「なんでい」と猫の尻に向かって啖呵を切るのは、いくらなんでも情けないことはわかっている。だが、目の前をこんなにも軽い足取りで歩かれると、不貞腐れたくもなってくるのだ。
ときは文政、ところは江戸。
夏の暑さも少しばかり落ち着いてきた長月の朝早く、橘町の大通りで猫を追いかける藤九郎の腹はふつふつと煮えている。
いってえどうしてこの俺が、猫の尻相手に喧嘩を売る羽目になっちまってんだ。
半刻前の己とは月とすっぽん、雲泥万里。なにせ好いた女子の唇にちゅっとやる目前だったのだ!
あのとき、神社裏手のどぶ板を踏み締めて、好いた女子、おみよの肩を正面からしっかと掴んだ藤九郎が、思い出していたのはある一枚の枕絵のことだった。
もしものことがあっちゃあ困ると急ぎ買い求めた枕絵、又の名を春画の中に描かれている男は、若い女子を押し倒していた。歯の間に通ってしまいそうな細い指が女子のもも裏に食い込み、小指だけが得意げにすらりと立ち上がっている。今紫の浴衣の裾はこれでもかとめくれ上がっているのだが、その奥の茂みを、藤九郎は三日経っても見ることができていない。左太ももに連なった二つの黒子から下へと目線を動かそうとすると、どうにも顔が火照ってしまう。
女子の体というものは、こんなにも男とちがうものであったのかい。
布団の中に潜り込み、絵を目の前にした藤九郎は魂消たものだ。藤九郎が前髪を落としたのはもう何年も前のことではあるけれど、鳥の体は雌雄ではっきり違うものが多いから、ついつい忘れてしまっていた。今だって掴んだ肩があまりにもふわふわしていて、藤九郎は思わず怖気づいてしまう。目の前のこの体が己と同じものでできているとはどうも思えない。そういえば、昨日、入込湯でちらと目に入った女子の体もふわふわしていた。とくにあの、胸にくっついている柔らかくて、甘そうな、肉ふたつ……。そんなことを思い出していると、目の前の唇がちう、と鳴って、藤九郎は慌てて女子に視線を落とす。目を閉じ、口を動かしながら恋人の唇を待っているおみよは、藤九郎が数日前から育てている駒鳥の雛に似ていて、粟玉を放り込みたくなるほど可愛らしい。
そうだよ、好いた女子がこうして待ってくれているんじゃねえか、と藤九郎はどぶ板を踏む足に力を込める。ここで唇を吸うてやらねば、江戸っ子の名が廃るってもんだ。固まっていた腰をそっと折り、紅の引かれた唇に自分のものを重ね合わそうとしたそのときだ。
ねうねう。
藤九郎はすぐさま草履で、足元の砂利をずりりとやったがもう遅い。蜜に漬け込んだ餡子のような鳴き声は、すでにおみよの耳に入ってしまっている。凄まじい勢いで首を回しぎょろぎょろとなにかを探している女子に、もはや先ほどの雛鳥の愛らしさはない。
「ああ、ほら、信さん。見つけたよっ」
あすこだ、と路地奥のお稲荷様に向けられた人差し指を、藤九郎は優しくぎゅうと握りしめる。
今日こそは諦めてたまるかい! 驚いたように顔を上げるおみよの口に、藤九郎がもう一度ゆっくり顔を近づけてゆく、と。
ねうねう、にゃあう。
「しらんぷりはいけないよ、信さん。あの子はあんたを呼んでるんだから」
藤九郎の頑張りなど気にも留めないで、おみよはお稲荷様の前で伸びをする猫の様子をじぃっと見ている。睫毛で猫を搦めとってしまいそうなその視線。それを藤九郎はどうしても取り戻したい。
「あいつは通りすがりの野良猫だよ。俺の着物についた匂いに興奮しちまって、それであんなに鳴いてるだけなんだ。ほら、猫ってのは鳥が大好物だからさ」
