遣唐使・井真成に降りかかる数々の試練。 旅に出た真成一行の行く手にあるものは? 夢枕獏「蠱毒の城――⽉の船――」#103〈前編〉
夢枕 獏「蠱毒の城――月の船――」

※本記事は連載小説です。
これまでのあらすじ
閉ざされた城内での殺し合いに参加した遣唐使の井真成は、仲間を得て試練を克服する。かつて城内では、人間を贄に使った呪法「蠱毒」が行われ、自分たちの殺し合いもまた蠱毒であったと告げられた。死闘を生き抜いた十二名を含む四十九名は、杜子春と共に旅に出る。一行が立ち寄った姜玄鳴の屋敷で、真成は呼び出され、この地に伝わる太公望の釣り鉤を探すよう命じられる。その後、真成は陳範礼に連れられて、姜一族の南家・姜竜鳴に面会する。
二十三章 軒 轅 剣
(四)
『山海経』は、古代中国の地理書である。古代中国各地の動物、植物、鉱物などのことが記されているのだが、各地の神話や伝説、神々や妖怪のことまでも、細かく描かれている。紀元前四世紀から三世紀──
現代の視点から考えれば、それはもはや、『神話・伝説・妖怪図鑑』といった趣の書であるが、書かれた当初においては、地理書としてのなんらかの根拠があって、筆がとられたものであろうということは、それなりに想像できる。
その『山海経』の「海外西経」に、前述したように軒轅と刑天の争いについて書かれているのだが、
形天と帝がここに至って神あらそいをし、帝はその首を斬り、これを常羊の山に葬った。そして(形天の)乳を目となし臍 をば口となし、干 と戚 を持って舞った。
高 馬 三 良 ・訳
記述は、このように極めて短い。
それは、どのような戦いであったのか──
それを記す前に、おさらいをしておこう。
中国の古代──
この炎帝を代々継いできたのが
この神農氏の炎帝に
蚩尤に負けそうになって、炎帝神農が助けを求めたのが、軒轅──後の黄帝である。
軒轅は、蚩尤を
これに怒って反乱したのが刑天ということになる。
ちなみに刑天は、『抱朴子・列仙伝・神仙伝・山海経』(平凡社)の高馬三良訳によれば「形天」だが、本稿ではこれを「刑天」としたい。というのも、故・白川静氏によれば、天はもともと人の頭部──それも頭部のてっぺん部分をいう字であり、それが発展して、頭のさらに上にある空までを指す意になったと考えられるからである。古い時代の『山海経』には、「形」ではなく「刑」の字を使用するものもあり、首を切る──つまり刑罰としての斬首の意も「刑天」にはあるからである。
話をもどせば、この軒轅と刑天との戦いは、
それを、次に紹介しておきたい。
袁珂によれば、蚩尤も刑天も、巨人族であったことになっている。
刑天は、もともと炎帝神農の臣下であった。音楽が好きで、「扶 犁 」という曲や「豊年」という詩を炎帝のために作ったという。
しかし、軒轅こと黄帝が炎帝を打ち破り、南方の地に追いやってしまった。蚩尤が黄帝と戦った時、蚩尤に付いて戦いに加わろうとしたのだが、炎帝に止められてこれを断念した。だが、蚩尤が敗れて殺されたことを知らされ、ついに刑天は立ちあがって黄帝と戦うことになった。
刑天は、左手に盾、右手に鉞 を握って戦い、黄帝の天兵天将の中で、この刑天と対等にわたりあえる者はひとりもいなかった。そして、ついに、刑天は、黄帝の宮門前にまで到達したのである。
ふたりは、天上で、剣と鉞を交え、激しく戦ったのだが、決着がつかず、ついに戦いは天から地上に下って、常羊の地で続けられた。この常羊の地は、炎帝の生まれたところであり、そのすぐ北に、軒轅の国があったという。
この戦いの最中、ついに、黄帝は、刑天の首を斬り落としてしまった。刑天の頭部は胴から離れ、常羊山の斜面を麓まで転がり落ちた。
首を撫でると、頭がない。刑天はそこにうずくまって、自分の頭をさがして手さぐりで山や丘の表面をこすった。このため、無数の大木は折れ、峨 々 たる山々や岩が崩れ、木や石があたりに飛び散った。
黄帝は、刑天が自分の首を見つけるとやっかいなことになると考え、持っていた剣で常羊山を斬りつけた。常羊山はふたつに割れ、その割れ目に刑天の頭が転がり落ちた。すると、その割れ目が閉じて、首はどこにいったかわからなくなってしまった。
しかし、刑天は、それでも屈しなかった。手に鉞と盾を持ち、ふたつの乳頭を眼となし、臍を口となし、なおも黄帝と戦い続けたという。
要約したが、袁珂によれば、蚩尤が炎帝に反乱して、炎帝が黄帝に助けを求めたのではなく、黄帝が炎帝に反乱して、炎帝の臣下である蚩尤が黄帝と戦い、蚩尤が敗れた後、刑天が立ちあがって黄帝と戦ったという物語になっている。
さらに、他の多くの史書によれば、炎帝も、蚩尤も、刑天も
もう少し書いておけば、後の世の
もっとも、これは、現代に残された古代中国の様々な史書をまとめた物語であり、書によっては、さらに無数の枝分かれした物語が群居しているというのは、言うまでもない。
さらに記しておけば、これは、本稿──つまり本物語の直接的な過去にあたる物語でもない。
この稿は、本編のこの物語を読者が読み進めてゆく上で、頭に止めおいていただければ、より今後の展開を楽しんでいただけるであろうと考えて記したものである。
諸兄読者の知るところであり、また、わずらわしさを覚える読み手がおられるのであれば、まことに申しわけなく、読みとばしていただいてもかまわぬところである。
(後編へつづく)