2023年8月24日(木)に小林泰三さんの『AΩ 超空想科学怪奇譚』が再刊となります。宇宙から飛来した生命体「ガ」と地球人・諸星隼人、そして人類の存続を脅かす存在「影」による超スケールのSFホラーである本作は、日本SF大賞の候補作になるなど発表当時も非常に話題になりました。『玩具修理者』『人獣細工』『アリス殺し』など、読む者の常識を揺さぶる作品世界を構築し続けてきた小林泰三さん。著者の数少ない長編作品のひとつである、超SFハード・バトルアクション小説をどうぞお楽しみください。
小林泰三『AΩ 超空想科学怪奇譚』
冒頭部「徴候」特別試し読み#2
「遺体の確認のためです。ご主人の身長体重は?」
「百七十センチ、六十五キロです」
「中肉中背ですね。見た感じもそうでしたか? 太って見えたり、筋肉質に見えたりはしませんでしたか?」
「とくにそんなことはありませんでした」
「年齢は三十二歳で間違いはないですね」
「はい」
「出発された時のご主人の服装は?」
「わかりません。さっき言ったでしょ! 別居してたんです」
「別居されたのはいつ頃からですか?」
「半年前からです」
「ご主人が出て行かれたのですか?」
「わたしが出て行きました。……あの、こんな話を今する必要があるんですか?!」
「ご主人が住んでいたのは元々お二人の家だったということですね。
「はい」
「では。家に帰ればどの服がないか、おわかりになりますね」
「わたしもそう思って、ここに来る前にいったん家に帰ったんです。でもどの服がないのかなんて、わかりませんでした」
「ご主人の服を見ればそれとわかりますか?」
「それはわかると思います。わたしが出て行ってから買った服でなかったら」
「持ち物についても同じですね。何を持っていったのかはわからないが、見ればわかるかもしれない」
「はい。……あっ」沙織は突然、自分の
「賢明なご判断でした。助かります」警官は一回り大きなビニール袋を取り出すと、袋ごと定期券入れをその中に収めた。「あと何かご主人の体に特徴はありませんでしたか?
「黒子や小さな手術の痕はありましたが、正確な場所は思い出せません」
「だいたいでいいのですが」
「黒子なんか見なくても、顔を見ればわかります!!」沙織は
「そうかもしれませんね」警官は静かな口調を変えずに答えた。「しかし、面接だけでご主人を確認するのはお勧めできません。他の遺体も見なくてはならなくなります」
「大丈夫です。死体ぐらい平気です」
「平気ではありません。ご主人の写真をお持ちではないですか?」
そう言われて、沙織は隼人の写真を持ってきていないことに気付いた。指紋にまで、気が回ったのに、大事なことを忘れた自分が
「なければ結構です。過去に大きな病気をされたことはありますか? それと歯の治療をされたことはありますか?」
沙織は大きな病気はしていないこと、過去に歯の治療をしていたかもしれないが、結婚後は一度もしていない、以前通っていた歯医者はわからないことなどを手短に答えた。
警官が書類の細々とした部分を埋めている間にも、臭いはますます強くなった。沙織はハンカチで鼻を押さえたが、刺激臭は容赦なく隙間から潜り込んで来る。部屋の暑さもあって、沙織は
「遺体が安置されているのはここから、百メートルほど離れた体育館の中です。ご案内いたしましょう」警官は立ち上がろうとしたが、沙織は逃げるようにその場から立ち去った。異常事態の中、まるで日常の事務処理をするように応対するこの警官と話すことが我慢ならなかったのだ。
警官は沙織が立ち去った後をしばらく眺めていたが、やがて最初に見つめていた空間の方に目を移した。「あれを見たら、あの人もわかってくれるさ。えっ? ああ。大丈夫だよ。君の
体育館に近付くにつれ、地面のぬかるみはどんどん
霧の中を烏のようにうろうろとしているのはマスコミ関係者のようだった。カメラマンとマイクを持ったレポーターを中心とする比較的人数の多い集団から、カメラをぶら下げ、一人で歩き回っている記者らしき人物までさまざまなタイプがいる。
その中の一人がとぼとぼと進む沙織に目を付け、近寄ってきた。「すみません。ご遺族の方ですね」
沙織は険しい目を記者に向けた。「違います!」
