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試し読み

「桜宮サーガ」最新作! 4年ぶりの医療ミステリ『氷獄』 試し読み③「双生」


人気キャラ続々登場のシリーズ最新作。メディカル・エンタテインメント!

7/31(水)発売の海堂尊さん・著『氷獄』より試し読みを特別公開中!
第3回では「双生」の試し読みをお届けします。

 双生  1994年 春

   1
「こう見えてもわたくしは戦前は女子師範学校を出たエリートだったんですの。小学校の教育にいそしんで半世紀。わたくしの指導の下で巣立っていった教え子は高度経済成長を支え、今の日本の繁栄に貢献したんです。そんなわたくしに向かって、こんな小学生みたいな計算をしろだなんて、本当に失礼ですこと。ねえ、あなたもそう思いますでしょ?」
 質素な服を着た女性は、肘掛け椅子に座り、目の前の白衣姿の男性にひとしきり苦情を申し立てた後で、振り向いて夫に同意を求める。女性の側に佇んだ小柄でごま塩頭、無口で実直そうな男性は、かすかにうなずいた。田口はカルテに筆を走らせながら繰り返す。
「お気持ちはわかりますけれど、この計算さえしていただければ今日の診察は終わりですので、ご協力いただきたいのですが」
 壁の掛け時計をちらりと見る。十一時四十五分。目の前の患者、片平かたひら清美きよみが診察室に入ってから二十分が経過している。机上には分厚いカルテが山積みになっている。
「この計算をすれば診察は終わりですって? 大学病院というところは三時間待って三分診療というのは本当だったのですね。こんな社会を作るためにわたくしは教育に一途にいそしんできたのかと思うとほんと、口惜しくて口惜しくて。ねえ、あなたもそう思いますでしょ?」
 夫は先ほどより少しだけ、首を前傾させたように見えた。無表情だが、よく見ると左手が小さく震えている。怒りを抑えているのだろうか。だとしたら妻に対する侮辱を許せないわけだから、仲のいい夫婦なのかもしれない、と田口は思う。
 田口はため息をつき、どうやって診察を進めたらいいのか途方に暮れた。
 その時、背後から威勢のいい声がした。
「あんたねえ、ぐだぐだ言っている間にとっとと計算すればいいのよ。三時間待って三分診療になるのは、あんたみたいな患者が外来の効率を下げているからよ。いいから早く百から七を引く計算をしなさい。さっきから最初の一回をやっては文句ばっか繰り返しているんだから」
 そうして田口の右手に置かれたカルテの山をばん、と叩く。
「こんなに次の患者さんが待っているんだからね」
 田口は右斜め上を振り返り、たしなめようと口を開く。その時、左斜め上から声がした。
「すみれ、ここは碧翠院へきすいいんではないのよ。あなたの思う通りには行かないわ」
「でたよ、優等生的発言」
 啖呵たんかを切った女性は、小さく舌打ちをした。主治医と思っていた正面の男性医師の肩越しに激しいやりとりが始まったのを見て、患者の老女は目を丸くする。そして田口に言う。
「さっきから気になっていたんですけど、後ろにいるおふたりの女性はどういう方なんですか。白衣を着ていらっしゃるけど、医学生さんなんでしょうか」
 田口はあわてて言う。
「いえ、後ろのお二人は立派なお医者さんです。桜宮さくらのみや病院にお勤めですが、わけあって東城とうじょう大で半年ほど研修をすることになっておりまして」
 田口の右側の女性が、左側の女性に言う。
「やったね、小百合さゆり。医学生だって。あたしたちもまだいけるわね」
 患者の片平清美は疑わしそうに言う。
「お医者さん? 日本の医療もなんだかですねえ。でもよかった。医学生なんかのモルモットにされるのはまっぴら御免ですからね」
 田口はそれには答えずに、言う。
「というわけでちゃんとしたお医者さんですので、片平さんの担当をお二人のうち、どちらかにしたいと思います。もちろん私も一緒に診ますが。どちらの先生をご希望されますか」
 清美は左右の女医を見比べていたが、右を指差す。
「もの静かな、そちらの女医さんを希望しますわ」
「ち、これで五連敗か」とすみれが吐き捨てると、小百合が微笑し、すみれを見ずに言う。
「当然よ」
 時刻は十二時過ぎ。今日も昼飯抜きか。双子の女医を引き受けてから、ただでさえ長引く田口の診療は二倍時間がかかるようになり、看護課からもクレームが出始めていた。
「おばあちゃん、小百合を担当にするのはいいけど、一応あたしもあんたの診察には同席させてもらうから、よろしく」
 すみれの言葉には答えず、清美は田口に言う。
「まさかこれで診察は終わりではないでしょうね」
「まあ、お聞きしたいことは聞きましたのでね」
「じゃあ、お薬か何かを出していただけるのでしょうか」
「夜眠れない、ということでしたね。弱い眠り薬を出しておきましょう」
 清美はほっとしたような表情をして立ち上がり、深々と頭を下げる。
「ありがとうございます。今後もよろしくお願いします」
 そして出て行こうとすると、夫はのろのろと向きを変える。
「ほら、ぐずぐずしないで。次の患者さんがお待ちになっているんだから、これ以上お邪魔をしたら顰蹙ひんしゅくを買っちゃうわよ」
 夫はうなずいて、ゆっくり歩き出す。するとすみれが言う。
「おじいちゃんも二週間後に必ず一緒に来てね」
 ごま塩頭の小柄な男性は無表情にすみれを見たが、返事もなかった。
 清美が言う。
「もちろん一緒ですわ。この人、わたくしがいないと何にもできないんですから」
 それは逆ではないか、と田口は思ったが、あえて口にはしなかった。
「では、二週間後に、お越しください。片平さんの新しい担当医は桜宮さくらみや小百合先生です」

>>第4回は「星宿」の冒頭を公開します。

ご購入はこちら▷海堂尊『氷獄』| KADOKAWA
※掲載しているすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。

◎関連書籍には、電子書籍『医学のたまご』もあります。


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