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試し読み

声だけ素敵なラジオパーソナリティが世界を変える!?『透明カメレオン』試し読み

ラジオパーソナリティの桐畑恭太郎は素敵な声だが、冴えない容姿の持ち主。
バー「if」に集まる仲間たちの話を面白おかしくつくり変え、 リスナーに届けていた。

彼がパーソナリティを務めるラジオの番組名は「1UPライフ」。
その番組には、一体どんな想いが込められているのか?
そして、彼の“日常”を搔き乱すことになる、ある出来事とは――?

作者・道尾秀介さんのラジオパーソナリティ・デビューを記念して、作品の冒頭を特別公開します!

▶【News直木賞作家・道尾秀介、衝撃のアーティスト・デビュー!

 ◆ ◆ ◆

(一)

「浅草ビューホテルのあたりまで」
 傘を閉じて深夜タクシーに乗り込むと、
「あ、ビューホテル。了解しました」
 ドライバーは短く間を置いてから返事をした。
 返事が遅れた理由はわかりきっているし、つぎの動きも予測できる。まずシートに深く座り直すふりをして、さり気なくルームミラーを覗き込み、僕の顔を見ようとする。こっちもさり気なく首を縮めて視線をよけようとするのだけど追いかけてくる。やがてドライバーの両目は不思議なものでも見たようにピタッと止まり、つぎの瞬間、うっかり笑ってしまいそうになったのを悟られないよう咳払いをする。ほらする。
「うっふん、ほん……」
 誤魔化さないでいいですよ、みなさんそうですから。
 そう声をかけるかわりに僕は窓外の雨を睨みつける。こんなに降っていなければ歩いて行くのに。いや、いつもなら、たとえ雨でも歩くのだけど、今夜はどうも背中から首筋にかけて若干の悪寒があったので、大事をとってタクシーを停めたのだ。咽喉をやられては仕事ができない。
「七三〇円です」
 用意していた小銭を渡して車を出ると、正面から雨粒が顔にぶつかった。三月中旬というのはこんなに寒かったろうか。傘を広げながら、びしょびしょに濡れた歩道を歩く。寒くて、身体の芯のあたりで神経が宙ぶらりんになったようで、ああいけない、これは風邪に特有の寒気だ。アルコールの前に栄養ドリンクを飲んでおこう。
 傘立てにビニール傘を突っ込んでコンビニエンスストアに入った。すぐそこに並んでいる栄養ドリンクの棚から、奮発して一番高そうなやつを選んだが、値段を見たら千五百円近くしたので隣のやつと取り替えた。レジに店員がいない。そっと横歩きして覗いてみると、商品棚の向こうで若い女の子の店員がおにぎりを並べている。昔はこんな深夜に女性店員が働いていることなんてなかった。労働基準法を改定した政治家は、僕のように静かな場所で女性店員と二人きりになることを恐れる男のことを考えていなかったに違いない。おにぎり並べに夢中で、彼女は僕が入ってきたことに気づいてもいないようだ。声をかけず、こっちを見てくれるまで待とうか。しかしこの栄養ドリンクを早いとこ飲んで身体の芯をあたためたい。そしてあの店のカウンターに腰を落ち着け、芋焼酎でカッとなりたい。そういえば芋焼酎のお湯割りにマーマレードを入れると美味いと、先週の放送で読んだメールに書いてあったけれど、今夜やってみようか。しかしまずはこの栄養ドリンクだ。僕はレジの前に戻り、
「すみません」
 店員を呼んだ。
 棚の向こうで「はい」と女の子の声がし、足音がぱたぱた近づいてきた。
「お待たせしました」
 と言いながら僕を見る。微笑みの似合う、可愛らしい娘だった。しかしながらその微笑みは、彼女がレジの向こうへ回り込んだときにはもう跡形もなく消えていた。ピッと栄養ドリンクのバーコードを読み取り、「シールでいいですか」と訊ね、返事も待たずにオレンジ色のシールを貼りつけ、千円札を受け取ってお釣りをよこすその態度は、まるで僕が何かひどいセクシャルハラスメントでもしたみたいに邪険だった。ものすごく素敵な声の持ち主が、とても美男子とはいえない顔をしていて、生っ白い肌の中肉中背で、分厚い眼鏡をかけていて、髪の毛がもさもさで、着ているものも垢抜けないからといって、いったい彼女にどんな迷惑がかかるというのか。僕が何をしたというのか。いいや何もしていない。