記者は一瞬、戸惑ったような表情を見せた。目が泳いでいる。「で、でも、ここに来られたということは……」
「まだ、死んだとは決まっていません!」沙織は一語一語
「これは失礼いたしました」記者は神妙な顔つきになった。
沙織にはその表情が上っ面だけのものにしか思えなかった。一枚下のへらへらとした顔がダブって見える。
「ええと。一〇二四便の乗客のご家族ですね」
「すみません。急いでおりますので……」
「一言お願いできませんか? 今回、航空会社も政府も事故原因について、正式な発表をまだ行っていないのですが、そのことについてどう思われますか? また、多くの目撃者によって落下場所がはっきりしていたのにも
「とくに意見はありません」
「しかし、もう少し早く現場に到着していたら、あるいは生存者もいたのではないかと……。いや。まだいないと決まったわけでは……」
記者があたふたとしている間に、沙織は足早に逃げ出した。体育館の入り口にはさらに多くのマスコミ関係者が集まっていたので、それを避けようと自然に裏手に回ってしまった。
そこには古びた金属製の扉があった。裏口らしい。何か催しがある時に関係者が使うためのもののようでもあった。その裏口がゆっくりと開き、立ち上る霧の中から奇妙な制服を着た青白い顔の女性がバケツのようなものを持って現れた。バケツの中身を体育館の側溝に流し始める。赤黒い液体だ。液体といっしょに時々何かの塊もぼたぼたと落ちて行く。側溝はすでに満杯になっていて、液体が波打つ度に地面に溢れ出していく。なるほど体育館の周囲の土地がぬかるんでいたのはこういうことだったのかと合点がいった。
マスコミを避けるにはここから体育館に入ればいいと考え、沙織は裏口に向った。
「ひっ!」女性は沙織の姿を認めて、小さな悲鳴を上げた。何かしなければいけないことはわかっているのに、何をしていいかわからない様子だ。
「わたしは乗客の家族の者です。表はマスコミが
中はもうもうと霧が渦巻いていた。霧の中にいくつかの影があり、黙々と作業をしていた。窓はすべて黒いカーテンのようなもので遮られていた。ところどころに立てられた支柱の上からのライトが唯一の明かりになっていた。
沙織は一歩踏み込んだ。それまでもだんだんと強くなっていた臭いが突然勢いを増した。
「困ります。正面から入ってください」さっきの女性が弱々しく言った。一瞬、沙織の肩を
「汚してしまって、ごめんなさい」沙織は口元をハンカチで
「そんなことはかまいませんから、とにかくここから出ていってください。お願いします」
沙織は女性の言葉を無視してさらに奥に進んだ。
人影の姿がだんだんとはっきりしてくる。それは制服や白衣を着た男女の姿だった。何人かは床の上やバケツの中で何かを洗っていた。別の何人かは広げた布の上のものに薬品を散布していた。そして、別の何人かは塊を
「諸星隼人の家族の者ですが、何かわかったことはないでしょうか?」強い臭いと熱気のため、沙織の意識は
人々の動きが止まった。全員が沙織を見つめている。やっと気が付いてくれたようだ。
「とにかく、見つかった遺体を見せてください。その中に……」
人々が扱っていたものがはっきりと見えた。床の上に転がされ、薬品散布されているのは、少女の上半身だった。眼球が飛び出し、右の乳房がもげていた。洗浄されているのは幼児の首だ。右半分が欠損し、断面が
(つづく)
作品紹介
AΩ 超空想科学怪奇譚
著者 小林 泰三
発売日:2023年08月24日
大怪獣とヒーローが、 この世を地獄に変える。
旅客機の墜落事故が発生。
凄惨な事故に生存者は皆無だったが、諸星隼人は一本の腕から再生し蘇った。
奇妙な復活劇の後、異様な事件が隼人の周りで起き始める。
謎の新興宗教「アルファ・オメガ」の台頭、破壊の限りを尽くす大怪獣の出現。
そして巨大な「超人」への変身――宇宙生命体“ガ”によって生まれ変わり人類を救う戦いに身を投じた隼人が直面したのは、血肉にまみれた地獄だった。
科学的見地から描き抜かれた、超SFハード・バトルアクション。
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