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試し読み

この芝居小屋には鬼が潜んでいる、と座元は語り――。エンタメ最前線の歌舞伎ミステリ!『化け者心中』発売前試し読み#5

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 昼餉時。慌ただしく人の行き交う大通りを、魚之助をおぶった藤九郎はこそこそと進む。できるだけ端っこを歩いているつもりだが、やはり向けられるのは訝しげな視線で、藤九郎たちを追い越した後、もう一度こちらを振り返る人間も少なくない。しかし、大通りを抜け二丁町に入れば、その目は一転、羨望の眼差しへと変わる。
 魚之助の屋敷がある橘町から歩いて四半刻、堺町とその隣の葺屋町はそれぞれが芝居小屋を抱える芝居町だ。合わせて二丁町と呼ばれるそこに居を構える町人たちは、そのほとんどが芝居好きか芝居小屋に係わる者で、魚之助の正体なんて一寸の内に気づいてしまう。その上、その元女形は己に集まる熱い視線に応えようと片手を挙げたりするものだから、藤九郎はより一層、人の目を集めることになる。藤九郎がいくら背を丸めたところで、そんなのもう意味がない。これだから歌舞伎役者というものは性に合わない。派手で、身勝手で、人の視線が大好物だ。だが、と藤九郎は正座をしたまま背を伸ばす。こうまでなると、歌舞伎役者の人気ぶりは認めなければならないようだ。三年前に檜舞台から退いてしまった元役者に対し、芝居好きの町人たちは声をあげるし、目の前の男は餡子に粉砂糖を振ったような、こんなに甘い声を出す。
「ようよう来てくださいましたな、白魚屋」
 豪奢な部屋の真ん中で、男は真向かいに座っている魚之助に向かってゆっくりと頭をさげた。
 江戸随一の大きさを誇る芝居小屋、中村座のすぐ裏手に建てられているこの家屋は、外面は質素ながらも中身は贅がつくされている。左から右へと目を流してみるだけで、稲荷狐の掛け軸に、志戸呂焼の猫足火鉢と、調度品はよいものばかりで、さすがは座元の自宅といったところ。芝居小屋をまとめ上げている人物だけある。そんな男の家に呼び出されたとあれば、傍若無人な元役者だってこの態度になるのも頷けた。
「えらいご無沙汰でござんした」
 野郎帽子をのせた頭をしんなりとさげると、髪がはらりと一本額にかかる。その一本は、部屋に入る前に魚之助がわざと指でほぐしていたものだが、いいねぇ、と男は肉に埋まっている目をさらに細めている。
「相も変わらないその艶姿。わたしゃあ、蕩けちまいそうですよ。ほら、頰っぺただってこのとおり、落っこちそうだ」
 両手で包むようにして持ち上げたそのふくよかな頰に、魚之助はおほほと小さく笑い声をあげる。
「もう座元。そいつはあたしのせいやありまへん。ただの餅の食い過ぎだす。どうせまた、阿呆ほど食べはったんやろ」
「おや、ばれちまったかい。こいつは恥ずかしい」
 照れたように頭を掻く男を、藤九郎は魚之助の斜め後ろからそっとうかがい見る。
 中村勘三郎。手足が短く、でっぷり太った狸のような男だが、その年季が入った腹には貫禄がしっかりと詰まっていて、だらしなさは感じられない。むしろ銀鼠の上品な着物に身を包んでいるその体からは、大所帯の中村座を切り回せるだけの豪的さが立ち上っているのがわかって、藤九郎は居住まいを正してしまう。
「よろしゅうおすなぁ」と動くこの唇にも、いつもより紅が念入りに塗られているようだ。
「先の芝居も札止め御免の大入りやったと聞きましたで。座元のお好きな餅もそれだけ買い溜められるっちゅう話だすな」
「なんのなんの。白魚屋が太夫であったときと比べたら、こんな大入りなんて小さい小さい」
「あら、あたしのときはそないに大入りだしたっけ」
