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その日は贔屓への挨拶回りが長引きまして、約束の刻限に少し遅れてしまったのでございます。こう見えてもわたしは中村勘三郎。お上に櫓をあげることを許されている芝居小屋、中村座の屋台骨。そこら辺の三下相手なら待つのも稽古の内やら何やら言い包めてやりますが、此度集めた役者衆には口が裂けても言えますまい。急ぎ階段を駆け上がり、ゆっくり襖を開けますと、薄暗闇の部屋の中、六つの頭がこちらに向かって下げられたのが見えました。
時は夜四つ、日はとっくのとうに落ちております。百目蝋燭をいくつも立ててはおりますが、中は薄ぼんやりとしていて、人の顔かたちまでは見分けがつきませんでした。ですが、そんなことで江戸一の芝居小屋の座元を張ってはおれません。辞儀の仕方だけでどの頭が誰かぐらいは見当がつくもので。部屋の真ん中で車座になっている六人を順繰りに見渡して、一人離れて襖近くに座る男に、揃っておるようだな、とわたしは声をかけたのでございます。
「ええ、もう皆々様は、待ちきれねぇご様子で」
にっこり笑ってそう返した男の名は、松島五牛。中村座つきの狂言作者でございます。顔中皺に埋れちゃおりますが、若い時分にはどうやら二枚目で通っていたらしく、その頃のえくぼはその日もきっちり存命で、ああ、えくぼまできちんと見えましたのは、この男の周りに燭台を集めていたからでございます。己の台詞を多くしろだの、その台詞回しは洒落臭いだの、このあと飛び交う勝手気儘な役者の注文を、此度の筋書きを仕立てた当人である五牛が、すべて書き留めなければなりませんので。
わたしは頷いてから、黙って車座に加わりました。この時、わたしが気掛かりだったのは蝋燭のこと。今使っているものが燃え尽きるまでに終わってくれればいいのだが、とそんなことを考えておりました。蝋燭だって安くはありませんからね。……いやだよ、太夫。そんな目で見ておくれでないよ。わたしだって替えの蝋燭を渋るような真似をしたくはないが、此度はそうも言ってられなかった。理由はわたしの右隣に座っていた頭です。いえ、名前は申し上げますまい。名前がしょっちゅう出てきてはお話も進みませんでしょうから、今は一の頭とでも申し上げておきましょう。まっすぐ背筋を伸ばし、体は寸とも動かないこの頭の持ち主は、金をはたいて、大坂から豪的な出迎えをしてようやっと揃えたものでした。今は暗闇にまぎれていようとも、その顔は檜舞台の上で輝いてくれるに違いない。一人ほくそ笑んだりしておりますと、ふとわたしは正面の小さな頭が揺れていることに気がつきました。苛ついているらしい二の頭に目を凝らせば、それは七色に光る大事な頭。怒らせるのは大変にまずいと、わたしは慌てて咳払いをいたします。
「このような刻限によくぞお集まりくだすった。まずはこの中村勘三郎、深く感謝を申し上げる」
わたしの頭に続き、六つの頭が辞儀をします。鬢付け油の甘い匂いがぷんとしたその頭は、三の頭でございます。
「今宵ご足労頂いたのは、此度の芝居で芯を張る役を演じられる皆々様だからこそ。下回りまで集まっての本読みの前に、正本を一度お目もじいただこうかと思いまして」
その言葉に感極まったのか、何度も何度もこちらに向かって下げられる四の頭には、白髪が目立っていたのを覚えております。
「これが中村座が抱える立作者、松島五牛が書き下ろしたものにございます。書抜をご用意いたしましたので、各々まずはご覧になっていただきますれば」
己の台詞のみが書き抜かれた本を配り終え、斜め後ろに座った五牛にわたしは目配せをいたしました。書抜に顔を近づけては己の額をこんこんと叩く奥の五の頭は、台詞を入れるのに夢中になっているだけなので放っておけばよいのですが、その手前、わたしの左隣にいる髷の美しい六の頭には、時を与えてはいけません。いつものように手鏡を出して己の顔をうっとり眺め始められては、前読みが進まなくなりますから。わたしに急かされ、五牛は正本を開き、頭からゆっくりと読み上げ始めました。