「ありがとうございました」
 ました、の部分だけ声が遠いのは、言い切る前にそっぽを向いたからに違いない。僕ほどの経験者になると、背中越しでもわかる。彼女は一刻も早く棚の向こうへ戻っておにぎりを並べ終え、つぎの客が来る前に高校時代からの女友達にメールして、「いまきた客が超ウケるんだけど」といった報告をしたいのだ。勝手に報告すればいい。こっちは少しも気にしない。
 店の外で栄養ドリンクのキャップをひねり、ごくりとやりながら彼女を見た。いや見えなかった。そっと横移動すると、おにぎりを並べる彼女の目が鋭く吊り上がり、顎が突き出して、全体的に魔女のような顔に見えた。邪悪な心は容姿に出る。もう一度店に入って、何か喋って、もっとひどい顔にしてやろうか。
 今夜のところは見逃しておこう。
 店を離れて路地を回り込み、「トヨシマ第二ビルヂング」と書かれた細長いテナントビルのエレベーターに乗り込んだ。湿り気がむんむん充満し、すえたにおいがたちこめて、僕の部屋みたいなので落ち着く。「4」のボタンを押すが、音と振動ばかり派手なぽんこつエレベーターはなかなか到着してくれない。ダラダラ動いていく階数ランプを見上げながら僕は母のことを考えた。二時間ほど前に日付が変わり、今日はホワイトデー。一ヶ月前、母は僕にリボンのついたチョコレートをくれた。でも妹はくれなかったので、僕の鞄に入っているクッキーの箱は、一つだけだ。
 四階で扉がひらく。仮設トイレのような狭さのエレベーターホールがあり、正面に「if」のドアがある。そのドアを手前に引いた瞬間──。
「はうっ!」
 顔面をいきなり硬いものでぶっ叩かれ、その場にしゃがみ込んだ。
「ほら百花ちゃん、やっぱり危ないわよ。ドア引いたら、ちょうど跳ね上がって顔にぶつかるじゃないの」
「さっき試したときは大丈夫だったのになあ」
「さっきはあんた、ぶつからないようにゆっくり引いてたじゃないのドア」
「そりゃママ、顔にぶつかったら痛いもの」
 アハハハハハハハハハと二人は同時に笑い出し、やがて笑いが落ち着いてくると、驚いたことにそのまま何か別の話をしはじめそうになったので、僕は急いで立ち上がった。
「何だよこれ」
 ドアの上端についたカウベルの、金属製の舌に凧糸が結ばれて、その先にカチカチの魚がぶら下がっている。本物ではない。
「ルアーじゃんか」
「あらキョウちゃん知ってんの?」
 カウンターで長い脚を組んで座っていた百花さんが、とろんとした目で振り返る。
「ルアーくらい知ってるよ。これで魚を誘って釣り上げるんだ」
 釣りに行ったこともないくせに、僕はクイッと竿を引く動きをしてみせた。
「あたし知らなくってさあ、旅先のニュージーランドで見かけて、あら可愛い魚のオブジェ、なんていって買ってきたのよ、ママにあげようと思って。そんでさっき見せたら、あら百花ちゃん馬鹿ね、これ釣りの道具よなんて言われて。どうりで釣り針とか釣り竿とかといっしょに売ってたはずだわ、失礼しちゃう」
「何でこんなとこにつけたんだよ」
「なんかお洒落だと思ったから、ママに焼き豚用の凧糸もらってぶら下げて……あれぇ雨?」
 僕のビニール傘を見て小首をかしげる。相当飲んでいるのか、細い首が怖いくらいの角度まで折れている。
「けっこう前から降ってるよ。百花さん、何時からいるの?」
「開店からずっと」
 と答えたのは輝美ママだ。短めの髪を、いつもいろいろとアレンジしてくるのだけど、今夜は思い切って前髪を威嚇的に突き出させ、いわゆるリーゼントのようになっていた。
「だからキョウちゃんの放送もここで全部聴いてたわ、二人で。ね、百花ちゃん」
「ね、ママ」
「あの話が面白かったなあ。なんだっけあの、生き物農薬?」
 生物農薬だと僕は訂正した。今夜知ったばかりの単語だったが。
「ハウス栽培でダニなんかを退治するのに、そのダニの天敵のダニを撒くんだ」
「そうそれ。そのダニを車の中にぶちまけた話。すごいことする娘がいるわよねえ」