軽い口調で言ってはみたが、口先だけの出まかせはすぐに真っ赤な鼻緒の駒下駄にからりころりと蹴り飛ばされてしまう。
「信さん、なに言ってんだい。あんた、あの子のお目目が見えないの?」
見えないわけがなかった。黄色の右目と青色の左目はこんなにもまっすぐに藤九郎を見つめている。
「とぼけたって無駄だよ。ここいらで三毛の金目銀目といえばあの人の飼い猫、揚巻でしかありえないもの」
江戸の人間は総じてみんな猫好きだ。ここ最近では、阿蘭陀からやってきた象やら駱駝やらに夢中になっている者も多いと聞くが、鼠を狩ってくれるこの獣は変わることなくずうっと大切にされてきた。なかでも特別鼠狩りのうまいものには馬よりも高い値がつけられることもあると言う。だが、おそらくこの三毛よりも高い値のつく猫は江戸中どこを探してもいやしないだろう。そのことを揚巻は己でようく知っていた。なにせ町中を毎日闊歩して、行く先々に己の珍しい瞳の色を披露して回るのだ。
飼い猫ってのはやっぱり主人に似るんだねぇ、とその姿を目にしたおみよはよく口にする。
あの人もしょっちゅう見せつけてきたもの。わざと丈の短い小袖の裾をこうやってちょいとつまんでね、ふくらはぎまでたくし上げるんだ。そりゃあもう艶かしくてねぇ。それを見た誰かが「脚の中を白魚が上っていきやがった」なんて叫んじまったのがあの人のあだ名のゆえんだよ。ねえ、信さん知ってたかい。
その時、藤九郎が知りたかったのは、あの人のあだ名のゆえんなんかより、団子屋の床几の上に乗せられた、隣に座るおみよの左手の温もりだったが、それだってこの三毛に邪魔されてしまったのだ。
金目銀目を持つ猫は人に幸せを運ぶだなんて、嘘を築地のご門跡。
赤手拭いを首に巻くこの三毛猫が、運んでくるものときたらとんでもない厄介事ばかり。ただ一つの恩恵といえば、おみよに会える回数が増えたことだろうか。月に二、三度ふらりと藤九郎を呼びに来る揚巻に出会えることを期待して、おみよはこうやって会ってくれるようになった。だからもう、揚巻が現れた時点で藤九郎はいつもと同じく、素直に諦めるべきだったのだ。諦めて、この言葉を言ってやらなければならなかったのだ。
「……今日はあの人の、なにを見てくりゃあいいんだい」
とたん、おみよの目は輝いた。
「そうこなくっちゃ、信さん! 今日は目当てを決めてきたの!」
雛のように慎ましく尖っていた唇から言葉が飛び散り、つんと上を向いていた愛らしい鼻からふんすふんすと荒々しい鼻息が漏れ出ているのが、藤九郎はちょっぴり悲しい。
でも、しょげちゃあいけねえ。藤九郎は己で己をなぐさめる。これはおみよちゃんに限っての話ではないんだから。
〝すべて今都会の婦人女子の楽しみは、〟好いている男のことは勿論、親のこと、子のこと、夫のことをすっぽり忘れさせてしまうものなのだ。
うんうん頷いたところでふと気付くと、喋り続けているおみよの指はもう三本も折れていて、藤九郎は慌てておみよの言葉を遮った。
「すまねえ、おみよちゃん。もう一度最初から言ってくれねえかな」
すると、娘はぷうと頬を膨らませる。
「しょうがないねぇ信さんは。今度はゆっくり言うからきちんと頭に叩き込んでよ。そうじゃなきゃ、もう会ってあげない」
「そんなぁ」
人より大きめの図体を縮こめて項垂れると、おみよはそれを見てころころと笑う。えくぼの似合うこの可愛らしい顔が、あの人の描かれた錦絵を目の前にした時にだけあんな形相になるなんて、藤九郎はいまだに信じられない。
「ひとつ、髪の結い方を見て欲しいの」
