>>前回を読む
そもそも藤九郎は、通い慣れてはいるものの、この家へ来ることをよくは思っていないのだ。
あの日はそのまま怪我を負った金糸雀を連れ帰った。一晩明けてから、鳥屋なりのけじめとして受け取った金子を返そうともう一度家をたずねれば、なにやら家の中からぴいぴいと鳴き声がする。慌てて奥へ通してもらうと、部屋の真ん中にぽつんと置かれた鳥籠の中には雀が一羽。
相も変わらず寝そべったままの主人が言うには、近所の寺の境内で動かなかったのを女中が拾ったのだという。見たところ、どこにも外傷はなさそうだが、この家に置いておくのは危険すぎる。雀を連れて帰ろうとすると、そんならあたしの頼みを一つ聞けと主人が持ちかけてきた。なにを馬鹿なと断る藤九郎に、主人、魚之助は微笑んだ。そんならその子はあたしのものや。さあ、鳥さん、あたしと何して遊びましょ。
その脅しは藤九郎に、草津の湯よりもよおく効く。言われるがまま魚之助の頼みに付き合って、もう二度と会わねえぞと心に決めて十日足らず、今度は店まで女中が呼びに来た。
ああ、おいでやす藤九郎はん。鳥さんがまた落ちてはりましたんや。
そのあとはもう済し崩しだ。怪我した鳥がそんなほいほいと見つかるものかとうたぐったところで、鳥の話と聞けば、藤九郎は持ち前の性分で向かわざるを得ない。いつの間にやら鳥は用意されなくなったが、いつ同じ手練手管を使うとも限らない。お呼びがかかれば、渋々ながら腰を上げてしまうようになったというのが事の顛末だ。
くわえて、藤九郎が魚之助に弱い理由はもう一つある。
「店をさばいてんのは確かに母ですけど、俺だって暇なわけじゃあねえんですから」
口を尖らす藤九郎を見て、まあまあまあ、と魚之助は大袈裟に驚いたふりをする。
「なんちゅう男や。鬼や鬼」
勢いよく裾をからげて、太ももを摩り、
「あたしにこの足で歩けっていうてんのか」
そらこれだ。藤九郎は心の裡で低く唸る。
睫毛の茂った目蓋をそっと伏せ、小さな前歯できゅっと下唇を噛まれると、藤九郎はもうその場から動けない。
なにがあったのかは知らないが、魚之助の短くなった両足は立ち上がることはできるものの、縫い目の肉の盛り上がり方が左右で違うのか、歩き方はよたよたと歪だ。そのうえ、尋常の人間では使わない筋を使うらしく、上がった息をしぃしぃと歯で漉し殺している魚之助の姿を何度も見てきた。外に出るなら人の手が必要なことを藤九郎はよくわかっている。だから、なにも魚之助を見放して、その役目から下りようっていうわけじゃないのだ。
「別に俺じゃなくても、いいんじゃないかって言ってんです。ほら、前々から、お供してぇと願い出ている人がちゃんといるわけですし」
そのときだ。廊下の奥から聞こえた、ごん、という鈍い音に藤九郎は思わず口をつぐむ。噂をすればなんとやら、おそらく頭を梁にぶつけたというのにその足音は、止まることなく一目散といった様子で近づいてくる。藤九郎は急いで部屋の隅へと移動しながら、一つ小さくため息をつく。ああ、やっぱり今日も来ちまった。部屋の外で膝をつく音が聞こえたかと思うと、「魚様、ああ、魚様」と襖の向こうから低い男の声がする。男は襖に唇をつけているのだろう、喋るたびに襖はぶうぶうと細かく震えている。
「すんまへん、えろう遅れてしまいまして。いやね、そこの井戸端で会うた女子らと話が盛り上がってしもたんだす。その中のひとりが魚様の贔屓やて言うんやもの。めるはもう、嬉しくなってもうて! まあ、由之丞格子の小袖を着ておったんは白魚屋贔屓としていただけへんけど、帯は銀刺繍の抱き白魚やったから目をつぶってやりました。両手で魚様の大首絵を広げてお友達と一緒に眺めてはってね、そんなところを見たらもう、めるは居てもたってもいられへん。持ち歩いてるめるの秘蔵の品を見せてやったんだすわ」
ほら、これのことだす、との言葉と一緒に紙を捲る音がいくつか続き、そのあとでほう、と甘いため息が襖に染み入ってくる。
「やっぱりいつ見ても、魚様はお美しいだすなぁ。あの女子もこの絵を見て息を呑んではりましたわ。めるの貼付帳を見て目ぇをきらきらさせとったから、目利きはある贔屓なんでしょう。勿論、めるに並ぶほどではありまへん。魚様の一番の贔屓といったら、このめるを差し置いて他に誰がおりますんや。めるは魚様のためなら、火の中、水の中……あっ、めるとしたことが申し訳ありまへん、長話が過ぎました。はようお足を揉まなあかん。ほな、お部屋入らせていただきます」
