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連載

つながりとゆらぎの現場から――私たちはそれでも介護の仕事を続けていく vol.3

六車由実の、介護の未来02 死者とつながる(前編)

つながりとゆらぎの現場から――私たちはそれでも介護の仕事を続けていく

介護という「仕事」を、私たちはどれだけ知っているのだろう。そしてコロナという未曽有の災禍が人と人との距離感を変えてしまった今、その「仕事」はどのような形になってゆくのか。民俗学者から介護職に転身、聞き書きという手法を取り入れた『驚きの介護民俗学』著し、実践してきた著者が、かつてない変化を余儀なくされた現場で立ちすくんだ。けれどそんな中で見えてきたのは、人と人との関係性そのものであるという介護。その本質を、今だからこそ探りたい――。介護民俗学の、その先へ。

 ◆ ◆ ◆

死者を想う季節

 今年もまた、この季節がやってきた。
 7月は世間では七月盆が行われるが、すまいるほーむでは、7日前後の七夕祭りで、利用者さんたちやスタッフに灯籠に亡くなった大切な方の名前を書いてもらい、思い出を語ってもらう。そして、7月下旬に沼津市内を流れる狩野川で毎年行われる灯籠流しで、灯籠を流して死者を送り出し供養する。平成25年から毎年欠かさず行ってきた、みんなで死者を想う、すまいるほーむの大切な行事があるのが、この季節なのだ。



 始めることになった経緯やそれにまつわるエピソードは、『介護民俗学という希望-「すまいるほーむ」の物語』(新潮文庫)に既に書いたので詳細はそちらを読んでいただきたいのだが、私たちがこの行事をとりわけ大切にしてきたのは、死をタブー視することなく、みんなで哀しみも死者との思い出も共有したいという強い思いがあるからである。
 介護現場では死が身近であるにもかかわらず、利用者さんの死が隠されることがしばしばある。私がかつて働いていた大規模なデイサービスでは、利用者さんが亡くなった時、他の利用者さんたちを悲しませたり、混乱させたりしないようにという「配慮」のもとに、その死を伝えないようにしていた。
 確かに、今まで共に過ごしてきた仲間が亡くなったと知れば、親しければ親しいだけ、その哀しみは深いだろうし、そう遠くはない日に必ずやってくる自分の死にも結び付けて心を乱してしまうかもしれない。けれど、介護現場に集う利用者さんたちは、みな、これまでの人生の中で多くの死と向き合い、受け入れ、乗り越えてきた経験の持ち主ばかりだ。彼らより人生経験の浅い私たち介護スタッフの側が、一方的に「配慮」して、仲間の死を隠すことこそ、彼らの尊厳を軽視していることにはならないだろうか。死が隠されると、死の事実だけでなく、死者についての話題もタブー視されてしまう。そして、いつのまにかその存在さえもあたかもなかったかのように忘れ去られていく。それはなんと哀しいことだろう。
 だから、私たちは、利用者さんが亡くなった時には、必ずその事実を伝える。そして、みんなで、仲間の死の哀しみを分かち合い、仲間を弔うお別れ会を開くことにしている。
 私がすまいるほーむで働き始めてから8年余り。何度お別れ会を開いただろう。少なくとも、『介護民俗学という希望』に登場した利用者さんたちのほとんどは既に旅立たれた。その度に、みんなでお別れ会を開き、写真や映像を見ながら、その方の思い出を語り合い、遺影に花を手向けて弔ってきた。



 お別れ会の後は、花を手向けた笑顔の遺影をデイルームの壁に飾ることにしている。壁に並んだたくさんの笑顔は、すまいるほーむを見守ってくれているようであり、私たちは、亡くなった仲間たちを、「すまいるほーむのご先祖様」といつしか呼ぶようになった。私の父はすまいるほーむの利用者ではなかったが、すまいるほーむが我が家の1階に移転してきたのを機に、1周忌を迎えた父の思い出を母がみんなの前で語り、遺影を「すまいるほーむのご先祖様」の中に加えてもらった。
 毎年7月に行っている七夕祭りと灯籠流しは、利用者さんたちやスタッフの亡くなった身内や友人等の思い出をみんなで共有する場であるとともに、そうしてお別れ会をして弔い、「すまいるほーむのご先祖様」となった仲間たちに思いを馳せ、対話をする機会でもあり、もはやすまいるほーむを語る時には欠かせない伝統行事となっているのである。

