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試し読み

【新連載試し読み】天野純希『紅蓮浄土 石山合戦記』

9月12日発売の「小説 野性時代」2018年10月号では、天野純希あまのすみき紅蓮浄土ぐれんじょうど 石山合戦記いしやまかっせんき』の新連載がスタート!
カドブンではこの試し読みを公開いたします。

織田の軍勢に家族を殺された少女・千世は、極楽での再会を願い、戦の世界に身を投じる――。

信長と石山本願寺の決戦が始まる。今、注目の歴史小説作家、待望の新連載!

 
 

 第一話 穢土の少女

 深い闇の中で、千世ちせは息を殺していた。
 木々に遮られ、月明かりは届かない。聞こえるのは、獣や虫の声と、かすかな風に草木がそよぐ音だけだ。
 このくさむらの中に身を潜めて、すでに一刻が経っている。盂蘭盆会うらぼんえを過ぎて幾分過ごしやすくなったとはいえ、全身を覆う忍び装束に、顔まで覆う頭巾。さらにその下に鎖帷子くさりかたびらまで着込んでいれば、相当な暑さになる。常人には耐え難い不快な環境に耐えるのも、忍びの重要な資質だ。
 幼い頃から、待つのは得意だった。帰ることのない父と母を待ち続けたあの数日に比べれば、何ということもない。十六歳になった今も、じっと何かを待つことが苦ではなかった。
 南無阿弥陀仏。心の中で唱えた。この六字さえ念じていれば、どんな苦しいことにも耐えられる。不安も痛みも、死の恐怖さえ消えていく。
 闇の向こうに、かすかな気配を感じた。千世は、刀のつかを握る右手に力をめる。
 慎重に気配をうかがった。鳥や獣の類ではない。隠そうとはしているが、明らかに人のものだ。
 相手がこちらに気づいているか否か、知る術はない。だが、時が無かった。日の出とともに、この三日間に及ぶ最後の試し稽古は終わる。稽古と言っても、刻限までに相手を倒すことができなければ、待つのは死だった。
 南無阿弥陀仏。再び心中で唱え、腰を上げかけた刹那、全身の肌がひりついた。
 考えるより先に、体が動いた。身を低くした姿勢のまま、横へ跳ぶ。千世の頭があったあたりを、何かが突っ切っていく。棒手裏剣。動かなければ、確実に死んでいた。
 いきなり、頭上に影が降ってきた。再び横に跳び、振り下ろされた刀を避ける。転がりながら、棒手裏剣を放った。が、相手も素早く横へ跳んでかわす。
 立ち上がり、踏み込んだ。相手も前へ出てくる。二本の刀がぶつかり、火花が散った。
 つば迫り合い。相手は、千世より頭一つ分は大きい。同じく頭巾で鼻と口まで覆っているが、体格と動きの癖で、おおよその見当はつく。千世より二つ年長の、庄五郎しょうごろうだろう。膂力りょりょくと体力には優れるが、剣技は紙一重の差で、素早さでは数段、千世の方が上だ。
 庄五郎の息遣いは、千世よりも荒い。眉間に流れる汗も、尋常な量ではなかった。その目には、焦りの色が浮かんでいる。
 やはり、昨日浴びせた棒手裏剣の痛手が後を引いている。当てたのは左の肩口だが、傷は思いの他、深かったらしい。
 千世は刀を引き、庄五郎の左側へ回り込んだ。左肩の傷口を狙い、片手突きを放つ。庄五郎は、咄嗟に傷を庇おうと半身を引く。
 隙ができた。懐に飛び込み、刀を持っていない左腕を伸ばす。庄五郎は仰け反って避けようとするが、それより早く、千世の人差し指が庄五郎の右目をえぐった。
 小さく悲鳴を上げ、庄五郎が膝をつく。
「ま、待ってくれ。俺の負けだ……!」
 刀を両手で握り直した千世に、庄五郎が懇願する。
「俺は姿を消す。崖から落ちて死んだということにすれば、如雲じょうんさまも……」
「無駄だ」
 千世はその喉元へ、躊躇ためらうことなく刀を突き入れた。
 南無阿弥陀仏と唱えろ。そうすれば、極楽へ行ける。思ったが、庄五郎の口からは呻き声が漏れるだけだった。
 失望を覚えながら、喉を抉った刀に一捻り加えた。庄五郎の体がびくりと震え、力が抜けていく。
 刀を引き抜くと、庄五郎はうつ伏せに倒れ、絶命した。
 背後に、別の気配が現れた。振り返ると、僧形の小柄な男がずっと前からそこにいたかのように佇んでいる。
「如雲さま……」
「相変わらず、容赦の無いことだ」
 答えず、刀の血を拭い背中のさやに納めた。
「だがそれでこそ、我がともがらに相応しい」
「他の組は、どうなりました?」
重蔵じゅうぞうあおい猪助いすけだ。まあ、順当な結果だな」
 十人を二人ずつに分け、三日間山に籠もって殺し合う。それが、最後の試しだった。刻限までに決着がつかなければ、二人とも殺されることになっている。
「しばし体を休めよと言いたいところだが、近々、戦が始まるやもしれん。しかと腕を磨いておけ」
「戦の相手は?」
「織田弾正忠だんじょうのちゅう信長」
 その名に、心の臓が大きく波打った。脳裏に、あの日の光景が蘇りかける。
「思うところもあろうが、心気を乱すな。戦は、かたき討ちの場ではない」
 そう言い残し、如雲は音も立てずに消えた。
 千世は大きく息を吸い、吐き出した。如雲が見抜いた通り、心気が乱れている。
 庄五郎のむくろを見下ろした。
 さしたる感慨は湧かない。この三年間、ともに修行に打ち込んできたが、千世を見る庄五郎の目にはいつも、下卑た欲望がかいま見えていた。
 仲間だと思ったことなどない。所詮、蹴落とすべき相手でしかなかったのだ。
 何の感慨も抱かない自分に、千世は満足を覚えた。
 これなら、誰が相手だろうと戦える。