わたしは今になって思うのです。悪かったのは、蝋燭代を吝り、車座のまわりにあまり蝋燭を置かなかったことではなくて、正本があまりに面白すぎたことかもしれない、と。 舞台景色の大道具から役々の台詞まで、すべて五牛によって読み進められていく正本の内容は、以前演じられた心中物を当世風へとうまい具合に手直しがされておりました。五牛の七色の声も手伝って、目を閉じればその情景がありありと目蓋に映る。己の台詞に吝をつける者が一人もいなかったと言えば、太夫にはわかっていただけますでしょう。ええ、そうです。皆が芝居の筋に聞き入るほどの傑作の出来だったのでございます。
大詰めに差し掛かると、芝居の主役である遊女役の声に五牛が一際情感を込める。と、わたしは目蓋の裏に灯りの揺らぎを感じました。初めはまたか、と思っただけでした。珍しいことじゃない。五牛は台詞読みに気持ちが入りすぎるきらいがあって、台詞と一緒に足やら手やらを動かすことがよくありましたから。その風が蝋燭の火を揺らしているに違いない。だが、その揺らめきは幾度も続く。なんだい、今日は一段と気合いが入っているじゃないか。わたしは閉じていた目蓋をゆっくり押し上げ、薄く目を開いた、そのときでした。
ごろぅり。
車座の真ん中に何かが転がり落ちてきました。確認しようにも、長らく目を閉じていたせいで視界には靄がかかっていて、薄闇の中でその輪郭はあやふやでした。周りもまだ筋書きの世界にどっぷり浸かっているのか、誰も声を上げません。こういう時は欲張っちゃいけない。何が落ちたのか、一つ一つ確かめていこうじゃないか。わたしは目に力を込めました。畳の上で動かなくなったそれは、腕に抱えられるほどの黒い塊。凹凸があって、一部毛が生えているように見える。おや、塊の表面で何かがきらりと煌めいた。ビードロの欠片でもくっついているのか、いや、玉だ。埋め込まれてでもいるような、光る玉が一つ、二つ……。あっ、とわたしがその正体に気付いたのと、すべての蝋燭の火が消えるのはほぼ同時のことでした。突然訪れた真っ暗闇にまたしても誰一人として、声も出さず身動きすらしないのは、部屋に充満した暗闇に、餡子のような粘り気があったからでしょう。そうして、ああ、あの音が聞こえてきたのでございます。
ぱきり、ぽきり、がじごじ、ちゅるちゅるり。
体を動かせるようになったのは、音が鳴り止み随分経ってからのことでした。なにがきっかけだったかわかりませんが、わたしははっと我に返って立ち上がり、火の消えた燭台に飛びつきました。震える手は二、三度叩いてやらないと使い物になりゃしない。部屋の隅で畳んでいた行灯も手繰り寄せて、次々と火を継いでいきました。
ぼんやり明るくなった部屋の中、わたしは立ったまま、車座を見下ろします。
一寸のうちに気付きます。塊がありません。車座の真ん中に転がってきたはずのあの黒い塊が、あとかたもなく消えていたのでございます。かわってそこには、畳に広がる赤錆色の薄い水溜り。これを人は本能と呼ぶのでございましょう、血であることはすぐにわかりました。染みの上には飛び石のように何かが散らばっています。薄い桃色で、ぬらぬらと濡れている。糸のような筋が飛び出し、皮がこびりついていて、ああ、これは肉片だ。認めた瞬間、凄まじい臭気が鼻の穴を駆け上がり脳天を突き刺しました。わたしはそこで己が息を止めていたことに気付くのです。
それらが、水に溶いた染料ではなく、色をつけた団子でもないことは、その場にいる誰もが言われずとも知っておりました。四つん這いの五牛が部屋の隅でげえ、と吐いている。残りの人間は、座したままでした。頭がこちらを向いています。
わたしは思わず後ずさり、片手で口を覆いました。
頭が向いて、しまって、いるのです。
背筋を伸ばし寸とも動かなかった一の頭も、苛つき小刻みに揺れていた二の頭も、鬢付け油をぷんとさせていた三の頭も、白髪交じりの四の頭も、額をこんこんと叩いていた五の頭も、髷の美しかった六の頭も。
きちんと六つ、頭がすべて。
あっちゃぁ、いけねえ……。
背中に一気に汗が噴き出しました。歯がかちかちと音を出します。
頭は六つ、あっちゃぁ、いけねえんじゃねえか!
浅く息をしながら、わたしはやっぱりそうだったのだ、と思いました。
ああ、あの光る玉は二つの目の玉で、転がり落ちてきたのは、人の頭だったのだ、と。
(つづく)
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