死を受け入れていく術

 この仕事をしていながら恥ずかしいのだが、私は、死と正面から向き合うことに底知れぬ恐ろしさを抱いてきた。物心ついて初めて人の死を体感したのは、私が小学生の頃に亡くなった母方の祖母の葬儀の時だった。遠方にある母の実家に着いて、居間に安置された祖母の亡骸の傍らに立ち、母に促されるままに、祖母の頬に手を当てた時の冷たい感触。手をつないでくれた祖母の温かくてふくよかで包み込まれるような感触とは全く異なる、生気を失った氷のように冷え冷えとした固さが掌に伝わってきた。その瞬間に、体中に戦慄が走り、泣き出してしまった。人は死んだら、冷たく固いモノになる。おばあちゃんはもうどこにもいない。幼い心と体に刻み込まれた死への恐怖だった。
 それから40年以上が経ち、いくつかの身近な死を経験してきたが、その時の皮膚感覚と恐怖がまだ私の体にくすぶり続けている。これからそう遠くはない未来にも、私の愛する人たち、大切な存在の死を経験することになるだろうが、そのことを想像しただけで、死別の哀しみと一人残されていく孤独におののき、思考が停止してしまう。自分でも情けないと思う。
 そんな私にとっては、介護現場で直面する利用者さんの死は、一人で受けとめ、乗り越えるには大きすぎる出来事だった。以前働いていた施設で先輩スタッフから、「私は、絶対にみんなの前では泣きません。家に帰ってから、お風呂の中で一人で泣きます。それが私たちプロの仕事です」というアドバイスを受けたが、動揺した私の心を鎮めるものにはならなかった。施設で受けた介護職のためのグリーフケアの研修も、私の中にくすぶり続ける恐怖を癒やしてくれるものにはならなかった。
 利用者さんの死に直面して堕ちてしまった深い哀しみの淵から私を救い上げてくれたのは、すまいるほーむで初めてお別れ会をした時の、利用者さんたちの言葉だった。戦時中挺身隊に行った時のことを聞き書きさせてくれた、さか江さんのお別れ会の時、利用者さんたちが口々にこう言ったのだ。
「さか江さん、ここに来ている気がするね」「さか江さん、きっといつまでもすまいるほーむを見守っていてくれるね」
 そう言われて、私は、思わず天井を見上げた。確かに、さか江さんが来ている、そんな感覚を体に覚えて、温かな涙が流れてきた。みんなの顔も穏やかだった。
 我が家は仏壇も神棚もない無宗教の家で、そこで育った私は、来世も魂の存在も信じてはいない。けれど、共に過ごした利用者さんたちが、さか江さんはすまいるほーむが大好きだったから、ここに帰ってきているんだ、と言ったその感覚は、素直に私の心と体に沁みてきたのである。亡くなった後も、その人の存在を感じ続けることができる、それだけで、人は救われ、死を受けとめて、前向きに生きていくことができる。利用者さんたちは、そうやっていくつもの死の哀しみを乗り越えてきたのだ、そう確信した瞬間だった。
 毎年七夕祭りでは、灯籠に、さか江さんをはじめとした「すまいるほーむのご先祖様」たちの名前を書き、「こんな人だったね」「こういうところもあったね」等と賑やかにわいわいと思い出を語り合う。そうすると、ご先祖様たちがすまいるほーむに遊びに来てくれているような、そんな温かくて楽し気な感覚を私も自然に抱くことができるようになった。狩野川灯籠流しで御詠歌の響く中、川面を照らしながら流れていく灯籠をしっとりと眺めていると、再び切ない思いに駆られるが、翌年の七夕祭りで再会することができると確信できることで、哀しみに耽ることはなくなっていった。



 通夜や葬儀、お盆やお彼岸といった死者儀礼が地域や家で受け継がれるということ。それは死者の弔いや供養であるとともに、遺された者に、大切な人の死を受け入れ、死者とのつながりを感じながら、たくましく生きていく術を自然に身につけさせることでもあったのではないか。この8年余りの積み重ねで、ここでも、すまいるほーむらしい死者儀礼の形が作られてきた。それによって、私自身も死を受けとめて生きていく術を少しずつ身につけてこられたように思う。
 民俗学を専門とし、死者儀礼についてのフィールドワークもしてきたのにもかかわらず、私は、学問の場から介護現場へと身を移し、すまいるほーむで働くようになってから、漸く、死者をめぐる民俗信仰のもつ意味を身をもって実感することができるようになってきたのであった。そういう意味でも、すまいるほーむは私にとっての生きていくための実践の場なのである。

