今、最も注目される作家・芦沢央さんの新作『僕の神さま』は驚きと切なさが共存する、新境地ミステリー!
おじいさんが大事にしていた桜の塩漬けを台無しにしてしまった僕は、何でも謎を解決してしまう「神さま」のような小学生探偵・水谷くんに相談を持ち掛けます。そこで水谷君が提案してくれたのは意外な方法で……。じわっと心が温かくなるラストに安心したのもつかの間、二話目からはガラッと雰囲気の変わる展開に驚くこと間違いなし! まずはその第一話目となる「春の作り方」を、お読みください。
◆ ◆ ◆
ひとまず洗面所まで追いかけていくと、おじいちゃんは僕に背を向けたまま「大丈夫だから」と繰り返した。
「ちょっとそっちで待ってなさい」
「でも」
僕の言葉を遮るようにして、おじいちゃんは洗面所のアコーディオンカーテンを後ろ手に閉める。それでも僕は居間に戻る気にはなれなくて、カーテンの前で足踏みをした。遅れてやってきた水谷くんと顔を見合わせる。
救急車、という言葉が喉の奥までこみ上げてきた。けれど、おじいちゃん自身が大丈夫だと言っている以上、事を大きくしてしまっていいのか判断がつかない。でも、もしこれで取り返しがつかないことになってしまったりしたら──
ひとまず誰か大人を呼んでこよう、と水谷くんがすばやく玄関へ駆け出した。追いかけようとした僕は、「君はおじいさんについていて」と言われて引き返す。
僕が戻ってきたのと、おじいちゃんがアコーディオンカーテンを開けたのはほとんど同時だった。
「驚かせてすまなかったね」と言いながら居間に現れたおじいちゃんの顔はもう普段の色で、呼吸も苦しそうではない。
「おじいちゃん? 大丈夫なの?」
「ああ」
苦笑交じりに答えられて、僕は玄関へ、
「水谷くん! おじいちゃん大丈夫だって!」
と声を張り上げた。水谷くんはバタバタと音を立てて居間へ戻ってくる。おじいちゃんの全身へざっと視線を滑らせた。
おじいちゃんが水谷くんに、「驚かせてすまなかったね」ともう一度言う。それでも水谷くんは表情を和らげず、「大丈夫ですか? 救急車を呼びますか?」と口にした。
「大丈夫だよ。もう薬を飲んだから」
「薬?」
訊き返したのは僕だった。おじいちゃんは、何か病気だったのだろうか。だが、そんな話はお母さんからも聞いたことはない。
おじいちゃんは眉尻を下げ、僕と水谷くんの間で身体を小さく丸めて座っている仔猫を見下ろした。
「いや、まさかとは思ったんだが……この薬が効いたということは」
そこまで言って、深くため息をつく。
「どうも、アレルギーらしい」
「アレルギー?」
今度は水谷くんが訊き返した。おじいちゃんは、顎を引くようにしてうなずく。
「せっかく連れてきてもらったのに本当に申し訳ないんだが……今日、このタイミングで症状が出たということは、アレルギー源は猫かもしれない」
え、と僕は声を出していた。咄嗟に水谷くんを向く。
水谷くんは、仔猫を見ていた。「猫アレルギー」と復唱するようにつぶやき、その場で膝をついて猫を抱き上げる。
「じゃあ、飼うのは無理ですね」
「ああ、せっかく連れてきてもらったのに本当に申し訳ない」
おじいちゃんがもう一度謝ると、水谷くんは「連れて帰ります」とだけ言って仔猫をキャリーケースに入れた。
「え、水谷くん!」
僕は慌てて声を上げる。
「でも、その子どうするの」
「ひとまずうちに連れて帰って、別の飼い主を探すしかないだろう」
水谷くんは、淡々と言った。僕は身を縮ませ、うん、とうなずく。
たしかに、おじいちゃんが猫を飼ってくれると言っていたから、他の飼い主は探していなかった。僕の家にはインコがいるし、おじいちゃんが飼えないということは、仔猫を飼ってくれる人はいなくなってしまう。
