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試し読み

「桜宮サーガ」最新作! 4年ぶりの医療ミステリ『氷獄』 試し読み④「星宿」

人気キャラ続々登場のシリーズ最新作。メディカル・エンタテインメント!

7/31(水)発売の海堂尊さん・著『氷獄』より試し読みを特別公開中!
第4回では「星宿」の試し読みをお届けします。

 星宿  2007年 冬 

   1

 東城大学医学部付属病院の別棟、オレンジ新棟のホールに、小ぶりのもみの木を運び込みながら「この木を飾るのも、今年が最後かもしれないわね」と誰かが口にしたのに対し、負けん気が強い如月きさらぎ翔子しょうこが何も言い返せなかったのは、彼女自身が来年のクリスマス・パーティの開催を危ぶんでいたせいでもある。だがこうしてもみの木を出してしまえば、そこに七夕の時みたいに病児たちの願いごとを書いた短冊がぶらさげられ、華やかなデコレーションになる。
 病児の短冊は用意されていて、あとは飾り付けるだけだ。ナースステーションではこの短冊を見て、できるだけ願いを叶えてあげようという願い事委員会が立ち上がっていた。
 短冊係の新人看護師が言った。
「如月主任、ちょっと見てくださいよ、りょう君の願いごと」
 手に取った如月翔子は肩をすくめた。そこには「南十字星を見たい」と書かれていた。
「うーん、困ったわねえ。星座図鑑とかで見せてあげるのは簡単だけど、そんなことはとっくに自分でやっているでしょうからねえ」
 短冊を書いた、村本むらもと亮は天文マニアの中学生で小児病棟の入院患児の中で一番年長だ。
 彼の病気は髄膜腫ずいまくしゅで、発見されたのは一年前だ。
 人体は毎日、失われた細胞が補充され、再構築されている。失われた分だけ補充するように増殖がコントロールされている。こうした恒常状態をホメオスタシスと呼ぶ。
 病気とは正常状態からの逸脱であり、表現を変えればホメオスタシスの破綻だとも言える。
 亮が罹っている髄膜腫は脳腫瘍の一種だ。
 腫瘍とは本来なら補充が完了した時に停止すべき細胞増殖が暴走した状態だ。腫瘍は良性と悪性がある。良性腫瘍は正常組織との境界が明瞭で増殖も緩徐で限局的、いわゆる「おでき」の類だ。悪性は増殖が速い上、侵襲性が強い。一般に「がん」と呼ばれるものだ。
 悪性腫瘍であるがんは異常増殖が局所に留まらず身体中に飛び散る。これを転移と呼ぶ。
 そして転移先でまた勝手に増殖を始める。
 がんは腫瘍細胞を除去できれば完治する。できなければ不幸な転帰を取る。腫瘍細胞の除去には物理的除去である手術と、腫瘍細胞を攻撃し無力化する放射線治療や抗がん剤治療がある。がん治療の厄介な点は正常細胞にもダメージを与えるということだ。抗がん剤や放射線治療は、がん細胞の増殖速度が正常細胞よりも速いという相違点を標的にしている。だから増殖速度が速い正常細胞にもダメージを与えることになってしまう。そうしたダメージを受ける正常細胞の代表が腸の粘膜細胞、白血球、そして毛根細胞だ。それらの細胞は毎日、大量に作られている。なので放射線治療や抗がん剤治療をすると、白血球が減少し感染しやすくなり、毛髪が抜け、下痢をするという副作用が出現する。
 脳を覆う髄膜細胞の異常増殖の髄膜腫には外部に転移する悪性例もあるが、概ね「おでき」のように境界明瞭で成長速度も遅く局所に留まることが多い。その意味で亮の腫瘍も良性に近い。だが脳腫瘍の特殊性から悪性だとも言えた。脳という器官は機能が高度に分化し他の部分の代替が利かないため、ある部分が圧迫されれば身体の機能不全に直結する。また大脳は頭蓋骨内にあり容量が限定され、細胞が異常増殖すれば正常部が圧迫され、機能不全につながる。
 髄膜腫の治療は手術で摘出できればほぼ終わりだ。だが亮は半年以上、手術を拒否していた。
 簡単な手術とはいえ頭部にメスをいれるのだから、怖くなるのも当然だろう。
 状況は悪化していた。腫瘍が徐々に増大し始め、脳を圧迫し神経学的症状が出ていた。
 吐き気や頭痛に襲われ、減圧治療という対症療法のため入院したが、根本原因を除去しなければ問題の解決にならない。
 小児病棟のスタッフは亮が手術を受ける気持ちになるにはどうすればいいか、日々頭を悩ませていた。クリスマスの願い事を叶えてあげれば説得できるかも、という淡い一縷いちるの望みは、短冊に書かれた言葉に粉砕された。
「今年はツイてないわね。恒例のクリスマス・コンサートの開催もダメになりそうだし」
「ほんと、小夜さよがいてくれればねえ」という先輩の森野もりの弥生やよいのぼやきに、翔子が言う。
「小夜はいないけど、いざとなったらあたしがソロパートを引き受けます」
「気持ちはありがたいけど遠慮しておくわ。だってあなた、音痴でしょ」
「失礼ですね。そりゃあ小夜には敵いませんけど。彼女はオレンジの、いえ、東城大の歌姫だったんですもの。でもこういうのは気は心なんです」
「歌姫のいないオレンジ聖歌隊はお客さまの前に立てないわ。BGMくらいならお聞かせできるけど。たった一年でここがこんなに変わってしまうなんて思わなかったわ」
 ため息をつく森野弥生に翔子も同意する。オレンジ新棟は本部棟から離れた場所に建てられた独立病棟で雑木林の中にある。一階は救急病棟、二階が小児病棟で、新館とは二階の空中回廊でつながっている。そのオレンジ新棟は機能不全に陥っていた。歌姫はいなくなり、一階の救急病棟に君臨していた将軍ジェネラル花房はなぶさ師長を連れて去っていった。なので今の病棟は猫田ねこた師長が一階と二階の師長を兼任し、オレンジ新棟総師長という名称で呼ばれていた。翔子は救急部ユニットの主任に昇格したのに、なぜか二階小児病棟の看護師長もどきの仕事をさせられていた。猫田師長のいい加減さゆえなのに、その猫田に面と向かって「二階の裏番長」などと言われるのは心外だ。一階の師長代理は権堂ごんどう主任で、何かあると翔子は一階も手伝わされた。というよりそれが本来の彼女の業務だったのだが。救急部ユニット部長代理の佐藤さとうはダジャレを言う悪癖があるが、最近はそんな余裕もなく業務に追われていた。猫田との話は入院患者に関する懸案事項や看護方針の確認など、主要な業務に関するものばかりで、クリスマス・パーティや子どもたちの願い事について相談する時間などなかった。そんな風にオレンジ新棟の上下階を統治していて多忙なはずなのに、猫田は一階のICU部長室でうつらうつらしていることが多い。シエスタは猫田の特権だが、最近拍車が掛かった感じがする。将軍がいた頃は常にICUベッドの患者が映し出されていた部屋のモニタには、今は何も映っていない。
 部長代理の佐藤はベッドサイドを歩き回り、ナースステーションの片隅の仮眠所で眠った。なのでこの部屋は完全に猫田の仮眠室と化していた。

>>第5回では「黎明」を公開します。

ご購入はこちら▷海堂尊『氷獄』| KADOKAWA
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◎関連書籍には、電子書籍『医学のたまご』もあります。


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