今、最も注目される作家・芦沢央さんの新作『僕の神さま』は驚きと切なさが共存する、新境地ミステリー!
何でも謎を解決してしまう「神さま」のような小学生探偵・水谷くんと僕は、図工の時間に起きた事件をきっかけに、クラスメイトの川上さんから相談を受けますが、二人がとったある行動が、思いがけぬ結果を引き起こしてしまうことに……。
一話目とはまったく違う展開、そして予想もつかないラストには驚くこと間違いなし。
一話目をすでに読まれた方も、一話目をこれから読まれる方も、是非この二話目で、その驚きを体験してみてください。
◆ ◆ ◆
決行当日。
僕は、朝から落ち着かなかった。
本当にこの作戦で上手くいくのだろうか。
途中で川上さんのお父さんに気づかれてしまったりしないだろうか。
もし気づかれてしまったら、川上さんのお父さんはどうするのだろう。
川上さんがそこまで思い詰めていたことを知れば、今度こそパチンコをやめてくれるのか。それとも──
それ以上は考えを進められず、また最初の考えに戻ってしまう。
川上さんと連絡が取りたいけれど、もう一昨日から夏休みに入ってしまっていて、川上さんはプール教室にも来ないから学校で会うことはできなかった。電話番号は知らないし、家の場所もわからない。
朝ごはんがほとんど食べられなくて、お母さんが「夏バテかしら」と心配そうな顔をしたけれど、もちろん理由なんて言えるわけがなかった。
何度も時計を見上げていたら、
「誰かと遊ぶ約束でもしてるの?」
という声が飛んでくる。
「約束っていうか……うん」
ついそう答えてしまい、その自分の答えに背中を押される形で、やっぱりパチンコ屋の前まで行ってみよう、という気持ちが固まった。
「出かけるんだったら、ちゃんと食べていきなさいよ」
お母さんが渋い顔でお茶碗を僕の方へ寄せてきたので、何とか無理やり口に押し込んでから席を立つ。
帽子をかぶってお財布をジーンズのポケットに入れ、もう一度時計を見上げた。
十時十五分。
あのパチンコ屋が開くのは十時のはずだ。
飛び出すようにして家を出ると、むわっとした空気が全身を包んだ。一瞬だけ怯みそうになりながらもパチンコ屋へ急ぐ。
ゴトがバレるのにはどのくらいかかるんだろう。そもそも本当に今日やるんだろうか。こうしている間に何か大変なことになっていたりしたら──
横断歩道の前まで来たところで信号が赤になってしまい、立ち止まった途端に汗がどっと噴き出る。
道の反対側を見ると、パチンコ屋が見えた。でも、川上さんが言っていたお店ではない。あそこが、前に出禁になったというお店だろうか。
──喉が渇いた。
そう感じたところで、お母さんが用意してくれた水筒を持ってくるのを忘れたことに気づいた。
それでも信号が青になるや否や再び勢いよく走り始める。横断歩道を渡り終えてから、横断歩道では走っちゃいけないんだったと思い、そんないい子なことを考えた自分に驚いた。自分はお母さんに嘘をついて家を出てきて、これから川上さんのお父さんを罠にはめようとしているくらいなのに。
──いや、違う。
川上さんを助けるためなのだ。
このままでは川上さんのお父さんはパチンコをやめてくれないから──そう考えながら最後の角を曲がり終えた瞬間だった。
思わず、足が止まった。
え、という声が喉から漏れる。
パチンコ屋の前には、救急車とパトカーがいた。
「えー何、どうしたの? 熱中症?」
ふいに、声が真横を通り過ぎた。反射的に顔を向けると、大学生くらいの男の人で、隣に並んだもう一人の男の人が「いや熱中症ならパトカーは来ないだろ」とすぐに返す。
「何か事件じゃねえの?」
──事件。
心臓が、どくんと跳ねた。
まさか、ゴトというのは、そんなに大変なことだったんだろうか。
全身を濡らした汗が冷たくなっていくような気がして、腕を手で拭う。
お腹に力を入れてパチンコ屋の方へ一歩進んだ途端、突然、サイレンの音が鳴り始めた。
びくりとして後ずさる。
動いたのは救急車だった。そのまま向こう側へと走り始めた救急車を目で追い、違う、と思い直す。
──ゴトがバレたんだったら、救急車なんて来ないはずだ。
だったら、たまたま別の事件が起きたということだろうか。川上さんのお父さんとは関係ない?
