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試し読み

【試し読み】安田峰俊『八九六四 「天安門事件」は再び起きるか』

◎第5回城山三郎賞、第50回大宅壮一ノンフィクション賞受賞!!


6月4日前後の中国では、スマホ決済の送金ですら「六四」「八九六四」元の金額指定が不可能になる。
和僑(わきょう)』『境界の民』など、中華圏の社会・政治・文化事情について取材を続けてきたルポライター・安田峰俊さんの最新作『八九六四』が、5月18日(金)に遂に発売となります。

今回挑んだのは、現代中国最大のタブ-“天安門事件”。
1989年6月4日。変革の夢は戦車の前に砕け散りました。台湾の民主化、東西ドイツの統一、ソ連崩壊の1つの要因ともされた天安門事件。あの時、中国全土で数百万人の若者が民主化の声をあげていました。世界史に刻まれた運動に携わっていた者、傍観していた者、そして生まれてもいなかった現代の若者は、いま「八九六四」をどう見るのか? 各国を巡り、地べたの労働者に社会の成功者、民主化運動の亡命者に当時のリーダーなど、60人以上を取材し、絞り込んだ大型ルポです。
発売まであと少し! 待ちきれない皆様のために、『カドブン』では「序章」と「目次」を先行公開します。ぜひご覧ください!!

 
 

序章 君は八九六四を知っているか?

1 郭定京(仮名)

事件当時19歳、浪人生 取材当時41歳、書籍編集者
「八九六四」当時の所在地:中華人民共和国 北京市内
取材地:中華人民共和国 北京市 東城区の大衆食堂
取材日:2011年12月9日

タブーだけれど話したい物語

 北京(ぺきん)は北方民族の街だ。そんなことを思った日だった。

 2011年12月9日の昼下がり。私は人を待っていた。かつて(しん)雍正帝(ようせいてい)が即位前に住居としていた雍和宮(ようわくきゅう)にほど近い、下町の民家をリノベーションしたゲストハウスのロビーである。
 やって来た人物は、中国のさる大手出版社に勤める郭定京(グオデインジン)(仮名)だった。
 生っ粋の老北京(ラオベイジン)(北京っ子)である彼は、当時41歳。体型はやせ型で、知識人らしく非常に美しい北京官話を喋った。母方が清朝の旗本階級である満洲(まんしゅう)旗人の家系だといい、本人も自分のルーツへのこだわりが強い。近ごろ清朝史の書籍を編集したという。
「ようこそ北京へ! 日本の友人よ、さあ食べてくれ飲んでくれ」
 郭は日中関係が良好だった1980年代に青春時代を送ったせいか、日本へのあこがれや親近感が強い。そもそも今回の待ち合わせも、日本事情を中国語で紹介する書籍の企画を私に提案してくれたためだった。
 郭はまず私を連れて職場を案内し、しばらく打ち合わせをおこなった。やがて太陽が(かげ)りはじめると「仕事はここまで」とばかりに、彼は私を胡同(フウトン)(横丁)の奥にある涮羊肉(シュアヤンロウ)の店に引っ張り込んだ。(げん)代にモンゴル人が考案し、満洲人である清の皇帝たちも好んだ羊肉のしゃぶしゃぶ料理である。冬の北京の風物詩だ。
「次の党総書記はきっと習近平(しゅうきんぺい)だろう。よくわからない男だけれど、北京生まれの人間が中国のリーダーになるのは喜ぶべき話なのかな──」
 老北京の男はタフでハートフルだ。そして三度の食事よりも政治の話が好きである。郭は喋りながら燕京(イエンジン)ビールを何瓶も空け、蒸気機関車のようにぼうぼうとタバコの煙を吐いた。下町の食堂の石油ストーブの空気によく合う振る舞いだった。
「……ところで、君は六四(リヨウスー)を知っているか?」
 やがて、酔いも手伝って互いに打ち解けたころ、彼は唐突にこんなことを言い出した。
 六四。もしくは八九六四(バージヨウリヨウスー)。すなわち1989年6月4日に発生した六四天安門(てんあんもん)事件だ。中国の政治改革を要求した学生や市民のデモに対して、当時の中国共産党の最高指導者・鄧小平(とうしょうへい)らが人民解放軍の投入を決定し、武力鎮圧をおこなった。公式発表でも300人以上、一般的な解釈では数千人から一万人以上の犠牲者が出たとされている。
「知っていますが、当時の私は小学2年生でしたから、リアルタイムの記憶はないんです」
「事件を知っている日本人は多いのかい?」
「新聞やテレビで、たまに特集が組まれています。世界史の教科書にも出てきます。名前くらいは知っている人は多いはずですよ」
 郭は「そうなのか」としばらく黙り込んだ。
「……あの事件の話は中国ではタブーだ。おおやけの場で論じてはならない」
 自分から話の口火を切っておいて「タブーだ」もないだろう。案の定、私が何も言わずにいると、彼は勝手に思い出話を語りはじめた。

