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試し読み

おばあちゃんの形見を台無しにした僕は、「神さま」のような水谷君に相談するが――『僕の神さま』 発売記念特別試し読み!  第一話「春の作り方」②

今、最も注目される作家・芦沢央さんの新作『僕の神さま』は驚きと切なさが共存する、新境地ミステリー!
おじいさんが大事にしていた桜の塩漬けを台無しにしてしまった僕は、何でも謎を解決してしまう「神さま」のような小学生探偵・水谷くんに相談を持ち掛けます。そこで水谷君が提案してくれたのは意外な方法で……。じわっと心が温かくなるラストに安心したのもつかの間、二話目からはガラッと雰囲気の変わる展開に驚くこと間違いなし! まずはその第一話目となる「春の作り方」を、お読みください。

 ◆ ◆ ◆

>>第一話「春の作り方」①

 ピンポーン、と調子外れのチャイムの音が玄関先に響く。
 はーい、どうぞー、という朗らかなおじいちゃんの声が奥から聞こえた。
 僕と水谷くんは顔を見合わせて小さくうなずき合う。
 引き戸を開ける音が、いつもよりも大きく響く気がした。僕は唾を飲み込み、脇をしめてジャンパーのポケットを肘で押さえる。
「お邪魔します」
 後ろから水谷くんの普段通りの声が聞こえて、少しだけ肩の強張りが緩んだ。大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。おばあちゃんがいつも使っていたのと同じ材料で同じ作り方で作ったはずなのだ。梅酢に漬ける時間が短くしか取れなかったのが気になるけれど、見た目としてはほとんどおばあちゃんの桜の塩漬けと変わらないものになった。作り直したと言わなければ、きっとおじいちゃんも気づかないはずだ。
「いらっしゃい」
 居間から現れたおじいちゃんが、僕を見てから水谷くんに視線を移した。水谷くんが「お邪魔します」と繰り返すと、「はい、こんにちは」と返す。
 その慣れた様子に、僕は、そう言えばおじいちゃんは校長先生だったんだよな、と思った。僕が物心がついた頃にはもう退職して今のおじいちゃんになっていたけれど、それでもおじいちゃんと一緒に歩いていると、知らないお兄さんやお姉さんたちが「あ、校長先生だ! こんにちは!」と声をかけてくることがあって、何だかくすぐったいような誇らしいような気持ちになったことを覚えている。あのときも、おじいちゃんは今みたいに「はい、こんにちは」と穏やかに返していた。
 ふいに、おばあちゃんの言葉が蘇る。
『卒業式や入学式でみんなに向かって話をするおじいちゃんはとてもかっこよかったのよ』
 おじいちゃんにとっておばあちゃんの桜茶は、本当に大切なものだったのだろう。校長先生でいた頃の──そして、それを覚えていてくれたおばあちゃんの思い出の品だったのだから。
 僕はジャンパーのポケットに手を入れ、中の瓶を強く握りしめた。
「おお、本当にまだ仔猫だ」
 キャリーケースを覗き込んで歓声を上げるおじいちゃんの脇をすり抜けて台所へ向かう。電気をつけていない台所は薄暗かった。
 僕はおじいちゃんの気配が近づいてこないことを確認してから瓶を取り出す。
 口の中がひどく渇いていた。心臓の音が速くなり、ほとんど動いていないはずなのに呼吸が浅くなる。
「名前は決まっているのかい?」
 おじいちゃんの声が薄膜に包まれたように遠くで聞こえた。水谷くんの返事は聞こえなかったが、おじいちゃんが「どうして」と続ける声がする。
「飼う人がつけたいだろうと思ったので」
 水谷くんの返事が今度は聞こえた。
 一瞬、驚いたような間が空き、おじいちゃんが「優しいんだな、水谷くんは」としみじみとした口調で言う声が耳に届く。
 僕は冷蔵庫の取っ手をつかんだ。できるだけ音を立てないようにそっと引っ張るとびくともしなくて、仕方なく少しずつ腕に力を込めていく。
 突然、バッ、とゴムが擦れる音と共にドアが勢いよく開いて後ろに転びそうになった。慌ててドアにしがみついてこらえ、背伸びをしておばあちゃんの桜の塩漬けが入っていた場所に持ってきた瓶を押し込む。