 あれはメールで送られてきたリスナーの体験談だった。「放浪者イムゲ・ミジャキン」というラジオネームの、国籍不明のその女性は、父親がリストラで職を失ったらしい。会社を逆恨みした父親は社長に復讐すべく日夜自暴自棄な様子で作戦を練っていて、彼女はどうしてもそれを阻止したい。何を言っても聞かないので、余儀なく父親の車にポリ瓶一杯のダニを撒き、全身をかぶれさせて寝込ませたらしい。まったくもって事実は小説より奇なりで、世の中には本当にいろんな人がいる。僕の番組を支えてくれているのは、そうした体験をメールやハガキで局に送ってくれるリスナーたちだ。
「キョウちゃん座んなさいよ」
「うん、でもその前にこのルアーは外しといたほうが……あれ、針ついてるじゃんか」
「そう、買うときそれが不思議だったのよ」
 百花さんが本当に不思議そうに言う。
「だって魚に針がついてるって変でしょ、魚を針で釣るんならわかるけど。なんか危ないから、先っぽはちゃんと切っといたのよ。ねえ上手に切れてるでしょ?」
「上手だね」
 僕はカウベルから凧糸を外してルアーごとカウンターに置き、百花さんの隣に腰掛けた。
「ん、イワシ焼いた?」
「そう、百花ちゃんのルアー見てたら食べたくなっちゃって、さっき二人で。やだ、におう? 換気扇回して、厨房の窓も開けてあるんだけど」
 イワシの一夜干しはifの名物メニューで、海辺で漁業を営んでいる輝美ママの親戚が送ってくる。一匹くらい食べ残しがないかと思い、僕は百花さんの前を見た。しかしカウンターテーブルに置かれた白い皿にはイワシではなく千切ったレタスが載っている。レタスだけだ。
「何それ」
「やだキョウちゃんレタス知らないの?」
 百花さんは箸で皿のレタスをがばっと摑んで、口に押し込んだ。「うぃたうぃんいー」と言ってからレタスを飲み下して言い直す。
「ビタミンEを大量摂取しようと思って。ママ、おかわり」
「そろそろ味変える?」
「いい。ママのドレッシング飽きないから」
 ビタミンEにはいったいどんな効果があるのかと訊いてみると、妊娠効果だと言う。
「ビタミンEってね、繁殖機能の研究してるときに発見されたのよ。ネズミにレタスをたくさん食べさせてたら妊娠率が上がって、調べてみたらレタスの中から新種のビタミンが見つかったの。それがビタミンE」
 百花さんはこういった知識を豊富に持っている。「こういった」というのは性にまつわることだ。「キス」の語源はヨーロッパの一部でかつて使われていたゴート語の「キュストゥス」で、「味わう」という意味であること。キスマークが取れないときはレモンの輪切りを貼っておくと消えること。右利きの男性は左脳が発達するので、右の睾丸を引っ張り上げる筋肉が左よりもよく収縮し、お袋さんが右上がりになること。そして垂れたお袋さんの左側が竿を下へ引っ張るので、右利きの男性は左下に向かって竿を構えている場合が多いことなど、会うたび彼女はいろいろと教えてくれる。僕の生活は現状キスともキスマークとも無縁だし、何がどちらに引っ張られていてもあまり関係ないのだけど、いつか実生活で性の知識が必要になったときは百花さんに相談しようと決めていた。が、いまのところ僕の人生にそういった必要が生じることはなく、満三十四歳の哀れなチェリーボーイなのだった。
「で?」
「妊娠したいから食べてんの」
「誰の子を?」
「お客さん。妻子持ちの四十四歳」
 口の周りのドレッシングを指先で拭いながら言う。
「奥さんと別れる別れるって言ってんだけどさあ、なんか本気じゃない感じなんだよね。でも子供ができれば本気になるんじゃないかって、こうやってビタミンEをたくさんとってんの。で、今度するとき騙し討ちにしようかと思って。あたし今日平気な日だから、とか言って」
 あたし今日平気な日だから、の部分をものすごくいやらしい感じで囁くと、百花さんは新しく盛られたレタスに取りかかった。
「でも百花ちゃん、妊娠なんてしたら仕事辞めなきゃならないでしょ?」
 ママがカウンターに両肘をついて顔を覗き込む。
「あんたせっかくあのお店でナンバーワンなのに」
「いいの。あたしオキタさんの奥さんになるんだから」
「奥さんと別れないって言われたらどうすんのよ」
「そしたら一人で育てるわよ。お金あるから、なんとかなるわ。ママだってお腹に赤ちゃんできたとき、相手の男の人もう逃げてたじゃない」