どうしたらいいかわからなくて、辺りを見回す。
誰か、何か知っている人はいないか。
パチンコ屋の周りには何人かの大人が様子をうかがうように立っている。もう一度辺りを見回したところで、視界の中で細かく動くものを捉えた。
「水谷くん」
考えるよりも早く、足が駆け寄っていく。
「ねえ、何があったの。川上さんのお父さんは──」
「とりあえずこっちへ」
ぐい、と腕を強く引かれた。そのまま小道の奥へと連れて行かれる。
駅ビルの入り口前には、川上さんがいた。
「川上さん」
しゃがんでうつむいていた川上さんが顔を上げる。
川上さんは白い顔をしていた。
それがいつもと同じなのか、そうではないのかがわからない。
水谷くんを振り向くと、水谷くんは川上さんよりも顔色が悪く見えた。
「何があったの?」
僕はもう一度、今度は二人に訊く。
きっと水谷くんが答えてくれるのだろうと思っていたけれど、先に口を開いたのは川上さんの方だった。
「父親が、店員を殴ったの」
──店員を、殴った?
「……何で」
「お店が開く時間に間に合わなくて、そのせいでいい席を取れなかったみたいで……お酒も飲んでいたから」
一体何を言われているのかわからなかった。
「お店の前まで来たところで誰も並んでいないのに気づいたのか、すごい顔で腕時計を見て中に入っていったの。そしたら、しばらくして店員に腕をつかまれるみたいにして出てきて、その人に向かって、ふざけるなとか舐めやがってとか叫んでいたんだけど、店員さんが警察呼びますよって言ったらいきなり殴って」
「磁石のせいで時計が狂っていたんだ」
水谷くんが言い添えた。
「僕がうっかりしていたんだ。磁石の近くに置いておいたら時計が狂ってしまうこともあるって知っていたのに」
──つまり、どういうことだろう。
川上さんは計画通りにお父さんの腕時計に磁石を仕込んだ。そうしたら時計が狂ってしまって、川上さんのお父さんはパチンコ屋の開く時間に間に合わなかった。それでいい席を取れなくなって店員と揉めて、警察を呼ばれてしまった?
「……ゴトは」
他にも確かめたいことはあるはずなのに、喉からはそんな言葉が出ていた。
川上さんが、首を小さく横に振る。
「たぶん、磁石のことにはまだ誰も気づいていないと思う」
「でも、もし警察で事情を訊かれて、店じゃなくて自分の腕時計の方が間違っていたことを知ったら、時計をよく見るはずだ」
水谷くんが険しい顔で言った。
僕は、血の気が引いていくのを感じる。
「それって……」
「僕たちがやったことがバレるかもしれない」
目が、川上さんの方へ動いた。
しゃがんだままの川上さんは、宙を見ている。
「とりあえず、一回家に帰ろう」
水谷くんの声に我に返ると、水谷くんは川上さんの肩に手をのせていた。いつの間にか、川上さんは膝に顔を埋めている。
「こんな暑いところにずっといたら熱中症になるよ」
川上さんは水谷くんに支えられて立ち上がった。
ふいに、そう言えば、と思う。二人はいつからここにいたんだろう。お店が開く十時より前から二人でいたんだろうか。
──どうして、もっと早く来なかったんだろう。
先に並んで歩く二人についていきながら、口の中の苦みを噛みしめる。あんなふうに家で迷っていなければよかった。いや、そもそも今日やることはわかっていたんだから、約束していればよかったのだ。
顔が熱い。頭がくらくらする。喉が渇いた。
水谷くんが鞄から水筒を出し、川上さんに渡す。
「あ、僕にも……」
思わず言ってしまってから、そんな自分が恥ずかしくなった。ちゃんと水筒を持ってくればよかった。僕が川上さんに水筒を渡したかった。でも、僕はきっと水筒を持っていたらまず自分が飲んでいただろう。
飲み終えた川上さんに水筒を渡されて、ありがとう、と返す声が喉に絡んだ。
間接キスだ、と前にクラスの誰かが誰かをはやし立てていた声が蘇り、耳たぶが熱くなる。ごまかすために勢いよくあおると、冷たい麦茶が喉を通った。
