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試し読み

【新連載試し読み】楡周平『へルメースの審判』

9月12日発売の「小説 野性時代」2018年10月号では、楡周平にれしゅうへい『へルメースの審判』の新連載がスタート!
カドブンではこの試し読みを公開いたします。

不祥事を機に、創業家支配から脱した世界的電機メーカー・ニシハマは、新たな問題に直面していた――。
巨大企業の闇に迫る新連載、開幕!

 
「もう少し召し上がります? 飲み足りないんじゃなくて?」
 妻の百合枝ゆりえの問いかけに、
「そうだな、久々にグラッパでも飲むか」
 肥後泰輔ひごたいすけはこたえた。
 時刻は午後十時半になろうとしている。
 アルコールは毎日欠かさないが、八十歳にもなると五しゃく程度の日本酒を寝酒として飲むだけだ。今夜は鴨鍋を囲み、四人でシャンペンを一本、赤ワインを二本空けた。いささか過ぎた酒量だが、それには理由がある。
 孫娘の美咲みさきの縁談が決まり、婚約者の梶原賢太かじわらけんたと夕食を共にしたからだ。
 平成二年(一九九〇)も残すところ十日あまり。南麻布にある築半世紀近く経つ自宅は寝室だけでも四つある大きなもので、かつては住み込みの家政婦が二人いた時代もあったのだが、今では七十五歳になる百合枝との二人暮らしである。日中に掃除と家事を行う通いの家政婦が来るだけで、来客はほとんどない。静かな夜に慣れてはいるものの、鍋を囲みながら酒を飲み、歓談に花が咲いたひと時を過ごした後だけに、いつになく淋しさが募る。
 百合枝はサイドボードから小ぶりのグラスと、ワインセラーの中からグラッパの瓶を取り出すと、透明な液体を注ぎ入れ、泰輔の前に置いた。
目出度めでたい夜だ。お前もどうだ?」
 百合枝は、酔いのせいで赤らんだ目元を緩ませ、小さく首を振り、正面のソファーに腰を下ろす。
「私は十分いただきましたから……」
「そうか、じゃあ……」
 泰輔はグラスを目の高さに掲げると、グラッパを口に含んだ。
 度数の高いアルコールが熱を放ちながら喉を落ち、胃の中で一気に弾ける。
 胃がきゅっと締まる感覚が心地よい。
 泰輔は、ほっと息を吐いた。
「よかったわ……。満願成就まんがんじょうじゅ、あなたの思った通りになったわね」
 百合枝は心底安堵した様子で、しみじみという。
「美咲は初めての一人暮らしが海外だ。心細い思いをしているところに、アメリカ生活が長い賢太くんが何かと世話を焼いてくれれば、そりゃあ美咲も惹かれるさ」
 泰輔は会心の笑みを浮かべた。
「ハーバード大学経済学部卒、それもマグナ・クム・ラウデを受賞なさったんですもの。あなたもお世話した甲斐があったわね」
 マグナ・クム・ラウデは、ハーバードで極めて優秀な成績を収めた学生に贈られる賞のことで、賢太の年次では千七百人の卒業生中五十名、経済学部では僅か二名のみの受賞であったという。
「中学生の頃からずば抜けて優秀だったのは、ニューヨーク駐在員の間で有名だったそうだからね。将来が断たれてしまうのはあまりにも惜しい。梶原くんは忠実にして優秀な部下だった。なんとかしてやりたいと、茂樹しげきが熱心にいうものでね」
 賢太の両親が事故死したのは、彼が十六歳の時だから、もう十年も前のことになる。当時、賢太の父親はニシハマ・ノース・アメリカ(NNA)の駐在員としてニューヨークに赴任していたのだが、五年目を迎えた四月の休日、近くのショッピングモールに向かう途中、自動車事故に遭遇したのだ。
 全寮制のプレップスクールの十年生だった賢太は、両親と離れて暮らしていたおかげで難を逃れたものの、アメリカのプレップスクールは富裕層の子弟が集う私立の進学校だけに学費は極めて高額だ。まして、一人っ子である。保護者を亡くし、経済的基盤を失った賢太がアメリカで勉強を続けるのは不可能となってしまったのだが、それを惜しんだのが泰輔の長女・冬子の婿、当時ニシハマの副社長であった茂樹である。
 茂樹は副社長に就任する以前、NNAの社長を務めており、帰国までの二年間、賢太の父親を直属の部下にしていた。二人とも自宅がニューヨーク市郊外のウエストチェスターということもあって、日頃から公私ともに親しく交わってきたというから、梶原の突然の死には大きな衝撃を受けただろうし、賢太の将来を案じもしたであろう。
 訃報を知らされた茂樹は、ただちにニューヨークに飛び、帰国するや泰輔のもとを訪れ、国内の学生を対象としていたニシハマ奨学金制度を海外の学生にも適用できるように改定したいといってきたのだ。
「賢太さんは、お父様に似たのね。ハーバードで優秀な成績を収めたのなら、就職だって引く手数多、選び放題。投資銀行にでも勤めれば、高額な報酬を得られたでしょうに、ニシハマに入社してくるんですもの。恩義を忘れないなんて、今時の若い人には珍しいわ」
