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試し読み

【新連載試し読み】深緑野分『この本を盗む者は』

本日より配信開始の「文芸カドカワ」2018年8月号では、深緑野分さんの新連載『この本を盗む者は 第一回 魔術的現実主義の旗に追われる 前篇』がスタート!
カドブンではこの新連載の試し読みを公開いたします。

書物あふれる館を管理する一族の少女・深冬(みふゆ)の日常が変わり始める――。

 読長町(よむながまち)御倉嘉市(みくらかいち)といえば、全国に名の知れた書物の蒐集家(しゅうしゅうか)で評論家であり、おぎゃあとこの世に産まれ落ちてから縁側で読書中にぽっくり逝くまで、読長に暮らし続けた町の名士であった。
「わからないことがあったら御倉さんに訊け」「本探しなら御倉さんで一発だ」「悩みなら医者よりまずは御倉さん」等々、生き字引と珍重されていた御倉嘉市だが、その書庫に果たして何冊の本が詰め込まれているのかは、誰も知らない。
 北と南にふたつの川が流れる菱形をした読長町の、ちょうど真ん中に立つ〝御倉館(みくらかん)〟。床や柱の改修補強工事を繰り返し、嘉市が死ぬ頃には地下二階から地上二階までの巨大な書庫と化したこの御倉館は、「読長に住む幼稚園児から百歳の老人まで一度は必ず入ったことがある」と言われるほどの、町の名所となった。
 一九〇〇年に生まれた嘉市が大正時代からこつこつ集め続けたコレクションは、同じく優れた蒐集家だった娘で随筆家の御倉たまきに引き継がれ、ますます増殖していった。
 そして本のあるところには蒐集家がやって来る。蒐集家にも善人と悪人がいる。
 御倉館に所蔵された稀覯(きこう)本の一部、約二百冊が何者かによって盗まれた。その前後から本の行方不明が相次いだ上、古本取引所で売買され、高値で販売された本もあった。
 御倉たまきが御倉館を閉鎖し、一般公開を禁じたのは今から三十年前のこと。これ以上、父と自分が大切にしていた本を一冊たりとも盗ませてはならないと、たまきは警備会社と契約をして建物と蔵書に警報システムを取り付けた。
 それ以来、盗難はぴたりと止んだが、町の人々の間では密かに、たまきが仕掛けた警報装置は普通のものだけではないという噂が立った。たまきは愛する本を守ろうとするあまりに、読長町と縁の深い狐神に頼んで、書物のひとつひとつに、とある奇妙な仕掛けを施したのだという。
 この物語は、たまきの子どもで、現在の御倉館の管理人である御倉あゆむとひるねの兄妹のうち、あゆむが入院した数日後からはじまる。
 だが主人公はあゆむとひるねではない。そのさらに下の世代、御倉深冬である。

