元「ベイビーレイズJAPAN」の渡邊璃生さん初の小説集『愛の言い換え』が5月2日に発売となります。発売に先駆けて、選りすぐりの傑作書き下ろし3篇を30日間連続で全文特別公開します。
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◆ ◆ ◆
わたしは耐えることを選択した。これが今のわたしに課せられた試練なのだ。
摩耗する意識の中、わたしは願った。
なりたい。貴之さんと幸せになりたい。
そのためにこれは必要なことなのだ。そうに違いない、そうでなくては。
「疲れた。」
十分ほど経っただろうか、貴之さんは呟いた。そして、こう続けた。
「要ちゃん、『贖罪の山羊』って知ってる?」
「知っています。」
「じゃ、語源が聖書だっていうのは?」
「し、知りませんでした。どこに書いてあるのですか?」
わたしは素直に口にした。嘘はすぐ見抜かれる。怒鳴られることを覚悟したが、貴之さんはテーブルの聖書を取って来て、わたしの隣に腰を下ろした。ボルドーの表紙が開かれて、ページがめくられる。隅に書かれた数字は若く、どうやら旧約聖書の「レビ記」らしい。
「ここだよ。」
「はい。」
貴之さんがわたしに聖書を持たせて、文頭を指差した。そこには「贖罪日」と記され、儀式の方法のようなものが書かれている。内容と同時に、貴之さんが怒らなかった理由も理解した。この箇所は、まだ教わっていない。
「ここから、ここまで読んで。」
「えっと……、
アロンは、自分の贖罪の捧げ物のために牡牛を引いてきて、自分と一族のために贖いの儀式を行う。
次いで、雄山羊二匹を受け取り、臨在の幕屋の入り口の主の御前に引いて来る。アロンは二匹の雄山羊についてくじを引き、一匹を主のもの、他の一匹をアザゼルのものと決める。アロンはくじで主のものに決まった雄山羊を贖罪の捧げ物に用いる。くじでアザゼルのものに決まった雄山羊は、生きたまま主の御前に留めておき、贖いの儀式を行い、荒れ地のアザゼルのもとへ追いやるためのものとする。」
「『贖罪の山羊』は、このアザゼルにもらわれた方だね。」
「そうなんですか……。」
「要ちゃんはどっちになりたい?」
「え?」
わたしは聖書から視線を外して、貴之さんの顔を見た。表情から、先の言葉の意味は読み取れない。「どっち」とは、主の山羊か、アザゼルの山羊か、選べということだろうか。
わたしは答えに迷った。すると、貴之さんがわたしの手を握って、聖書を閉じさせた。相変わらず、視線は甘くやさしい。先ほどまでわたしを怒鳴っていたとは思えなかった。
「じゃ、言い方を変える。要ちゃんは、『俺をどちらにしたい』?」
どちらにもしたくない。
とは、言えない。
貴之さんがもしアザゼルの山羊になることを望むなら、わたしは受け入れなければならないだろう。わたしにできるだろうか? わたしは貴之さんを、貴之さんのために諦められるだろうか。
「すみません……。少し、考えさせてください。」
「はい。どうぞ。」
わたしは台所へ向かった。
手を伸ばしたのは、包丁立て。貴之さんの台所には、同じデザインの皿、コップ、箸、スプーン等がいくつもある。包丁も例外ではなく、収集癖の持ち主である彼らしいと思った。
よく手入れされたそれは、すら、と透き通るような音を立てた。貴之さんがそれに気づき、台所に立ち入る。
「要ちゃん?」
「あ、貴之さん。」
貴之さんが目を見開いたので、わたしはお腹に向けてそれを差し出した。
血が溢れる。包丁越しに、貴之さんの体温。破ってはいけないところを破ったのだと、わたしは確信した。貴之さんはうめき声ひとつ上げず、前のめりに倒れた。 ずぶり、包丁が貴之さんの中に、どんどん飲み込まれていく。
凶器が刃物である場合、抜いてしまうと出血が酷くなると本で読んだ記憶がある。わたしは包丁を抜かず、貴之さんをベッドに運んだ。といっても成人男性の体は重く、どうしても引きずってしまう。床には貴之さんの血痕が長く長く伸びていた。
眠っている貴之さんは綺麗だった。
台所に戻り、もう一本包丁を手にすると、わたしは再び貴之さんの眠るベッドに行って、隣りへと横たわった。
すべてはこの部屋から始まったのだ。
「それじゃ、」
「…………。」
「お疲れ様でした。」
こう言い残し、わたしはわたし自身も山羊となることを選んだ。
(了)
※次回からは「蹲踞あ」をお届けします。
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