
六車由実の、介護の未来04 たくさんのつながりがあるということ(前編)
つながりとゆらぎの現場から――私たちはそれでも介護の仕事を続けていく

介護という「仕事」を、私たちはどれだけ知っているのだろう。そしてコロナという未曽有の災禍が人と人との距離感を変えてしまった今、その「仕事」はどのような形になってゆくのか。民俗学者から介護職に転身、聞き書きという手法を取り入れた『驚きの介護民俗学』著し、実践してきた著者が、かつてない変化を余儀なくされた現場で立ちすくんだ。けれどそんな中で見えてきたのは、人と人との関係性そのものであるという介護。その本質を、今だからこそ探りたい――。介護民俗学の、その先へ。
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「あれが『徘徊』ってことなんだね……」
昨年の8月のお盆のことだった。家族がお墓参りに連れて行こうと、みよさんのマンションを訪れたところ、みよさんが家に居らず、携帯電話にも出ないことから、娘さんが警察に捜索願いを出した。結局、みよさんは自宅から10㎞以上離れている近隣の市まで歩いて行っていた。そして路上で転倒して、病院に救急搬送されたことで、娘さんに連絡が入り、所在がわかったのだった。
転倒した時に頭を打っていたが、MRIの結果は脳に異常は見られないとのこと。ただ、今後、硬膜下血腫ができるおそれもあるので、しばらくは注意深く観察してほしいという医師からの指示を受け、その日のうちに自宅に戻ってきた。
娘さんから電話でその報告を受けていた私は、翌日の利用日、いつもより早めにお迎えに行った。インターフォンを押すと、みよさんは普段通りに準備をして待っていてくれたが、見ると、右目の上が打撲により青紫色に腫れ、頬や腕にも擦り傷が残っていて、その姿は痛々しかった。私が「みよさん、大丈夫? 痛くない?」と尋ねると、みよさんは「転んじゃったみたいなんだよ。全くしょうがないよ」と苦笑しながらも、しっかりと歩いて送迎車に乗り込んだ。思ったより元気であったことに、私は少し安心して、車を発車させた。
みよさんは、アルツハイマー型認知症という診断を受けていて、記憶が残りにくいという症状がある。たとえば、利用日の朝には毎回のように、「今からそっちにバスで行こうと思うけど、どのバスに乗っていいかわからなくて……」と電話がある。「大丈夫だよ。今から、私がお迎えに行くから。20分くらいかかるから、家の中で待ってて」と答えると、「えっ、迎えに来てくれるの? 悪いね。じゃ、待ってるね」と嬉しそうに電話を切る。それが二人の朝の挨拶のようになっているし、その5分後にまた電話があって、同じやり取りをすることもある。
だから、もしかしたら、前日の出来事について覚えてないかもしれないと思い、敢えて私からはそのことについては触れないでいた。けれど、交差点の赤信号で車が停車した時に、みよさんは、ふとこう独り言ちたのだった。
「私、昨日、どこに行こうとしていたのかな。何か用事があったと思うんだけど。でも、あれが『徘徊』ってことなんだね……」
みよさんの声はいつになく弱々しく哀し気だった。私は、本人が「徘徊」という言葉を使ったことにギクリとし、「え? 『徘徊』?」と思わず聞き返してしまった。すると、みよさんは、またこう呟いた。
「昨日、娘にさんざん言われたよ。お母さんのしていることは『徘徊』なんだよって。私ももうおしまいだね」
みよさんが、前日の出来事のどこまでを記憶しているはわからない。でも、どこかに行こうとしたこと、たどり着けずに混乱したこと、転んで病院に運ばれたこと、そしてそれが「徘徊」であると言われたことは、一晩経っても、体と心に残る痛みとともに、消えることなく深く刻まれていたのだった。私は、何だか泣きたくなった。みよさんをどう励ましていいかわからず、ただ、必死にとりとめのないことを言うことしかできなかった。
「おしまいなんかじゃないよ。みよさんは、どこか行きたいところがあったんだよね。そこに行こうとしただけじゃん。頑張って10㎞も歩いたじゃん。すごいよ、みよさん。なかなか10㎞も歩けないよ」
「そんなことないよ。若い時から歩くのは別に苦にならないからね。足だけは強いんだよ。もうばあさんだけど」
みよさんは力なく笑っていた。
娘さんから「徘徊だ」と言われたことのショックと絶望が消えたわけではないだろうが、すまいるほーむに着いてからのみよさんは、「徘徊」という言葉を使うことも、昨日外で迷ってしまったことも一切触れることはなかった。他の利用者さんに傷のことを心配されるたびに、「別に大したことないけど、転んだのかな」と首をかしげながら笑い、そして、いつもと変わらず、縫物をしたり、みんなとおしゃべりをしたりして過ごして帰っていった。以来、みよさんの口から、「徘徊」という言葉を聞いたことはない。