いまデモが起きても「たぶん行かない」

 あの春、郭定京は19歳の浪人生だった。
 デモの主要なリーダーの一人である北京大学の王丹(ワンダン)は一歳年上で、ほぼ同年代である。郭も北京市内を覆った体制変革の予兆に興奮し、しばしば天安門広場に行って座り込んだ。街頭デモにも参加し、体制の民主化や党指導者の退陣を求めて声を張り上げた。
 北京はただのアジアのいち都市などではなく、5000年にわたり人類史上に燦然(さんぜん)と輝く偉大なる中華文明の中心である。また1919年に起きた五四運動からこのかた、中華の覚醒(かくせい)(ほむら)は常に北京から燃え上がってきた。とりわけ北京の若き知識人は、中国の政治変革の先陣を切る役割を担うことを運命づけられてきた──。
 往年の郭もまたそう信じ、壮大な夢を描いた若者の一人だった。
 やがて6月4日未明、デモ隊への武力鎮圧が発生した。郭青年と仲間たちは激怒し、その次の日には大勢で軍用車に石を投げて抗議してみせたという。
「自分の前の方で頑張っていた連中は、みんな捕まってどこかに連れていかれた。僕はそれを見て慌てて走って、胡同の奥に逃げたから無事だった。危なかった」
 中華文明の未来を担う若者を無残に殺して回るような、めちゃくちゃな政権の統治が長続きするわけはない。祖国の目覚めは近い。諦めずに戦い続けよう。
 郭青年は、なんとか助かった仲間たちと互いに論じあった。
 しかし、未曾有(みぞう)の惨劇の翌日も、そのまた翌日になっても、ずっと中国共産党は倒れなかった。祖国は目覚めず、変革の夢は戦車の前に砕け散った。
 ──それが郭が私に語った八九六四だった。

「現代の中国で、また天安門の学生デモみたいなことは起きるでしょうか?」
 話が一段落したところで尋ねると「難しい」と即答された。
「いまの若者はみんな一人っ子で、命を()けるような行動は両親への孝行に反する。両親も子どもが民主化デモに行くなんて言い出せば必死で止めるだろう。それになにより──。社会が当時と比べ物にならないくらい豊かで便利になったからね」
 天安門事件の勃発直後、世界の先進各国は人権弾圧に抗議して一斉に対中投資を引き揚げた。だが、経済の停滞を憂慮した鄧小平が、1992年から積極的な外資誘致と事実上の市場経済の実現を呼号すると、安価な無尽蔵の労働力と巨大なマーケットに魅了された各国はすぐに中国に戻ってきた。こうして現在まで四半世紀も続く、奇跡の高度経済成長が始まった。
 イデオロギーは噓をつくが、カネは噓をつかない。好景気のなか、中国の人々は目の前のチャンスをつかむべく狂奔した。やがて気づいたときには、誰もが携帯電話やパソコンを持ち、広大な国土がキメの細かい高速鉄道網で結ばれ、あちこちの主要都市の地下を最新式の地下鉄が走る現代中国の社会が生まれていた。
 そんな社会で育った若者が、往年のようにリスクを覚悟で戦うことは難しいという。
「じゃあ、デモに参加した郭さんみたいな人はどうですか。またやらないんですか?」
「同じことだよ。例えばいま僕はとても幸せだ。子どもはいないけれど女房との仲はいいし、家も買った。仕事も面白くてやりがいがある。お金持ちじゃないけれど、日本に観光旅行に行けるくらいには暮らしの余裕もある」
 やや複雑な表情を浮かべて、郭が次のタバコに火をつけた。
「中国は民主化しなくても没問題(メイウエンテイ)(大丈夫)だったのですね」
「そうは認めたくない。ただ、現代の中国には社会問題が山積みだけれど、国民が体制を変えるために立ち上がるほどひどい国でもないんだ。(しゃく)だとは思うけれど、中国共産党はすでに大きな功績を挙げてしまった。その事実は認めざるを得ないさ」
「じゃあ、仮にいま、北京で民主化デモが起きたらどうします?」
「たぶん行かない」
 沈黙があった。
「──もう時代が違うんだよ。昔だからああいうことができたのさ」
 動詞の主語に、「中国」も「自分自身」も代入できそうな口ぶりだった。

