるとお腹を壊してしまうことがあるらしい。
お医者さんは、お世話の仕方をひと通り説明した上で、キャリーケースを貸してくれた。
僕たちはお礼を言って動物病院を出ると、ひとまず水谷くんの家へ向かうことにした。名前は何にするの、と僕が尋ねると、水谷くんは珍しく即答せずに仔猫をじっと見つめる。仔猫も水谷くんを見上げ、みい、と鳴いた。
数十分の間にも、すっかり愛着が湧いていた。水谷くんもそうなのか、キャリーケースを持つの替わろうか、と声をかけても、大丈夫、と言うだけで手放そうとしない。
だが、水谷くんの住むアパートへ着くと、ちょうど仕事から帰ってきた水谷くんのお母さんは、動物病院の名前がプリントされたキャリーケースを見るなり目を丸くした。
「それ、どうしたの」
「捨て猫。拾ったんだ」
水谷くんはキャリーケースを持ったまま器用に紐靴を脱ぎ、玄関へ上がる。
「動物病院でお世話の仕方も教わったから大丈夫」
早口に言って、そのまま廊下に進もうとしたところで、「ちょっと待ちなさい」と水谷くんのお母さんが呼び止めた。水谷くんが立ち止まる。水谷くんのお母さんは、小さくため息をついた。
「その様子ならたぶん想像はついているんだろうけど、このアパートではペットは飼えないの」
え、と僕は声を出す。
水谷くんは振り向かなかった。お母さんは水谷くんの前に回り込み、腰を屈めて顔を覗き込む。
「動物病院に連れて行ってあげたのはえらかったね。お金はどうしたの?」
「お年玉」
水谷くんのお母さんは、そう、と小さくうなずき、今の時間ならいるかしら、とひとりごちた。
「お母さん、大家さんに事情を話して一週間くらいは飼わせてもらえないか頼んでみるから、その間に誰か飼ってくれる人を探そう?」
水谷くんはうなずかない。けれど、首を横に振りもしなかった。その後ろ姿に、僕は何となく水谷くんはこうなることがわかっていたのかもしれないと思った。だからこそ、すぐには名前をつけようとしなかったんじゃないか。
水谷くんは、くるりと僕を振り向いた。
「ひとまず、クラスの子たちに飼えないか訊いてみるか」
「いや……というか」
僕は、そろそろと切り出す。
「うちのおじいちゃんが、ちょうど猫を飼いたがってたけど」
「え?」
水谷くんと水谷くんのお母さんが揃って声を上げた。
一拍置いて、水谷くんのお母さんが、「あら!」と声のトーンを上げて両手を叩き合わせる。
「そうなの、よかったじゃない」
「あの……ごめんなさい、水谷くんが飼いたいのかと思って言い出せなくなっちゃって」
「おじいちゃんって、あの桜茶の?」
そう言われると、不思議な巡り合わせのような気がした。おばあちゃんがいなくなって桜の塩漬けが最後の一瓶になったから、それをダメにしてしまったことが重大事になり、おばあちゃんがいなくなって家の中が静かになったから、おじいちゃんが猫を飼いたいと言い出したのだから、どちらも無関係の話ではないのだけれど。
僕が「うん」と答えると、水谷くんは、そうか、とつぶやいてケースを覗き込んだ。
その場で早速電話を借りて、仔猫を拾ったんだけど飼えないかなと切り出すと、おじいちゃんは『そりゃあ騒がしくなるなあ』と声を弾ませた。けれど、ちょうど明後日から三泊四日で老人会の旅行に行く予定が入っているということで、猫を受け取るのは帰ってきてからにしてもらえるとありがたいと言う。
僕はこっそりと胸を撫で下ろした。おじいちゃんが旅行に行くということは、少なくともその間は桜の塩漬けの瓶がないことに気づかれる心配はなく、新しいものを作る時間があるということだからだ。
自分で桜の塩漬けを作るのは、最初はひどく難しいことのように思われたけれど、水谷くんの言う通りに覚えている手順を紙に書き出していくと、一つ一つはそれほど大変なことでもなかった。
おじいちゃんが旅行のために戸締まりをしてしまう前におばあちゃんが使っていた塩と梅酢を持ち出すこともできたし、ここ一週間は晴れ間が続くようで天日干しをするのにも問題はない。
一番の心配は、まだ三月の中旬のこの時期に咲いている花があるだろうかということだったが、実際にいつも桜の花びらを摘ませてもらっていたお寺に行ってみると、たった一本だけ満開の樹があった。
ずらりと並んだ桜並木は、まだほとんどがつぼみだというのに、その一本だけが大輪の花をつけて美しく咲き誇っている。その不思議な光景は、まるでおばあちゃんが特別な魔法でもかけてくれたかのようだった。
「すごいね」
僕はつぶやく。
「おばあちゃんが応援してくれてるみたいだ」
はしゃいだまま話しかけると、水谷くんは、いや、と何かを言いかけて、けれど結局何も言わずに口をつぐんだ。
そのまま、二人で手分けして花を摘み取っていく。
水洗いをして塩をまぶし、梅酢に漬けていく間は調理実習のようで、天日干しは理科の実験のようだった。学校の宿題でもないのに、二人で一緒にまるで勉強のようなことをしているのが面白くて、そんな場合でもないと思いながらも少し楽しくなってくる。
水谷くんに相談するまでは本当に取り返しがつかないことになってしまったとしか思えなかったのに、作業をしているとすべてが上手くいくような気がするから不思議だった。
▼芦沢央『僕の神さま』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322004000165/