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誰が書いたか、誰が言うたか。なんでも人魚役者、田村魚之助は、痒みのような女形だという。意識がなくとも痒いところには自然と手が伸びてしまうように、魚之助が舞台に現れれば、芝居客は自然とその姿に目が吸い付いてしまうらしい。そんな己の自慢話を毎度毎度聞かせてくるものだから、藤九郎はここに来るとわざと魚之助から視線を逸らすことにしている。唇を突き出し、ぷいと顔を横に背けると、
「あらまあ、不細工」
呼びつけた客を前にしても居住まいを正そうとしないこの屋敷の主人は、おちょくるような声を出す。
「信天がそないなことしても気色悪いだけやで。そういうのはな、あたしがやるから意味があるんや。あたしがこう、流し目をくれてやるだけでひっくり返る客もおったわいな」
目尻にすうと紅の入った切れ長目がこちらを向くが、藤九郎はふんと鼻息でいなす。
「あんたの流し目なんていりません。俺が欲しいのはおみよちゃんの流し目ですから」
「おみよちゃん? 誰のことやのん、……ああ、そうか、お前の愛しの小娘か」
とたん、つまらなそうに煙管に手をやる男に藤九郎はむっとする。なんてえ言い草だ。今、火皿に詰めているその刻み煙草は、おみよちゃんがわざわざ帯紐を質に入れて購った贈り物だってのによ。部屋の中に居座る錦鯉が表面に泳ぐ丸火鉢も、金色らんちゅうの蒔絵が描かれた黒漆の煙草盆だって贔屓からの贈り物で随分と高直な物らしいが、この男が大事に扱っている様子は見たことがない。
「そんで、そのおみよちゃんとはどのくらいまで進んだんや」
魚之助は迎え舌で煙管を咥えると、にやにやと笑みを浮かべながら煙をこちらに吹き付けてくる。なめられてたまるかい。眉をあげ、口の吸い方なぞ心得ていると言わんばかりの顔をしてみせるが、
「その顔じゃ、手ぇのひとつも握られへんかったね、この初蔵」
これだから役者というものは、おそろしい。こうやって、いとも簡単に顔の裏にあるものを見透かしてくる。こほん、と一つ誤魔化すような空咳をしてから、「その初蔵ってのはやめてくださいよ」と魚之助を睨めつける。
「そうやってあんたが俺の名をきちんと呼ばないから、皆も俺のことをあだ名で呼ぶようになっちまってるんです。俺の本の名を知らねえわけじゃあねえでしょう」
「せやから、こうやってちゃあんと呼んだってるやないか、信天翁」
藤九郎が口をへの字に曲げると、魚之助は甘えたような声色を出して「なんやのん」と、藤九郎の眉間の皺に指をつっこむような言い方をする。
「もしかして、これが自分の名前やってわかったあれへんのか? 阿呆鳥」
わからないはずがない。なにせ藤九郎は鳥飼いだ。藤九郎という名が読みは違うものの、それが阿呆鳥の別の名で、信天翁との呼び名もあることなんて、鳥屋を商う己は勿論のこと知っている。しかし、いくら名前が同じであっても藤九郎は人間だ。どうか本の名で呼んでもらいたいものだが、なんでも歌舞伎役者の真似をするのがこの世の流行り。ねえねえ、信さん。おい信天。信天翁やい、と皆、魚之助の呼び方を真似て、藤九郎をそう呼ぶのだ。
藤九郎はぎりりと歯を食いしばる。もう我慢がならねえや。俺ぁ、もう、この人の呼びかけには答えねえ、いや、口さえきいてやるものか!
「口の吸い方、教えたろか」
え、と思わず口が開いた。そんな藤九郎の顔を見て、魚之助の口端が黒子と一緒につり上がる。
「え、やないわ。あたしの手管を教えたろうって言うたってるんやないか」
んふふ、とふくみ笑いをするこの男は、人を蕩かせれば天下一品の元千両役者。そんな人間に手ずから教えてもらえる機会なんてこの先、ありはしないだろう。枕絵の中の男よりも立派な師になることは間違いなくて、いやでも、この人は鳥を苛めた下手人だと藤九郎は慌てて小さく首を振る。あれから改心しただのなんだの言うが、役者の言うことには信用が置けない。今だって男のくせに女子の格好なんぞして、嘘でべったり塗り固めた似せ者じゃないか!