 深冬は電車に揺られながらうつらうつらと船を漕いでいた。学校帰り、高校一年生のまだ着慣れない制服姿で、もう少し首を左に傾けると銀のポールに頭をぶつけてしまいそうだ。時刻はまだ午後四時過ぎの帰宅ラッシュ直前、車内のまばらな乗客は、大半が深冬と同じ高校の生徒だった。
 傾いた西日が窓から射し込む。やがて電車は橋梁(きょうりょう)に差しかかり、橙色の眩い陽射しを反射しながら、読長町の北部を流れる半文川(はんもんがわ)を渡る――ふいにブレーキがかかって停車する。ごとんと大きく揺れたはずみに深冬は起き、手にぶら下げていたコンビニ袋を膝の上に乗せる。無造作に頭を搔くと、長く伸ばしすぎたと思っている黒髪を手櫛で梳きながら、クラスメイトに〝ガラパゴス〟とからかわれる二つ折り携帯電話を出して、時間を確認した。午後四時過ぎ、急がないと面会時間が終わってしまう。
 やっと電車はのろのろと動きはじめ、窓の外の景色は鈍色の川面から緑色の三角形の鉄骨へと移り、ドーム型のホームにゆっくりと滑り込む。駅前の衣料品店の大サマーセールの看板と、大型書店の広告と、背広姿の人たち。
 あくびを嚙み殺しつつ立ち上がったところで、向かいに座っていた同じ学校の女子と目が合った。眼鏡をかけ、手には文庫本。深冬は(それ知ってる。売れてるやつでしょ)と思う。思うだけだ。深冬は内容を知らないし、知りたくもなかった。本が嫌いだから。
 さっさと電車を降りようとすると、「あの」と声をかけられた。ホームに立つ深冬の後を追いかけて、文庫本の女子生徒も降りる。
「御倉さんだよね?」
 うっすらと茶色く染めたショートボブにピンク色の縁の眼鏡をかけた女子生徒に、まるで覚えがなかった深冬は、制服の襟元の校章をさっと見比べた。青色の校章はひとつ上の学年だ。
「……そうですけど」
「やっぱり御倉さん! あの一族の人が入学したって聞いたから、いつか会えないかなと思ってたんだけど」
 深冬はうんざりしながら名前も知らない女子生徒に背を向けて、乗降客で混雑するホームを大股で突っ切る。
「あ、ねえ待って! 文芸部に入らない? ねえ!」
 聞こえないふり、知らないふり。御倉の人間だと正直に言わなければよかったと後悔しながら、深冬は定期入れをポケットから出した。
 晩春の夕暮れ、あかね色に(とろ)けそうな色合いの空の下、改札口を出て右手の道を進む。金色の光と影に縁取られたハナミズキの並木道の先に、近隣で最も大きな大学病院があり、深冬は入院見舞い受付口から中へ入った。入院棟の三階にある四人部屋は白いカーテンで仕切られ、互いの様子は見えない。
「やっほー、お父さん」
 奥のカーテンを開けると、ベッドに横たわっていた父のあゆむが手を振った。頭は包帯で巻かれ、右頰に大きな痣があり、パジャマ姿の右足はギプスで固められている。大柄な体格のせいでベッドがやけに小さく見えた。
「調子はどう?」
「すこぶる元気だよ。頭の具合もいいって」
「でもまだ退院できないんでしょ?」
 深冬は父の好物であるマックスコーヒーの黄色い缶が二本とかりんとうの袋が入ったコンビニ袋を渡した。
「あとどのくらいかかるの?」
「どうかなあ、リハビリもあるし。道場は(チェ)君がやってくれてるだろ? 大丈夫、大丈夫」
「そういう問題じゃなくて」
 さっそくマックスコーヒーのプルトップを開ける父に、深冬はため息をついた。
 御倉館の管理人である一方で、柔道の道場も経営しているあゆむが交通事故に遭ったのは、先週のことだった。夜、道場を閉め歩いて帰る途中に、住宅の陰から乗用車が飛び出してきたのだ。その道路はいわゆる〝抜け道〟で、混雑する大通りを避けたい車がスピードを出して走るため、一年に一度は新しい目撃情報を呼びかける看板が立つと言われるほど、事故が多かった。
 幸い、長い柔道歴ならではの受け身があゆむの命を救い、御倉一族の弁護士があとの手続きを引き受けたおかげで、事故に関しては問題なく進んでいる。道場も師範代の崔政宰(ジョンジェ)に任せておけばいいし、家のことは自分でやればいい。しかしひとつ大きな問題が残っていた。
「ひるね叔母ちゃんはどうするの」
 父はマックスコーヒーを飲む手をぎくりと止めた。
「……ひるねが何かしたか?」
「何かしたっていうか、してないからやばいっていうか」
 深冬は再びため息をついた――さっきよりも深く、心底からのため息を。窓の外から豆腐屋のぱあぷうと鳴るラッパが聞こえ、夕刻を告げる夕焼け小焼けが流れる。
「お父さんが入院してから、もう三回も苦情が来てんの。御倉館の警報が三十分ごとに響いて三時間止まらなかったとか、不燃ゴミの日に弁当の空き箱がむき出しで捨ててあるとか、約束したのにピンポン押しても絶対出てこないとか。ひるね叔母ちゃんの管理できてなさすぎ問題。市役所からも電話があったし」
「……俺が入院して何日経ったっけ」
「五日」
「五日で三回か……」
 あゆむは頭を搔きむしって腕を組んだ。
「あいつ、俺にはひとりでも平気だと言ったのに」
「平気じゃないからお父さんが今でも管理人を兼任してるんでしょ。あたしだってひるね叔母ちゃんのすごさはわかってる。でもいくら頭よくてもさ、誰かが面倒見ないとろくに生きていけないなんてダメじゃん、大人じゃないじゃん。近所迷惑だし」
 深冬は溜まっていた不満を思い切って父にぶつけてみた。今年で三十歳になる若い叔母のことが、深冬は子どもの頃から苦手だった。それはあゆむも気づいている。
「……じゃあどうしようか。ひるね問題を解決するための深冬の案は?」
「えっ」
 不満をただ聞いてもらいたかっただけの深冬は、解決案と言われてしどろもどろで両手を握り合わせた。
「特に思いつかないけど」
「でも俺はすぐに退院できないよ。退院できてもこの足じゃ御倉館の仕事はしばらく難しいし」
「御倉館からひるね叔母ちゃんを出して、御倉館を完全に閉める」
「どこへ出すって? うちで預かるか? たまき祖母ちゃんが亡くなった時、同居に反対したのは深冬じゃないか。そもそもひるねは絶対に御倉館から出ないし、蔵書が必要な書評家や研究家たちが慌てる」
 父の表情は柔らかいが、目つきは真剣そのもので、深冬はふっと目をそらした。ベッドのフレームについた名札の〝御倉あゆむ様〟の字を何度も読み返す。
「ご近所に我慢して下さいって言う」
「しばらくはそうした方がいいだろうね。でもひるね本人が心配じゃないか? 飯を食べず水も飲まずで眠り続けるかも」
 御倉ひるねはその名に(たが)わず、「昼寝をするために生まれてきた」とせせら笑われるほど、放っておけば十二時間でも二十時間でも眠り続けてしまう。だからたまきの死後はあゆむが御倉館に通い、ひるねの面倒を見ていた。深冬の母は早くに亡くなり、他の親類とは疎遠だ。それに御倉館への入館は一族と、特別な契約を結んだ書評家や研究者のみという決まりだった。
 叔母の世話を焼く父の姿を見て育った深冬は、以前から「もしお父さんが死んでひるね叔母ちゃんが残ったら、あたしがこのぐうたらな叔母の世話を引き受けなければならないの?」と、自分の将来にうんざりしていたのだ。
 まさかこんなに早くその経験をする羽目になるとは。
 御倉の人間に生まれてよかったことなどひとつもない。さっきだって、知りもしない先輩にいきなり話しかけられて、文芸部に入れとか言われるし。私は本なんか好きじゃない。読みもしない。深冬は喉元まで出かかった不満を、父に差し入れたはずのマックスコーヒーで押し込み、甘ったるいげっぷを吐いた。
「わかったよ、もう。だってあたししかいないじゃん……ご飯とか水とか、そういうのをやるだけでいいんでしょ?」
 父あゆむはにっこりと微笑み、頷いた。

このつづきは、「文芸カドカワ」2018年8月号でお楽しみください


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