「だから賢太くんを美咲の婿にと考えたんだよ」
 泰輔はいった。「いまのニシハマは、霞が関と同じだ。出身校や学部に多少の違いはあっても役員の学歴は皆一緒。ニシハマに入社してきたのも、寄らば大樹の陰。社員になれば一生安泰。ニシハマのブランドと、役人になるより高い給料に魅せられて入ってきたくせに、妙な野心を持ちおって。飼い犬に手を噛まれるとはあのことだ」
「また、そのお話? 飲むのはその一杯だけですよ」
「分かってるよ」
 泰輔は、すかさずグラスを傾けた。
 先ほどの心地よさとは違い、熱が胃の中によどむ。
 年齢の割には健康状態も至って良好で、これといった問題を抱えているわけではないが、人生の終わりは近い。これまでの八十年を振り返ると、良き思い出よりも、創業家としてニシハマに君臨してきた肥後家が、事実上経営に関与できなくなって以来の屈辱の日々が先に浮かんでしまう。
 ニシハマは明治時代に泰輔の祖父、肥後重太郎が創業した会社である。
 日本に初めて電灯が灯ったのは明治十五年(一八八二)。ニシハマの歴史は日本の電気の歴史と共にあったといっても過言ではない。創業当初は電気製品を扱う小さな商店であったが、自社製造初の製品となった電灯が電力網の普及の波に乗り、重太郎は莫大な富を得た。電気が電車やエレベーターなどの動力源としても用いられるようになると、重太郎は、いち早くそれらの事業に参入し、ニシハマの経営を多角化させていった。
 大正に入って第一次大戦が勃発すると、軍需景気が起き、電気を用いる製造機器という莫大な市場が生まれた。かくしてニシハマの手がける事業は多角化が進む一方となり、規模も瞬く間に巨大化していった。その勢いは、昭和になっても変わることなく、家電製品ならラジオ、テレビ、洗濯機、ステレオ、ビデオ。電子製品は、半導体、パソコン、携帯電話。火力から始まった発電は、水力、やがて原子力。そして、交通機関に用いられるシステム開発、周辺機器と、産業技術の進歩と日本の経済成長に伴う時代のニーズに応えていくうちに、ニシハマは世界有数の総合電気機器メーカーとして揺るぎない地位を築くに至ったのだった。
 ニシハマの従業員は、院卒から高卒までだが、高位役職者はもれなく院卒、学卒者だ。会社の規模が大きくなるにつれて、当然入社志望者の学歴も高くなる。それがまた、ニシハマの社会的ステータスを高めることに貢献したことも事実なら、泰輔がそれを良しとしてきたこともまた事実である。
 なぜなら、泰輔の経営哲学は、社員が与えられた職務を確実にこなせば、業績は上がる、その一点にあったからだ。
 実際、ニシハマに入社してくる人間たちが、実務能力に長けていたことは確かである。
 全国の俊英が集う名門大学の入学試験においては、一点、二点の差が合否を分ける。そんな修羅場をくぐり抜けてきただけに、彼らはミスを犯すことを極端に恐れる。それはもはや本能ともいえるもので、そんな人間たちがニシハマでは望みうる最高のポジションである、副社長、役員の椅子を巡って競い合うのだから経営トップは楽なものである。
 事実、父親の会長就任と同時に、泰輔が五十三歳で社長になり、以来二十年の長きにわたって経営トップとして君臨した間も、ニシハマの業績は極めて順調に推移した。七年前に、父親が亡くなったのを機に会長に退き、茂樹を社長に据え、次女・秋子あきこの婿である美咲の父親の政成まさなりも専務に昇格させた。肥後家の権力継承は無事済んだ。後は三人いる孫娘に後継者として相応しい夫を添わせ、育てていけばいいだけだと考えていたのだが、ところがである。
 茂樹が社長に就任して三年を迎えようという時に、ニシハマの家電製品の発火による火災が相次ぎ、死者が出るという会社はじまって以来の一大不祥事が起きたのだ。
 原因が部品の不良にあることが判明した時点で、責任者をただちに処分し、店頭在庫はもちろん、販売済みの全対象製品をリコール。さらには会長、社長、専務と、経営陣に名を連ねる肥後家の三人が、雁首がんくび揃えて謝罪会見を行い、被害者には手厚い補償を行うことを明言した。ニシハマは莫大な損失を出したものの、事態はそれで収まるかに見えた。
 ところが、「不良品が生じたのは、無理なスケジュールが原因。開発スケジュールが狂えば、担当者は責任を取らされる。一度でも人事考課に汚点がつけば出世は望めない。今回ニシハマが起こした不祥事の原因は、肥後家の同族経営による恐怖政治にある」と、一部週刊誌が報じたのをきっかけに、ニシハマに君臨する肥後家に世の非難が集中するようになったのだ。

 
(このつづきは「小説 野性時代」2018年10月号でお楽しみいただけます。)
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