「んふふ、まあねえ、二十何年も前のことだけど」
 曖昧に頷き返し、ママはカウンターのフォトスタンドに目を落とす。そこに入れられているのは彼女の娘の写真だ。ママが酔っ払ってしまったり、酔っ払っていなくても注文に応じるのを面倒くさがると、僕たちは勝手にカウンターの向こうに回り込んでお酒をつくるのだが、そのとき写真が目に入る。可愛らしく微笑んだその横顔は、驚くほどママ似だ。
「しっかし、こんな葉っぱでほんとに妊娠するのかなあ。キョウちゃんどう思う?」
「知らないよ」
「妊娠効果あるって言ってみてよ」
「何で」
「いいから言ってみてよ。感情込めて」
 百花さんは箸を置き、両目を閉じてこちらに顔を向けた。彼女は遠目で見ると整った顔をしているが、こうして間近で見てみると、もっと整った顔をしている。さすがは有名店のナンバーワン・キャバクラ嬢。目や口や鼻が、単にものを見たり食べたりかいだりするためのパーツとはとても思えないほどよくできている。さらに、瘦せているにもかかわらず胸はとても大きく、何かが二つあるというよりも、横長のものが一つ服の下にぎゅっと押し込まれているように見えるのだった。
 仕方なく、僕は彼女の耳もとで囁いた。
「大丈夫……きっと妊娠するから」
 百花さんは身をくねらせて喜び、そのまま僕の顔を見ないようにカウンターへ向き直ってレタスをふたたび頰張りはじめた。
「キョウちゃんの声で言われると何でも信じちゃう」
 それはよかった。
「ママ、僕ね、芋焼酎のお湯割り。マーマレードある? 入れると美味しいらしいんだけど」
 イチゴジャムならあると言い、ママがカウンターの下の冷蔵庫を開けたとき──。
 ドン、と鈍い音がした。
 どこから聞こえたのだろう。
 僕たちは会話を止めて周囲を窺った。「エレベーターのほうかしら」とママがドアに目をやり、「下の階じゃない?」と百花さんが床を見たが、僕にはビルの外から聞こえてきたように思えた。何かとても重たいもの同士がぶつかり合ったような──あるいは何か大きなものが倒れたような──落ちたような。
 音はそれきり聞こえなかった。
 変ね、とママが軽く首をひねり、冷蔵庫からイチゴジャムを取り出す。蓋をひねろうとしたが開かない。手渡されたので僕もひねってみたが開かなかった。横から百花さんが瓶を奪って簡単に開けてしまった。
「色男でもないのに非力よね、キョウちゃん」
「うん。お金もないし」
 このときにはもうすでに、僕たちは音のことを忘れていた。まさかそれが、あんな大それた計画の開始を告げるものだったとは思いもしなかったのだ。
「結婚相談所の申込用紙に〝声〟って欄があればいいのにね。プロフィール書くとこに」
「興味ないよ、結婚なんて。だいたい女の人と喋るだけでも大変な僕が、付き合ったり、いろいろしたり、そんなのできるわけないじゃんか」
「ここだとペラペラ喋れるのにねー」
 箸を動かす右手とクロスさせ、百花さんは左手を差し伸べて僕の顎を撫でる。
 そう、それが自分でも不思議なのだ。この店にいるときだけは女性と普通に会話ができる。輝美ママは美人だし、百花さんなんて女優みたいな顔立ちをしているというのに、一度も気後れしたり恥ずかしさを感じたりしたことがない。
「だいたい、声がこんなだからこそ、姿を見たときガッカリするんじゃないか。みんなそうだよ」
 僕が溜息を洩らすと、
「そんなにひどくないわ、キョウちゃん」
 百花さんが顔を向け、大真面目に慰めてくれた。
「声が良すぎるだけだよ」
 それこそが、十代半ばからずっと僕を悩ませてきた事実なのだった。
 僕がラジオのパーソナリティになったきっかけは、アメリカの田舎で知らない白人に殴られて身ぐるみ剝がされたことだ。自分が本当にやりたい仕事は何なのかを探るため一人で世界の国々を旅していたところ、暴漢に遭った。相手が去ったあと、僕はなんとか自力で立ち上がり、必死に町まで歩いたのだが、そこで力尽き、灼けるような地面にバタリと倒れた。そのはずみでウェストポーチの中でラジオのスイッチが入った。暴漢が、無価値だと思って取らずにおいたラジオだった。早口の英語で、何を言っているのかはわからないが、それが人間の声だという事実に、僕は勇気づけられた。どこかのスタジオでいま誰かが話しているのだという、たったそれだけの事実が、僕に力をくれた。自分もラジオのパーソナリティになりたいと思った。いつか番組を持って、知っている人たちや知らない人たちに勇気や力をあげようと誓った。という設定になっているけれど本当はまったく違う。