みゃあ、とキャリーケースの中で仔猫が鳴いた。話している内容がわかっているのかいないのか、忙しなくみゃあみゃあと鳴き続ける。
おじいちゃんは悲しそうな目をキャリーケースに向けた。思わずといった感じで手を伸ばしかけ、振りきるように踵を返す。
「お腹がすいたのかもしれないな」
自分に言い聞かせるようにつぶやいて台所から小皿を取ってきた。
「一応人肌程度には温めてきたが、皿から直接飲めるのかな?」
僕に小皿を渡しながら、水谷くんに尋ねる。
水谷くんは顔だけを上げた。
「これは、仔猫用のミルクですか?」
おじいちゃんは思いもしないことを言われたというように目をしばたたかせる。
「いや、牛乳だが……牛乳じゃダメなのかな?」
「ダメだよ!」
僕は手に持っていた小皿をすばやく引いた。自分だってつい一週間前まで知らなかったくせに、「牛乳は牛のミルクでしょ。猫に飲ませたらお腹を壊しちゃうんだよ」と受け売りで続ける。
「そうなのか?」
「そうだよ。見た目は似ていても違うものなんだから」
どこか得意になってそう口にした瞬間だった。
水谷くんの周りの空気が、ピンと張りつめる。
その横顔に、水谷くんが何かに気づいたことがわかった。
いつもならば、鼻の下を指でこすって「謎の匂いがする」と言い出しているところだ。僕はその、本当に名探偵のような決めゼリフが好きだったが、今日は水谷くんは口にしなかった。何かを考え込むように難しい顔をしたまま、唐突に「失礼します」と玄関へ向かう。
「水谷くん!」
僕は振り向かないまま出ていってしまった水谷くんの後を慌てて追った。百メートルほど進んだところで踵をつぶして履いた靴の紐を踏んでしまい、転びそうになる。
うわ、と叫んで何とか転ばずに踏ん張ったとき、ようやく水谷くんが足を止めた。
僕は両膝に手をついたまま顔を上げる。
目の前にあった建物は、市立図書館だった。
「ちょっとここで待ってて」
水谷くんは僕にキャリーケースを押しつける。どうするの、と尋ねる間もなく、建物の中へ消えた。
僕は、その場に立ち尽くしたまま、キャリーケースと図書館の入り口を交互に見る。僕も追いかけて中に入りたいけれど、猫を連れて入るわけにもいかない。
建物の後ろの駐輪場になっているスペースに回り込み、キャリーケースを地面に置くと、背伸びをして窓を覗き込んだ。水谷くんはどこだろう。何かを調べようとしているんだろうか。窓枠に指をかけてつま先立ちになった体勢のまま、横に移動しながら棚の間を一つ一つ見ていく。
外よりも少し暗い室内は、人がまばらだった。大学生くらいの男の人、杖をついたおじいさん、セーラー服姿のお姉さん、クリーム色のエプロンをつけた女の人──あ、いた。
見つかった水谷くんは、それまでに見えていた人たちよりも頭が二つ分くらい小さかった。そのことに、僕はなぜだか少し驚く。
水谷くんは一冊の本を小脇に抱え、足を横に滑らせるようにして歩きながらうなずいていた。何にうなずいているんだろう、と不思議に思ったところで、うなずいているわけではなく、本の背表紙に目を走らせているのだと気づく。
そう言えば、水谷くんはいつもぎょっとするほど本を読むのが速かった。きっと、棚にずらりと並んだタイトルを読むのも、それと似ているのだろう。
ふいに、水谷くんの足と頭が止まる。水谷くんはすっと手を伸ばして一冊の本を引き抜いた。 僕は一度踵を下ろして痺れてきたつま先をほぐし、改めて窓にへばりつく。
所々読めない漢字があってよくわからなかったが、〈アレルギー〉という文字だけが読み取れた。
──アレルギー?