 その後、郭とは出版の約束をしたものの、やがて2012年の尖閣(せんかく)国有化問題と大規模な反日デモが起き、日中関係が緊張してお流れになった。互いに何となく気まずくなっていると、彼はいつの間にか会社を移ったらしく、メールもつながらなくなった。
 清朝の残り香をほのかに漂わせた老北京との晩餐(ばんさん)は、完全に記憶のなかに閉ざされた。
 だが、この日の会話が私にこの本を書かせたと言っていい。

2 葉子明(仮名)

事件当時26歳、在日中国人留学生 取材当時51歳、民主化活動家
「八九六四」当時の所在地:日本国 東京都内
取材地:日本国 関東地方某都市のサイゼリヤ
取材日:2015年2月13日ほか

「うんざり」する天安門の話

「あんた、天安門の本を書くったって、いつものやつは勘弁してくれよ」
 こちらは2015年2月13日、私が日本国内で最初に話を聞いた、ある在日中国人の民主化活動家による開口一番の言葉である。本人の意向でオフレコなので、仮に名前を葉子明(イエヅウミン)としておこう。
「学生たちの望みは正しかった。当局の弾圧はよくなかった。当たり前の話だ。だが25年も前の事件だぞ。私の立場としては公言できないけれど、天安門事件はもう過去だ。非常に重要な問題なのは確かだが、それはあくまでも歴史的事件としての話でしかない」
 あの春、26歳の葉は日本に留学中だった。やがて5月21日に5000人、鎮圧当日の6月4日に一万人が参加したともいう在日中国人の街頭デモの一員となった。故郷の北京で起きた惨劇を聞いて、怒り心頭に発した彼は、事件の3か月後にパリで成立した世界的な中国民主化団体・民主中国陣線(民陣)の日本支部の結成に参加する。
 だが、最初は大勢いたはずの仲間はいつの間にか脱落していき、日本支部どころか民陣の本部も分裂状態になった。葉自身、ひとまず現在も活動家の看板を下ろしてはいないが、街頭デモや在日中国大使館前での抗議行動といった、表立った行動にはほとんど参加しなくなった。
 母国に帰れない身とはいえ、気付けば日本での暮らしが人生の半分を占めた。ちょっとしたビジネスをおこない、まずまずの車を買い、それなりに生活の基盤もできてしまった。
「正直、天安門の話で取材を受けるのは、うんざりしているんだ。当時は誰がどんなひどい目に遭ってかわいそうだったか、共産党政権の罪をどう思うか、みんな似たような質問をして似たようなメモを取って、同じ結論を記事に書くだけの話だろう? 最近はあなたのような取材者に会うたびに、『もういいよ。やめとけって』と内心で思ってしまってね」
 なんとも意気の上がらない話だが、言わんとすることはわかる。
 私も取材の準備段階で、過去のさまざまな報道や関連書籍に目を通した。かつて学生時代に歴史学を専攻していた私にとって、現代史のトピックとしての天安門事件は、文化大革命や日中戦争など他の歴史的な事件と同じく興味深いものだった。
 だが、この四半世紀を通じての事件の取り上げ方については、やはり「うんざり」した思いを抱いたのも確かだった。