 扇子を口に当て、小首を傾げる姿はわざとらしいったら、ありゃしない。へっと藤九郎は下唇を突き出すが、勘三郎はうっとりとした口振りだ。
「大入りも大入り、至極上上吉の大入りだよ。ありゃあ、夢のようなお祭り騒ぎでありました。魚之太夫を一目見ようと、日の本中から人がこの小屋に押し寄せて、二丁町は弾け飛びそうになっちまって」
 言ったところで、「そうですよねえ、藤九郎さん」と勘三郎は急にこちらにお鉢を回す。
「藤九郎さんも覚えておりますでしょう、白魚屋のあの人気ぶり」
 小さくとも輝いている目に、「い、いや、俺は」と言葉を濁していると、ぽんと扇子が打ち鳴らされた。
「ああ、座元、こいつに聞くのはあきまへん。前にも言うたとおり、こいつは芝居のことはなあんもわかりゃあしまへんのや」
 穏やかに微笑まれると少しばかり肚は煮えるが、言い返す言葉はない。
「そういえばそうでしたな。でも、あの人気ぶりを知らないとは驚きですな。もしや、藤九郎さんは江戸のご出身ではないだとか?」
 勘三郎の揶揄するような口振りに、ああ出たぜ、出たぜ、と藤九郎は心の裡で息を吐く。芝居者の悪い病気だ。芝居を見なければ人ではない。この小屋に身を置く人間は本気でそう思っているらしい。だから、さして芝居に興味のない藤九郎はここにくるといつだって肩身がせまい。
「隠れて阿蘭陀船にでも乗っていらっしゃいましたか。それだけ上背があるなら、あの異国の天狗どもに紛れていても気づかれなかったでしょうに」
「んふふ、たしかにばれへんやろな」と魚之助の加勢が入ると、勘三郎はさらに調子付く。
「それとも、藤九郎さん。あなた、本当に人あらざる者でいらっしゃるとか」
 これには藤九郎もかちんときた。
「馬鹿にするのもいい加減にしてくだせえ」と思わず声が出てしまう。
「俺はたしかに芝居を見ませんがきちんと人間です。大体からして、人あらざる者なんぞこの世にいるわけないでしょう」
 窘めるようにしてそう言うと、途端、勘三郎は口をつぐんだ。そうして、蠟燭の火を吹き消すような声で、いいえ、と言う。
「いいえ、おるんですよ」
「……なにがです」
 問う藤九郎に、勘三郎はゆっくり顔を近づける。
「人あらざる者。……鬼ですよ」
 藤九郎は黙り込み、しかしそのすぐ後に、ははははは、と大きな笑い声をあげてやった。
「急に真面目腐ってどうしたんです。そんなもの、信じる齢じゃありませんよ」
 だが、一緒に笑い飛ばしてくれる声はどちらからも聞こえてこない。
「舞台の上にゃあ、あたしの舌を引っ張ったり、頭を真っ白にして台詞をとちらせる妖怪がいるとは気づいていたけども、そいつが鬼やったとは初耳やね」
 そう言って、ようやく一人がんふふ、と笑ったところで、
 チョン。
 藤九郎は振り返るが、そこには誰も立ってはいない。
 空耳だろうか。
 顔を戻すと、勘三郎はじいっとこちらを見つめていた。肋の間に指を入れ、ほじくるようなその視線。肉厚の膝が躙って畳を擦るその音に、藤九郎は背筋を何かが走り抜けるのを感じた。
「ええ、ええ。おふた方。この芝居小屋には鬼が潜んでいるのでございます」
 始まりぃ、始まりぃと家の外から遊んでいる子供たちの声がする。
「あれは五日前。次の秋芝居のための正本が書き上がり、前読みをしようと役者衆を小屋に集めたときのことにござりました──」
 仔細を語り始めた勘三郎の真っ赤な舌が、歯の隙間でちろちろと動く。
 拍子木の音はもう聞こえてこなかった。

(つづく)



蝉谷めぐ実『化け者心中』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322006000161/


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