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あれからおみよたちが首を引っ込めると、揚巻はやけにゆったり伸びをした。やれやれやっと終わったよ、とばかりに鼻を鳴らし、たんぽぽの綿毛のような短い尻尾を揺らしながら歩き始めた三毛を、藤九郎はとぼとぼ追いかけているというわけだ。
「あ、お前。今、俺のこと、意気地のねえ男だって笑いやがったな」
着物に付いていた山雀の羽毛を猫の尻に投げつけていた藤九郎だったが、神社の裏から大通りに抜けるとすぐに体を縮こめる。
半里離れているとは言え、まだここは天下の芝居町にほど近い。猫の尻に向かって啖呵をきるには、人の目が多すぎる。そのうえ、ここいらの人間が揃いも揃って芝居狂いの役者狂いというのも、藤九郎の背を丸くさせるのだ。
朝餉のための売り物は捌ききったのだろう、空桶に肘を乗せた棒手振りが茶屋の床几で一服つけている煙管の柄には、團十郎贔屓の三升紋。
ちりちりとん、と聞こえてくる三味線稽古のこの音は、先月の芝居で流行った口説き節だと、店に来ていた若い娘が鼻歌を歌って教えてくれた。
軒下では子供らが面打で遊んでいる。洟垂れ小僧が地面に投げつけたその石ころの顔模様……そのおすまし顔はたしか、お蔦の贔屓役者の雛五郎と言うのではなかったか。
こんなところで、あの人の飼い猫である金目銀目と連れ立っているのを見つかった日には、簪やら帯紐やらを押し付けられるのは目に見えている。だから、藤九郎は広い背中をこれでもかと丸め込み、暗い軒下をこそこそと進むのだ。
「二度と鰹節をやったりしねえからな」なんて恨み節を吐き出す藤九郎の声も、今や猫の鼻息で散ってしまいそうなほどになっている。
「飯の代わりに木兎をけしかけてやる。お前みたいな小さい体なんて、ぎっちょんちょんだぜ。ざまあみろぃ」
性根の優しいこの男にそんな真似できやしないのを知っている揚巻は、わざわざ振り向いてから、ねうねうと笑った。
日本橋川の川沿いから北に数町、汐見橋の近くにある通油町は、芝居事さえ絡まなければ藤九郎好みのおっとりとした町だ。なかでも藤九郎の店まわりは、店を倅に譲って家移りしてきたご隠居さんが多く、とくに温味がある。まるで椎茸でも煮染めているかのようなその空気が、藤九郎は気に入っていて、この町に母と二人、ゆるゆると暮らしていた。
藤九郎の母が一代にして築き上げた鳥屋、百千鳥は、小体ながらも表店で客の入りもいい。かの徳川の将軍様もお城で孔雀を飼い始めるくらいのこと、江戸の鳥流行りは明らかで、鳥屋はここ数年で五十も六十も増えたというが、客足が伸びずに潰れてしまう店はこれまた多い。そんな中、百千鳥は根強く生きながらえていた。
あの人慣れしない郭公が、お店者の肩に体を落ち着けて客を出迎え、店先の鳥籠から飛び出した雲雀は、空高く飛んだかと思えばきちんと自ら籠の中へと帰ってくる。畳の上を悠然と歩く鸚鵡の毛艶を見て、客は百千鳥で鳥を購うことを決めるのだ。だから、奥の間、中の間、店の間、の三間きりの店にもかかわらず、客は引っ切り無しにやってくる。先月の鶉合でも、関取に選ばれたのが百千鳥で育った鶉だということもあって、もう鳥好きの間で百千鳥の名を知らぬ者はいない。加えてこのところ女子の客が多くなったのは『都風俗化粧伝』が巷に出回ったのが要因だ。女子たちのお目当ては鶯の糞。それを糠と一緒に混ぜ合わせ、顔に擦って洗い流せば、白肌を手に入れることができるのだそうだ。
鳥を購った客の家を一軒一軒回る藤九郎の細やかさも、百千鳥が極上上吉と番付に載る理由のひとつだろう。
背丈があり、すっきり締まった体つきをした青年が、家に上がって鳥を前にするなりその大きな図体を縮こまらせ、手のひらに小さな生き物をそうっと乗せて見分する。顔は二枚目というわけではないけれど、くっきりとした鷲鼻に笑った時の犬歯が可愛い。その姿がまた、客に安心印を与えることになって、百千鳥の繁盛ぶりに一役買っていると言うわけだ。
だが藤九郎は、それをしなければ気がすまないだけだった。
自分の愛しい子どもたちは、大事に飼ってもらっているだろうか。病気や怪我はしていないだろうか。間違った餌をもらっていないか、はたまた、苛められてはいやしないか……。
そこで藤九郎は、三毛について歩いていた足を止め、ぽん、とひとつ手を打った。
そうだよ、こいつがすべてのはじまり。あの日、買われていった金糸雀は大丈夫だろうかと、こんな風に扉を叩いたのがあの人とのはじまりだった。藤九郎は、紅殻の格子戸を叩きながら思い出す。
