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「じょ、冗談じゃねえ!」
抜けた腰で尻餅をつけば、その勢いで肚から言葉が飛び出した。
渾身の大声に隣の魚之助は眉をひそめたが、藤九郎は構やしない。むしろ、この芝居小屋から放り出してくれりゃあ、藤九郎は諸手を挙げて喜べる。
「なんてえときに呼び出してくれてんだ! その、人を喰った鬼はまだ見つかってないんでしょう!」
「おっしゃる通り、あれからも役者衆は六人のまま。一人も欠けておりやせん」
「なにが、おっしゃる通り、ですか! 頭がひとつ転がり落ちてきたのに、明るくなってみれば前と同じ頭数。今日まで数が変わらねえなんて、そいつが一等おそろしいことだと、あんた、きちんとわかってるんですか!」
叫ぶ藤九郎に、困ったように微笑むだけのこの男は、おそらくわかっている。
六人の役者のうち、誰かに鬼が成り代わっている。五牛ではない。勘三郎の話では、五牛は頭が転がり落ちてきたそのときまで、正本を声に出して読みあげていた。そうなると、残りは六人の役者衆。今はなりを潜めているが、そのうち、誰かの首に歯を立て、そのままざんぶりと──。
藤九郎は、思わず己の首筋に両手をやったが、そんなもので己を守れないのは百も承知。
「は、はやく。はやくお上にお届けしなきゃあ」
「なにをぬかす!」
突然、耳を突き抜けた胴間声に、藤九郎はその場で飛び上がった。だが、そのすぐ後に、「そんな殺生なこと言わんでおくんなさいな」と一転、へらへらとした声が続く。
「藤九郎さんのその告げ口でお上のお調べが入ってしまいましたら、此度の幕は絶対に開けられない。ただでさえ、芝居小屋は悪所だと目をつけられているんです。そこで人が殺されただなんて話してみなさい、すぐにでも同心は飛んできますよ。長い間、検見が入るのは勘弁です」
勘三郎は眉をさげたまま言う。
「人死になんてどうとでも誤魔化せるんですよ」
その口振りは穏やかだが、吐き出される言葉の薄皮を一枚めくれば、その中身はとんでもなくおそろしい。
「水中の早替わりで、伴天連の術を使ったとお調べが入るくらいだ。人死にの噂が流れたところで、新作の外連を見た輩が勘違いをしただけと言えば、皆、得心するものです」
「誤魔化せる、って、人が一人殺されてるんですよ! そんな状況を見て見ぬふりしろってことですか!」
堪えきれずに嘴を挟む藤九郎の両手を勘三郎は優しく手に取った。
「だから、ほら、こうしてあなたたちをお呼びしたんじゃあありませんか」
「え」
藤九郎の呆けた声に、ぴしりと扇子の音が重なった。見れば、扇子で口元を隠した魚之助が細めた目を勘三郎に向けている。
「その転がった頭が見間違えやったって筋はあらへんのんか。そこにおった役者のいたずらやったとか」
「そいつはありえない。あのとき、確かに誰かが死んだんだ。板の上じゃあわかりやすく断末魔の叫びを上げたりするもんだが、現ではそんなもの出やしないのさ。喉から空気の漏れる音が尾を引くのをわたしは聞いた。あれはまさに命が漏れ出る音だったんだよ」
「ほんなら、性格やら仕草やらが急に変わった役者はおらへんのんか。大芝居の座元ともあろう者が成り代わりに気付かないとは思えまへんけど」
「それが、太夫。不思議なことにいないんだよ。わたしも普段から役者には目を配っている方だがね、全くもってわからない。周りの人間にもそれとなく聞いてみたが、皆、首を横に振るんだよ」
「ふん、そんならやっぱりあたしの出番ってわけやな」
扇子を外したその下に見える真っ赤な唇は、大きく弧を描いている。
「此度の仕事は芝居小屋で鬼退治かい。こりゃあ面白くなりそうやねぇ」
なあ、信天、と魚之助はこちらに扇子を向けてくるが、こんな誘いに乗る人間がどこにいる。藤九郎は手も振る、首も振る。
「お、俺は下りますよ。鬼に食べられちまうなんて冗談じゃねえ」
これまではただ、魚之助の後ろを歩いていればよかった。魚之助に呼ばれた時にだけ、渋々ながらも足になり、衣装の買い付けやら芝居の本の種探しやら、童のお使いのような頼みごとを聞けば、魚之助は満足するし、藤九郎には一寸ばかりの駄賃が入った。我儘者の暇潰しにちょっとばかりのお付き添い、くらいの寸法でしか藤九郎は動いていないのだ。ここで命をかけるとなると話は大分違ってくる。
藤九郎は握られた手を慌てて振りほどこうとするが、
「ここまで聞いておいて、そりゃあないぜ、藤九郎さんよ」
勘三郎の両手は搗き立ての餅のようで、藤九郎の手に吸い付いて離れない。
「本来、これはこの中村座から外に出してはいけないお話。中村座の人間にもきつく口止めをしております。それをこうやって聞いてもらったのは、情の厚いお二人ならこの頼みごと、受けてくださるに違いねえと信じたからではありませんか。ねぇ、太夫」
勘三郎が甘く呼びかけた名前に、藤九郎は首を竦める。ああ、こいつは、皺の間までねっとり嫌味を塗りこまれるぜ。だが、此度ばかりは折れてたまるか。その場でぎゅっと身を硬くしたが、「下りたい言うんなら仕方がないやねぇ」と魚之助の言い振りは思いの外、物優しい。
「残念やけれども、座元。この話はあたしだけで受けるわいな。なあに、心配いりまへん。この男、口まわりも鳥に似て堅ぇ男。まわりにちくる真似はいたしやせん」
せやろ、と水を向けられて、藤九郎はここぞとばかりに首を縦に振る。
「ほな、鬼が成り代わってるかもしれへん役者衆に会いにいきましょか。お前は帰りい」
お役御免の言葉に優しい笑顔の土産までつけてくれるとは仰天だ。魚之助の気が変わらぬうちにと藤九郎はいそいそと立ち上がった。魚之助の隣を足早に過ぎ、部屋の襖に手をかけたところで、ふと動きを止める。
ずるずる。
ずるずると魚之助が床を這っている。目をそらしても、着物が畳を擦る音はいやでも耳の中に入ってきた。藤九郎は目を閉じて想像する。ゆっくりと畳の上を移動する獲物に、鬼はいの一番に喰らいつくだろう。鋭い爪で逃げ出そうとする獲物を嬲り、尖った牙で肉を喰い千切る。まるで、羽の折れた金糸雀で遊ぶ三毛猫のように──。
藤九郎は黙って部屋に戻ると、魚之助に向かって背を差し出した。
「おや、座元。この子どうやら手伝うてくれるみたいやわ」
そう言って、魚之助は当然のごとく、藤九郎の着物を鷲掴む。んふふ、と笑う声を耳たぶに擦り付けてくるが、聞こえぬふりを決め込んでやるのはせめてもの意地というやつだ。
「やっぱり流石は藤九郎さんに魚之太夫だ! 鬼退治を引き受けてくれるとは、そこらの人間とは器が違っておられますよ」
勘三郎は、ぽんと膝を叩くと、軽やかに尻を上げた。
「いやね、実を申し上げますと先立って役者衆に声をかけ、今まさに小屋で待たせている最中でございまして」
そこでこいつはご相談。手を打つ勘三郎の目が弧を描く。
「いかがでしょう、まずは一度、役者五人と鬼一匹、ご覧になっていただくというのは」
(このつづきは本書でお楽しみください)
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