そう言って、おみよは己の頭をぐいと藤九郎に近づける。白簪の挿さったふくら雀から、鬢付け油の艶な香りがぷんとする。
「あとであたしに教えられるくらいじっくり見ておいてよ。簪と筓も忘れちゃ駄目。花簪、玉簪、びんびらに鹿の子留って種類が沢山あるからね。素材だって、珊瑚に瑪瑙にギヤマンって色々なんだから」
花に玉にびんびらに、と必死に口の中で反芻をしている藤九郎をよそに、「ふたつ目は小袖の柄行きね」とおみよの舌はくるくると回る。
「着る物にはとっても凝るお人だから、裏地の糸の色まで注意してくれなきゃいけないよ。贔屓同士での喧嘩ももっぱらそいつが火種なの。おいおい、あんた、そんな雑な柄行きの着物であの人の贔屓のつもりかい、いやいや、あんたこそそんな吝臭い染め方で贔屓だって名乗ってんじゃないだろうね、って、しまいにゃ摑み合いになっちまうこともあったんだよ」
着物については、藤九郎は殊更不安だ。鳥の羽の模様なら百も二百も頭に入っているが、小袖の柄行きは数は多いし複雑だしで、どうにも頭に残ってくれない。そうかと思えば、この頃は道を歩けば、あちらの娘も淡藤色の花格子、こちらの娘も淡藤色の花格子。こぞって一つの柄行きばかりを身につけている。店に来る女子の客も同様で、藤九郎はいつも、どの女子から金を受け取り、どの女子に鶯の糞を渡したのかわからなくなってしまう。
「みっつ、帯の結び方」
こちらに背を向け、おみよがぽんと打ち鳴らす茜色の帯には三匹の白魚が泳いでいる。思わず眉を寄せてしまったが、こりゃいけねえ、と藤九郎は両手でぐいぐい顔を擦る。鱗の一枚一枚にまで銀糸の刺繍がされているこの縮緬帯は、おみよが二着もの振袖を質に入れて購ったものなのだ。
「前みたいに背中でぎゅっと結んでました、じゃあ堪忍しないよ。結び目が縦なのか横なのか、余り帯がどれだけ残ってて、どんな風に垂れてんのか、ひねって上に引っ張り上げてんのか、帯先を帯の中にねじ込んでんのか。そこまで見てもらわないと真似ができないからね」
そこで一段落つけたらしいおみよは、手拭いで首元を押さえながら、ふう、と小さく息をついているが、藤九郎はそれどころではない。
簪、筓、びんびら飾りに、柄行き、結び目、余り帯。見なければいけないものが多すぎて、耳の穴から煙が出てしまいそうだ。おみよの手拭いの中をこれまた泳いでいる白魚に、もう一度眉を寄せる暇だってありゃしない。しかし、ここにきてまだ白い手は「できればでいいんだけどね」と藤九郎の袖を引く。
「できれば、あの人の鏡台の抽斗の中も覗いてきて欲しいの」
そうらきたぜ。藤九郎は項垂れたまま、上目遣いでおみよを見る。
「それは無理な話だって、何度も言ってきたじゃねえか」
「一回だけ試してみてもいいじゃないっ。信さんがやれば、怒られたりしないってば」
「それが駄目なんだよ。鏡台の近くだけは絶対に近づけさせてくれねえ。頼んでみても、阿呆、ここは女の戦場や、男なんて死んでも入れるかいな、って言われちまう。でも、女子にとっての化粧ってのはそういうもんなんだろ?」
「そういうものだけど、見たいものは見たいんだもん! あの人と同じ紅が使いたいんだもん!」
両手で袖を引っ掴まれて、思わず前につんのめる。藤九郎のこの図体を動かすほどの力が紅ひとつのためなんかに出てしまうというのだから、やっぱり女子というのはわからない。
「だけどさ、おみよちゃんが今、唇に塗ってるやつもあの人の紅なんだろ?」
機嫌をとるためにそう言葉をかけると、「あら」と、おみよは袖を引っ張る手を止めて、目をぱちくりさせた。「どうしてわかったの?」