芝居町から通りを三本、お堀を一本挟んだ橘町の中にある、このえらく立派な家屋を目の前にしたときは胸を撫で下ろしたものだった。表通りに黒い板塀をめぐらす大塀造といえば金持ちの証であるし、五間余りもある間口だって「いいところに嫁げてよかったなぁ」なんて、藤九郎にほぅっと安堵の息を吐かせたりした。二階の壁が一階よりも引っ込んだつくりになっているのを見て、この家は上方の慣いで建てられているのだと気付いたものの、そういや、上方者は江戸者とは舌のつくりが違うと聞いたな、あんまり奇天烈すぎる餌を喰らわされていねえといいが、くらいのもので、大した心配はしなかった。
だが、あれは。
この家に金糸雀が嫁いでひと月が経ち、案内の女中にへこへこしながら通された奥の小部屋で目にしたあの景色。
飼い主一人に、猫一匹、そして、床にぼろ切れのように転がっている小鳥が一羽。
藤九郎は持っていた風呂敷包みを投げ捨て、金糸雀に飛びついた。だが、動かしちゃあいけねえ。手のひらの皮一枚で触れるよう、そろりと小鳥に両手を伸ばす。
羽毛に覆われた胸が震えるように上下していて、体はほんのり温かい。
生きている。藤九郎は喉にこびりついていた息を細く吐き出した。
しかし、翼の尺骨、橈骨は左右ともに折れていて、これでは骨がくっついたとしても、一生空を舞うことはできないだろう。
這い蹲って金糸雀の状態を確認していく藤九郎の一挙一動を、その飼い主は寝そべったまま、ただ見ていた。
事故ではない。藤九郎にはわかる。翼は外からなんらかの力が加えられている。その事実に飼い主の態度をこより合わせれば、答えは自ずと見えてくる。
よくもこんな真似ができますね。
体の中で膨らみきった怒りが脳天を突き抜けてしまうと、こんなにも冷たい声が出ることを己でも初めて知った。
あの人はゆうらり首を動かして、藤九郎に目を合わせる。そうして、薄紅の唇が綻んで向けられた言葉は、ああ、今思い出しても腸が煮え繰り返るほどの──
「どこで呆けようが勝手だけどもさぁ」
すぐ近くで聞こえた声に藤九郎ははっと我に返る。いつの間にやら格子戸は内から開けられていたらしい。門に寄りかかって腕を組んでいる女子の顔は見知りのものだ。
「あんたが愚図愚図してると、あたしが怒られちまうんだよ」
ぶっきら棒に言い捨て、女中はさっさと後ろを振り返ると、門の奥、前庭に挟まれた畳石をずんずん進んでいく。
「す、すいやせん。待たせちまいましたかい」
慌てて追いつき、その顔を横から覗き込んで見れば、
「あの人は首を長ぁくしてあんたを待ってんだ。いい加減にしとかねえと、あの人のお首が天井にくっついちまうよ」
目尻にくくった糸を両側から引っ張ったかのように離れた団栗目は細められ、仔犬一匹飲み込んでしまいそうな大口はにやりと笑みを浮かべている。蛙顔の女中、河鹿の答えに、藤九郎はひとまず胸を撫で下ろした。
前庭を抜け、母屋の内玄関に入ると、土間の台所ではこれまたひとりの女中が立ち働いている。長箸片手に鍋を覗き込んでいた顔がこちらを向くと、「あら、信さん」と笑顔で手を振ってくれる。藤九郎がこの家に呼び出されはじめて三月が経つ。他人が見れば、思わずわっと声をあげてしまうその顔にも、藤九郎は動じることなく「虎魚ちゃん、ちっと上がらせてもらいやす」と笑顔で返せるようになった。
「お呼びがあったら、はよう来ておくれよ。あのお人の機嫌が悪うなったら、ぶす、だの、おかちめんこ、だの、苛められるのはあたしらなんだからね」
面皰が所狭しと吹き出ている顔の上で唇がむうと出て、藤九郎が素直に謝罪を口にすれば虎魚は朗らかに笑った。
虎魚から鍋の中の金柑の甘露煮を一粒貰い、河鹿の案内で引き続き屋敷を進む。十以上も通っていれば入り組んだ屋敷も見慣れたものだったが、縁側を抜け、両脇に座敷を連ねた廊下に出たとたん、藤九郎はきょろりとあたりを見回してしまう。音を立てぬよう抜き足差し足で進み始める藤九郎に噴き出してから、河鹿は「でぇじょうぶだよ」と藤九郎を振り返る。
「めるは、朝っぱらから出かけちまって、今はいねえよ。なんでも早くかっさばかなきゃいけねえ腹があったみたいでね」
「そ、そうかい」と答えた声は裏返って、これまた河鹿を笑わせる。
「それにしても、あの男相手に、よくここまで嫌われることができたもんだね」
「嫌われたくて嫌われてんじゃねえやい」
ぼそりと零した声は河鹿の耳に届いているはずなのに、河鹿はふふんと鼻でいなすだけで、また前を向いて歩き出してしまう。