娘さんの思い
書籍や新聞、テレビ、講演等を通して、認知症当事者の方たちの声が社会へと届けられる機会がここ数年で増えてきている。そうした中で、「徘徊」という言葉についても、いくつかのメディアや自治体では、使わないようにしたり、「ひとり歩き」等の別な表現に置き換えたりする動きが出てきている。「何もわからずにうろうろしていたわけではない」「私たちなりの理由や目的があって外に出かけているのだ」という認知症当事者の方たちの声を受けての変化である(朝日新聞デジタル2018年3月24日付記事「『徘徊』使いません 当事者の声踏まえ、見直しの動き」)。
確かに、「徘徊」という表現は、認知症=何もわからない人という誤ったイメージを助長しているように思うし、何よりも、当事者の方たちの尊厳が傷つけられているとしたら、それは使うべきではない。娘さんに「徘徊だ」と言われたことで絶望的な気持ちになってしまったみよさんを見ていても、表現の重要性は本当によくわかる。
認知症についての内部研修を重ねながら、すまいるほーむでも、「徘徊」という言葉は使わないようにしている。けれど、「ひとり歩き」では、本人や家族の困った状況は伝わらないように思えるし、かといって適切な表現もなかなか見つからない。なので、申し送りや記録などでは、別な言葉に置き換えるのではなく、状況を具体的に説明するようにしている。
ただ、みよさんの娘さんが、「お母さんのしていることは『徘徊』なんだよ」と思わず言ってしまった気持ちもわからなくもなかった。
みよさんがすまいるほーむを利用するようになったのは、平成31年の4月中旬からだが、その数か月前から一人で外に出かけ、長距離を歩いた末に道に迷い、警察に保護されたり、転倒して救急搬送されたりすることを繰り返していた。そのような状況を心配し、隣接市に住む娘さんは毎日みよさんの様子を見にマンションを訪れていたが、なかなか状況は改善されなかった。そこで、みよさんを連れて脳神経外科を受診すると、アルツハイマー型認知症と診断され、その際に、「徘徊は治らない」と言われたという。娘さんは絶望しながらも、何とか状況が改善されないか、一人暮らしのみよさんが今まで通り自宅マンションで生活を続けていくにはどうしたらいいのかと、地域包括支援センターへと相談し、要介護1の認定を受ける。そして担当となったケアマネジャーがすまいるほーむの利用を薦めてくれたのだった。
でも、すまいるほーむを利用し始めてからも、遠くまで一人で歩いて行き、迷ってしまうことは続いた。5月中旬、そして5月下旬にそれぞれ夜間に出歩いて、警察に保護されている。そして、今回が3回目だった。いずれも本人が持っていた携帯電話の履歴や電話帳から連絡先が分かり、夜中に警察から娘さんへ連絡が入ったのだった。
昼間は仕事をしている娘さんが、たびたび警察から夜中に連絡が来て起こされ、保護された母親を迎えに行き、マンションで朝まで付き添って、それから再び仕事に行く、ということはどんなに大変なことだろう。それに、またいつ母親が外へ歩いて行って迷ってしまうか、怪我をしてしまうかわからない、という不安と緊張を抱える毎日も相当なストレスになっているに違いなかった。
娘さんからは時々すまいるほーむに電話があり、これからを不安に思う気持ちや母親にどう接していいのか迷っていること等を率直に話してくれる。長い時には30分近くお話を聞くこともある。お話を聞き、こちらの考えを伝え、そしてまた娘さんの思いを聞く、ということだけで、何も解決策を提示できるわけではないのだが、話すことで少しでも娘さんのストレスが軽減されればいいという思いが私にはある。それに、何よりも、私たちも共にみよさんを見守り、みよさんや娘さんの力になりたいと思っていることが伝わればいい。だから娘さんには、いつでも困った時には遠慮せずに電話をしてほしいと伝えている。
今回も娘さんから電話があり、状況を詳細に報告してくれた上で、こう言っていた。
「私もイライラしてしまって、家に帰ってきてから、母に『お母さんのしていることは「徘徊」なんだよ』って言っちゃったんです。そしたら母が黙っちゃって……。しばらく落ち着いていたと思ったんですけどね。やっぱりだめなのかな。『徘徊は治らない』ってお医者さんにも言われていますから」
娘さんも、「徘徊」と言ってしまったことを後悔していた。5月の下旬以降2か月半も何事もなく、母親が落ち着きを取り戻したことに安心していたのではないかと思う。そこへ再び警察から電話があって、娘さんも動揺してしまって、「徘徊は治らない」という主治医の言葉が再び頭を過ぎり、将来を嘆いて思わず母親を「徘徊」という言葉で責めてしまったのかもしれない。