僕は目を凝らす。何を調べているんだろう。おじいちゃんの猫アレルギーについてだろうか。
やがて、水谷くんが本から顔を上げた。そっと本を閉じ、もう一冊と同じく小脇に抱える。
そのまま棚から離れると、柱の陰に隠れて窓からは見えなくなってしまった。僕はキャリーケースを持ち上げ、図書館の入り口へ戻る。
僕が入り口に着いてしばらくして、水谷くんが出てきた。
「水谷くん、何を調べてたの?」
水谷くんは、答える代わりに脇に挟んでいた本を手に持ち替える。それは、先ほどのアレルギーの本ではなく、植物図鑑のようだった。表紙には白や黄色やピンクの花が並んでいる。
水谷くんはキャリーケースを受け取り、本を僕に渡しながら「最初に疑ったのは、毒性のある植物だったのかもしれないということだったんだ」と唐突に話し始めた。
「毒?」
僕はぎょっとして訊き返す。
水谷くんは僕の目を真っ直ぐに見据えたまま「ああ」とうなずいた。
「おじいさんの具合が悪くなったのは、猫を抱き上げたときでもあったけど、お茶を飲んだ直後でもあっただろう? もしかして、桜の花の中でも毒性がある品種で塩漬けを作ってしまったのかもしれないって思ったんだ」
そこで言葉を止めると、まつげを伏せる。
「……実は、僕たちが摘んだあの花が、まだ咲いていなかった桜並木の桜──おそらくこれまでおばあさんが摘んでいたソメイヨシノとは違うものだということはあのときにも気づいていたんだ」
「え?」
僕は目を見開いた。あのとき──あの花を摘んだとき。水谷くんはまつげを上げて「ソメイヨシノはすべてクローンで、同じ場所であれば咲くタイミングが同じはずだから」と続ける。
「クローン?」
僕は首を傾げた。聞いたことがある単語ではあったが、どういう意味だっただろうか。水谷くんは一瞬考えるように視線を上へ向ける。
「DNAの持つ遺伝情報が同じなんだよ」
解説するような口調で言い換えてくれたが、僕は余計にわからなくなった。けれど水谷くんは、これで僕も話についてこられるようになったと思ったのか、「そう、つまり」とまとめる言葉を口にする。
「一斉に咲いて散るはずのソメイヨシノの中で一本だけが先に咲いていたということは、品種が違うということになる。……だけどあの場でそう言わなかったのは、おばあさんが使っていたのがソメイヨシノだったんだとしたら、どちらにしても同じ品種を今この辺りで見つけるのは難しいだろうと思ったからだ」
水谷くんの言葉に、花を摘みに行ったときの光景が蘇った。
つぼみばかりの桜並木の中で、たった一本、大輪の花を咲かせていた樹。おばあちゃんが応援してくれているみたいだとはしゃいだ声で言った僕に、何かを言いかけた水谷くん。
「それに」と水谷くんは声のトーンを一段低くして続ける。
「同じ桜なら、品種が違ったとしてもそれほど味に違いが出るとも思わなかったんだ。作り方からしても、どうせ味のほとんどは塩で決まるようだったし──だけど、それが間違いだった」
何かを噛みしめるように目をつむり、ため息を吐き出す。
ゆっくりとまぶたを開き、僕を見て言った。
「あの花は桜じゃなくて、アーモンドの花だったんだよ」
「アーモンド?」
水谷くんは、僕の手の中の植物図鑑を器用に片手でめくる。現れたのは、僕たちが一週間ほど前に摘んだのと同じ花だった。
だが、それは桜にしか見えない。
「え、これ桜じゃないの?」
「ああ、見た目は似ていても違うものだよ」
水谷くんは、僕が先ほど牛乳について言ったのと同じ言葉を口にした。そして、図鑑の中の写真に添えられた文字を指さす。
〈アーモンドの花〉
水谷くんは再びページをめくって、今度は桜の花のページを開いた。
「そっくりだろう? だけど、よく見ると、桜は枝から出た細い茎の先に咲くのにアーモンドの花は枝から直接咲くんだ」
僕は二つのページを見比べる。
──ほんとだ。
それから一拍遅れて今までの話の流れを思い出し、「え」と水谷くんを見た。
「じゃあ、アーモンドの花には毒があったってこと?」
「いや」
水谷くんは短く答え、植物図鑑の上にもう一冊の本を載せる。その表紙の〈アレルギー〉という文字に目が吸い寄せられた。
水谷くんはすっと息を吸い込む。
「おじいさんは、アーモンドアレルギーなんじゃないか」
僕の目をじっと見てから、アレルギーの本のページをめくった。〈ナッツアレルギー〉という項目を開き、指で文字をなぞる。
「〈代表的なのはピーナッツアレルギーですが、その他に、くるみやカシューナッツ、アーモンドがアレルギー源になる場合もあります〉」
本を僕の方に向けているのだから文字が逆さまに見えるはずなのに、淀みなく読み上げた。
「考えてみれば、もしアーモンドの花に毒性があったんだとしたら、同じお茶を飲んだ僕たちにも症状が出ていないとおかしい。それに、おじいさんはアレルギー用の薬を飲んだらよくなった」