「紅の塗り方がいつもより丁寧だ。唇の皺の間までぴっちり塗りこんでんのは、その紅が気に入ってる証拠じゃねえのかなって」
「うふふ、さすが信さんだよ! きちんと気づいてくれるんだもの。生き物を商いにしているだけあるわよね」
これは藤九郎の病みたいなものだった。ものが言えぬあの動物たちは、目やにで目が塞がっただとか、尻穴が糞で詰まってしまっただとか、そんなことでころりと死んでしまう。そのために毎日、羽毛の艶や嘴の色に目を光らせている藤九郎が、紅の塗り方ぐらい気づかない方がおかしな話なのだ。
「そうなの、これ、あの人の紅なの! でも、もうなくなっちゃいそうであんまり使えないんだぁ。新しいのが欲しいけど、あの人はもう店を畳んじゃってるでしょ」
へぇ、と頷いておきながらも、やっぱり藤九郎はあの人の商い姿が想像できない。
人の堪忍袋をつついては喜んでいるその性分を、どうやって客から隠しておけたのだろう。なにより、畳を覆い尽くす振袖の海にいつだって体を沈めているあの白魚が、板の間の陸に上がって客の応対をしていただなんて、それはまことの話だろうか。
腕を組む藤九郎を置いてけ堀にして、おみよはもう、うっとり顔だ。
「ほんといい色で好きだったのになぁ、白魚紅……。その白魚紅を薬指で唇にさす魚之助様……」
小さく呟かれた名前に足元にいる揚巻の耳がついついと動く。暇だと零しては尻尾をつまみ上げてちょっかいを出してくる主人でも、どうやらこの猫は好いているらしい。
「やっぱり魚様の贔屓はやめられないわ! 当代一の女形と言ったらこれまでだってこれからだって田村魚之助、その人しかいないんだから!」
片手を天に突き上げたせいで、めくれ上がっているおみよの袖を直してやりながら、藤九郎はため息をつく。
今日もまた、毎度お馴染みこの筋書きになっちまった。
おみよの肩越しにちらりと路地の角をうかがうと、案の定、人影がふたつ争っているのが見える。藤九郎は肩を落として渋々、心の中の拍子木を取り出した。はじまりぃ、はじまりぃとやけくそに打ち付けると、江戸中が夢中のあの檜舞台と同じ音がする。
チョンチョンチョンチョン……チョチョン!
「ちょいとちょいと。それは聞き捨てならないね! 当代一の女形と言ったら、佐野由之丞、由様を措いて他にいねえのよ!」
背高の娘が長煙管片手に、路地の角からばっと姿を現せば、
「だめだよぅ、お吉っちゃあん。おみよちゃんたちの邪魔はしちゃぁいけないよってあれほど言ったのにぃ」
手鞠がはずむようにして、丸い娘も一緒に飛び出してくる。神社裏手の路地を舞台に、これで三人、役者は揃ったというわけだ。
「やだあんたたち、まさかまた陰から覗き見してたわけ? 趣味が悪いったらありゃしないね。そりゃあ役者の趣味だって悪いはずだよ」
呆れたようなおみよの言葉に、「役者の趣味だって……?」背高娘、お吉はぷっと煙管の火皿から灰を吹く。
「あんた今、わっちの由様を馬鹿にしたね。謝ったって容赦しねえ!」
片手で袖をたくし上げると肩に引っ掛けている長羽織が揺れて、裏地の髑髏が見え隠れする。怒るとお吉は、女だてらに徒党を組んで町を練り歩く莫連の地金が透けて出るのだ。
「でもぉ、おみよちゃんのそのお着物だって淡藤色の花格子柄、由之丞格子に見えるんだけど」
歯を剥き出しあう二人の横で、手鞠娘、お蔦はおっとりとした口をきいた。爪紅の塗られた両手でおみよの袂を持ち上げると、さわさわと手のひらを這わせて生地を確かめている。
「経糸の捩りが丁寧な変わり絽だねぇ。この仕立ては、うーんと、隣町の三津屋さんかしら」