思わず剣呑になる藤九郎だが、魚之助は臆した様子もなく体を引きずって躙り寄り、「人に言うたらあかんで」と言いながら、耳に口を寄せてくる。
「こういうのは舌が要やねん。ちゅちゅちゅと喉を舌先でなぞってからな、口まわりの毛を舐めたるんや」
得意げなその言葉を聞いた途端、かっと頭に血がのぼった。
「おみよちゃんにそんなもん生えてねえ!」
惚れた女子が馬鹿にされるのを黙って聞いていたとあっては、男が廃る。藤九郎は噛み付くようにして魚之助に詰め寄ったが、この男はほんの一寸目を丸くしただけで、次の瞬間には、ああ、なんや、と口端を上げている。
「なんや、野暮なお前のことやから野暮天娘を好いてんのやと思とったわ。そのおみよちゃんとやらは、ちゃんと毎日口まわりの毛を剃っとるんやろな?」
「当たり前でしょう! おみよちゃんはあんたと違って、きちんとした女子なんですから!」
かん、と煙管が煙草盆に打ち付けられる音が部屋に響く。あっと思った時にはもうすでに揚巻は小さな唸り声を上げていた。
「そない大きな声を出すんやないわ。ただの転合やがな。これやから江戸者はおもんない」
ぐるぐるぐると鳴る喉は間違いなく藤九郎に向けられている。ああ、言いたいことは嫌でもわかる。この阿呆。余計なことを言いやがって。
「情も粋もわかったれへん阿呆んだらばっかりや。そんなんやから、荒々しいだけの芸事をもてはやしたりする。人の心玉の動きっちゅうのはな、細かい所作に出るもんなんや。江戸雀の目ん玉は鳥目どころか節穴やで」
愚痴が次々と飛び出してくるこの口を止める術を藤九郎はもっていない。
始まっちまったよ大坂者の一人相撲。藤九郎は肩を落とす。なにをそんなにむきになるのか知らないが、大坂者はなにかにつけて江戸を目の敵にする。洒落が臭いの、食いものの味がどっぷり濃いの、飯粒程度の難癖をつけては江戸を己より下へと置きたがるのだ。
「檜舞台がそないに偉いんか。荒事の何がええっちゅうねん。江戸の芝居が一等見応えがあるやなんて、そんな戯言、阿呆らしくて笑えもせん。ほら見ぃ、この絵本。あたしとこの江戸者の大根が同じ極上上吉なんやと」
床から拾った絵入りの紙を指で弾く魚之助に、藤九郎は呆れたように目をやった。
おみよによれば、この役者は生まれは大坂ながら、江戸に住まいを構えてもう十数年になるという。郷に入れば郷に従え。そんなに居着いているのなら、江戸の芸を演りゃあいい、と藤九郎は思うのだが、大坂者には大坂者の意地とやらがあるらしく、魚之助は「なんやのこの狆くしゃは」と絵本の似せ絵相手に悪口を吐いている。
「どう見ても、あたしの方が別嬪や。こないな小粒役者と比べるまでもあらへん。あたしは素敵、こいつは不細工……せや」
魚之助は思い出したように顔を上げて、こちらを見た。そして、
「お前の好きな女子、野暮天やないんやったら、さてはぶすやろ」
よくもまあ、そんな嬉しそうな顔をして、そんな言葉が吐けるものだ。
「ぶすじゃありません。飛び切り可愛いです」
返してやると、魚之助は「なんや」と、これまたつまらなそうに唇を尖らせる。
「ぶすやったら、あたしの女中に加えたろうと思たのに」
藤九郎は魚之助を睨みつける。やっぱりそうだ。魚之助は己の容子を引き立てるためだけに河鹿たちを選んでいる。非難の言葉が喉元に迫り上がってきたところで、ちょっと待て。藤九郎は一旦、言葉を噛み砕く。こうして似せ者の女子に構ってやる時間がどこにある。己には本物の女子たちのためにやるべきことがあるではないか。
まずは頭だ。藤九郎は黙って目を光らせる。水浴びしたての烏羽色の長く伸ばした黒髪は緩く一つにまとめられ、天辺に挿した簪へと巻きつけられている。頭の簪は高直そうな鼈甲で出来ており、螺鈿の施された二枚貝と珊瑚玉が揺れている。こいつの説明は簡単そうだが、逆に説明が難しいのは着物の柄行き。会うたびに違っている魚之助の振袖は、いつもその季節ごとの旬の魚があしらわれている。雪色縮緬の袂を泳ぐ今日の魚は黍女子で、その銀刺繍の鱗模様を目に焼き付けていると、
