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試し読み

「桜宮サーガ」最新作! 4年ぶりの医療ミステリ『氷獄』 試し読み⑤「黎明」

人気キャラ続々登場のシリーズ最新作。メディカル・エンタテインメント!

7/31(水)発売の海堂尊さん・著『氷獄』より試し読みを特別公開中!
第5回では「黎明」の試し読みをお届けします。

 黎明  2012年 春

   1

 坂道をゆっくりと登る。
 年を取ると、昔はできたことが、ひとつ、またひとつ、手のひらから砂がこぼれ落ちるようにできなくなる。それは人生という砂時計の残り時間のようでもあった。
 この坂を登る時、悔恨に囚われる。そして呪文のように同じことを胸の内で繰り返す。
 あの時、ひと言、医者に行っておけ、と言っていたら。
 もちろん、あの時期にそんなことをしたら、会社は潰れていただろう。千草ちぐさの頑張りのおかげで当座をしのげたのだから。
 だがすべては空しい。結局、会社は一年延命したが畳まざるをえなかった。取引先に迷惑を掛けずに店仕舞いできたのはよかったが、果たして四十年近く連れ添った妻のいのちと引き替えにしてまですることだったのだろうか。
 正直に言えば、取引先に迷惑を掛けても千草が助かった方がよかった。
 世の中で起こることにはプラスとマイナスがあって、それは最後にゼロになって釣り合う。
 章雄あきおはそう信じて生きてきた。
 その場では損に思えるようなことも引き受けてきたのは、そんな想いがあったからだ。
 なのに人生が峠を越え、下り坂になり始めた、そんな時にこんな目に遭うなんて。
 章雄は坂の上にそびえ立つ白い巨塔を見て吐息をついた。あの塔の天辺てんぺんで、千草は待っている。
 両手で抱えた荷物は重いが、それを持つ手に力が湧いてくるのを感じる。
 そうだ、これは戦いなのだ。

 一週間前。
 千草が膵臓すいぞう癌だとわかった。
 検査を担当した内科医は、シャウカステンに並べたCTやMRIの写真を指差しながら、千草の病状について説明した。最後に申し訳なさそうな口調で言う。
「ステージⅣというのは、全身のあちこちに癌が転移した状態です。先ほど手術についてのご質問がありましたが、今の状況では手術をしたら逆に寿命を縮めるだけですので、お勧めできません。残念ながら手の施しようのない状態です。後は奥さまの一日一日を大切にするように過ごされることを提案します。今なら当院のホスピス棟をご紹介することはできますが」
 そんな宣告をいきなりされ、章雄の頭の中は真っ白になった。だが意外にも千草は動揺もせず内科医の提案を受け入れた。それは章雄にはせめてもの救いに思えた。 
 担当の内科医はほっとした表情で、紙を手渡しホスピス外来の場所を教えてくれたのだった。

「何だか、妙な場所にあるのね」
 千草がぽつりと言う。内科外来で渡された案内図通りに歩いていた章雄は、千草の言葉に同意する。同じ一階なのに内科外来から中央ホールまで引き返して二階に上り、内科外来の真上を通ってつきあたりの非常階段を下りるという遠回り。章雄は呆れ声で言う。
「設計ミスやな。大学病院みたいな立派な施設でこんなことが起こるなんて信じられへん」
「これが仕事相手だったら、あなたは食ってかかったわね」
 千草は微笑し、章雄は苦笑した。小所帯ながら独立したリフォーム会社をやってきて身につけた習性はなかなか抜けない。だがこの遠回りは悪い感じはしなかった。
 今は多少急いだところで何も変わりはしない。むしろムダに思える遠回りがしっくり馴染む感じがした。
 外付けの階段を下りて、一階の隅にある部屋の扉にたどり着く。引き戸を開けるとまた扉が現れたので、ノックをして部屋に入った。暖かい空気が章雄の身体を包んだ。
 千草が、くん、と鼻を鳴らした。
「あら、いい香り。珈琲コーヒーの香りに、さくらの花の香りが混じっているわ」
 そう言われて章雄は、部屋に漂うふたつの香りに気がついた。無骨な章雄に、千草はいつもこんな風にして、身の回りの季節の香りを教えてくれた。
 秋はきんもくせいの香り。初夏はくちなしの香り。そして春はさくらの香り。
 千草に教えてもらわなければ知らなかった香りばかりだ。だが、もうすぐそんな風に教えてもらうことはできなくなってしまう。そう思うと胸が潰れそうになる。
 小さな机に椅子が四つ、二脚ずつ向かい合わせに置いてある。街の隅に置き忘れられた小さな喫茶店みたいだ。そんな印象を抱いたのは、壁紙が暖色系のセンスのいいものだったり、カーテンの柄が落ち着いた花模様だったりと、病院らしからぬ内装のせいかもしれない。
 部屋の雰囲気は、千草が選ぶ内装にどことなく似ていた。
 白衣姿の中年の医師が椅子を勧めながら、「珈琲はいかがですか」と訊ねた。
 喫茶店じゃないんだから、と言いかけた章雄の隣で千草が「うれしいわ。お願いします」と言ったのには少し驚いた。こういう時は千草はたいてい章雄の答えを待ってから、「主人と同じでお願いします」と答えることが常だったからだ。
 千草の選択は正しかった。
 珈琲をひと口含むと、残酷な告知に動揺していた章雄の気持ちも少し落ち着いた。すると目の前の担当医が、白衣姿なのになぜか喫茶店のマスターみたいに見えてきた。
 マスター、ではなく外来担当医は田口と名乗った。
「一応、私が主治医になりますが、実は私は不定愁訴外来という部署の責任者で、患者さんの悩みに耳を傾けるのが主な仕事です。一年前、ホスピス棟を立ちあげた当初は、主治医は患者さんそれぞれの紹介医でした。でもそれだと入所の際に一貫した対応が取れなくなってしまうので、入所時の受け入れの外来だけでもやってもらえないかと無理やり押しつけられたんです。そういうわけで、実は私はホスピス業務に就いてほんの三ヵ月の新米なんです」

(このつづきは製品版でお楽しみください)

ご購入はこちら▷海堂尊『氷獄』| KADOKAWA
※掲載しているすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。

◎関連書籍には、電子書籍『医学のたまご』もあります。


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