2023年8月24日(木)に小林泰三さんの『AΩ 超空想科学怪奇譚』が再刊となります。宇宙から飛来した生命体「ガ」と地球人・諸星隼人、そして人類の存続を脅かす存在「影」による超スケールのSFホラーである本作は、日本SF大賞の候補作になるなど発表当時も非常に話題になりました。『玩具修理者』『人獣細工』『アリス殺し』など、読む者の常識を揺さぶる作品世界を構築し続けてきた小林泰三さん。著者の数少ない長編作品のひとつである、超SFハード・バトルアクション小説をどうぞお楽しみください。
小林泰三『AΩ 超空想科学怪奇譚』
冒頭部「徴候」特別試し読み#3
沙織は絶叫した。逃げ出そうとした途端、粘液でずるずるとした床のビニールの上で滑り、
それを合図にしたかのように、制服と白衣の人々はわらわらと沙織の周囲に集まってきた。何人かで、沙織の手足を押さえつける。沙織は絶叫し続ける。
「奥さん、落ち着いてください。奥さん」くぐもった声が聞こえた。
周囲から、数人の顔が沙織を
「奥さん、ここから入られてはこまります。ここは遺体の処置と検視を行う場所です。遺体の確認は正面玄関から入ってください」真っ青な顔をした男だった。
「噓よ! 噓だわ!! 死者に対する
「酷い汗だ」男は沙織の額を見て言った。「奥さん、われわれは誓って死者に対する冒瀆行為は行っていない。この状況を詳しく説明すると言ったら、大人しく聞いていただけますか?」
「もし嫌だと言ったら?」
「仕方ありません。公務執行妨害の現行犯で逮捕させていただきます。……とは言っても形式的なものですから、実際には何の手続きも行いません。ただし、警察署で納得がいくまでわれわれの話を聞いていただくことになります」
沙織は
「いいわ。その前に手を放してくれる?」
人々は沙織から離れた。沙織はよろよろと立ち上がる。服がびっしょりと
「着替えはすぐに手配します。ひとまず、そこに座っていただけますか?」男は折り畳み椅子を指差した。「わたしは検視担当の
「諸星です」沙織は反抗的に答えた。
「では、諸星さん、説明させていただきます。今回の事故では機体は約一万メートルの高度から落下しました」
「それは先程、別の方からお聞きしました」
「その高さから落下しては人体は原形を保つことすらできません」
「しかし、以前の事故では……」
「あの時は山の斜面に斜めに突っ込んで、地面を削りながら減速できましたが、今回は垂直落下したのです。衝撃を吸収するものは何もありませんでした」唐松の青白い
「では、遺体は最初からこんな状態だったということですか」
「そうです」
唐松のいうことは筋が通っているように思われた。
「遺体が離断していることについては納得しました。遺体にかけていたのは何ですか?」
「いろいろです。脱臭剤、消毒剤、殺虫剤」
「殺虫剤? 何のために?」
唐松は足下の床から何かを
死体には蛆がたかるということは沙織も知識としては知っていた。しかし、そのようなことが実際に起こっているとは想像しづらかった。今まで見たことのある
沙織の不審そうな様子を見てのことだろうか、唐松は沙織がひっくり返した遺体を持ち上げた。「見てください」
剝き出しの筋肉と脂肪の間を
「こいつら、
沙織は目を見開いて、唐松を見た。唐松はにっと青白い顔を
「うっ」沙織は唐松が持っている物体の意味に気が付き、
「これは失礼しました」唐松は慌てて、遺体を布で包んだ。「申し訳ありません。つい熱中してしまい、あなたが死体に慣れていないことを忘れておりました。でも、これでわかっていただけたのではないでしょうか?」
「ええ」沙織はずるずるになった
「それでは、
「いいえ。まず遺体に対面します。とにかく自分の心にけじめをつけたいんです」沙織は立ち上がった。立ち
唐松が手を差し伸べる。
「大丈夫です」沙織はよろよろと外に出た。
唐松も後に続く。
玄関に近付くにつれ、また何人かマスコミ関係者が近付いてきたが、みんな沙織の姿と臭いに気が付いた途端に
沙織は事故のことを知って以来、初めて少しだけ愉快な気分になった。
相変わらず、体育館の入り口からは青い霧が流れ出している。と、その中に何人かの顔が浮かんだ。一様に
沙織は思わず唐松の方に振り向いた。
唐松は沙織と目が合うと同時に
玄関を過ぎると、黒いカーテンがかかっていた。それを潜ると、係員がたっており、沙織にマスクと手袋を渡してくれた。いまさらマスクもないものだわ、と笑い出したいような
黒い空間の中でライトに照らされ、白い
青い霧の海の中に何人もの人々がいた。遺族らしい。事故や災害があった後、遺体が集められている場所に行った時、遺族はきっと深い悲しみに打ちひしがれているに違いないと、沙織はなんとなく思っていた。だが、ここには悲しんでいるものなどいなかった。いや、悲しんでいないわけではない。別の感情があまりに強いため、悲しみが打ち消されてしまっているのだ。
恐怖と怒り。
この世のものとは思えない絶叫がこだましている。沙織が獣の声だと思ったのは彼らの絶望の悲鳴だったのだ。棺を開ける度にどうしようもない恐怖が彼らを包み込む。変形した肉体、それは最も直接的に死の恐ろしさを見せつける。そして、そのような姿になった肉親を見る時、彼らの恐怖を思い、自ら
傍らでは、数人の男女が眼鏡をかけた男を取り囲んでいる。
「どういうこっちゃねん、これは!!」取り囲んでいる側の一人が男の胸倉を
「今回の事故に関しましては、我が社一同誠心誠意お
「うっさいんじゃ、ぼけ!!」遺族の男は航空会社の社員と
棺にぶつかり、
「見てみぃ! おどれらのせいで、こんなことになっとんじゃあ!!」怒った男は社員の髪を摑むと、棺の中に
(つづく)
作品紹介
AΩ 超空想科学怪奇譚
著者 小林 泰三
発売日:2023年08月24日
大怪獣とヒーローが、 この世を地獄に変える。
旅客機の墜落事故が発生。
凄惨な事故に生存者は皆無だったが、諸星隼人は一本の腕から再生し蘇った。
奇妙な復活劇の後、異様な事件が隼人の周りで起き始める。
謎の新興宗教「アルファ・オメガ」の台頭、破壊の限りを尽くす大怪獣の出現。
そして巨大な「超人」への変身――宇宙生命体“ガ”によって生まれ変わり人類を救う戦いに身を投じた隼人が直面したのは、血肉にまみれた地獄だった。
科学的見地から描き抜かれた、超SFハード・バトルアクション。
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