さすが小間物屋の一人娘は目利きがあって、値打ち物は見逃さない。蕩けた口調で人の着物を褒めていても、その指はいつだって空の算盤珠を弾いている。
「今日だけよ。ちょっと流行りに乗ってみただけだもん」
口籠ったおみよが横目でちらりとこちらを見るから、藤九郎は気付かれぬよう苦笑する。
俺を気にするのはともかくとして、猫があの人に告げ口をするわけでもあるめえに。
「で、でもやっぱり魚様の方が洒落てるわ。ほら見てよ、この帯。魚様の紋が入ってんの。泳ぐ白魚が艶っぽいでしょ」帯の刺繍をなぞるおみよに、
「馬鹿だね、艶っぺえってのは、こういう帯の結い方のことを言うのさ。由様の玉升結びだ。どうだい、真似したくなるだろ」尻を揺らすお吉。
「えーでも、派手なのがなんでもいいってわけじゃあないよう。ほぉら見て見て、この雛五郎縞の煙草入れ! このくらい渋みがかった方が乙粋でしょぉ。おとっつぁんにねだってようやく作ってもらったものなの」
跳ねるお蔦で、そうら始まった。藤九郎は黙って天を仰ぐ。己の贔屓役者の張り合いに始まり、物自慢合戦。こうなりゃ藤九郎の出る幕はない。
「いい出来じゃない。紋の白抜きがきれいだわ。これ、どこの染屋で染めたの?」
「堀江町通りの蓮谷屋だよぉ。ほら、斜向かいに絵草紙屋がある」
「絵草紙屋……ああ、蝸牛堂のことだね。あれはいい店だよ。由様の役者絵をたあんと揃えてあるからね」
「いいなぁ、由之丞は品揃えがあって。魚様の役者絵って数が少ないんだもん。魚様っていったら脚千両でしょ。だから、足まで描かれてるものが欲しいのに、ちっとも出会えやしないんだから」
「そんなら、この後、蝸牛堂に連れてってやるよ。あすこなら、古い役者絵だって置いてあるんじゃねえかな」
「やだ、お吉ったらいい女」
「ねえねえ、その前にいつもの見せ合いっこしようよぉ。あたし、ちょいと前に雛様の大首絵を買ったのよ。雲母摺でね、雛様の男振りがよぅくわかるんだからぁ」
お蔦が急かすように塗り下駄でどぶ板を踏みしめて、ここでようやっと二幕目の始まりだ。大詰めまで待っている時間は藤九郎にない。路地裏芝居を見ているもう一人の客が焦れたように「にゃあん」と裾に噛み付いている。藤九郎はため息をつき、すごすご三人娘に背を向けた、と。
「あ、信さぁーん」
飛んできたおみよの声に、藤九郎の背筋は自然と伸びた。骨ばった指先で海松茶の帯をきゅっとしごく。そうだよ、これでも好き好かれの間柄。引き止めてくれるとは期待していた!
「な、なんだいなんだい、おみよちゃん!」
勢いよく振り返ったが、藤九郎の目に映ったのは生首三つ。女子たちの体はもう、曲がり角を曲がってしまっていて、頭だけが塀から突き出るようにして縦に並んでいる。
「あの人の髪の結い方、柄行き、帯結び。この三つを忘れちゃあいけないからね!」
「おい信天。ついでに由様の話も聞いてきておくれよ。魚之助だって腐っても役者だったんだ。芝居者同士、なにか繋がりぐれぇあるだろう」
「信さん、あたしは、雛様のなにかが欲しいねぇ。懐紙でも煙管の灰でもいいからちょいと拝借してきてほしいって白魚屋さんにお願いしてよぉ」
次々と飛んでくる声に、藤九郎は帯をしごいた手を力無く上げると、
「……おうよ、任せておくんなせぇ」
ぐずんと洟をすすった音はもう、じゃれ合う三人娘の耳には届いていないようだった。
(つづく)
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