 大坂おおざかの町は、今日も変わらず活気に満ちていた。
 下間頼廉しもつまらいれんは、日に日に秋らしさを増す風を感じながら、徒歩で往来を進んでいた。
 従えるのは、近習きんじゅ役の若い僧が二人のみ。権勢を鼻にかける他の坊官たちのように、見目麗しい稚児を何人も引き連れて歩く趣味は、頼廉にはなかった。
 浄土真宗本願寺派の総本山たる石山本願寺を中心とする大坂の寺内町は、戦乱で荒れ果てた京をはるかに凌ぐ繁栄ぶりだった。この町で暮らす人々は、五万を大きく超えている。無論、そのほとんどが真宗門徒である。
 寺内町といっても、大坂はこの日ノ本でも屈指の堅固な城砦じょうさいでもあった。西は海に面し、北は淀川、東は大和やまと川という広大な川が天然の堀を成している。台地の北端に築かれた本願寺の南に拡がる寺内町の周囲には、堀と土塁が巡らされ、たとえ十万の大軍が押し寄せても、攻め落とすのは容易ではない。
 町の方々には、戦の際に砦の役割を果たす末寺が建ち、町の中も堀や塀で区切られている。そして、数百の僧房、伽藍がらんが並び、法主・顕如けんにょが起居する石山本願寺が、いわば本丸だった。
 広大な町を縦横に貫く通りには、諸国から集う商人や門徒たちが溢れ、荷を山積みにした馬や車が絶え間なく行き交っている。見世棚には畿内はもとより、東国や西国、さらには唐土もちこしや南蛮の品々までが並んでいた。
 高位の僧だけが許される法衣をまとった頼廉に、道行く者たちが手を合わせ、「南無阿弥陀仏」の名号を唱える。六尺近い体躯たいくいかめしい顔立ちは、法衣が無ければとても僧侶には見えないだろう。
 この町の賑わいを眺めるのが、頼廉は好きだった。
 血腥ちなまぐさい戦乱の世にあって、同じ教えを信ずる者が集まり、互いに支え合い、人らしい暮らしを送る。本願寺の坊官である頼廉らの生計は、この名も無き民の喜捨によって成り立っているのだ。教えの灯を絶やすことなく人々に極楽往生への道筋を示し、現世では門徒の暮らしを守る。それが己の務めだと、頼廉は自負している。
 だが今、この町で最も目につくのは、やりを担ぎ、具足櫃ぐそくびつを背負った番衆たちの姿だった。番衆とは、諸国の門徒が有志で派遣してくる、本願寺を守るための兵だ。寺の警護や町の治安維持のため、平時から置かれてはいるが、二月ほど前から本願寺側の要請で増強され、その数はすでに二万をゆうに超えている。
 常と変わらない活気の中にも、戦の匂いは確かに漂っていた。
 寺内町と本願寺を分かつ内堀に架かる橋に差しかかると、目の前に壮大な伽藍がそびえ立っている。橋を渡りいかにも堅牢な山門をくぐると、そこが本願寺の境内だった。
 今日は、本願寺の命運を左右することになるであろう、重要な評定が開かれることになっている。評定の間へと続く回廊を渡りながら、掌に汗が滲むのを感じた。
 評定の間に入ると、すでに「御堂衆みどうしゅう」と呼ばれる主立った坊官たちが集まりはじめていた。列席する十名の御堂衆のうち、大半を下間一族が占めている。
 三十四歳になる頼廉の地位は、御堂衆の中でも高い。大名家に喩えれば、家老といったところだろう。寺務や寺内町の運営、諸大名との外交といった雑務を司る多くの坊官を束ね、法主・顕如を補佐する。それが、御堂衆の職掌だった。その中で頼廉は、主に軍事を担っている。
 下間氏は元々常陸の武家だったが、代々本願寺に仕え、今や御堂衆をはじめとする教団の主要な役職を、一族でほぼ独占するようになっていた。その下間氏も、現在は刑部卿ぎょうぶきょう家、宮内卿くないきょう家という二つの流れに分かれ、それぞれの家が本願寺内部で出世争いに明け暮れている。頼廉は、刑部卿家の当主だった。
 近侍の僧が御成りを告げ、ざわついていた一同が口を閉ざす。やがてふすまが開き、顕如が上座に就いた。
 本願寺第十一世法主・顕如。当年二十八。先代・証如しょうにょの突然の死によりわずか十二歳で法主の地位に就いて以来、下間一族の補佐を受けながら、この巨大な教団を大過なく治めている。
 色白細面の端整な面立ちには、疲れの色が滲んでいる。思慮深さを思わせる切れ長の目の下には、遠目からもわかるほど、くまがはっきりと貼りついていた。
「では、これより評定の儀を行う。議題は、かねてしらせていた通りじゃ」
 進行役の御堂衆筆頭・下間丹後たんごが、真っ白い髭を撫でながら一同に告げた。丹後は、宮内卿家の当主である。
方々かたがたも知っての通り、織田弾正忠は去る六月、近江国姉川において浅井あざい朝倉あさくらの軍を打ち破った。次は、我らに矛先を向けてくるは必定。戦うべきか、和すべきか、方々の忌憚きたんなき意見を伺いたい」

 
(このつづきは「小説 野性時代」2018年10月号でお楽しみいただけます。)
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