 踵を下ろしながらドアを閉めると、パタン、という音が響いた。思わず身をすくませてから、麦茶でも取り出せばよかったのかもしれないと気づく。そうすれば、冷蔵庫を開け閉めする音を聞かれても、麦茶を取り出すためだったと思ってもらえたのに。
「これ、母からです。猫を引き取ってくれてありがとうございます」
「ああ、そんなそんな。こちらこそ御礼をしないといけないのに」
 おじいちゃんが困ったような声で言ってから、「そうだ」と続けた。
「ちょうどおやつの時間だし、よかったらちょっと食べていきなさい。今お茶でも淹れるから」
 心臓が、どくんと大きく跳ねる。
 隠れなければ、と思いながらも一歩も動けずにいるうちにのれんが開き、姿を見せたおじいちゃんが「お」と僕を見た。僕は反射的におじいちゃんに背を向ける。
「麦茶いれる?」
「おお、気が利くな」
 おじいちゃんは僕がいつの間にか台所にいた不自然さには気づかなかったのか、感心したような声で言って食器棚から湯呑みを取り出した。僕は冷蔵庫のドアで顔を隠しながら麦茶のポットをつかむ。
 だが、おじいちゃんは、いや、と低く言った。
「せっかくだから、桜茶でも飲んでみるか」
 咄嗟に叫び声が出そうになる。実際には叫ばずにいられたのは、我慢できたというよりもただ喉が引きつって声が出なかっただけだった。
「そうだ、そうだ。今日は新しい家族が増えてめでたいしな」
 おじいちゃんは嬉しそうにひとりごちてヤカンをコンロの火にかける。
「じゃあおじいちゃんが淹れるから、おまえはあっちで座って待っておいで」
 うん、と答えるのが精一杯だった。のれんをくぐると、台所での会話が聞こえていたのか水谷くんも微妙な表情をしている。
 僕は水谷くんの隣まで駆け寄り、耳に口元を寄せた。
「どうしよう」
 水谷くんは大丈夫だというように小さくうなずき、「見てよ」と少し声を張る。
「もうじゃれたりできるようになったんだ」
 ケースから鳥の羽根のようなものがついた猫じゃらしのおもちゃを取り出し、仔猫の顔の前で振って見せた。仔猫は真ん丸の目を輝かせてパッとおもちゃの先に前脚を伸ばす。わあ、と僕は声を上げた。
「かわいい!」
「抱っこしてみる?」
 水谷くんが慣れた動きで仔猫を抱き上げ、僕を向く。僕は、身を引きながらも両腕を伸ばしていた。ちゃんと抱っこできるだろうか。嫌がって逃げたりしないだろうか。そんな思いが頭をよぎったけれど、仔猫はそのまま暴れることなく僕の腕の中に収まってくれる。
 柔らかい、とまず思った。それから、軽い、と思って、温かい、と思う。前に会ったときには、みい、と鳴いていたはずの仔猫は、今は、みゃあ、と鳴いていた。骨なんて一本もないようなくにゃくにゃの背中が動くたびに、ふかふかの毛が手のひらをくすぐる。
 そのキラキラした目で見つめられると、それだけで胸が一杯になった。何てかわいいんだろう、と思いすぎて、「かわいいね」とまたつぶやいてしまう。
 猫って、本当にこんなふうにフワフワなんだ、と思った。本当に、と思ったのは、前にクラスメイトの川上さんが描いた猫の絵を見たときにも同じことを考えたからだ。
「かわいいなあ」という声がして、ハッと顔を向けるとおじいちゃんが戻ってきていた。おじいちゃんは仔猫を眺めながら、ちゃぶ台の真ん中に湯呑みと木の皿を並べる。茶色い紙箱からクッキーを出して皿の上に盛り、戸棚から〈アソートせんべい〉と書かれた缶を取り出した。
「おもたせで申し訳ないが」
 小さく言い添えて皿を水谷くんの前に滑らせる。水谷くんは「いただきます」と伸ばした背筋を前に傾けると、せんべいを選んだ。僕は少しだけ迷ったものの、チョコレートクッキーを取る。しょっぱいお茶には何となくせんべいの方が合う気がしたが、あまり好きではないアーモンドせんべいばかりだったからだ。
 おじいちゃんは、お菓子のお皿ではなく湯呑みに手を伸ばした。僕は身構える。
 おじいちゃんが湯呑みの中を見た。僕もつられるようにして視線を向けると、ほんの少しピンクに色づいたお湯の中で、中心だけが濃いピンクで先はほとんど白い花びらがクラゲのように揺れている。
 おじいちゃんが嬉しそうに両目を細め、湯呑みにそっと口をつけた。ずず、と小さな音を立ててすするようにして飲む。
