元「ベイビーレイズJAPAN」の渡邊璃生さん初の小説集『愛の言い換え』が5月2日に発売となります。発売に先駆けて、選りすぐりの傑作書き下ろし3篇を30日間連続で全文特別公開!
表題作「愛の言い換え」につづく第二話は「蹲踞あ」をお送りします。
◆ ◆ ◆
蹲踞あ
夏空の公園に、少女の泣き声が響く。
擦りむいた膝を晒したまま一歩も動かない彼女に、周囲の友人たちも辟易しているように見えた。
「泣いてないもん、痛くないもん!」
そんな彼女を目にし、居ても立っても居られなかったのだろう。彼は、「細川春海」は、ハンカチを濡らして彼女の膝に当ててやった。
「だ、大丈夫? ひかりちゃん。」
「……春海くん、ありがとう。」
泣き虫で意地っ張りな幼馴染、「神坂ひかり」。
だけれど春海は、たしかにその笑顔に恋をしていた。
あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、あっ。
響くそれは嬌声のように思えるが、平坦で色を含まない。
あと二十分ほど続くだろうか、春海はその呪詛のような声を制止しようと口を開いたが、眼前の黒髪の揺れに「は、」と息を飲んで、唇を固く結び直した。
「あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、あっ。」
細川春海、小学四年生の夏。
遡ること約五時間前。
金曜日の放課後、きっかけは覚えていないけれど、ひかりは春海にこう言った。
「今日お泊り会しようよ!」
春海は、しばらく固まると、赤い顔を本で隠しながらぎこちなく頷いた。
彼はとにかく奥手で、引っ込み思案で、丸眼鏡の地味な男子生徒だった。お互いの両親が近所付き合いをしていたから親しいだけで、ひかりとふたりきりで遊んだことはなかったし、活発な彼女と本の虫の彼とでは、本来住む世界が違ったのだろう。
それでも、憧れに近い恋心が、男子小学生を頷かせたのだ。
帰宅後、彼は両親にお泊り会のことを告げて、パジャマとパンツ、歯ブラシと携帯電話を遠足用のリュックに詰め、さっさと家を出た。二軒隣りの神坂家のインターホンを押すと、出迎えてくれたのは彼女だった。
ひかりの部屋着。長い髪をシュシュでひとつにまとめて微笑む姿。春海は図工の教科書に載っていた「モナリザ」を思い浮かべたが、それよりもずっと綺麗だと思った。
「いらっしゃい。上がって、上がって!」
「お、お邪魔します。」
よそ行きの靴を玄関の端にそろえると、春海は出されたスリッパを履いて、ひかりの背後をついて回った。洗面所で手を洗い、リビングに通されると、テーブルに彼女の両親がついていた。「お久しぶりです。」と挨拶すると、ふたりは微笑んで「お久しぶり。今日はゆっくりしていってね。」と言った。
「行こ、春海くん。」
その白い腕に引かれて、春海は初めて彼女の部屋に入った。テディベアが寝かされたベッド、光をぼんやりと通す白いカーテン。勉強机に置かれた愛らしい小物たち。自分が場違いに思えて、春海は萎縮した。ひかりはそれに気づいたようで─。
「ほら、ここ座って!」
彼女は折り畳みのローテーブルを出すと、お互い向き合う形で座布団を敷いた。遠慮がちに腰を下ろす春海。ひかりも座布団に座ると、ベッドの下から引き出したおもちゃ箱をテーブルに上げた。中にはトランプ、すごろく、小さなチェス、オセロ……、様々なゲームがある。
「なにして遊ぶ?」
「え、っと、トランプ……。」
「トランプね!」
ひかりはトランプを手に取って、おもちゃ箱をテーブルの脇に置いた。
「なにする?」
「僕、ババ抜き好き……。」
「じゃあババ抜きしよっか!」
慣れた手つきでトランプを切るひかり。ぼんやりと終わるのを待っていた春海だったが、ノック音によって我に返った。ひかりが返事をすると、彼女の両親が入って、オレンジジュースとお菓子の載った盆を、笑顔でテーブルに載せた。
「ありがとうございます。」
「ごゆっくり。あ、春海くん、好きな食べ物なに?」
「こ、コロッケが好きです……。」
「じゃあ夕飯コロッケにしよっか。」
「ありがとうございます。」
声色に変化はなかったが、春海の目はあからさまに過ぎるほど輝いた。その様子を見て、ひかりが頬を膨らませる。
「ひかりにはそういうの聞いてくれないのにー!」
「あんた、好きな物出したらそれしか食べないじゃないの。」
彼女の母親が苦笑し、父親と共に部屋を後にした。
「春海くんだけずるいのー。」
彼女は拗ねて見せたけれど、怒りは感じ取れない。わかりやすい彼女に、春海は胸の高鳴りを感じた。
ふたりでトランプをして、すごろくをして……、十七時の鐘が鳴り響いた。普段の癖で帰り支度を始めると、ひかりは「今日はお泊りだよー。」と笑った。
(つづく)
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