大きすぎる存在

 けれど、そんな今の私でも、その人が今ここにいないことの哀しみと寂しさをなかなか乗り越えることができない利用者さんの存在もある。それは、昨年の4月下旬に、88歳で亡くなった高木さんである。亡くなってからもう1年以上が経つというのに、時折、その不在に深い寂寥感を覚えて、私は酷く落ち込んでしまう。
 高木さんがすまいるほーむに通い始めたのは平成28年の9月であった。彼の存在は最初から強烈だった。ラジオ体操が終わり、みんながほっと一息ついた時、姿勢を正した高木さんが、突然、大きな声を張り上げて、こう言ったのである。
「今日は、みなさんに、アメリカの人種差別についてお話ししたいと思います」
 そして、みんなの驚きをよそに、彼は30年前の渡米時の経験と、BSニュースをネタに、アメリカでの人種問題について1時間余り語り続けた。
 すまいるほーむでは午前中、入浴と並行して、縫物や編み物、塗り絵、習字、工作等、手作業を中心にそれぞれが好きなことをして過ごすのだが、難病で視力を失った高木さんには手作業は難しい。そこで彼が自分で考えた過ごし方が、毎回、他の利用者さんを聴き手にして演説をすることだったのだ。実は、彼は旧制中学で弁論部に所属しており、また、60代に視力を失ってからも、一人で沼津駅の前に立ち、市政への批判をする演説会を開いた経験があったのである。
 演説のテーマの多くは、国際問題や日本の政治や沼津市政に対する批判だった。それまで、すまいるほーむの日常で政治の話題が出ることはほとんどなかったし、演説の声もデイルーム全体に響き渡る程大きかったこともあって、最初は、利用者さんたちは驚いてしまい、唖然としていた。演説の途中で、高木さんが「みなさんは、どう思いますか」と問いかけても、みんなはどう答えていいかわからず困惑しているようだった。慌てて私が、高木さんの問いに応答したものの、利用者さんたちは明らかに迷惑顔。デイルームの中に流れ始めたこの不協和音にどう対処したらいいかと私は考えあぐねてしまった。
 ところが、そうした演説会が彼の利用のたびに繰り返されていくうちに、男性の利用者さんの何人かが、高木さんの話に頷いたり、時折、「俺もそう思う」と相槌を打ったりするようになった。更に、高木さんの希望により、彼が毎回持ってくる全国紙の朝刊や地元新聞の記事を私が朗読することを始めると、女性の利用者さんたちの中にも、縫物をしながらそれに聴き入る人たちが出てきた。そして、記事をめぐり、高木さんと私が議論をしていると、そこに時々利用者さんたちも加わって、特に地元沼津の市政については議論が大いに盛り上がることもあったのだった。
「今度の市長選では、沼津駅高架化問題が争点になります。私は高架化には絶対に反対です」
「高架化すると、沼津が活性化するという主張もありますけど、実際にはどうなんでしょうね」
「そんなのまやかしです。そもそも駅は民間の物なのに、どうして市が我々の税金を何億もつぎ込まなければならないんですか?」
「そんなお金があったら、もっと別なことに使えばいいんだ!」
「そうそう」
「福祉とかね」
「我々年金生活者の暮らしがよくなるようにとかさ」
「そうよね」
 それまで私はどこかで思い込んでいた。利用者さんたちは政治や社会の動きには関心などないのではないかと。たとえ、それらを話題にしても、「難しくてわからない」と言われてしまうのではないかと。でも、そうではなく、単に政治の話をする場がなかっただけで、実は、政治や社会の動きについて知りたいと思っている人も、それについてみんなで話をしたいと思っている人も、案外と多かったのだと思う。高木さんの存在によって、すまいるほーむに、政治や社会問題についてみんなが自然と話題にできる場が醸成されていったのだった。
 その後、高木さんに触発されて、選挙の際に希望者を連れて期日前投票へ出かけるようになり、今では、それもすまいるほーむにとって欠かせない恒例行事となっている。また、市議会議員や市の役人が来た時には、市政への不満や意見を積極的に述べる人も増えてきた。
 介護の現場で政治をめぐってみんなで議論し、そして、政治に物申し、参加していく。おそらく、私も含め高齢者の介護現場で働く者たちに最も欠如している観点であったのではないか。すまいるほーむにその土壌が培われてきたのは、「自分たちが生きやすくなるように、社会は自分たちで変えていかなければならない」という信念をもって生きてきた高木さんの存在があってこそだったのだ。

※後半は9月12日(土)に掲載予定


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