 自分の声が世間並みでないことに気づいたのは、変声期を過ぎてしばらく経った中学二年生の春だ。新しく授業を担当することになった教師たちがみんな僕の顔を見るので、はじめ僕は、自分の容姿が急に変わったのかと思った。実際その頃は鼻の下にうぶ毛が生えはじめたり、のど仏がおくゆかしく迫り出してきたり、眉毛同士がつながりそうになってきた時期だったので、もしや自分の第二次性徴を教師たちが気にしているのではないかと心配した。しかし、どうやらそうではないらしい。みんなが目を向けるのが、自分が声を出したその瞬間であることに気がついたのだ。授業がはじまる前、まだ教師がテキストをぱらぱら捲ったり黒板に模造紙を張ったりしているとき、教室はたいがいざわついている。僕も近くの席の友達に、いつもごく他愛ない会話を持ちかけるのだが、すると教壇で教師がクルッと顔を向けるのだ。僕が口を利いたそのときに。そしてこちらを不思議そうな顔で見る。やがて僕がぼんやり見返していることに気づいて目をそらす。そんなことが、教室だけではなく、ハンバーガーショップや公園や通学路でも頻繁に起きた。こちらを見るのは店員や、乳幼児のママや、見知らぬ歩行者たちだった。
 声だろうかと、あるとき気がついた。
 気がついてから確信するまでは早かった。
 そして僕は、喋ることができなくなった。
 あれは何だろう、たとえば胸がとても大きな女の子が、それを嫌がって、なるべくゆったりした服を着るようなものかもしれない。僕は人前でぜんぜん喋らなくなった。喋るとしても、ごく小さな声で、ほとんど囁くように声を出した。友達が減った。いや、いなくなった。ちょうどそんなとき、大好きだった父が病気で他界した。僕はいわゆる引きこもりになり、学校へも行かず、自分の部屋からまったく出なくなった。日々スーパーマリオ・シリーズばかりプレイし、キノコを食べて大きくなり、敵をたくさん踏みつけて蹴飛ばした。無敵になれる星を取って雑魚どもを一掃し、ピーチ姫を何十人も救出した。その年の誕生日に母親がトランジスタ・ラジオを買ってくれた。一方的に喋ってくれるラジオは僕の大親友になり、それが心の支えとなって、僕はスーパーマリオ・シリーズに笑って手を振ると、ふたたび学校へ通いはじめた。低レベルの高校に進学した。中レベルの大学に入学した。たまたま大人数の採用があったおかげで、四年後の春に憧れのラジオ局へ入社した。ただし事務方としてだ。
 入社二年目、餅岡という変わった名字のディレクターが、お前ちょっと喋ってみろと言って、番組で使い終えたニュース原稿を投げてよこした。ちょうど二十世紀が終わる年で、「ミレニアム」という言葉が四度も出てくる原稿だった。一度もつっかえずに、僕はそれを読んだ。お前、その声だったらパーソナリティやれるぞと、笑いながら言われた。喋る才能さえあればなと、餅岡さんはもっと笑いながらつけ加えた。
 そして僕には才能があった。
 これには自分で驚いた。門前の小僧習わぬ経を読むというけれど、長年ラジオと大親友だったおかげなのだろうか。それとも八王子の外れに暮らす母方の祖父母が、かつて旅役者をやっていたことが何か関係しているのかもしれない。餅岡さんの取り計らいで、僕はいつのまにかスタジオブースの中にいた。インディーズのバンドを紹介する番組を手伝い、小説の名台詞を朗読して感想を喋り、やがて自分の番組を持つまでになった。かつて胸がコンプレックスだった女の子が、やがて胸を武器にタレント活動をしはじめるように、僕は声で仕事をするようになったのだ。
 ♪タッタラー、タッタラー、タタラタタラタタラ、ンジャ、ンクッ!
《桐畑恭太郎の「1UPライフ」。今夜もここ上野スタジオからお送りしてます》