 現代中国を語るうえで「六四天安門事件」はかなりの重量感を伴う言葉だ。
 国連常任理事国に名を連ねるアジアの大国の政府が、体制改革を要求する一般人のデモに軍隊を投入して武力鎮圧し、一党専制体制を強引に延命させた出来事なのだ。重要さは言うまでもない。
 だが、天安門事件とは何だったのか。考えるほど首をかしげてしまうのも確かである。
 もちろん、当時の北京で起きた出来事のディティールについては多くの情報が出ている。香港や台湾では当時の学生リーダーや一部の党指導者の回顧録がたくさん出版され、武力鎮圧の負傷者や遺族の証言もかなりの分量にのぼる。これらには日本語で読めるものも少なくない。アメリカのカーマ・ヒントン監督のドキュメンタリー映画『天安門』も有名だ。
 2017年12月には、機密扱いが解除された事件翌日の英国大使館の外交文書の内容が香港メディアによって報じられている。当時の中国国務院の関係者が、犠牲者数について従来の国際社会の想定よりも多い一万人規模にのぼったと見積もっていたことが明らかになった。
 また、毎年6月4日の前後になると、香港をはじめ世界各国の民主派の中国人が追悼集会を開く。
 この時期には日本でも、新聞やテレビの報道番組がしばしば事件を特集し、社説で大いに論じる。一般人にも関心の高い人がいるらしく、日本語のツイッターを検索すると毎日数件は事件に言及した新規の書き込みが見つかる。中国の人権問題を憂慮するリベラル派から、中国人に人種的な嫌悪感を抱くネット右翼的な人たちまで、投稿者たちの政治思想は左右の別を問わない(もっとも「右」の人たちの方が、中国の現体制にとって大きなタブーであるこの事件を好んで論じたがる傾向はある)。
 いっぽうで中国共産党の側も、近年は言及が少ないものの、党員向けの文書や外交部の定例記者会見などでは事件への評価を述べている。穏健に言えば「八九年の政治的トラブル(八九年政治風波(バージヨウニエンヂエンヂーフオンボー))」、厳しく言えば「反革命暴乱(フアンゲエミンバオルアン)」。もちろん、いずれもネガティヴな評価だ。
 事件は政権の暗部なので、当局は現在もセンシティヴである。むしろ近年の習近平政権はイデオロギー統制の強化に努めているため、毎年6月4日の前後は国内の治安警備が従来以上に強化される。この時期は反体制活動家が監視や拘束を受けるのはもちろん、スマホ決済の送金機能で「六四」元や「八九六四」元の金額指定が不可能になるほど、当局は躍起になって事件の痕跡(こんせき)を隠したがっている。
 事件に対する国外の評価も中国当局者の評価も、非常にわかりやすい。

 しかし、私のモヤモヤした思いは消えない。
 理由のひとつは、事件に価値判断を下すメッセージがいずれも極めて紋切り型だからだ。中国当局の主張が教条的なのは当たり前だが、実は事件に批判的な言及をおこなう側もあまり変わらない。1989年の北京市内で何が起きたかは掘り下げて書いていても、記述の全体を貫く論調はいずれも同じなのだ。

 ──民主主義は正しい。ゆえに民主化運動は正しい。それを潰すのは悪い。
   (なので、きっと将来いつか正義は勝つ)

 その通りだ。民主主義国家の国民としては、この解釈が正解だと考えるべきでもある。
 だが、正論だけに空々しい響きもないではない。たとえ正しい意見でも、同じ主張にばかりに触れていると飽きてきて、敬してこれを遠ざけたい気になってくる(「うんざり」するのはこういう理由だ)。
 また、「正しい」民主化運動が「悪い」武力鎮圧に歯が立たなかった点は仕方ないとしても、なぜその後もながらく、民衆の間で民主化の要求が強まらないのかも不思議である。
 当時、中国全土で命懸けで声を上げたように見えた数百万人の若者(心情的なシンパを含めればもっと多い)は、果たしてどこに行ったのだろうか。事件後も意見を発信できるような有名人はともかく、あの渦のなかにいた一般人は事件をどう思っているのだろうか。
 彼らは夢を諦めていないのか、現実と折り合いを付けながら若き日の記憶を大事にしているのか、それともすっかり当時の思いを忘れて恬然(てんぜん)としているのか。
 天安門事件についての「正論」の説明は、これらについて何も答えを教えてくれない。