 次の瞬間、おじいちゃんの白い眉毛がぴくりと動いた。口の中のお茶を遅れて飲み込みながら、怪訝そうな顔をする。
 ──まさか、気づかれた?
 全身が、水をかけられたように一気に冷たくなった。味が違ったんだろうか。でも何で? 材料も作り方も同じはずなのに──それとも、梅酢に漬ける時間がいつもより短かったから、違う味になってしまったんだろうか。
 水谷くんは涼しい表情のまま湯呑みをつかんだ。舐めるようにして一口飲む。
 僕も慌てて少しだけ飲んだ。だけど、おばあちゃんの味とどこがどう違うのかわからない。
 そもそも、僕はおばあちゃんが桜の塩漬けを作る姿は見ていたけれど、でき上がった桜茶を飲んだことは数えるほどしかなかった。
 味があまり好きではなかったから、年に一回くらいはおじいちゃんにつき合って飲むこともあったけれど、それ以外は緑茶か麦茶を淹れてもらっていたのだ。
 もし、このままおじいちゃんが「味が違う」と言い始めたら──
 おじいちゃんは、僕が犯人であることに気づくだろうか。──いや、問題はそんなことじゃない。もし、おじいちゃんがこれを「おばあちゃんの味じゃない」と思うのなら、おじいちゃんはもう二度とおばあちゃんの桜茶の味を楽しめなくなってしまうのだ。
 だが、おじいちゃんは何も言わずにクッキーをつかんだ。クッキーを食べるのは久しぶりなのか、老眼鏡をずらしてクッキーの袋をしげしげと眺め始める。
 ──気のせいだと思うことにしたんだろうか。
 僕は、湯呑みの陰からおじいちゃんの横顔を盗み見た。おじいちゃんはもうお茶を見ようとはせず、さらにクッキーの包装紙を手にとって裏返す。
 すると、紙が擦れる音に反応したのか、仔猫が弾かれたように顔を上げた。あ、と思う間もなく僕の腕からすり抜けて包装紙に飛びつく。おっと、とおじいちゃんが包装紙を上に掲げると、それを追うように長く身体を伸ばして跳ねた。
 おお、とおじいちゃんが上体を反らす。
「すごいな、もうこんなに動けるのか」
 包装紙を素早く畳んで床に置き、仔猫を抱き上げた。
「よしよし、でも今は熱いお茶があるからね。危ないからおじいちゃんに抱っこされていなさい」
 優しく語りかけてちゃぶ台から少し離れた場所にあぐらをかき直し、脚の間に仔猫を下ろす。仔猫は、みゃあ、と鳴いたものの飛び出すわけでもなく、おじいちゃんの親指のつけ根をあぐあぐと噛んだ。痛くないのかな、と思ったけれど、おじいちゃんはやめさせることもなく反対側の手の指で仔猫の顎を撫でる。
 ゴロゴロゴロゴロ、というゆっくりとうがいをしているような小さな音が聞こえた。仔猫は気持ちよさそうに目を閉じて顎をぐんぐんと反らせていく。
「名前は何にするかなあ」
 おじいちゃんが仔猫を見下ろしながらつぶやいた。仔猫の顎から手を離して腕を掻き、仔猫の顎に戻したと思うとまたすぐに離して目をこする。
 撫でるのをやめられた仔猫が不思議そうにおじいちゃんを見上げた。僕も何気なくおじいちゃんの顔を見て、息を呑む。
 おじいちゃんの顔が、いつの間にか真っ赤になっていた。
「え?」
 僕はそろそろと腕を伸ばす。
「おじいちゃん、どうしたの」
「いや、ちょっと……」
 おじいちゃんも困惑したように言いながら腰を浮かせた。仔猫がぴょこんと床に降り、水谷くんの方へ向かう。
 おじいちゃんが喉を押さえて、強く咳払いをした。痰が絡んだような激しい音に胸の奥がざわつく。おじいちゃんはどうしちゃったんだろう。大丈夫だろうか。
「おじいちゃん」
 おじいちゃんは「大丈夫だから」と言って足早に居間を出て行く。洗面所からさらに咳払いが聞こえ、ガタガタと引き出しを開け閉めするような音が続いた。
「大丈夫かな」
 僕は不安になって水谷くんを見る。だが、水谷くんもわからないというように首を振った。

(つづく)



芦沢央『僕の神さま』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322004000165/


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