勢いよく開けられた襖の向こうでは、一人の男が平伏していた。床に擦り付けられていた頭が上がり、藤九郎の姿がその目に映り込んだ途端、男の笑顔は転がり落ちる。手拭いからはみ出た赤茶けた髪色と目と鼻がつくるお城の堀のような深い凹凸。それは、男の体に半分流れる異国阿蘭陀の血が原因だった。その血のおかげで目の玉も綺麗な鶯の羽色をしているのだが、己を映すとこうも赤々と燃えてしまうのが藤九郎はなんとも悲しい。だが、その火は、「このすかたん」魚之助がものを言うと、一瞬の内にすん、と静まってしまう。
「女子の部屋は、お入りぃ、言われてから入るもんやぜ。何度言うたらええのん」
「こ、これはえろうすいまへん。でも、仕方がないんだす。魚様にはよ会いたくて、足が勝手に動きよるんやもの」
「医者の卵がそないなこと言うてどないすんねん。足のひとつやふたつ己で管理せえ」
頭にかぶっていた手拭いを外しながら、へへ、と笑うめるの耳たぶは髪色よりも赤く染まっている。めるは静かに部屋に入ると、襖の前でもう一度その長い足を折り畳む。
「小屋からのお呼び出しがあったんですね」
「ふふん、当たりや」
「魚様にお声がかかったのは久方ぶりで」
「せやね、ふた月ぶりやね」
めるの顔はまっすぐに魚之助に向いているというのに、火花はちりちりと、藤九郎の頬を焼く。
「そんで、藤九郎さんがこうして出しゃばっていらっしゃるということは、此度もめるを連れて行ってはくださらない」
よくもまあ、こんなに上手く、人の名前に針をくっつけることができるものだ。その鋭さに藤九郎は体を縮こめてしまうが、魚之助は「あらかわいらし」と扇子で口元を隠しながらんふふ、と笑っている。
「なんやの、める坊。あたしに連れてってもらえへんから焼き餅やいてんの」
「もう! めるよりその人のなにがいいって言うんだす」
「ええとこなんぞあらへんわ。ただ、こいつは蘭方医見習いのめる坊よりも手が空いとるだけや」
「だから、俺も暇じゃあないですってば」
そう口に出すも、声は少しばかり尻すぼみになってしまう。
そりゃあ、蘭方医の見習いなんぞと比べられては鳥屋は暇ということになってしまう。める、正しくはメルヒオール馬吉は勉強熱心で異国の医術を吸収しようと日夜、蘭方医の下で走り回っていると聞く。それでいて、この家の差配をすべて一人で仕切っているというのだから驚きだ。女中たちの指図に、金のやりくり。なんてったって、日がな一日着物の波に揺られてばかりいる尾無し魚の世話まで、めるは一手に引き受ける。長崎出島の遊女から父なし子として生まれたらしいめるが、どのようにして魚之助と出会ったのかは知らないが、めるの魚之助に対する思いは深く、重く、そして熱い。それなのに、魚之助は己のお供にめるではなく、藤九郎を選ぶのだ。
当然のごとく、藤九郎の呟きなんぞ素知らぬ顔のめるは「このあとは、すぐのお出かけだすか」と、廊下に用意をしていた水入りの手桶を手元に引き寄せている。
「昼前にはあっちに着きたいからな。阿呆鳥の足は遅いからしゃあないわ」
「足按摩はどうするんだす」
手桶の枠にかかっていた手拭いを水に浸すと白魚紋がくっきりと浮かび上がる。鱗の刺繍が光る様はまるで水の中を泳いでいるかのようだ。
「帰ってからでええわいな」
「血の流れに一番効くのは昼八つまで。何回言うたと思うんだす」
「ああ、わかっとる。わかっとるがな」
魚之助は顔の前でひらひらと手を振る。そんなおざなりな応対をされても、めるは丁寧に白魚部分を避けながら手拭いを絞る。
「……帰ってきたら、いつもの倍の時間、お揉みしますからね」
猫の涎が光っていた魚之助の左足にするりと手拭いを走らせてから、めるは姿勢をしゃっきり正し、魚之助に向き直った。
「めるはただ、魚様のお望みを叶えるお手伝いをしたいだけなんですから」
その時、藤九郎は魚之助の左手が、やけに素早く己の腹を撫で上げるのを見た。なにかのまじないだろうか。思った次の瞬間には、その手はもう袖口の中へと引っ込んでいる。
「ああ、める坊にゃあ期待してんで」
そう言って魚之助はわざとらしく笑みを浮かべた。
(つづく)
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