ごく、ごく、と飲むほどに身体が生き返る。
「ありがとう」
言いながら返すと、水谷くんは短く顎を引いて受け取った。そのまま自分もすぐにあおるように飲む。
慣れた仕草で口元を拭い、水筒を鞄に戻しながら道を曲がった。
今まで歩いたことのない道に、あれ、と思う。水谷くんの家に行くわけじゃないんだろうか。
「どこに行くの?」
「川上さんの家」
水谷くんが答えると、川上さんが水谷くんを見る。
「ここまででいいよ」
「いや、心配だから」
水谷くんは当然のように言った。歩を緩めることなく歩き続ける水谷くんの横で、川上さんが立ち止まる。
「でも……うち、すごい散らかってるし」
水谷くんも足を止めて振り向いた。
「中には入らないよ。家の前まで送る」
それでもまだ川上さんは迷っているようだったけれど、少しして、再び歩き始めた。その歩調に合わせて、水谷くんも歩き出す。
僕は顔を伏せて下唇を噛んだ。何で水谷くんは、こんなにかっこよくできるんだろう。
答えは考えるまでもなくわかっている。余計なことなんて、考えていないからだ。
ただ純粋に心配していて、それが川上さんにも伝わっている。
しばらくして高架下を抜けると、古い家が急に増えた。知らない町に迷い込んだような気持ちになる。ツタだらけの家や割れた窓ガラスにガムテープが貼られた家に、何だか少し気後れした。
橋のすぐそばには真新しいマンションがあるけれど、その奥まで視線を伸ばすと、洗濯物が落ちたらそのまま川に流れていってしまいそうなくらい川のギリギリのところに建った家がいくつも続いている。
車一台通るのも大変そうな細い路地を曲がり、コの字形に並んだどこか暗い印象を受ける家々の一番奥まで進んだ。
〈チラシお断り〉と荒々しい文字で書かれた貼り紙が目に飛び込んでくる。その錆びた郵便受けの横、茂みに埋もれるようにして〈川上〉という表札があった。
三階建てで、一階に玄関と車庫があって、でも車庫には車がなくて代わりに川上さんのものだろう小さめの自転車や脚立やホースや段ボール箱がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
川上さんが首から下げていた鍵を取り出した。
「本当にすごい散らかってて、しかも暑いけど」
小さくつぶやくように言ってから、鍵を開ける。
僕は慌てて「いいよ、ここまでで」と後ずさったが、川上さんは、
「でも……お茶、ほとんど飲んじゃったし」
とドアを開け、中に入った。
促すように振り向いてくれたけれど、二の足を踏んでしまう。
水谷くんも少し迷うような間を置いたものの、ドアを押さえ続けている川上さんを支えるようにドアノブをつかんだ。
「じゃあ、お茶だけもらってもいいかな」
川上さんが答える代わりにドアから手を離し、靴を脱ぐ。
僕も後に続くと、顔面に粘りつくような空気が押し寄せてきた。
外ほどではないけれど、暑い。誰もいない家に帰ってきたとき特有の淀んだ空気が、けれど僕や水谷くんの家のものよりも濃くて、何だか少し臭い。
臭いの原因は、二階へ上がり、リビングに入ってすぐにわかった。
テーブルの上にカップラーメンの空き容器やお菓子の袋やペットボトルが積み重なっていて、小さな羽虫が何匹も飛んでいたのだ。
だけど、それだけじゃない気もした。何というか、食べものが腐った臭いだけじゃなくて──動物園の小屋の中みたいな、獣臭い、汗とおしっこと埃が混ざったような臭いがする。
所々に茶色い染みがついたソファには、着た後なのか洗濯して取り込んだものなのかわからない洋服がたくさん重なっていて、その下にはお酒の瓶や缶が転がっている。
エアコンがあったのだろう場所は、そこだけ壁紙の色が薄くて、でも四隅が黒ずんでいた。その汚れが浮かび上がって見えないくらい他の壁も全体的にくすんでいる。
テレビ台の上に置かれた写真立てが倒れているのが見えた。あそこには何の写真が入っているんだろう。お母さん? 家族写真? それとも川上さんの写真?