「あ」
──そう言えば、そうだ。
「そもそもアレルギー用の薬を持っていたということは、何かのアレルギーを持っていたということだ。それに、おじいさんはクッキーの裏面や包装紙を確かめるように見ていた。そして──アーモンドせんべいだけが余っていたアソートせんべい」
水谷くんはひと息に言い、音を立てて本を閉じる。
「おじいさんの具合が悪くなったのが僕たちの作ってしまったアーモンド茶のせいなんだとしたら、おじいさんはあのお茶を飲むたびに具合が悪くなってしまうかもしれない」
おばあちゃんの桜の塩漬けをダメにしてしまったこと、そしてそれを言い出せずに自分でおばあちゃんの作り方を真似して作ったこと──僕が本当のことを白状して謝る間、おじいちゃんは何も言わなかった。
そのことで、僕はますます消え入りたくなる。
おじいちゃんが、瓶を手に取って眺めた。
「そうか……おまえが」
ごめんなさい、と吐き出す声が震える。
おじいちゃんは、瓶をテーブルに置いた。
「でも、どうして本当のことを言う気になったんだ」
「この花は、桜ではなくアーモンドの花だったんです」
僕の代わりに答えたのは水谷くんだった。
その言葉に、おじいちゃんが目を大きく見開く。その瞬間、ああ、と僕は悟っていた。水谷くんの推理はやはり当たっていたのだ。
「水谷くんが、おじいちゃんがアーモンドアレルギーかもしれないから、このお茶を飲んだらまた大変なことになるって」
「どうしてわかったんだ?」
水谷くんはうつむいたまま、図書館の前で僕に説明したのと同じ推理を口にした。おじいちゃんは目をしばたたかせる。
「驚いた」
つぶやき以上に、本当に驚いていることはその呆然とした様子から伝わってきた。だが、水谷くんは得意そうにするわけでも、照れくさそうにするわけでもない。
それ自体は、いつものことだった。今までだって、いろいろな問題を推理によって解決してきた水谷くんは、自慢げに振る舞うようなことはなかった。どんなときも必要なことだけを口にして、周りがどよめいても平然としていた水谷くん。けれど今日は、どこか居心地が悪そうだった。
そのことにも、僕は申し訳なくなる。
僕が、瓶を落としたりしなければ──せめて、あのときすぐに正直に謝っていれば。
そうすれば、水谷くんにこんな顔をさせることもなかった。おじいちゃんに苦しい思いをさせてしまうこともなかったのに。
おじいちゃんが、ゆっくりと水谷くんの隣にしゃがみ込んだ。
「もう一度、抱いてみてもいいかい?」
水谷くんは無言でうなずき、キャリーケースの蓋を開ける。嬉しそうな鳴き声を上げる仔猫を抱き上げ、おじいちゃんに渡した。
おじいちゃんは、そっと、壊れやすいものを手にするような手つきで受け取った。その場で座り込み、喉を撫でる。仔猫はゴロゴロと喉を鳴らした。だが、もうおじいちゃんの顔色は変わらない。
そして、その静かな横顔からは、何を考えているのかがまったく読み取れなかった。
怒っているだろう、と僕は奥歯を噛みしめながら思う。
ただ桜の塩漬けをダメにしてしまっただけならば、怒らなかったかもしれない。だけど、僕はそれを隠そうとした。ごまかそうとして、おじいちゃんを騙した。おじいちゃんはがっかりしたはずだ。僕がそんなふうに嘘をつくような孫だったこと、そして何より、おばあちゃんの桜の塩漬けがダメになってしまったこと──
もう、おじいちゃんの顔を見ていられなかった。僕はつま先をにらみつけ、拳を強く握る。
食いしばった歯の間から、嗚咽が漏れた。自分が情けなかった。たまらなく、恥ずかしい。
だが次の瞬間、ふいに額に乾いた、けれど温かな感触を覚えた。
ハッと顔を上げた途端、おじいちゃんの腕が視界に飛び込んでくる。
その隙間から見えたおじいちゃんの目は、僕の目を見ていなかった。ほんの少し、上にずれている。どこを見ているのだろうと不思議になって目線だけを上げると、額に置かれた手のひらにぶつかった。
おじいちゃんは、僕の頭を見つめたまま、小さく言った。
「……おまえが、覚えてくれていたのか」
何を、と訊き返しそうになって、おばあちゃんの桜の塩漬けの作り方だと遅れて気づく。まぶたの裏に、おばあちゃんの得意料理だった卯の花を自分で作っては、作り方を教えてもらっておくべきだったとため息をついていたおじいちゃんの丸い背中が思い浮かんだ。
うん、と答える声が自分の耳にもかすれて届く。
やがて額から伝わり始めた細かな震えを、僕は身動きもできずに受け止めていた。
▼芦沢央『僕の神さま』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
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