「最も美しいとき」のあとも人生は続く

「全共闘のシンボル」といわれた男は、瀬戸内海の小島で自動車修理工場を営んでいた。日大全共闘議長だった秋田明大(あきたあけひろ)さん(61)。50代半ばで20歳年下の中国人妻と再婚し、4歳の息子と3人暮らし。過疎化が進む島で、経営状態は決して良くない。油まみれの作業服にジャンパーを羽織り、盛んにたばこに火をつけた。
「運動せんかったら、と考えることもありますよ。船乗りになっとったらとか、若いうちに工場を始めてりゃあ、もっともうけられたとか。まあ似たりよったりの人生とも思うけど…」

 秋田さんは「自分でも、あんなことをやるとは思わんかった。たまたま社会科学研究会に入っとっただけで、最初は水泳サークルじゃったしね。革命とか言っとる者もおったけど、わしはマルクスもレーニンもかじっただけじゃし…」。
 当時の状況を尋ねても反応は鈍い。
 中枢メンバーの名前を何人か出しても、「はあ、昔のことじゃけえ、よく覚えとらん」。1万人もの学生を指揮したことについても、「あのまま号令をかけて、クワを持たせて農場でも始めれば違った道があったかもしれん」。

 こちらは、産経新聞取材班が2009年に刊行した『総括せよ! さらば革命的世代』(産経新聞出版)に登場する一節だ。上記の日大全共闘のリーダー・秋田明大をはじめ、日本赤軍元最高幹部の重信房子(しげのぶふさこ)、赤軍派元議長の塩見孝也(しおみたかや)(2017年11月死去)……といった往年の有名人から、名もなきデモ学生、鎮圧側に回った警官まで、全共闘世代の元運動関係者へのインタビューをまとめた本である。
 社論が保守寄りの産経新聞としてはめずらしく、往年の学生運動を高みから一方的に断罪するような編集方針は取らず、淡々と当事者の姿を描いている。登場する元闘士たちは、すっかり政治から距離を置いた人から現在もなお闘いの残り火にしがみつく人まで十人十色。だが、字面を追ううちに、彼らが敗れた理由やその後に過ぎ去った時間の重みがじわじわと伝わってくる。
 日本において、すでに全共闘運動が「歴史」に変わり、いっぽうで当事者が存命しているからこそ可能になった特集だろう。

 2011年の北京で郭定京の話を聞いてから、私はこれとやや似た取材を、天安門世代の中国人たちに対してやってみたいと考えるようになった。
 四半世紀以上も昔の事件は「歴史」なのだが、70年代の全共闘運動と較べると圧倒的に生々しい。自国が別の未来を選択したかもしれない大事件に直面した当時の若者たちはいまや40代から50代になり、現代中国の社会を担う立場にいる。
 大人になった彼らは、事件は過去の話だと(うそぶ)きつつも、酔っぱらうと当時の武勇伝をやけに語りたがる。そんな人もめずらしくない。
 ──彼らは語りたい。私はそれを聞いてみたい。
 ゆえに私は数年の時間をかけて、天安門事件の思い出を持っていそうな中国人のおっさんやおばはんを国内外で探し続けた。また、偶然出会った人間にもできるだけ質問をぶつけてみた。当時、北京にいなかった人や、それほど大変な目には遭わなかった人、事件に何も興味がなかった人なども含めて、60人以上に話を聞いたはずである。
 この本で紹介するのは、なかでも印象深かった十数人の目から見た天安門事件の姿と、その後の彼らの生きざまだ。さらに第六章では、彼らの人生になんらかの影響を与えた往年の学生リーダー2人にも、私なりの切り口からご登場を願うことにした。

「ぼくは20歳だった。それが人生で最も美しいときだなんて誰にも言わせまい」

 元フランス共産党員で第二次大戦で戦死した作家、ポール・ニザンの著書の一節だ。
 たとえ青春の輝きが消え失せても、本人が生きている限り人生は続く。その人生は、若き日よりも美しいものとなったか否か。その評価は、事件後の彼らが社会人となって担ってきた、現代中国の社会全体の性質を考えるうえでも参考になるかもしれない。
 私がこの本に記すのは、正しくも悪くもない、うんざりしない天安門の話である。

※なお、本書における単語のルビは省レベル(一級行政区画)の地名や、日本の教科書に登場するレベルの人名はひらがなの日本語読み、それ以下の行政単位の地名や人名はカタカナの普通話(プウトンホア)読みとした。香港の地名や一部の会話表現は、英語もしくは広東(かんとん)語とした。

 目次

序章  君は八九六四を知っているか?