自分の家のリビングに飾られている僕の赤ちゃんの頃の写真を思い出したところで、ふと、そう言えば川上さんの絵がどこにも飾られていないことに気づいた。
僕の家では、僕が学校で描いた絵が何枚も飾られている。どう考えても、お客さんに自慢するような上手な絵じゃないのに。
「……ごめんね、汚くて」
川上さんが身を縮めて言い、扇風機のスイッチを入れた。ガ、ガ、と引っかかるような音を立てながら回り始めた羽根は、空気をかき回すものの涼しくはならない。
川上さんは床に落ちたチラシや割り箸、丸まった洋服を器用によけて台所へ向かった。部屋をじろじろ見回してしまうのが申し訳ない気がして立ったままうつむいていると、フローリングに直に置かれた灰皿から吸い殻がこぼれているのが視界に入った。その横には、折れた黄色いプラスチックの棒が転がっている。先についているのは──鳥の羽根だろうか。
あれ、と声が漏れた。
「川上さん、猫飼ってるの?」
そのボロボロになったおもちゃのようなものが猫じゃらしじゃないかと思ったのは、前に水谷くんと拾った猫のそれとよく似ていたからだ。それに、前に川上さんは猫の絵を描いていた。あれは、自分の家で飼っていた猫だったんだろうか。
だけど、川上さんの返事は聞こえてこなかった。代わりに、冷蔵庫を開け閉めする音が妙に大きく聞こえてくる。
「はい」
目の前にグラスを差し出されて、ありがとう、と受け取った。グラスの中では、炭酸らしき透明の液体がぽこぽこと小さな泡を出している。何となく、もう一度尋ねていいものか迷っていると、ちゃんと洗ってるから、という声が飛んできて慌てて口に含んだ。
冷たくて甘くておいしい。サイダーだ。
そのまま一気に飲み干し、ぷはあ、と息を吐き出す。すぐに川上さんが手を差し出してきた。
「もう一杯飲む?」
「ううん、いい」
グラスを返してから、おいしかった、とつけ足す。
川上さんは水谷くんにも「おかわりする?」と尋ねた。
「いや、大丈夫」
水谷くんは、ごちそうさまでした、と言ってグラスを返す。
川上さんが帰ってほしがっていることは何となく伝わってきた。
でも、このまま川上さんを一人にして帰るなんて心配だ。せめて川上さんのお父さんが帰ってくるまで一緒に待って、もし川上さんが怒られてしまいそうになったら、川上さんは悪くないんだと止めたい。
磁石を時計につけることを考えたのは僕たちで──いや、実際につけたのも僕たちだと言った方がいいはずだ。
水谷くんが、ゆっくりとソファの方へ向かった。座るつもりなんだろうか、と思ったけれど、その横を通り過ぎて窓際に立つ。カーテンを開けて窓に額を寄せた。
「水谷くん」
川上さんが声をかけても振り向かない。
「この家には外階段があるんだね」
「家を建てちゃった後にこの先に新しい道ができたから、こっちにも出入り口があった方が新しい道も使えて便利だと思ったんだって」
川上さんが水谷くんの横まで進み、カーテンを閉める。
「まあ、うちが建てたわけじゃないから大家さんの話だけど」
「たしかに、あの道を使うには玄関からだとかなり遠回りしなきゃいけなくなるね」
水谷くんがやっと窓から顔を離した。
「勝手口は台所にあるの?」
「でも、ドアの建てつけが悪いから最近は全然使ってないよ」
川上さんが答えながら室内の階段の方へと向かう。そのまま先に階段を降り始めたので、水谷くんと僕も後に続いた。
「ありがとう、助かったよ」
水谷くんが自然な口調でそう言うと、川上さんは「こちらこそ」と言って玄関の前で立ち止まる。
水谷くんは川上さんの脇を通り過ぎて三和土へ降りた。
──やっぱり、このまま帰るつもりなんだろうか。
ちょっと待ってよ、と言いたかった。もう少し、せめて川上さんのお父さんが帰ってくるまで待とうよ、と。
だが、口を開きかけたところで、靴につま先だけ入れた水谷くんが「川上さん」と呼びかけた。
「よかったら、川上さんもうちに来ない?」
「え?」
「今日はもうお父さんが帰ってくるかもわからないだろう。うちなら、姉はもう大学生で一人暮らしをしているから部屋も空いてるし」
ああ、そうだ、と思う。たしかに、川上さんのお父さんがいつ帰ってくるのかわからない以上、ここで待ち続けているよりも水谷くんの家に行ってしまった方がいい。
「僕の家だと抵抗があるなら、うちから先生に連絡してもらうのでもいいよ。とりあえず事情を話して……」
「事情?」
川上さんが、硬い声音で問い返した。
「磁石の細工のことは言わなくていいと思う。ただ、お父さんが警察に連れて行かれるのを見てしまったと言えば、先生なら何とかしてくれるんじゃないかな」
きっと、水谷くんはこれを言うためにここまで来たんだ、とわかった。
家に来てから切り出せば、川上さんはすぐに荷物を準備できる。
川上さんは、すぐには答えなかった。ただ、じっとその場に立っている。
川上さんは、今何を考えているんだろう。
迷っているんだろうか。──何に?
「……ううん、いい」
川上さんの答えは、それだけだった。
「いいって、このままここにいるってこと?」
僕はこらえきれずに訊いてしまう。
「一人でいるなんて、危ないよ」
「でも、よくあることだし」
川上さんの表情はとても静かだった。
「カップラーメンとかたくさんあるから」
「でも、いつお父さんが帰ってこられるのかもわからないのに」
「どうせすぐに帰ってくるよ」
川上さんは、僕を玄関へと促すように僕の後ろまで下がってから、会話を断ち切るように言い、微かに目を細めた。
「本当にありがとう、水谷くん、佐土原くん」
▼芦沢央『僕の神さま』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322004000165/
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