 番組は月曜から土曜の夜二十二時から二十五時の放送で、ディレクターは餅岡さんだ。放送開始からもう丸七年になる。はじめはあまりリスナーはついてくれなかったけれど、いまではトラックドライバーや深夜食堂の店員さんや学生さんたちのあいだでけっこうな人気番組となり、悪くない聴取率をとれている。まったく人生何が起きるかわからない。
「ジャムってどのくらい入れんのよ?」
「どうなんだろ」
「レタスおかわり」
 魅力的な声といって想像するのは、音程の低い男性的なものかもしれないけれど、どちらかというと僕の声は平均よりもトーンが高く、少しハスキーがかっていて──などと言葉で説明するのはなかなか難しい。放送の録音を自分で聴いてみても、何がどうして人を惹きつけるのかよくわからない。波長が特殊なんじゃないかと、百花さんなどは言うけれど、そんなことが果たしてあるのだろうか。
「さぶさぶさぶさぶ」
 入り口のカウベルが鳴り、石之崎さんが入ってきた。
「ああ石やん、いらっしゃい」
「さっぶいねえママ、三月やいうのに。でもわしビール。お、百花ちゃんこんばんは。キョウちゃん隣ええ?」
「どうぞ。えらく濡れてますね」
「そやねん。風邪ひかんようにせんと」
 傘をさしてこなかったのだろうか、作業服の胸にまで染み込んだ雨水を、ハンカチでぽんぽん吸い取りながら、石之崎さんは肥ったお尻をスツールの上までずりあげた。そのあと右へ左へ揺すって位置を微調整しているのは、痔に響かないポジションを探しているのだ。出会ったときから石之崎さんは慢性的な痔で、「わし爆弾抱えとるから」とよく深刻な顔をしている。痔というのは、こじらせると本当にひどいことになるらしく、そうならないよう僕たちは石之崎さんになるべく運動したり野菜を食べたり、風呂に入るときは湯船にゆっくり浸かることをすすめていた。
「石やんさん、少し前に入ってこなくてよかったですよ」
 僕がルアーのことを愚痴ると、石之崎さんは身体全体で笑い、それだけで汗をかいた。ママが手渡したおしぼりで顔をごしごしやり、几帳面にたたみ直して自分の前にちょこんと置く。石之崎さんの手はごつごつしていて、一本一本が僕の倍くらい太く、関節のあいだに針金みたいな毛が生えている。顔に微笑みが馴染んでいて、口調ものんびりしていて、何か飲むときに寄り目になったりするからいいようなものの、そうでなければきっと相当な威圧感だろう。
「釣られへんかったのやから、まあええやないの。それよりキョウちゃん、わし、くさない?」
 自分の両袖を交互に嗅ぎはじめる。
「べつにくさくないですけど?」
「今日の現場、お薬たっぷり撒いてん。ゴキブリさんがぎょうさんわいとったもんやから。なあ、ほんまにくさない?」
「くさくないですよ」
「ちゃんと嗅いでえな」
 石之崎さんは害獣害虫駆除の小さな会社をやっている。都内のビル管理会社と契約し、オフィスの業務が終わる夜から深夜にかけて、ビル内のネズミやゴキブリを退治して廻るのだ。ネズミは粘着シートや毒エサ、ゴキブリは薬剤で駆除するらしい。社長と営業員と事務員と作業員を一人でやっていて、いつも現場作業のあとでここへ寄って始発を待つ。そして家に帰って十時か十一時くらいまで眠る。要するに僕と同じような生活サイクルだ。もっとも、同じ時間に同じ店にくる客は、たいがい似たようなサイクルで生活しているものだけれど。
「くさかったら申し訳ない思てな、そのへんぶらぶら歩いててん」
「だからそんなに濡れてるんですか」
「あ、これはちゃうんねんか。ビルの近く歩いとったら、ヤクザみたいな男にからまれてん」
 いやねえ、とママが細い眉を寄せる。
「でも石やんの風貌見た上でからんでくるって、ちょっと度胸あるわよね。それ本物かも」
「からまれたいうかな、えらいごっつい男が傘を放り出して近づいてきて、わしのこと睨んでくるねんか。こぉんな近くで」
 石之崎さんが急にぎょろっと目を剝いて顔を近づけたので、僕は歯を食いしばってのけぞった。
「ほんでわしびっくりして思わず傘持ったまま両手挙げてな、そしたら濡れてしまってん」
「ねえヤクザとかどうでもいいんだけどさ、石やん、さっき転ばなかった?」
 百花さんが首を危なっかしく傾けて顔を覗き込む。