1 郭定京(仮名)

事件当時19歳、浪人生 取材当時41歳、書籍編集者
「八九六四」当時の所在地:中華人民共和国 北京市内
取材地:中華人民共和国 北京市 東城区の大衆食堂
取材日:2011年12月9日

2 葉子明(仮名)

事件当時26歳、在日中国人留学生 取材当時51歳、民主化活動家
「八九六四」当時の所在地:日本国 東京都内
取材地:日本国 関東地方某都市のサイゼリヤ
取材日:2015年2月13日ほか

第一章 ふたつの北京

3 張宝成

事件当時29歳、家具店経営者 取材当時55歳、無職・前科二犯
事件発生時の所在地:中華人民共和国 北京市内
取材地:中華人民共和国 北京市 某所
取材日:2015年4月5日

4 魏陽樹(仮名)

事件当時19歳、某警察系大学学生 取材当時44歳、投資会社幹部
「八九六四」当時の所在地:中華人民共和国 北京市郊外
取材地:中華人民共和国 北京市 亮馬橋付近のレストラン
取材日:2015年4月

第二章 僕らの反抗と挫折

5 佐伯加奈子(仮名:日本人)

事件当時23歳、在中日本人留学生 取材当時48歳、主婦
八九六四」当時の所在地:日本国(前日まで北京師範大学キャンパス内に滞在)
取材地:日本国 東京都世田谷区の喫茶店
取材日:2015年4月24日

6 徐尚文(仮名)

事件当時20代なかば、北京師範大学講師 現在消息不明
「八九六四」当時の所在地:中華人民共和国 北京市内

7 余明(仮名)

事件当時26歳、北京大学教員 取材当時52歳、旅行会社経営者
「八九六四」当時の所在地:中華人民共和国 北京市内
取材地:中華人民共和国 北京市東直門付近のスターバックス
取材日:2015年8月11日

8 呉凱(仮名)

事件当時25歳、在日中国人留学生 取材当時51歳、ジャーナリスト
「八九六四」当時の所在地:日本国 東京都内
取材地:日本国 東京都新宿区の海鮮居酒屋
取材日:2015年3月16日

第三章 持たざる者たち

9 姜野飛

事件当時21歳、自転車修理工 取材当時46歳、無職・難民申請中
「八九六四」当時の所在地:中華人民共和国 四川省成都市人民南路付近
取材地:タイ王国 バンコク市ヤワラート地区京華大旅社の喫茶室
取材日:2015年2月27日

10 マー運転手

事件当時24歳、労働者 取材当時50歳、タクシー運転手
「八九六四」当時の所在地:中華人民共和国 長距離列車内(直前に北京を訪問)
取材地:中華人民共和国 深圳市郊外梧桐山の登山路
取材日:2015年5月30日

第四章 生真面目な抵抗者

11 王戴

事件当時24歳、日本留学準備中 取材当時50歳、在日中国人民主化活動家
「八九六四」当時の所在地:中華人民共和国 長距離列車内(前日まで北京市内に滞在)
主要取材地:日本国 東京都上野駅前の喫茶店ギャラン
取材日:2015年7月、2016年7月ほか

12 凌静思(仮名)

事件当時27歳、北京外国語学院夜間部大学生 取材当時53歳、司書
「八九六四」当時の所在地:中華人民共和国 北京市西城区
取材地:中華人民共和国 北京市某民間機関資料室
取材日:2015年8月

