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試し読み

「蹲踞ってこうやるの」彼女は腰をゆっくり落とし……/渡邊璃生のデビュー小説『愛の言い換え』発売前に傑作3篇を全ページ試し読み!#16

元「ベイビーレイズJAPAN」の渡邊璃生さん初の小説集『愛の言い換え』が5月2日に発売となります。発売に先駆けて、選りすぐりの傑作書き下ろし3篇を30日間連続で全文特別公開します。

>>前話を読む

 ◆ ◆ ◆

 夕飯には春海の好物のコロッケがたくさん並んだ。学校生活について聞かれて答えると、彼女の両親は「春海くんはひかりのことよく見てるんだね。」と言った。春海は慌てて誤魔化して、横目で彼女のきょとんとした顔を確認し、安堵した。
 そして夕飯後、お風呂に入って歯磨きをすると、ひかりが言った。
「『蹲踞あ』の時間だ!」
 ……そう、彼女は。
 彼女の家では「それ」を「蹲踞あ」と呼んだ。
 だが春海は「それ」を知らなかったようで……。
「そ、『蹲踞あ』? 『そんきょ』、ってなに?」
「え? 『蹲踞あ』知らないの? 変なの。」
 ひかりが言い放つと、両親は「こら! それぞれ事情があるんだから。」と彼女を窘めた。癖なのだろう、ひかりは再び頬を小さく膨らませた。
 彼女の代わりに、両親が口を開く。
「あのね、春海くん。『蹲踞あ』っていうのは……。」
 蹲踞あ。
 二十時から三十分間、一切物音を立てず、寝室の扉の前で蹲踞の姿勢を取りながら「あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、」と唱え続けなければならない。
 もちろん、バランスを崩したり息継ぎ以外で声を途切れさせたりしてはいけないそうだ。
「蹲踞っていうのはこうやるの。」
 春海がひかりに視線を移すと、彼女は足を開き、そのまま腰をゆっくりと下ろした。膝は大きく外を向き、踵は地面から浮いている。果たして小学生がこの姿勢を三十分、声を絶やさぬまま保つことができるのか。春海には疑問だった。
「どうして『蹲踞あ』するの?」
「どうしてもなにもないよ。やるったらやるの。そうしないと寝れないんだから。」
 ひかりが春海の手を引く。そうして二階に上がると、彼女は自室の前で蹲踞した。
 そして、時は現在に戻る。
「あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、」
 なぜ小学生がそんな筋力を持ち合わせているのか、春海はわからなかったが、彼女はバランスを崩すことなく「蹲踞あ」を続ける。春海はというと、正座でひたすら黙っていた。彼女が「慣れてないだろうから、ここで正座して静かにしててくれたら大丈夫だよ。」と言ったからだ。
 だが足は痺れを通り越して感覚を失っているし、なにより同じ声を聞き続けるのは苦痛だった。「やめてくれ、」と何度も思ったが、「蹲踞あ」以上に恐ろしいことが起こりそうで怖かった。異常な状況は春海の判断を鈍らせ、逆におかしいのは自分ではないかと思わせたのだろう。
 そして、永遠に思えたそれは終わりを迎えた。
 ひかりは「ふうー。」とひと息つくと、
「もういいよ!」
 と言って笑った。ひかりはやり切ったのだ。
 その日はせっかくのお泊り会だというのに、最後の最後で眠ることができなかった。
 翌週の月曜日、春海はひかりのいない教室でクラスメイトに尋ねた。
「ねえ、『蹲踞あ』って知ってる?」
「え? そん……。」
 クラスメイトはそう口にしたが、担任教師に呼び出され教室を後にした。
 そんなことが何度も起こるうちに、春海は「蹲踞あ」を忘れることにした。その日から卒業まで、春海とひかりは友人だったが、進学を機に関わることはなくなった。

 十年後、夏。
 上京し都内の大学に通っていた春海だったが、かつての担任教師が結婚し、元教え子主催のパーティーに参加することとなったため、地元に三日ほど戻ることになった。
 元クラスメイトは、結婚、海外留学、就職、それぞれの道に進んでいた。だが彼には卒業後も深く関わりを持った生徒がいない。挨拶回りを済ませ、飲み物を注ぐためにドリンクバーへ向かうと……、春海はそれを目にした。
 神坂ひかりだ。
 水色のワンピースを身にまとい、あの頃とまったく変わらない黒髪をひとつに結んだ、ひかりだ。
 声をかけようか迷っているうちに、目が合った。
 顔が熱くなる。開いた口は空を食むばかりで、第一声を出せずにいると、彼女は吹き出し、手招きした。小走りでひかりのもとへ向かう春海。笑顔には喜びが滲んでいた。
「久しぶり、春海くん。変わらないね。」
「こ、こ、神坂さんは、その、大人っぽくなったね!」
 混乱した頭では、気の利いた言葉ひとつ出ない。それでもひかりは春海を見つめたまま言った。
「『ひかりちゃん』でいいよ。昔みたいに。」
 ひかりは、春海に「ひかりちゃん」と呼ばれていたことを覚えていた。
 当たり前かも知れないが、春海は内心舞い上がっただろう。同時に、小学生時代に落としたままだった淡い恋心を、ゆっくりと拾うことができた。
「飲み物取りに行かないの?」
 ひかりが空いたグラスに視線を移すので、春海は赤い顔を逸らし水を注いだ。
 パーティーも終わり、各々が帰路につこうとしたとき、
「春海くん、『マイン』やってる? 友達登録しようよ。」
 ひかりがスマートフォンを出した。チャットアプリの連絡先を交換し、ふたりは別れた。「友達一覧」に並んだ「ひかり」の名、アイコンを、彼は眺め続けた。

(つづく)



渡邊璃生愛の言い換え』詳細はこちら(KAODOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321904000345/


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