娘さんに「徘徊」と言われたみよさんの絶望も、母親を「徘徊」と言ってしまった娘さんの落胆と後悔も、どちらもよくわかって心がヒリヒリした。二人ともどうしようもない状況にあった。だから、「お母さんのしていることは『徘徊』なんだよ」と言ってしまった娘さんを責めることも、それを正すこともできなかった。
持っててよかった携帯電話
みよさんに対してと同様に、娘さんに対してもどう励ましていいか、私にはわからなかった。「徘徊は治らない」という主治医の言葉に異論はあったが、娘さんが主治医を信頼していることは知っていたので、その言葉を否定したり、非難したりするようなこともできないと思った。だから、私は、娘さんにこう伝えた。
「それにしても、携帯電話を持っててよかったですよね」
唐突な言葉に、受話器の向こうで、娘さんは一瞬戸惑った様子だった。こんな時に何を能天気なことを言っているんだと困惑していたかもしれない。私は続けた。
「だって、今回も携帯電話を持っていたから、警察から娘さんに連絡がきたじゃないですかぁ。携帯電話を持ってでかける習慣が身についていてよかったですよ。それに、みよさんは、何か困ったことがあれば自分で携帯電話で電話をかけられるし。私、本当にすごいと思うんですよね」
みよさんは、息子さんが買ってくれたという、首にかける長い紐のついた携帯電話をショルダーバッグのファスナーがついた外ポケットに入れて持ち歩いていた。すまいるほーむに来る時にも持ってきていて、時には充電器も持参し、充電していることもある。
みよさんは、保険の外交や箱根のホテルの洗い場の仕事をした経験がある。また、すまいるほーむを利用し始める半年くらい前までは静岡県東部地区にあるリゾートホテルの洗い場で働いていた。職場の仲間や友達とよく旅行にも出かけていたという。それに、カラオケのあるスナックに友達と飲みに出かけることも多かったと、みよさんから聞いたことがある。いつから携帯電話を使うようになったのか聞いても、「いつだったかな。昔から持っていたと思うけど」と明確な答えは返ってこないけれど、とにかく外出する機会の多かったみよさんにとって、認知症になる以前から、携帯電話は欠かせないアイテムだったことは想像できる。
その携帯電話を認知症と診断された今も使い続けている。しかも、自分で着信履歴を見てかけ直すこともできる。85歳という年齢から言っても、それはすごいことだと私は心から感心するのである。
それに、単なる習慣化ということだけでなく、もしかしたら、みよさん自身が、自分がまた出かけて迷ってしまった時の命綱として、どこかで意識して携帯電話を持ち歩いているのかもしれない、とも思った。
たとえば、若年性アルツハイマー型認知症の丹野智文さんは、以前から勤務していた職場で働き続けているが、記憶が残りにくいという障害への工夫として、仕事のやり方を細かく記したノートと、計画と行動記録を書いたノートの2冊を持っていて、常にそれを確認しながら仕事をしているという。また、通勤で降りる駅を間違えてパニックになることがあるため、定期入れには若年性アルツハイマーであることや、どの駅で降りるのかを記したカードをはさんでいるという(丹野智文著『丹野智文 笑顔で生きる』文藝春秋)。その他、若年性認知症の方たちが発信していることを読んでいると、それぞれが自分の障害と共に生きるための工夫をしていて、それによって安心した生活を送ろうとしていることがわかる。
だから、携帯電話を持ち歩くみよさんも、言葉には明確には出さないけれど、自分なりの工夫をしているのかもしれないとも思うのである。
そんなことを思いつくままに話していると、「携帯電話を持っていてよかった。みよさんはすごいです」という私の言葉に最初は当惑していた娘さんも、少し納得したようで、先ほどまでとは違った明るい声でこう言った。
「なるほど、そういうふうに考えていいんですね。確かに、母が、携帯電話を持ち歩く人でよかったです。いつも携帯電話を持っていてくれたら、またどこに歩いて行っても、見つけることができますもんね」
そして、「今後ともよろしくお願いします」と言って、娘さんは電話を切った。娘さんが少し安心してくれたようで、私はほっと胸をなでおろした。
よくよく考えれば、これからも外へ出る時に携帯電話を忘れないで持ち歩き続ける確証はないし、もっと先には携帯電話を使えなくなる日が来ることは想像できる。そうしたら、遠くに歩いて行って迷ってしまったみよさんがみつからないかもしれない。先を考えれば不安なことばかりが思い浮かぶ。けれど、娘さんは、とりあえず、携帯電話を持ち歩き、電話をかけることのできるみよさんの今をよしとしてくれた。それでいいんじゃないかと私は思う。携帯電話が使えなくなったら、またその時に、みよさんも含めて、みんなで一緒に新たな工夫を考えればいい。そんなふうに考えるのは楽観的すぎるだろうか。
※後半は11月7日(土)に掲載予定