第五章 「天安門の都」の変質

番外1【民主派】雨傘革命参加者の学生たち

事件当時未出生 取材当時17~22歳、学生運動家(学聯・学民思潮)
取材地:中華人民共和国香港特別行政区 香港島及び尖沙咀
取材日:2015年5月31日

13 【民主派】リチャード・チョイ(蔡耀昌)

事件当時21歳、香港中文大学学生運動家
取材当時47歳、社会活動家・支聯会副主席、六四記念館代表者
「八九六四」当時の所在地:英領香港植民地
取材地:中華人民共和国香港特別行政区 尖沙咀の六四記念館ほか
取材日:2015年6月1日、2017年6月30日ほか

14 【本土派】ケイシー・ウォン(黄国才)

事件当時19歳、米国コーネル大学学生
取材当時45歳、前衛芸術家・香港理工大学准教授
「八九六四」当時の所在地:米国ニューヨーク州イサカ市
取材地:中華人民共和国香港特別行政区 ハッピーバレーのアイリッシュパブ
取材日:2015年5月

番外2【民主派】ラウ・シウライ(劉小麗)

事件当時12歳、中学生 取材当時38歳、社会活動家・
小麗民主教室主席・香港理工大学講師
「八九六四」当時の所在地:英領香港植民地
取材地:中華人民共和国香港特別行政区 太子の喫茶店
取材日:2015年5月

番外3【本土派】サイモン・シン(冼偉賢)

事件当時未出生 取材当時22歳、政治活動家、
過激市民団体「香港本土力量」創設者(後に離脱)
取材地:中華人民共和国香港特別行政区 旺角市街、観塘のファミレス
取材日:2015年7月

15 【親中派】パトリック・カウ(高達斌)

事件当時34歳(?)、個人事業主 取材当時60歳(?)、
個人事業主、市民団体「愛港之声」創設者
「八九六四」当時の所在地:英領香港植民地
取材地:中華人民共和国香港特別行政区 将軍澳のスターバックス
取材日:2015年7月

第六章 馬上、少年過ぐ

16 王丹

事件当時20歳、北京大学歴史学部学生・「民主サロン」組織者・北京高校学生自治聯合会幹部 取材当時46歳、著述家・(台湾)国立中正大学客員助理教授
「八九六四」当時の所在地:中華人民共和国 北京市内
取材地:中華民国(台湾) 台北駅付近の喫茶店
取材日:2015年9月5日


17 ウアルカイシ(吾爾開希、ウルケシュ・デレット)

事件当時21歳、北京師範大学教育学部学生・北京高校学生自治聯合会幹部
取材当時47歳、政治運動家・ビジネスマン
「八九六四」当時の所在地:中華人民共和国 北京市内
取材地:中華民国(台湾) 台中市内のホテル
取材日:2015年9月7日

終章  未来への夢が終わった先に

18 趙天翼(仮名)

事件当時20代なかば、在日中国人留学生 取材当時50代、大学教授
「八九六四」当時の所在地:日本国 東京都内
取材地:日本国 東京都小川町の喫茶店
取材日:2015年6月

19 呂秀姸(仮名)

事件当時27歳、黒龍江省某大学講師 取材当時53歳、出版関連業
「八九六四」当時の所在地:中華人民共和国 黒龍江省某都市
取材地:日本国 関東地方某都市のショッピングモール
取材日:2015年3月

20 サンギェ・ドゥンドゥプ(仮名)

事件当時20歳前後、青海民族大学学生 現在消息不明
「八九六四」当時の所在地:
中華人民共和国 青海省西寧市(チベット アムド地方)

21 李建陽(仮名)

事件当時25歳、米国留学中 取材当時54歳、在米民主化運動家
「八九六四」当時の所在地:中華人民共和国 北京市内
取材地:日本国 東京都内のマリオットホテル、ペニンシュラホテル
取材日:2017年11月、12月

22 石平

事件当時27歳、在日中国人留学生・神戸大学大学院修士課程学生
取材当時55歳、評論家
「八九六四」当時の所在地:日本国 関西地方
取材地:日本国 大阪市北区の中華料理店など
取材日:2018年1月4日、2月21日


あとがき
主要参考文献

 
 
このつづきは、5月18日(金)発売の本編でお楽しみください!
※掲載しているすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。


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