「なんなんだす。女子の顔は、そないにじっくりと見たらあきまへん」
見れば、魚之助は恥ずかしそうに扇子で顔を隠している。思わずしかめ面を作りそうになったが、いやいや、こいつは好都合と藤九郎は出来るだけ優しい声を出す。
「こいつはすいません。実はおみよちゃんに小物を見てこいと頼まれまして」
魚之助の目が隠れているうちにとあたりを見回したが、どうもお蔦の言う雛五郎様の描かれた代物は落ちてはいなそうだ。
「ああ、そういや、お前の好きなおみよちゃんとやらはあたしの贔屓やったっけか」
己の役者団扇を拾い上げ、魚之助はふふん、と声を出して笑う。
「本の音を言うたら、女の贔屓はいらんのやけどな。男の贔屓をつけてこそ、真の女形、太夫っちゅうもんなんよ。でもまあ、小娘が釣れんのも仕方があらへんわ。あたしみたいな別嬪の顔、一度目に入れてもうたら忘れたくとも忘れられへんようになるさかい。ほれ、そのおみよちゃんとやらも、あたしみたいになりたくて、ここにふたつ墨の黒子をこさえとんのやろ」
魚之助が己の口元にある黒子を指先でとんとんと叩く。その黒子のなにがいいのか知らないが、あるときには江戸中の娘が魚之助の真似をして、黒子を己の口元に描いていたというから驚きだ。おみよもそのうちの一人だったらしいが、それはもう随分と昔の話で、藤九郎の口端はきゅっと上がる。
「いつの話をしてるんですか。おみよちゃんはもうそんな七面倒なことしていませんぜ」
ざまあみろ、と言葉尻にくっつきそうだった啖呵は飲み込んでやったが、どうにも笑みはこぼれてしまう。ついでに、おみよの小物に白魚以外の役者紋が増えていることを伝えたらこの態度もちょっとはしおらしくなるんだろうか。
藤九郎の言葉に少しばかり黙っていた魚之助だったが、団扇をぽいと投げ捨てて「ふん」と鼻をならす。
「それじゃあ、お前も気ぃつけなあかんなぁ」
藤九郎はきょとんとしてから「なにをです?」と聞く。
「そないな女はな、すぐに違う男に手ぇ出すで。そうお里が知れとんねん。お前なんぞ恋仲になったとたん、すぐにぽいやで。どうせあたしの贔屓やって吐かしときながら、流行りの由之丞格子でも着とるんやろ」
思わず頷きそうになった首をすんでの所で止めた。おみよちゃんの株は下げちゃあならねえ。真実は心の裡に隠しておこうと決めたとたん、これまで大人しかった猫がにゃあん、と今日一番の大声を出して、藤九郎はぎょっとする。こいつ、人の言葉がわかっているのか。慌てて手を伸ばしたが、「ふふん、せやろ」と笑う魚之助に抱き上げられてしまったんでは、もう、裏切り者の口は止められない。ここぞとばかりに、ねうねう、と告げ口をする金目銀目の喉を細い指が撫であげる。
「せやろせやろ、あたしの言うた通りやろ。贔屓をすっきり替えるのと同じように、男もすっきり替えちまうに決まっとるわ。ええ子や、揚巻。よう教えてくれたわいな。ええ子ええ子」
その甘やかな声にのせられるようにして、ぐるぐると喉を鳴らす揚巻の短い尻尾を魚之助はいきなりきゅうっと掴んだ。跳び上がる己の飼い猫を見て、魚之助がころころと笑うのもいつものことだ。畳の上を転がる金目銀目などお構いなしに、藤九郎に向かって両手をするりと突き出してくる。
「ほな行くで」
これだから、この人の手を取るのが藤九郎はおそろしい。いまだ目を白黒させている猫と同じように、己もこの手の上で転がされるのは真っ平御免だった。
「行くってどこにです」
すっとぼけてみたところで突き出た両手は下げられず、逆に上がるのは、きれいに墨の引かれたその柳眉。
「耳だけやなくて、頭の中まで羽毛がつまっとるんかい。あたしが行くゆうたら、向かう場所はひとつしかないやろ」
ほら、はよう背中を出さんかい、と魚之助は言うが、素直に背を向けるほど己はそんな阿呆な鳥ではない。
「どうして俺が行かないといけねぇんです」
毎度毎度のことながら、やはり文句は口に出しておかなければ気が済まない。
(つづく)
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