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連載

杉江松恋の新鋭作家ハンティング vol.9

エンタメかくあるべしというお手本のような作品『インビジブル』杉江松恋の新鋭作家ハンティング

杉江松恋の新鋭作家ハンティング

書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
今回は「ちょっと感動するくらいに完成度が高い」と激賞の一冊。

 読み始めてすぐに、これはいい小説だとわかることがある。
 掴みがすごい、というのとはちょっと違う。派手な格闘が書かれているわけではなく、気の利いた台詞が並べられているわけでもない。ごくごく普通の文章なのに、読みながら気持ちが入っていくのがわかる。これはおもしろくなっていくな、と感じている自分に気づくのである。これは私の勘がいいのでもなんでもなくて、作者の力量がなせる技だ。しっかりと筋骨の通った文体は、それだけで読者を惹きつける。
 坂上泉『インビジブル』(文藝春秋)をまったく予備知識なしに読んでいたらそういう瞬間が到来した。これは戦後間もない時期の大阪を舞台にした警察小説だ。
 連合国による占領期には、さまざまな体制が解体された。内務省の下に一元的な組織が存在していた警察機構もその一つで、一九四七年に新しい警察法が制定されると、まったく新しい体制が出来上がったのである。人口五千人以上の市町村に設置された自治体警察と、そこまでの財力がない零細町村部を管轄する国家地方警察の二本立てだ。特に日本第二の都市である大阪市には、大阪市警視庁が出現した。主人公の新城洋は、その大阪市警視庁東警察署刑事課一係に勤務する巡査である。作者はいくつかの場面を描きながら、舞台に登場した新城がどんな人物であるかをさりげなく描いていく。
 最初に新城が登場するのは、かつての大阪陸軍造兵廠の跡地である。一九四五年八月十四日の第八回大阪大空襲で一面の焦土となり、今は不法居住者の巣窟になっている。焼け跡に埋まった軍需物資を掘り出して売る「アパッチ族」が集まって問題になった場所だ。そこに新城がやってきたのは、浮浪者立ち退きに駆り出されたからである。民主警察とは名ばかりで浮浪者に暴力を振るう同僚たちを新城は冷ややかな目で見る。
 続いて描かれるのは新城の属する東警察署の刑事部屋だ。刑事課長の拡げている新聞の見出しに〈水爆マグロに食卓悲鳴〉の文字が躍っており、第五福竜丸被曝事件の起きた一九五四年の出来事であることがわかる。そして新城は自宅に戻る。空襲で死んだ母に代わって家を切り盛りしている姉・冬子、元船員だが戦争後は生きる屍のように暮らしている父といった家族関係が一目でわかる。新城が小説に顔を出してから二十ページ。ここまでで読者が知っておくべき主人公の情報はすべて出そろったと言ってもいい。流れるような物語運びで、見事と言うしかない。
 浮浪者狩りの翌日に事件が起きる。当直から抜け出し、ドテ煮で飯を食っていた新城が現場に近いということで急行させられる。死体が発見されたのだ。麻袋で頭部を首元まで覆われた他殺体である。「新城洋にとって、大阪市警視庁に入庁して初めてとなる殺人事件との遭遇であった」という一文が入り、警察小説としては完璧としか言いようのない導入部は終わる。
 いささか褒めすぎただろうか。いや、読み返してみて思いを新たにしたが、この導入部は完璧である。繰り返しになるが読者への主人公の紹介が簡にして要を得た文章で行われているし、時代や土地柄の説明がくどくない点もいい。最後まで読めばわかることだが、重要な伏線までがここに埋め込まれている。やはりいいのである。ミステリーとしてはまだとば口、ほとんど何も起きてないに等しいのだけど、ここまでくればいい作品になるだろうということはほぼ断言できる。駄作ということは絶対にないのである。
 大雑把に展開を書いてしまうと、このあとの捜査会議では被害者が北野正剛という代議士の秘書であることが報告される。サンズイ(汚職)絡みの事件という可能性が浮上する。さらに別の場所で発生した轢死事件でも死者が麻袋を被せられていたことが判明、その犠牲者はこれまた北野代議士と関係のある政治団体の代表者だったのだ。もう一つの警察組織である国家地方警察は二つの事件を国事犯と見立て、警備部から大阪市警視庁に調整担当の捜査員を派遣してくる。警備部警備二課の守屋恒成警部補だ。初めての殺人事件、と意気込んでいた新城はこの守屋とコンビを組まされて大いに腐る。厄介者のお守りを押し付けられた、とお冠なのである。
 刑事部と警備部、いわゆる公安は文化が違い、仲が悪いというのは警察小説でしばしば語られることだ。現在の警察組織にはキャリア、すなわち国家公務員試験を受験して警察庁に入った者と、それ以外のノンキャリアには人事制度上の明らかな差がある。戦前にも高等文官試験に受かった高文組というキャリアに当たるエリートが存在した。中学を卒業してすぐに警察入りした新城が、高文組の「お公家さん」である守屋に反感を抱くのは無理のないことである。そして刑事捜査に慣れない守屋はほうぼうで問題を起こし、新城を鼻白ませる。
 なるほど、バディものなのか。水と油のような二人の関係が物語の終わりまでにどのように変化していくのかが読ませどころなのである。さらに読んでいると、一九五四年の大阪を描きつつ、二〇二〇年の今をそこに重ね合わせる狙いが作者にはあるのではないか、ということが見えてくる。現在のキャリアに相当する高文組の守屋を登場させたのはそのことを読者に気づかせるための最初のヒントだ。
 捜査を進めるうちに、事件関係者のうちには国家が無為無策であったために人生を狂わされた者が複数いることがわかってくる。最たるものが戦争だ。母を喪った新城だけではなく、多くの人がその被害者なのである。一九五四年の昔と今を重ね合わせ、そこに戦争の巨大な爪痕を浮かび上がらせることにより作者は、現在が先の戦争とまだ地続きの時代であることを示したのだ。『インビジブル』という題名が示すように、目に見えないように隠されたものを警察小説の形で暴くことが本作第一の狙いだろう。
 よく考え抜かれた小説だ。登場人物に演説させるような野暮な真似は一切なし。職人気質の刑事たちが一丸となって捜査にあたる警察小説として読者を楽しませた上で、中核にある重たいものも表現してみせる。エンターテインメントかくあるべしというお手本のような作品ではないか。ちょっと感動するくらいに完成度が高い。
 奥付のプロフィールによれば、作者の坂上泉は一九九〇年生まれで、大学時代は近代史を専攻したそうである。二〇一九年に「明治大阪へぼ侍 西南戦役遊撃壮兵実記」で第二十六回松本清張賞に輝き、同作を改題した『へぼ侍』でデビューを果たした。この作品で第九回日本歴史時代作家協会新人賞も受賞したとあるが、まったくノーマークだった。警察小説を書いてくれていなかったら、もっと気づくのが遅くなっていたかもしれない。不明を恥じる次第。今からすぐに『へぼ侍』を買いに行ってくる。


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