物腰が柔らかく、誰にでも優しい男だと聞いていた。笑うと目尻にきゅうっと可愛く皺が寄るらしいのだが、藤九郎はいまだその皺にお目にかかったことがない。その二皮目は、目の中に藤九郎を映したときだけ燃え爆ぜるのだ。上背は藤九郎より一寸ばかり高いだけなのに、首が太く顔が縦に長いのが手伝って、その睨みには凄みがきいている。
そうだよ、俺が嫌われているのもすべてあいつのせいじゃねえか。そう思うと段々むかっ腹が立ってくる。
廊下を渡り切り、辿り着いた一等奥の部屋の前で膝をつく。ここに来るまでに通り過ぎてきた部屋はどれもが広く、そして贅が尽くされていた。だが、それらには目もくれず、この家の主人ともあろう者が、こんな六畳半の小さな部屋で一日を過ごしているのが、藤九郎には不思議でならない。閉め切っている目の前の襖に視線をすべらせると、そこには大きな魚が一匹でかでかと描かれている。金箔で縁取られた白魚はまるで生きているようで、中から聞こえてくる衣擦れも鱗の擦れる音のように思えてくる。その音が次第に大きくなってくるものだから、藤九郎は思わずぎゅうと眉間に皺を寄せた。こいつはわざとだ。やっとこさ現れた客人の気をひくためにわざとやっているに違いない。
これだから嫌なのだ、と藤九郎は口の中で舌を打つ。人を蕩かして給金をかせぐその生業も。その生業で千両をかせいだといわれているその人も。
案内をしてくれていた河鹿はいつの間にやらいなくなっていた。ため息を吐きつつ襖の前へ躙り寄れば、ここまでおとなしくついてきていたもう一匹の案内役が、藤九郎の股の間をするりと抜けていく。ぶわりと尻尾を膨らませている金目銀目は、襖をさりさりと掻いては、はよう開けてくんな、とばかりにこちらに目をやってくる。
あの人の股座は特別温かったりするんだろうか。襖に手をかけながら、藤九郎は考えてみる。確かにあの人の足は普通とは少し違ってはいるけれど。ゆっくり襖を開けてやると、金目銀目は勝手知ったる様子でその隙間に体を滑り込ませる。と、
「なんやの、揚巻。やけに遅かったやないの」
耳の穴に甘い蜜を注ぎ入れるかのような声に、少しばかりどきり、とする。当時はこの声を声色好がこぞって真似をしていたらしい。この人が出た芝居の台詞本、鸚鵡石は飛ぶように売れて、廁で尻を拭くための落とし紙でさえ江戸から半月ばかり消えてしまったのだと言う。
「唐変木に、ほんまに根ぇでも生えてもうたんかと思うたわ。図体が六尺もあったら、そら根も深くなるわいな」
敷居を跨いで部屋に入ると、先に入っていた揚巻が振袖の海を渡っている。鴇色、紅緋に京紫。柿色、玉子色に鶯茶。部屋に所狭しと敷き詰められた艶やかな波をものともせず、揚巻は部屋の真ん中にぽつりと座り込む、白の振袖を着た離れ小島の膝に前足をかける。
「なんやて? おたんちん? あらあら、そないなこと言うたりな。阿呆鳥が鈍間なんは、前々からわかっとる話やろ」
ねうねうと鳴いている金目銀目にその人が耳を寄せれば、頭に挿さった簪の飾りが音をたてて揺れる。細い指が伸びて毛むくじゃらの喉を撫でようとするが、揚巻はその手をするりとかいくぐり、横座りの足にその頭をこすりつける。
「ほんまに何回言うても聞かん子ぉやね。そこから、お前の好物の匂いはもうせえへんでって言うとるのに」
窘めるように言いながら、その人は畳に広がる裾を勢いよく払う。そうして現れた二本の足は、どちらも短い。いや、短くなったというべきか。
「ほれ、よく見やしゃんせ。嘘やないやろ。ぷっつり無くなってしもうとるやろ」
臑の半ばより下がつるりと丸く、薄桃色の縫い目の残る二本の足には、一本たりとも足指がついていない。だが、足指がきちんとあったときにはなあ、とこの人の名前が挙がると皆が言う。親指も人差し指も、ちびっこい小指までもが手前勝手にひらひら動いて、ありゃあ、まるで十のひれよ。あの人が道を歩けば猫がこぞって付いていく、あの人の通ったあとには白い鱗が落ちている、なんて言い出す奴もいたんだぜ。
こちらが頼んでもいないのに散々喋り散らした後、皆は揃ってこう聞いてくる。
なあ、お前さん、あのお人がなんて呼ばれていたか知っているかい。
「しゃあないんや。白魚の尾びれは、ちょっきん切ってしもうたんやから」
藤九郎は後ろ手に襖を閉め、その人の前で荒々しく膝をついた。剣呑な目つきをしたままで、ゆるゆると顔を上げる。
小部屋を埋め尽くす振袖の海の真ん中で、じゃれつく猫を短い足でつっついてはころころと笑っているこの男を、人々は皆、人魚役者と、そう呼んだ。
(つづく)
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