「え、何で?」
「おっきな音が聞こえたのよ」
 しかし石之崎さんは音には気づかなかったらしく、ただ曖昧に首を傾けた。けっきょくそのまま話題は変わり、せっかく思い出した音のことを、僕たちはまた忘れた。世の中の大事なことの大半は、あとになってから大事だとわかるもので、それまではたいがいこうして右から左へ流されていく。
「レイカちゃん、今日は来ぉへんのんかな」
 ママの出したビールを、厚い手で摑んでぐいっとやり、石之崎さんがカウンターの左右を漫然と眺める。レイカさんというのも、ここifの常連で、百花さんに負けず劣らず綺麗な顔をした──。
 背後でカウベルが鳴ったので、みんなでそちらを見た。
「お、噂をすれば来よったか?」
 しかしそれはレイカさんではなく、誰も知らない女の子だった。
 その姿を一目見て、僕たちは一様にギョッとした。
 歳は十八、九だろうか。僕にはそう思えたし、あとで訊いてみたら、みんなそう見えたと言っていた。細身。小柄。黒髪。クリーム色のニットセーター。全身びしょ濡れで、口が半びらきになっている。濡れた前髪のあいだから覗く目は何も見ておらず、黒目が細かく揺れていて、両腕は二本の棒のように身体の左右に垂れ、歩くごとにミニスカートから出た膝頭が危なっかしくグラついて、右足のストッキングは伝線し──いや、あれは完全に破れている。何かに引っかけたのだろうか。
 こっちへ歩いて来る。一歩ずつギクシャクと、コマ送りのような動きで。
 彼女が店にいたのは、それからほんの一分間か二分間くらいのものだろう。出ていったあと、僕は何となく腕時計を覗いたのだけど、時刻はちょうど二時二十二分だった。もっとも僕の腕時計はデジタルではないので、そのときは「ちょうど」とは思わなかったし、二時二十二分という時刻が後に重要な意味を持ってくるわけでもないのだけど。
「いらっしゃい……あの」
 ママが両手を中途半端に持ち上げて言葉を切り、百花さんが「ビチョビチョじゃない」と酔いのさめた口調で言い、石之崎さんが「何ぞあったんかいな」と呟いた。
「コースター……」
 彼女が口をひらいた。
 力がなく、掠れていて、ほとんど吐息だった。
 顔を心持ち上へ向けた状態で、彼女はもう一度同じ言葉を発する。
「コースター……」
 ママは頰を硬くしたまま、手だけ動かしてカウンターの向こうからコースターを一枚取り、これでいいのかと確認するように、肩口で持ち上げてみせた。黒いフェルト製のシンプルなやつだ。
 彼女の虚ろな目が、それを見た。
 細い腕が伸び、濡れた指がコースターをつまむ。彼女はそのままぱちぱちと瞬きをする。自分で「コースター」と言ったくせに、まるで、これはいったい何なのだろうと不思議がっているようだった。彼女の右手はそのまま力を失ってだらんと垂れ、指先から水滴が滑り落ちてコースターに染み込んだ。
 彼女はくるっと背中を向けた。その背中ではニットセーターが大きく切り裂かれ、真っ赤な血が垂れて──というような想像を僕はしたのだけど、そんなことはなく、ただ雨に濡れているだけだった。歩いていく。入ってきたときと同じように、一歩、二歩、三歩……途中で右手からコースターが落ち、ぺたんと床にうつぶせた。そちらを見ようともせず、彼女はドアに手をかける。ゆっくりと引いたので、カウベルはほとんど鳴らず、閉まるときも鳴らなかった。
「あれ普通ちゃうで……」
 固まりきっていた空気が、石之崎さんの囁き声でまた動き出した。
「わし、ちょっと見てくるわ」
 スツールから尻をずり下ろし、石之崎さんはどすどす歩いてドアを出ていく。しかしすぐに戻ってきて、「おらへん」と眉根を寄せた。
「エレベーター乗ってもうたのやろな。下に向かっとったわ」
「やだわ、何なのかしらあの娘」
「コースターが欲しかったのやろか」
「でも落としてったじゃないの……え、なに百花ちゃん」
 百花さんがぼんやりと右手を挙げていたので、全員で注目した。
「あたし気づいちゃったんだけど」
 手を下ろし、綺麗に手入れされた親指の爪をピンク色の唇で挟み込みながら、彼女はつづけた。
「あの娘……殺した、って言ったんじゃないのかな」

  * * *

 翌日の「1UPライフ」より。
《ゆうべこの放送のあとにですね、お酒飲みに行ったんですよ。何度か番組でも話してる浅草のバーなんですけど、僕が店に入ろうとしたら、いきなり何かが顔に向かって飛んできたもんだから、咄嗟によけたんです。いったい何なんだって店の中を見たら、ものすごくゴツい男の人がカウンターの手前に立って、こっちを睨んでるんですね。僕の顔面に飛んできたものが何かはわからなかったんですけど、その男が投げたんだということはわかりました。店にはママと何人かのお客さんがいて、なんていうか、空気がものすごく張りつめていて、誰も声を出さないんです。ちらっと振り返ると、エレベーターホールにイワシが落ちてる。
 男は店に入ってきた僕に向かってイワシを投げつけたんですね、焼いたやつを。
 わけがわからないまま店の中に向き直ったら、男はカウンターの皿に載ってたイワシをもう一匹摑んで、また僕の顔に投げつけてきた。イワシがもったいないから、今度は思わずパッと捕ったんですね僕。そしたら男の顔色が変わって……何だろう……急に不安そうになった。で、ママが男に硬い声で言ったんです。
 ほら話したとおりでしょ、やられないうちに帰りなさい、って。
 そしたら男が悔しそうに頷いて、財布から一万円札を出してカウンターに置いて、釣りはいらないとか何とか言って、こっちへ歩いてきたんです。で、僕のすぐ横を通ってそのまま店を出ていったんですよ。
 つぎの瞬間、ママとお客さんたちが一斉に拍手したんです、僕に。
 そのあと話を聞いたんですけど、男は一人でやってきて飲みはじめて、そのうち酔っ払ってママとか他のお客さんに絡みはじめたらしいんですね。グラスをわざと落としたり、隣の男性客を軽く小突いたり。だから、ママが言ったらしいんです。もうすぐここに常連のお客さんが来るけど、その人はボクシングをやっていて、ものすごく強いから、やめといたほうがいいって。あんた、やられるよって。そんなやつ怖くも何ともねえなんて言って、男は余計に苛立って、その客っていうのが来るのを待っててやろうじゃねえかってことになったわけです。そこに僕が入ってきて、まあどちらかというと体格がいいもんだから、ああこいつだと思ったらしいんですね。で、先制攻撃でイワシを投げつけたんです。そのイワシを僕がよけたり受け止めたりしたもんだから、男は信じちゃったんですよ、相手がボクサーだって。僕がイワシを捕れたのはボクシングやってたからじゃなくて学生時代に野球をやってたからなんですけど、まあ何にしても役に立ててよかったです。人に拍手してもらったのなんて何年ぶりだったかなあ。嬉しかったな。しかしあれですね、もう何年も野球なんてやってないのに、反射神経って身体に残ってくれてるもんなんですね。
 ちょっと前の曲いきます、GReeeeNで「キセキ」》

(この続きは本書でお楽しみください)


書影

道尾秀介『透明カメレオン』(角川文庫)


道尾秀介透明カメレオン』の詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321708000235/

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甘夏とオリオン

著者 増山 実

2/17~ 2/23 紀伊國屋書店調べ

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